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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

たいしょう じだいの 学校では、なぜ スウェーデン うまれの たいそうを したの?

大正の学校では、なぜスウェーデン生まれの体操が中心になったのか

学校体操教授要目(1913年)はなぜスウェーデン体操を軸にしたのか ── 永井道明の留学と、整理された体操の長所・限界

分野:歴史・文化

むかしの 学校の たいそうは、じつは いろいろな やりかたが ごちゃまぜ でした。それを 1913ねんに 一つに まとめたとき、まんなかに すわったのは、北ヨーロッパの スウェーデンで うまれた たいそうです[1]。

どうして 外国の たいそうが えらばれたのでしょう。まとめ役の 先生が スウェーデンで いちばん おどろいたのは、「先生が 先に おてほんを 見せる」ドイツの やりかたでした。そのわけが わかります。

大正のはじめ、日本の学校体操を一つにまとめる役を務めた永井道明は、スウェーデンまで体操を学びに行きました。ところが現地でいちばん心を動かされたのは、スウェーデン式そのものではなく、ドイツ式の「先に手本を見せる」やり方だったとされます[3]。

では、なぜ1913年(大正2年)の要目は、スウェーデン体操を中心に据えたのでしょうか。体操の生まれ方、整理した人、そして弱点まで、辞典や論文の記述を読むと分かります。

学校体操の整理役だった永井道明は、スウェーデンの国立中央体操練習所で学びながら、スウェーデン式よりも、指導者が先に手本を示すドイツ式のリーダー主義に感銘を受けたとされる[3]。それでも1913年(大正2年)の学校体操教授要目は、スウェーデン体操を中心にまとめられた。

この食い違いは何を意味するのか。体操が生理学・解剖学を土台に作られたこと、明治以来の流派の混在、永井の経歴、そして長所と限界を、辞典類と論文の抜粋を比べて読むと分かる。ただし要目の原文には当たれておらず、二次資料に頼る箇所は「とされる」と書く。

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1. 学校の たいそうは、なにが ごちゃまぜ だったの?

1. 明治の学校には、体操の流派が二つ並んでいた

1. 1913年の要目が整理しようとしたもの ── 普通体操と兵式体操の併存

いまから 100ねんほど まえ、学校の 校ていでは、ちがう 目あての たいそうが ならんで いました。

一つは、からだを やわらかく うごかす たいそうです。もう一つは、ぐんたいの ならいに にた、ならんで あるく れんしゅうを ふくむ たいそうです[1]。

1913ねん 1月、国の 文部省もんぶしょうが「学校たいそうきょうじゅようもく」を 出しました。ばらばらの たいそうを、一つに そろえるための きまりです[2]。

そのまんなかに おかれた のが、スウェーデンたいそうでした。では それは、どんな たいそうなのでしょう。

校庭に並んだ子どもたちが、先生の号令に合わせて、同じ動きをそろえる。大正の学校体操は、そう思い浮かべる人が多いかもしれません。でも明治の終わりまで、学校の体操は一つの型ではありませんでした。

1878年に文部省が体操伝習所を設け、米国人のリーランドを招いて広めたのは、道具を使わない軽い体操(普通体操)です。それとは別に、1885〜86年ごろ、森有礼が進めた兵式体操が学校の授業に入りました[1]。目的も動きも違う体操が、同じ学校に並んでいたわけです。

1913年(大正2年)1月28日、文部省は「学校体操教授要目」を出しました。スウェーデン体操を中心にする内容で、訓令の番号は、第1号とする資料があります[2]。ねらいは、ばらばらの体操の整理と統一でした[3]。

つまり答えの一つは「混ざっていた体操を、一つの考え方でまとめるため」です。では、まとめの軸に選ばれたスウェーデン体操とは、どんな体操だったのでしょうか。

大正期の学校体操を理解するには、まず、それ以前が単一の体系ではなかった点を押さえる必要がある。1878年に文部省が設けた体操伝習所では米国人リーランドを招き、軽体操、つまり普通体操を広めた。ところが1885〜86年ごろ、森有礼が兵式体操を推し進めたため、学校体育の内容は普通体操と兵式体操が並ぶ形になった[1]。目的の異なる体操が同居していたことが、整理の必要を生んだと考えられる。

そこで1913年(大正2年)1月28日、文部省訓令により「学校体操教授要目」が公布され、内容はスウェーデン体操中心になった。訓令番号は第1号とする資料がある[2]。目的は諸体操の整理・統一で、すべてをスウェーデン体操に置きかえたわけではない。懸垂・跳躍は従来の軍隊体操から取り、教練は歩兵操典に依拠し、競争遊戯やダンス(行進を主とする遊戯)も遊戯に含まれた。さらに剣道・柔道が正課に加えられた。小学校向けの構成は、体操・教練・遊戯である[3]。

要するに要目は、スウェーデン体操を軸にして、既存の要素を組み合わせ直した整理表だった。では、なぜ軸がスウェーデン体操だったのか。次に、その体操の成り立ちを見る。

2. スウェーデンたいそうは、どうやって つくられたの?

2. 体のしくみから組み立てられた体操

2. リングが考えた体操とGCI ── 生理学・解剖学の研究が追いつくまで

スウェーデンたいそうを かんがえた のは、リングという 人です。いまから 200ねんほど まえの ことです[4]。

リングは「たいそうは、からだの つくりと はたらきを しらべて 作る もの」と かんがえました。ほねや きんにくの うごきに あわせて、じゅんばんに すすむ たいそうです[5]。

だから 年れいや おとこの子・女の子に あわせて、からだ ぜんぶを うごかす たいそうを かんがえました。じゅんびの たいそうにも むいています[4]。

ばらばらの たいそうを まとめる ときに、使いやすい かんがえ方 だった のかも しれません。

スウェーデン体操は、19世紀の初めにスウェーデンのP.H.リング(1776〜1839)が考えた体操です。解剖学と生理学に基づいて組み立てられ、道具をあまり使わない徒手体操を中心にしています。教育・医療・軍事・美的表現の4部門があり、とくに教育体操と医療体操に特色がありました[4]。

リングは1813年に、ストックホルムで王立中央体操学校(GCI)の設立を提案し、初代の校長になりました。体操は体の仕組みの知識に基づくべきだ、と強く主張した人です[5]。この考えは、今の目で見ると当たり前に思えますが、実際に研究と教育が追いつくには長い時間がかかり、運動生理学の教授職ができたのは1939年でした[5]。

日本大百科全書は、長所を「科学的で、指導が段階的に行われること」とし、年齢や性別を問わず全身を動かせ、準備運動や整理運動にも向くと説明しています[4]。

要目の資料は、軸にスウェーデン体操を選んだ理由を直接は書いていません。ただ、年齢や性別を問わず、段階を踏んで教えられる体操は、全国の学校に同じ型を配るときに扱いやすい、と考えることはできます。では、それを日本に持ち帰った人はどんな人だったのでしょうか。

スウェーデン体操は、19世紀初めにP.H.リング(1776〜1839)が考案した体操で、解剖学・生理学に基づき、徒手体操を中心とする。教育・医療・軍事・美的表現の4部門があり、特色が強いのは教育体操と医療体操である[4]。

リングは1813年、ストックホルムで王立中央体操学校(GCI)の設立を提案し、初代の校長に就いた。GIH(スウェーデン体育大学)の沿革は、リングが体操は生理学・解剖学の原理に基づくべきだと強く主張したと記す。ただし理念を実践の教育と研究で支えるのは簡単でなく、運動生理学の教授職が置かれたのは1939年だった[5]。理念が先にあり、裏づけが後から追いついてきた、と読める。

日本大百科全書は、この体操の長所を、科学的で指導が段階的に行われる点にあるとする。年齢・性別を問わず全身運動ができ、準備運動・整理運動にも適す。そのため、さまざまな学年の子どもに同じ体系で教える学校体操に向く、という見方は成り立つ。ただし要目の資料が採用理由をそう書いているわけではなく、これは筆者の読みである[4]。

リングの没後、中央体操学校の後継者は、形式を厳格に守る「リング主義」と、自然的・スポーツ的な要素を取り入れる「自然的方法」の二派に分かれた。日本に取り入れられ定着したのは前者だとされるが、これは論文の抜粋に基づく記述で、本文には当たれていない[6]。次の疑問は、この体操を現地で学び、要目づくりの中心になった人物である。

3. まとめ役の 先生は、スウェーデンで なにに かんしんしたの?

3. 留学帰りの永井道明が心を動かされた「手本の見せ方」

3. 永井道明の留学とドイツ式への共感 ── 「先に手本を示す」リーダー主義

まとめ役は、ながい みちあき という 先生でした。1905ねんに アメリカへ わたり、からだの つくりを まなびました。つぎに 1907ねん、スウェーデンの たいそうの 学校に 入りました[3]。

そして 1908ねんの ロンドン五りんを 見て、1909ねん 1月に 日本へ かえって きました[3]。

おどろくのは ここです。ながい先生は、スウェーデンの やりかたより、ドイツの「先生が 先に おてほんを 見せる」やりかたに かんしん した、と いわれます[3]。

先生が 先に おてほんを 見せて、子どもを 先に やすませる。そんな やりかたを だいじに した ようです。

永井道明(1869〜1950)は、要目づくりの中心にいた人物です。1905年に渡米してボストン体操師範学校で解剖学や生理学などを学び、1907年にはストックホルムの国立中央体操練習所に入りました。1908年のロンドン五輪を見て、1909年1月に帰国しています[3]。

体の仕組みを学ぶために二つの国を回った人ですから、スウェーデン体操の専門家だったと思いたくなります。ところが同じ資料には、永井が現地で感銘を受けたのは、スウェーデン式よりも、指導者が率先して手本を示すドイツ式のリーダー主義だった、という記述があります。教師が先に手本を示し、生徒を先に休ませる姿勢を重んじたとされます[3]。

これは二次資料の記述なので、断定はできません。それでも、永井は教える人の振る舞いにも関心があったのかもしれない、と読むと、この要目の見え方が少し変わります。

要目が出ると、肋木・平均台・跳び箱が全国の学校に整えられていったとされます[3]。では、新しい体操は本当に校庭へ行き渡ったのでしょうか。

永井道明(1869〜1950)は、要目づくりの中心にいた。1905年に渡米してボストン体操師範学校で解剖学・生理学などを学び、1907年にストックホルムの国立中央体操練習所に入学した。その後、1908年のロンドン五輪を観戦し、1909年1月に神戸港に上陸している[3]。

経歴だけ見れば、スウェーデン体操の専門家である。ところが同じ資料は、永井が現地で、スウェーデン式よりも、指導者が率先して手本を示すドイツ式のリーダー主義に感銘を受けたと記す。教師が先に手本を示し、生徒を先に休ませる姿勢を重んじたという[3]。この記述はWikipediaの要約で、一次資料で裏づけたものではないため、「とされる」程度に受け取るのが妥当だ。

永井は現地でドイツ式のリーダー主義に感銘を受けたとされる。要目づくりでも、教える人の姿勢は関心の一つだったのかもしれない。ただし条文からは読み取りにくい。要目の普及後に肋木・平均台・跳び箱が全国の学校に整備されたとされる点も[3]、器具という目に見える形で新しい体操が学校に入ったことを示すと読める。いずれも二次資料の記述で、断定はできない。

では、整備された器具と講習で、新しい体操は実際にどこまで行き渡ったのか。

4. あたらしい たいそうは、すぐ 学校に ひろまったの?

4. 要目は全国に届いたのか ── 広まり方と、体操の弱点

4. 講習会による普及と、スウェーデン体操の弱点 ── 形式性と日常との距離

文部省もんぶしょうは、先生たちに やりかたを おしえる 会を なんども ひらいたと いわれます[7]。

それでも 2ねん あとの 1915ねんに、ながい先生は「まだ 学校ぜんたいには ゆきわたって いない」と のべて いるそうです[7]。

この たいそうには、よい ところと、むずかしい ところが ありました。よい ところは、少しずつ すすむので、だれでも やりやすい ことです。

むずかしい ところは、おなじ うごきが つづいて、たいくつに なりやすい ことと、ふだんの くらしと つながりが うすい ことです[4]。

文部省は要目を広めるため、公布の前後の数年に体操講習会を何度も開き、各府県の中等学校の体操教員の多くを指導したと伝えられます[7]。それでも要目が出て2年たった1915年に、永井本人が「各学校に十分には行き渡っていない」と述べているそうです[7]。新しい体操を全国の校庭に定着させるのは、それだけ時間がかかったということです。

体操そのものにも、向き不向きがありました。日本大百科全書は、スウェーデン体操の長所を科学的で段階的に教えられる点とする一方、単調で形式的になりやすく、日常生活との結びつきが弱いという欠点も挙げています[4]。

同じ号令で同じ動きを順に行う体操は、教えやすい形でした。しかし、動きがいつも同じなら、子どもにとっては退屈になりやすい。教える人の工夫が大切だった理由は、ここにもありそうです。

要目は、体操だけを並べたものではありませんでした。ほかにも入っていたのは、どんなものだったのでしょうか。

要目の普及のため、文部省は公布前後の数年に体操講習会を繰り返し開き、各府県の中等学校の体操教員の多くを指導したとされる。ところが公布から2年後の1915年になっても、永井本人は、要目が各学校に十分行き渡っていないと述べている[7]。この点は検索抜粋に基づく情報で、論文の本文は取得できていない。講習会で教員を教えても、現場の学校に届くには時間と条件がそろう必要があった、という程度に読むのが安全だ。

体操の側にも限界があった。日本大百科全書は、スウェーデン体操の長所を、科学的であり、指導が段階的に行われる点だとする。年齢・性別を問わず全身運動ができ、準備運動・整理運動にも適す。一方で、単調で形式的になりやすく、日常生活との結びつきが弱いという欠点を挙げる[4]。

ここで、長所と欠点が裏表であることに気づく。段階的で一定の型があるから教えやすいが、そのぶん動きに変化が少なく、単調に感じられやすい。リングが理念として掲げた生理学・解剖学の裏づけが、実践の面では長く追いつかなかった事情[5]を重ねると、理念を現場で支えるには時間がかかったと読める。現場の実際は、要目や当時の記録で確かめたい。

要目は、型の体操だけでは終わらなかった。次に、要目のほかの部分と、その後の改正を見る。

5. たいそうの ほかに、なにが 入って いたの?

5. 要目に入っていた「遊び」と、そのあとの体育

5. 遊戯領域の改革と、要目の改正 ── 1926年・1936年から1941年まで

この きまりには、たいそうの ほかにも、きょうそうの ゲームや、ならんで すすむ ダンスのような あそびも 入って いました[3]。

けんどうと じゅうどうも、学校の 時間に できるように なりました[3]。

そのあと この きまりは、1926ねんに あらためられました。1936ねんの あらためでは、いろいろな あるき方や ダンスの きょうざいも 入ったと いわれます[8]。

この かたちは、1941ねんに 小学校が べつの 名前の 学校に かわるまで つづきました[8]。

型かたを まもる たいそうだけでなく、たのしく うごく ものも、すこしずつ ふえて いったのです。

1913年の要目は、型の体操だけの表ではありませんでした。競争遊戯や、行進を主とするダンスのような遊戯も含まれ、剣道・柔道が正課として加えられています[3]。体操、教練、遊戯の三つで学校の運動時間ができていた、というイメージです。

要目はその後、大正15年(1926年)に改正されました。昭和11年(1936年)の第2次改正の教材配当表には、複合的な歩法やダンス教材が採用されたとする研究もあります。大正期の体操科では、遊戯の分野の教材づくりが進んだ、と説明されています。この要目の時代は、1941年に国民学校が始まるまで続きました[8]。

スウェーデン体操が日本に伝わった時期は、辞典によって記述が異なります。ブリタニカ国際大百科事典は1902〜03年ごろ、川瀬元九郎や井口あくりらが伝えたとし、マイペディアは1880年代初めに三宅秀が「反抗運動法」として紹介したとも記します[4]。「いつ誰が初めて」と一つに決められないところも、この体操の面白い点です。

型を整えた要目が、少しずつ遊びやダンスへ広がっていったとすれば、今の体育の時間の原型も、その中にあるのかもしれません。

1913年の要目は、型の体操のみで構成されていたわけではない。競争遊戯や、行進を主とするダンスのような遊戯が含まれ、剣道・柔道は正課として実施が認められた[3]。体操・教練・遊戯の三本立てだったことは、要目の目的が「一つの体操に統一する」ことより、「流派を整理して学校の運動時間を再設計する」ことにあった、と読む根拠になる。

その後、要目は大正15年(1926年)に改正され、昭和11年(1936年)の第2次改正の教材配当表には、複合的な歩法やダンス教材が採用されたとされる。大正期の体操科では、遊戯領域の教材改革が進んだという。学校体操教授要目の時代は、1941年の国民学校発足まで続いた[8]。これも学位論文の要旨に基づく情報で、教材の細目までは確かめていない。

もう一つ、書き分けるべき点がある。日本への導入時期だ。ブリタニカ国際大百科事典は、1902〜03年ごろ川瀬元九郎や井口あくりらによって伝えられ、大正期以降に広く普及したとする。ところがマイペディアは、1880年代初めに三宅秀が「反抗運動法」として紹介したとも記し、辞書のあいだで食い違う[4]。1880年代初めの記述は紹介、1902〜03年ごろの記述は学校体操としての導入と考えれば両立しうるが、そう整理できるかは資料からは決められない。

ここから先の問いは、要目の原文に当たることだ。教材の細目、リング主義の導入内容、訓令番号は、いずれも原文で確かめられる。この記事では二次資料の抜粋に頼った箇所が多く、その確かめ直しが、次に自分で調べるときの出発点になる。

6. 校ていで、むかしの たいそうの あとを さがして みよう

6. 校庭や体育館で、大正の体操のなごりをさがす

6. 要目の原文と、校庭に残る器具 ── 次に確かめられること

じぶんの 学校の たいいくかんや 校ていに、ろくぼくや、へいきんだい、とびばこが あるか さがして みましょう。見られない ときは、じゅぎょうで つかう どうぐを 先生に きいて みましょう。形を よく 見て、どう つかうか 先生に きいても いいでしょう。

うごかす ときは、先生の いる ところで、ゆっくり やります。むりは しません。

むかしの たいそうの ほんは、としょかんの 人に「学校たいそうきょうじゅようもく」を さがして もらえるか、きいて みるのも いいかも しれません。

肋木、平均台、跳び箱は、今の学校にもあるでしょうか。体育館や校庭を見て、あるものを書き出してみてください。見られないときは、体育の授業で使う器具を先生に聞いてみましょう。要目の普及で全国に整えられたとされる器具の中には、今も使われているものがあるかもしれません[3]。使い方を体育の先生に聞くときは、先生がそばにいる場で、無理のない範囲で試します。

準備運動のとき、ふだんより少しゆっくり、体の部分ごとに順番に動かしてみるのも一つの確かめ方です。段階的に進めるとはどういうことか、自分の体で感じられます。

要目の原文は、図書館に頼めば、所蔵や写しを探してもらえるかもしれません。訓令番号も、原文を見れば分かるはずです。図書館に行けないときは、学校の先生に聞いてみる方法もあります。

第一に、要目の原文に当たることを勧める。訓令番号(第1号とする資料がある)、スウェーデン体操とそれ以外の教材の配分、競争遊戯やダンスの扱いは、条文と教材配当表で確かめられる。図書館の参考係に、「学校体操教授要目」の所蔵や複写を尋ねるとよい。行けない場合は、学校の先生に相談する手もある。

第二に、リング主義と自然的方法の分かれ方、日本への導入時期の食い違い(1880年代初めか、1902〜03年ごろか)を、辞典の項目に当たって比べる。コトバンクに載る複数の辞典は、同じ体操について異なる書き方をしており、読み比べるだけでも違いが見える。

第三は、身近な観察である。体育館や校庭に肋木・平均台・跳び箱があれば(見られないときは、授業で使う器具を教員に聞いてもよい)、要目の普及後に整えられたとされる器具が[3]、今どう使われているかを見てほしい。使い方を体育の教員に尋ねるときは、教員のいる場で、無理のない範囲で試す。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

事実は、百科事典・辞典、スウェーデン体育大学の沿革、論文の抜粋、人物記事を読み比べて確かめました。論文は検索画面で見えた抜粋に基づくものがあり、本文までは確かめられていません。

  1. Wikipedia「スウェーデン体操」。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E4%BD%93%E6%93%8D (明治期の普通体操と兵式体操について。二次資料)
  2. 東洋大学リポジトリ所収の論文(学校体操教授要目の公布)。https://toyo.repo.nii.ac.jp/record/4187/files/toyohogaku56-3_326-309.pdf (1913年の要目公布と訓令番号について。検索結果の抜粋に基づく)
  3. Wikipedia「永井道明」。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E9%81%93%E6%98%8E (永井の経歴、要目の内容、ドイツ式への感銘、器具の整備について。二次資料)
  4. コトバンク「スウェーデン体操」(日本大百科全書、ブリタニカ国際大百科事典、マイペディアなど)。https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E4%BD%93%E6%93%8D (体操の成り立ち、長所と欠点、日本への伝来について。辞典の記述)
  5. GIH(スウェーデン体育大学)「Essay on the history of GIH」。https://gih.se/english/about-gih/history/essay-on-the-history-of-gih (リングと王立中央体操学校について。大学の沿革)
  6. 頼住一昭の論文(愛知教育大学リポジトリ)。https://hagoromo.repo.nii.ac.jp/record/23/files/kiyou_g11-27.pdf (リング主義と自然的方法について。検索結果の抜粋に基づく)
  7. 京都大学紀要の論文(体操講習会と要目の普及)。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/282684/1/eda35_267.pdf (講習会と普及の状況について。検索結果の要約に基づく)
  8. 廣兼志保の学位論文(広島大学)。https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/35748/files/1079 (要目の改正と遊戯教材について。要旨に基づく)

なおした ところ

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