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とおい 島の 山が、せかいの 天気を かえた ── 「夏の ない 年」の はなし

1815年の噴火が、世界の天気を変えた ── 「夏のない年」の話

1815年、インドネシアの噴火が世界を変えた ── 「夏のない年」の話

分野:自然

1816年の 夏、アメリカでは 6月なのに 雪が ふった。ヨーロッパでも、いつもより ずっと さむい 夏に なった。

げんいんは、その 前の 年、とおく インドネシアで おきた、とても 大きな 火山の ふん火だった。

1816年の夏、アメリカでは6月なのに雪が降り、ヨーロッパでは記録的な寒さと食料不足が起きた。

原因は、前の年の4月にインドネシアで起きた、歴史上いちばん大きな火山の噴火だった。地球の反対側の出来事が、なぜ世界中の天気を変えてしまったのだろうか。

1816年の夏、アメリカ東部では6月に雪が降り、ヨーロッパでは記録的な冷夏と食料危機が起きた。その原因は、前年4月にインドネシアで起きた、史上最大級の火山噴火だった。

世界の反対側の出来事が、なぜ地球全体の天気を変えてしまったのか。そしてこの異常な夏から、いまも読み継がれる1冊の小説が生まれている。

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1. 夏なのに、雪が ふった

1. 1816年6月、季節はずれの雪

1. 1816年6月、季節外れの雪

1816年の 6月、アメリカの まちで 雪が ふった[2]。6月の おわりには、しもが 5日も つづけて おり、8月にも また さむい 日が もどって きた[2]。夏の はずの きせつに、こんなに さむい 日が つづいたので、この 年は のちに「こおりついた 年」と よばれるように なった[2]。

はたけの さくもつも、大きな ひがいを うけた。むぎの ねだんは、前の 年の 3ばい ちかくまで あがった[2]。とうもろこしは ほとんど そだたず、食べられる ぶんは 4分の1ほどだったという[2]。うみの むこうの ヨーロッパでも、同じ 年に、にたような ことが おきて いた。いったい 何が げんいんだったのだろうか。

1816年6月6日、アメリカのオールバニと、メイン州デニスヴィルという町で雪が降った[2]。6月の終わりには、ニュージャージー州で5日連続の霜が降り、8月23日には、ニューイングランド地方にまた霜が戻ってきた[2]。真夏のはずの季節にこれほど寒い日が続いたので、この年は後に「1800年と、凍え死んだ年」というあだ名で呼ばれるようになった[2]。

農作物への被害も大きかった。オート麦の値段は、前の年の3倍近くまで跳ね上がった[2]。とうもろこしはほとんど育たず、食べられる分は4分の1ほどしかなかったという[2]。海の向こうのヨーロッパでも、同じ年、似たようなことが起きていた。いったい何が原因だったのだろうか。

1816年6月6日、アメリカ・ニューヨーク州オールバニと、メイン州デニスヴィルで雪が降った[2]。6月下旬には、ニュージャージー州ケープメイで5日連続の霜が降り、8月23日には、ニューイングランド一帯に再び霜が戻った[2]。真夏のはずの季節にこれほどの寒さが続いたことから、この年は後に「1800年と、凍え死んだ年(Eighteen Hundred and Froze to Death)」というあだ名で呼ばれるようになった[2]。

農作物への被害も深刻だった。オート麦の価格は、前年の1ブッシェルあたり12セントから、この年は92セントへと跳ね上がった[2]。とうもろこしはほとんど実らず、食べられる分はわずか4分の1程度だったという[2]。海を挟んだヨーロッパでも、同じ年、似たような異変が起きていた。原因は、いったい何だったのか。

2. 前の 年、とおい 島で おきて いた こと

2. 前の年の4月、地球の反対側で起きていたこと

2. 前年4月、地球の反対側で起きていたこと

こたえは、その前の 年、1815年の 4月に さかのぼる。インドネシアの スンバワ島に ある タンボラ山が、4月5日に ふん火を はじめ、4月10日から 11日に かけて、いちばん 大きな ばくはつが おきた[1]。ばくはつの おとは、1,500キロメートルも はなれた ばしょで きこえたと つたわって いる[1]。

これは、きろくに のこる 中で、人るいの れきし上、さいだいきゅうの ふん火だった[1]。ふき上げられた 火山ばいや いわの りょうは、けんきゅうに よって はばが あるが、100〜150立方キロメートルほどにも なったと される[1][3]。まわりの むらでは、あつく もえる 岩なだれや つなみが おき、なくなった 人は 1万人から 1万2,000人ほどに のぼった[1]。その あと おきた 食べものぶそくや びょうきで なくなった 人も あわせると、なくなった 人の かずは、7万人から 12万人にも のぼると いう[1]。

答えは、その前の年、1815年4月にさかのぼる。インドネシアのスンバワ島にあるタンボラ山が、4月5日に噴火を始め、4月10日から11日にかけて、いちばん大きな爆発が起きた[1]。爆発の音は、1,500キロメートル以上も離れた場所で聞こえたと伝えられている[1]。火山の活動は7月15日まで続いた[1]。

火山の噴火の大きさを表す「火山爆発指数」で、この噴火はいちばん上に近いレベルと評価されている。これは、記録に残る人類の歴史の中でも、最大級の噴火だ[1]。噴き上げられた火山灰や岩石の量は、研究によって幅があるが、100〜150立方キロメートルほどになったとされる[1][3]。周りの村では火砕流や津波が起き、直接の犠牲者は1万人から1万2,000人ほどにのぼった[1]。その後の飢饉や病気による死者も合わせると、犠牲者の数は7万人から12万人にのぼるという推計もある[1]。

答えは、その前年、1815年4月にさかのぼる。インドネシア・スンバワ島のタンボラ山が、4月5日に噴火を始め、4月10日から11日にかけて、クライマックスを迎えた[1]。爆発音は、1,500キロメートル以上離れた場所でも聞こえたと伝えられている[1]。火山活動は7月15日まで続いた[1]。

火山の噴火の規模を表す「火山爆発指数(VEI)」で、この噴火はVEI7と評価されている。これは、記録に残る人類史上、最大級の噴火である[1]。噴き上げられた火山灰・軽石・エアロゾルの量は、推計によって幅があり、100〜150立方キロメートルほどに及んだとされる[1][3]。周辺では火砕流や津波が発生し、直接の犠牲者は1万人から1万2,000人ほどにのぼった[1]。その後の飢饉や疫病による死者も含めると、犠牲者の総数は7万人から12万人にのぼるとする推計もある[1]。

3. なぜ、とおくの 天気まで かわったの?

3. なぜ、地球の反対側の天気まで変わったのか

3. なぜ、地球の反対側の天気まで変わったのか

ふん火が ふき上げた けむりや ガスには、いおうを ふくむ ものが 大りょうに ふくまれて いて、空の とても 高い ところまで とどいた[5]。そこで、目に 見えないほど 小さな つぶに なって、地球ぜんたいに うすく 広がって いった[1]。

水そうに 絵の具を 1てき たらすと、水 ぜんたいが、うっすらと 色づく。空に 広がった この つぶも、それと にて いる。地球を おおうように 広がった つぶが、おひさまの 光を すこし さえぎって しまい、地めんに とどく 光の りょうが へったのだ[2]。雨や 雲と ちがって、この つぶは 何年も 空に とどまり つづける。だから、ふん火から 1年 いじょう たった 1816年に なっても、その えいきょうが せかいじゅうの 天気に のこって いたのだ。

噴火が噴き上げた火山灰やガス、とくに大量の硫黄化合物は、地面からはるか上空の成層圏にまで届いた[1]。噴き出した硫黄化合物の量は、推定によって幅があるが、およそ1億トンにのぼったとされる[5]。

成層圏に届いた硫黄は、やがて目に見えないほど小さな粒(エアロゾル)になって、地球全体にうすく広がっていく。この粒の層が、太陽の光を宇宙側へはね返し、地面に届く光の量を減らした[2]。雨や雲とちがって、成層圏の粒は何年も空にとどまり続ける。だからこそ、噴火から1年以上たった1816年になっても、その影響が世界中の天気に残っていたのだ。世界全体の平均気温は、この噴火の影響でおよそ0.4〜0.7℃下がったと考えられている[2]。

噴火が噴き上げた火山灰やガス、なかでも大量の硫黄化合物は、地表からはるか上空の成層圏にまで達した[1]。噴出した硫黄化合物の量は、推定によって幅があるものの、およそ1億トンにのぼったとされる[5]。

成層圏に達した硫黄は、やがて微小な硫酸のつぶ(エアロゾル)となって、地球全体に薄く広がっていく。このエアロゾルの層が、太陽の光を宇宙側へ跳ね返し、地表に届く日射量を減らした[2]。雨や雲と違って、成層圏のエアロゾルは何年も空にとどまり続ける。だからこそ、噴火から1年以上たった1816年になっても、その影響が世界中の気候に残っていたのだ。世界全体の平均気温は、この噴火の影響でおよそ0.4〜0.7℃下がったと推定されている[2]。

4. ヨーロッパでも、食べものが たりなく なった

4. ヨーロッパの食料不足と、たくさんの死

4. ヨーロッパの食料危機と、6万5,000人以上の死

ヨーロッパでも、1816年は 食べものが そだたない 年に なった[2]。食べものの ねだんが 上がり、あちこちで さわぎが おきた[2]。1816年から 1819年に かけて、アイルランドや イタリアなど 4つの 国で、体が よわった 人たちの あいだで びょうきが 広がり、あわせて 6万5千人 いじょうが なくなったと される[2]。

地球の さらに はんたいがわ、中国でも、大きな 食べものぶそくが おきて いた[2]。たった 1つの 火山の ふん火が、地球の ほとんど ぜんぶの ばしょで、人々の くらしを おびやかして いたのだ。

ヨーロッパでも、1816年は記録的な不作の年になった。もともと数年間、作物のできが悪かったところに、この年の寒い夏が追い打ちをかけた[2]。食料の値段が急に上がり、あちこちでパンをめぐる暴動が起きた[2]。1816年から1819年にかけて、アイルランド・イタリア・スイス・スコットランドでは、栄養が足りず体が弱った人たちの間でチフスという病気が広がり、あわせて6万5,000人以上が亡くなったとされる[2]。

地球のさらに反対側、中国の雲南省でも、大きな飢饉が起きていた。この飢饉は、当時の清という王朝の勢いを弱める一因になったとも言われている[2]。たった1つの火山の噴火が、地球のほとんど全部の場所で、人々の暮らしを脅かしていたことになる。

ヨーロッパでも、1816年は記録的な不作の年になった。それでなくても数年間、作物の出来が悪かったところへ、この年の冷夏が追い打ちをかけた[2]。食料価格が急騰し、各地でパンをめぐる暴動が起きた[2]。1816年から1819年にかけて、アイルランド・イタリア・スイス・スコットランドでは、栄養不足で抵抗力の落ちた人々の間でチフスが広がり、あわせて6万5,000人以上が亡くなったとされる[2]。

地球のさらに反対側、中国の雲南省でも、大規模な飢饉が起きていた。この飢饉は、当時の清王朝の勢いを弱める一因になったとも指摘されている[2]。たった1つの火山の噴火が、地球のほぼ全域で人々の暮らしを脅かしていたことになる。

5. 雨の 日に 生まれた「かいぶつ」の おはなし

5. 雨にとじこめられた5人と、生まれた怪物

5. 雨に閉じ込められた5人と、生まれた怪物

天気が へんだった ことが、おもいがけない かたちで れきしに 名まえを のこす ことに なった。1816年6月、しじんの バイロンは、スイスの みずうみの ほとりの 家に、しゅじいの ポリドーリと いっしょに いた。近くには、しじんの シェリー、当時 18さいの メアリー(のちの メアリー・シェリー)、その あねが とまって いた[4]。

ほんらいなら 明るい 夏の はずが、雨と かみなりに とじこめられる 日が つづいた。たいくつした バイロンは、みんなに「こわい 話を 書こう」と もちかけた[4]。この きっかけで、メアリーは わるい ゆめから ヒントを もらって、のちに 本『フランケンシュタイン』に なる 物語を おもいついたと される[4]。おなじ 夜、バイロンじしんも、ひるまなのに とりが ねむり、正午に ろうそくを つけなければ ならないほど くらい 1日を けいけんした ことを もとに、し「くらやみ」を 書いた[2]。あれた 天気が 生んだ かいぶつと くらやみの しは、200年 いじょう たった 今も 読みつがれて いる。

天気の異常は、思いがけない形で歴史に名前を残すことになった。1816年6月、詩人ロード・バイロンはスイスのレマン湖のほとりにあるヴィラ・ディオダティという別荘を借り、主治医のポリドーリと過ごしていた。近くには、詩人パーシー・シェリー、当時18歳のメアリー・ゴドウィン(のちのメアリー・シェリー)、その義理の姉クレア・クレアモントが滞在していた[4]。

本来なら明るい夏のはずが、雨と雷にとじこめられる日が続いた。ドイツの怖い話を集めた本を読んでいたバイロンは、退屈しのぎに、みんなに「それぞれ怖い話を書こう」と持ちかけた[4]。このきっかけで、メアリーは悪夢からヒントを得て、のちに小説『フランケンシュタイン』となる物語を思いついたとされる[4]。同じ夜、バイロン自身も、昼間なのにニワトリが眠り、正午にろうそくをともさなければならないほど暗い1日を経験したことをもとに、詩『暗闇』を書いた[2]。荒れた天気が生んだ怪物と暗闇の詩は、200年以上たった今も読み継がれている。

異常な天候は、思いがけない形で歴史に名を残すことになった。1816年6月、詩人ロード・バイロンはスイスのレマン湖畔にあるヴィラ・ディオダティを借り、主治医ポリドーリとともに過ごしていた。近くには、詩人パーシー・シェリー、当時18歳のメアリー・ゴドウィン(後のメアリー・シェリー)、その義理の姉クレア・クレアモントが滞在していた[4]。

本来なら明るい夏のはずが、雨と雷に閉じ込められる日が続いた。ドイツの怪奇小説集『ファンタスマゴリアナ』を読んでいたバイロンは、退屈しのぎに、全員に「それぞれ怖い話を書こう」と持ちかけた[4]。この挑戦がきっかけとなり、メアリーは悪夢からヒントを得て、後に小説『フランケンシュタイン』となる物語の構想を得たとされる[4]。同じ夜、バイロン自身も、真昼に鶏が眠り、正午にろうそくを灯さねばならないほど暗い一日を経験したことをもとに、詩『暗闇(Darkness)』を書いた[2]。荒天が生んだ怪物と暗闇の詩は、200年以上たった今も読み継がれている。

6. 絵かきが えがいた、まっ赤な 夕やけ

6. 画家がえがいた、めずらしく赤い夕焼け

6. 画家が描いた、異様に赤い夕焼け

ふん火の えいきょうは、絵にも あとを のこして いた。学者たちが、むかしから 今までの ゆうめいな 絵かきが えがいた 夕やけの 絵を たくさん しらべた[3]。すると、大きな 火山の ふん火が あった 年と、その あとの すう年に えがかれた 絵ほど、夕やけの 赤色が つよく 出て いる ことが わかった[3]。

ドイツの 絵かきが、タンボラの ふん火から すう年ごに えがいた 絵は、空が 金色と オレンジ色に もえるように えがかれて いる[3]。絵かきたちは、空を 見上げて かんじた へんかを、そのまま えに うつしとって いたのかも しれない。

噴火のえいきょうは、絵にも跡を残していた。大気物理学者コンスタンティン・ゼレフォスたちの研究チームは、1500年から2000年にかけて描かれた、有名な画家による夕焼けの絵をたくさん調べた[3]。ロンドンのテート・ギャラリーにある、J・M・W・ターナーの作品を中心に124点の絵を調べたところ、大きな火山の噴火が起きた年とその後数年間に描かれた絵ほど、夕焼けの赤色が強く出ている傾向が見つかった[3]。

ドイツの画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒが1818〜20年ごろにえがいた絵は、空が金色とオレンジ色に燃えるようにえがかれており、研究者はタンボラの噴火が生んだ劇的な空が着想のもとになった可能性があるとみている[3]。画家たちは、空を見上げて感じた異変を、そのままキャンバスに写し取っていたのかもしれない。

噴火の影響は、絵画にも痕跡を残していた。大気物理学者コンスタンティン・ゼレフォスらの研究チームは、1500年から2000年にかけて描かれた、著名な画家による夕焼けの絵を大量に分析した[3]。ロンドンのテート・ギャラリーが所蔵する、J・M・W・ターナーの作品を中心に124点の高精細画像を調べたところ、大きな火山噴火が起きた年とその後数年間に描かれた絵ほど、夕焼けの赤色が強く出ている傾向が見つかった[3]。

ドイツの画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒが1818〜20年ごろに描いた《朝日の前に立つ女性》は、空が華やかな金色とオレンジ色に燃えるように描かれており、研究者はタンボラの噴火がもたらした劇的な空の色が、着想のもとになった可能性があるとみている[3]。画家たちは、空を見上げて感じた異変を、そのままキャンバスに写し取っていたのかもしれない。

じぶんでも しらべて みたく なったら

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

つぎに まっ赤な 夕やけを 見た ときは、空の 高い ところで 何が おきて いるのか、すこし そうぞうして みよう。今も せかいの どこかで 火山が ふん火すると、おなじように 空の 色が かわる ことが ある。もし きに なったら、フランケンシュタインと いう 本が どんな 夜に 生まれたのか、家の 人と いっしょに としょかんで さがして みるのも いい。

つぎに真っ赤な夕焼けを見たときは、空の高いところで何が起きているのか、少し想像してみよう。今も世界のどこかで火山が噴火すると、同じように空の色が変わることがある。もし興味を持ったら、フランケンシュタインという小説がどんな夜に生まれたのか、この記事に出てきた出来事を手がかりに、図書館で手に取ってみるのもいい。

次に真っ赤な夕焼けを見たときは、空の高いところに何が起きているのか、少し想像してみよう。今も世界のどこかで火山が噴火すれば、同じように空の色が変わることがある。もし興味を持ったら、フランケンシュタインという小説がどんな夜に生まれたのか、この記事で触れた出来事を手がかりに、図書館で手に取ってみるのもいいだろう。

しらべた ところ

参考にした情報源

参考にした情報源

  1. 日本語版 Wikipedia「1815年のタンボラ山噴火」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/1815年のタンボラ山噴火 (4月5日の噴火開始、4月10〜11日のクライマックス、7月15日の活動終了、火山爆発指数VEI7という評価、爆発音が1,500km以上離れた場所でも聞こえたこと、噴出物総量が約150立方キロメートルとされること、直接の死者が約1万人であること、飢饉・疫病を含めた総死者数が推定7万〜12万人にのぼるとされることは同出典による)
  2. English Wikipedia「Year Without a Summer」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Year_Without_a_Summer (世界の平均気温がおよそ0.4〜0.7℃低下したこと、1816年6月6日のオールバニ・デニスヴィルでの降雪、6月下旬のケープメイでの5日連続の霜、8月23日の霜の再来、「Eighteen Hundred and Froze to Death」という呼び名、オート麦価格の高騰、とうもろこしの不作、ヨーロッパでの食料価格高騰と暴動、1816〜19年のチフスによる6万5千人以上の死者、雲南省の飢饉、バイロンが詩「Darkness」を書いた経緯は同出典による)
  3. Discover Magazine「How Mount Tambora and Other Volcanic Eruptions Inspired Artistic Masterpieces」。 https://www.discovermagazine.com/how-mount-tambora-and-other-volcanic-eruptions-inspired-artistic-42291 (噴出した火山灰・エアロゾルの量が約100立方キロメートルとされること、ゼレフォスらの研究チームが1500〜2000年の夕焼けの絵を分析し赤と緑の比率が火山性エアロゾル濃度と対応することを見出したこと、テート・ギャラリー所蔵のターナー作品124点を中心に分析したこと、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒが1818〜20年ごろに描いた《朝日の前に立つ女性》について研究者がタンボラ噴火の空模様が着想源になった可能性を指摘していることは同出典による)
  4. Pan Macmillan「Frankenstein and the Year Without a Summer」。 https://www.panmacmillan.com/blogs/history/frankenstein-and-the-year-without-a-summer (1816年5月にパーシー・シェリー、メアリー・ゴドウィン、息子ウィリアム、クレア・クレアモントがジュネーヴへ向かったこと、バイロンがヴィラ・ディオダティを借りポリドーリと滞在したこと、当時メアリーが18歳だったこと、『ファンタスマゴリアナ』を読んだバイロンが怖い話を書く挑戦を持ちかけたこと、メアリーが悪夢からフランケンシュタインの着想を得たとされることは同出典による)
  5. National Geographic「201 Years Ago, This Volcano Caused a Climate Catastrophe」。 https://www.nationalgeographic.com/science/article/160408-tambora-eruption-volcano-anniversary-indonesia-science (噴火が硫黄を含む大量のガスを成層圏まで噴き上げたこと、その量について研究によって幅があるがおよそ1億トン規模と推定されることは同出典による)

なおした ところ

更新履歴

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