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エニグマを といた あと、コンピュータの もとを 作った 人 ── アラン・チューリング

エニグマを解いた後、コンピュータの基礎を作った人 ── アラン・チューリング

アラン・チューリング ── エニグマを解いた後、コンピュータの基礎を作った人

分野:歴史・文化

アラン・チューリングと きくと、せんそう中に てきの あんごうを といた 人、と おもう人が 多いだろう。

でも じつは、あんごうを とく 前と あとにも、チューリングは もっと 大きな しごとを して いた。「けいさんする きかいとは 何か」と いう、大きな といに 答えようと して いたのだ。

この きじでは、チューリングが のこした しごとと、その あと かれに 起きた できごとを たどって いく。

アラン・チューリングと聞くと、戦争中に敵の暗号を解いた人、と思う人が多いだろう。

でも実は、暗号を解く前とあとにも、チューリングはもっと大きな仕事をしていた。「計算する機械とは何か」という、大きな問いに答えようとしていたのだ。

この記事では、チューリングが残した仕事と、そのあと彼に起きた出来事をたどっていく。

アラン・チューリングという名前を聞くと、多くの人は第二次世界大戦中にドイツ軍の暗号「エニグマ」を解読した数学者を思い浮かべるだろう。

だが、チューリングの最も重要な業績は、実はエニグマに関わるよりも前、そして戦後にこそあった。「計算する機械とは何か」という問いへの答えは、後にコンピュータそのものの理論的な出発点となった。

この記事では、チューリングが多方面に残した業績と、晩年に彼が置かれた状況、そして死後半世紀を経て届いた謝罪までをたどっていく。

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1. せんそうが 始まる 前、すでに「コンピュータ」を 考えて いた

1. 戦争が始まる前、すでに「コンピュータ」を考えていた

1. 戦争が始まる前、すでに「コンピュータ」を考えていた

1936年、まだ 24さいの 大学院生だった チューリングは、「けいさん できる 数に ついて」と いう ろんぶんを 出した[1]。

この ろんぶんで チューリングは、テープに 書かれた しるしを 読んだり 書いたり しながら、きまった ルールに したがって うごくだけの、たった 一つの きかいの しくみを かんがえだした[1]。この かんたんな しくみが、じつは どんな けいさんでも できて しまう きかい、つまり いまの コンピュータの もとに なる 考えかたに なったのである[2]。

まだ でんしかいろで できた コンピュータが この 世に なかった 時代に、「けいさんする きかいとは 何か」と いう といに、数学の ことばで 答えを 出して いたのだ。

1936年、まだ24歳の大学院生だったチューリングは、「計算できる数について」という論文を発表した[1]。

この論文でチューリングは、テープに書かれた記号を読み書きしながら、決まったルールにしたがって動くだけの、たった一つの機械のしくみを考え出した[1]。この単純なしくみが、実はどんな計算でもできてしまう機械、つまり今のコンピュータのもとになる考え方になったのである[2]。

まだ電子回路でできたコンピュータがこの世になかった時代に、「計算する機械とは何か」という問いに、数学のことばで答えを出していたのだ。

1936年、当時24歳の大学院生だったチューリングは、「計算可能数について」という論文を発表した[1]。

この論文の中でチューリングは、「万能チューリングマシン」と呼ばれる、あらゆる計算手順を実行できる仮想的な機械の概念を示した[1]。テープに記された記号を読み書きしながら、決められた規則にしたがって動作するだけのこの単純な仕組みが、あらゆる計算を実行できる機械、つまり現代のコンピュータの理論的な原型となった[2]。

まだ電子回路によるコンピュータが実在しなかった時代に、「計算する機械とは何か」という問いに、数学の言葉で答えを出していたのである。

2. せんそうが おわった あと、じっさいに コンピュータを せっけいした

2. 戦争が終わったあと、実際にコンピュータを設計した

2. 戦争が終わったあと、実際にコンピュータを設計した

エニグマの あんごうを といた 話は、よく 知られて いる。でも その あと チューリングが どう なったかは、あまり 話されない。

せんそうの あと、チューリングは イギリスの けんきゅうじょに うつり、1946年、プログラムを 中に くみこむ しくみを もった コンピュータとして、イギリスで はじめての くわしい せっけいあんを 出した[1]。この けいかくは「ACE」と よばれ、チューリングが かんがえた「万のうな きかい」と いう 考えかたを、じっさいに うごく きかいと して かたちに しようと する ものだった[1]。

りろん上の きかいを 考えた 人が、こんどは じっさいの せっけいを する 人としても、さいぜんせんに 立って いた ことに なる。

エニグマの暗号を解いた話は、よく知られている。でもそのあとチューリングがどうなったかは、あまり話されない。

戦争のあと、チューリングはイギリスの研究所に移り、1946年、プログラムを中に組みこむしくみを持ったコンピュータとして、イギリスではじめての詳しい設計案を出した[1]。この計画は「ACE」と呼ばれ、チューリングが考えた「万能な機械」という考え方を、実際に動く機械として形にしようとするものだった[1]。

理論上の機械を考えた人が、今度は実際の設計をする人としても、最前線に立っていたことになる。

エニグマ解読の物語はよく知られているとおりだが、そのあとチューリングがどうなったかは、あまり語られない。

戦後、チューリングはイギリス国立物理学研究所(NPL)に移り、1946年、プログラム内蔵方式のコンピュータとしてはイギリスで初めての詳細な設計案を発表した[1]。この計画は「ACE(自動計算機関)」と呼ばれ、チューリングが理論として示した「万能チューリングマシン」の考え方を、実際に動く機械として形にしようとするものだった[1]。

理論上の機械の考案者が、今度は現実の設計者としても最前線に立っていたことになる。

3. 「きかいは 考える ことが できるか」

3. 「機械は考えることができるか」

3. 「機械は考えることができるか」

1950年、チューリングは「けいさんする きかいと ちのう」と いう ろんぶんを 出し、その 中で 一つの じっけんを ていあんした[1]。会話の あいてが 人間なのか きかいなのかを、もじだけの やりとりで 見わけられるかどうかを ためす、と いう ほうほうだ[1]。

この じっけんは のちに「チューリングテスト」と よばれるように なり、じんこう ちのうと いう ぶんやそのものの、出発点の 一つとして、いまも 話しあわれて いる[1]。

きかいが けいさんを する、と いうだけでなく、きかいが「考える」とは どう いう ことか。チューリングは、コンピュータと いう 新しい きかいが 生まれたばかりの 時代に、すでに その 先の といに まで ふみこんで いた。

1950年、チューリングは「計算する機械と知能」という論文を発表し、その中で一つの実験を提案した[1]。会話の相手が人間なのか機械なのかを、文字だけのやりとりで見分けられるかどうかを試す、という方法だ[1]。

この実験は後に「チューリングテスト」と呼ばれるようになり、人工知能という分野そのものの出発点の一つとして、いまも話し合われている[1]。

機械が計算をする、というだけでなく、機械が「考える」とはどういうことか。チューリングは、コンピュータという新しい機械が生まれたばかりの時代に、すでにその先の問いにまで踏みこんでいた。

1950年、チューリングは「計算する機械と知性」という論文を発表し、その中で一つの思考実験を提案した[1]。会話の相手が人間なのか機械なのかを、文字だけのやり取りで見分けられるかどうかを試す、という方法である[1]。

この実験は後に「チューリングテスト」と呼ばれるようになり、人工知能という分野そのものの出発点の一つとして、今も議論され続けている[1]。

機械が計算をする、というだけでなく、機械が「考える」とはどういうことか。チューリングは、コンピュータという新しい機械が生まれたばかりの時代に、すでにその先の問いにまで踏み込んでいた。

4. どうぶつの しま もようにも、かれの りろんが かくれて いた

4. 動物のしま模様にも、彼の理論がかくれていた

4. 動物のしま模様にも、彼の理論が隠れていた

チューリングの きょうみは、けいさんする きかいだけには とどまらなかった。1952年、かれは「かたちが できる しくみの、かがくてきな もと」と いう ろんぶんを 出し、生きものの 体に 見られる もようが どうやって できるのかと いう もんだいに とりくんだ[1]。2しゅるいの ものしつが たがいに はんのうしながら 広がって いく とき、とくべつな じょうけんの もとでは、しま もようや まだら もようのような、きそく正しい パターンが しぜんに 生まれる、と いう 数学の モデルを しめしたのである[1]。

この りろんは、はっぴょうから40年いじょうの あいだ、たしかな しょうこの ない まま ねむって いた。それを じっさいの 生きもので たしかめたのが、日本の けんきゅうしゃだった。大阪おおさか大学の 近藤こんどう 滋しげるは、大きく なっても しま もようの 間かくが くずれない 生きものを さがし、ねったいぎょの タテジマキンチャクダイに 目を つけた[3]。この 魚の しま もようが 大きく なるに つれて どう かわって いくかを かんさつした ところ、その かわりかたが、チューリングの 数しきが よそくする とおりに、正かくに いっちして いたのである[3]。

あんごうを といた すう学者の りろんが、半せいき ちかく のちに、日本の すいぞくかんの 魚の もようの 中で たしかめられる ことに なろうとは、チューリング 自身も 思って いなかったかもしれない。

チューリングの興味は、計算する機械だけにはとどまらなかった。1952年、彼は「形ができるしくみの、化学的なもと」という論文を発表し、生きものの体に見られる模様がどうやってできるのかという問題に取り組んだ[1]。2種類の物質がたがいに反応しながら広がっていくとき、特別な条件のもとでは、しま模様やまだら模様のような、規則正しいパターンが自然に生まれる、という数学のモデルを示したのである[1]。

この理論は、発表から40年以上のあいだ、確かな証拠のないまま眠っていた。それを実際の生きもので確かめたのが、日本の研究者だった。大阪大学の近藤滋は、大きくなってもしま模様の間隔がくずれない生きものを探し、熱帯魚のタテジマキンチャクダイに目をつけた[3]。この魚のしま模様が大きくなるにつれてどう変わっていくかを観察したところ、その変わり方が、チューリングの数式が予測するとおりに、正確に一致していたのである[3]。

暗号を解いた数学者の理論が、半世紀近くのちに、日本の水族館の魚の模様の中で確かめられることになろうとは、チューリング自身も思っていなかったかもしれない。

チューリングの関心は、計算機械だけにとどまらなかった。1952年、彼は「形態形成の化学的基礎」という論文を発表し、生物の体に見られる模様がどうやってできるのかという問題に取り組んだ[1]。2種類の物質が反応しながら広がっていくとき、特定の条件のもとでは、しま模様やまだら模様のような規則的なパターンが自然に生まれる、という数学的なモデルを示したのである[1]。

この理論は、発表から40年以上のあいだ、確かな証拠のないまま眠っていた。それを実際の生きもので確かめたのが、日本の研究者だった。大阪大学の近藤滋は、成長してもしま模様の間隔がくずれない生きものを探し、熱帯魚タテジマキンチャクダイに注目した[3]。この魚のしま模様が成長とともに変化していく様子を観察したところ、その変化のしかたが、チューリングの数式が予測するとおりに、正確に一致していたのである[3]。

暗号を解読した数学者の理論が、半世紀近くのちに、日本の水族館の魚の模様の中で実証されることになろうとは、チューリング自身も想像していなかったかもしれない。

5. でも、当時の ほうりつは、男の人どうしの こいを つみだと して いた

5. でも、当時の法律は、男の人どうしの恋を罪だとしていた

5. しかし、当時の法律は、同性どうしの関係を罪だとしていた

これほど 多くの ぶんやで やくに 立った チューリングだが、さいごの ころ、ひどい あつかいを 受ける ことに なった。1952年 当時の イギリスでは、男の人どうしが こいびとと して すごす ことが、ほうりつで つみと されて いた。チューリングは、そのために うったえられて しまった[1][2]。

ゆうざいの はんけつを 受けた チューリングは、けいむしょに 入るか、体に 大きな ふたんの かかる ちりょうを 受けるかを えらぶように 言われ、ちりょうの ほうを えらんだ[1][2][4]。

そして 1954年6月7日、チューリングは じたくで なくなって いるのが 見つかった。せいさんと いう どくに よる 中どくが 死いんで、当時の しらべでは、みずから 命を たった ものと はんだんされたが、じこの かのうせいも あると いう 見かたも ある[2]。41さいだった。

これほど多くの分野で役に立ったチューリングだが、最後のころ、ひどい扱いを受けることになった。1952年、当時のイギリスでは、男の人どうしが恋人として過ごすことが、法律で罪とされていた。チューリングは、そのために訴えられてしまった[1][2]。

有罪の判決を受けたチューリングは、刑務所に入るか、体に大きな負担のかかる治療を受けるかを選ぶように言われ、治療のほうを選んだ[1][2][4]。

そして1954年6月7日、チューリングは自宅で亡くなっているのが見つかった。青酸という毒による中毒が死因で、当時の調べでは自殺と判断されたが、事故の可能性もあるという見方もある[2]。41歳だった。

これほど多くの分野に貢献したチューリングだが、晩年は不当な扱いを受けることになる。1952年、チューリングは自宅に泥棒が入った件を警察に届け出た際、交際していた男性との関係について話したことをきっかけに、当時のイギリスで犯罪とされていた同性愛行為の容疑で起訴された[1][2]。

有罪判決を受けたチューリングは、収監されるか、ホルモンを投与される治療(いわゆる「化学的去勢」)を受けるかの選択を迫られ、後者を選んだ[1][2][4]。この治療は心身に大きな負担をもたらしたとされる。

そして1954年6月7日、チューリングは自宅で死亡しているのが発見された。死因は青酸中毒であり、検死では自殺と判断されたが、事故の可能性を否定できないとする見方もある[2]。享年41歳だった。

6. 半せいき 後に とどいた あやまりと、その あと

6. 半世紀後に届いた謝罪と、その後

6. 半世紀後に届いた謝罪と、その後

チューリングが なくなってから 半せいき いじょうが すぎた2009年、当時の イギリスの 首相 ゴードン・ブラウンは、チューリングが 受けた あつかいに ついて「ひどい しうちだった」と 正しきに あやまった[1][4]。2013年には、エリザベス女王に よる 正しきの おんしゃが チューリングに あたえられ、かれの ゆうざいの はんけつ そのものが とりけされた[1][4]。この おんしゃは、3万7千人 いじょうが しょめいした しょめい活どうの あとに 実げんした[4]。

2021年6月23日、チューリングの たん生日に 合わせて、イギリスの 新しい50ポンドさつに チューリングの すがたが えらばれ、つかわれ始めた[2]。かつて 国に よって ばっせられた 人が、いまでは その 国の お金に えがかれて いる。この 大きな かわりようが、チューリングの しごとと、かれが 受けた まちがった あつかいの りょうほうを、あとの 時代が どう 受けとめ 直したかを ものがたって いる。

チューリングが亡くなってから半世紀以上が過ぎた2009年、当時のイギリスの首相ゴードン・ブラウンは、チューリングが受けた扱いについて「ひどい仕打ちだった」と正式に謝罪した[1][4]。2013年には、エリザベス女王による正式な恩赦がチューリングに与えられ、彼の有罪判決そのものが取り消された[1][4]。この恩赦は、3万7千人以上が署名した署名活動のあとに実現した[4]。

2021年6月23日、チューリングの誕生日に合わせて、イギリスの新しい50ポンド紙幣にチューリングの姿が選ばれ、使われ始めた[2]。かつて国によって罰せられた人が、いまではその国のお金に描かれている。この大きな変わりようが、チューリングの仕事と、彼が受けた間違った扱いの両方を、あとの時代がどう受けとめ直したかを物語っている。

チューリングの死から半世紀以上が過ぎた2009年、当時のイギリス首相ゴードン・ブラウンは、チューリングが受けた扱いについて「ひどい仕打ちだった」と公式に謝罪した[1][4]。2013年には、エリザベス女王による正式な恩赦がチューリングに与えられ、彼の有罪判決そのものが取り消された[1][4]。この恩赦は、3万7千人以上が署名した嘆願活動を経て実現した[4]。

2021年6月23日、チューリングの誕生日にあわせて、イギリスの新50ポンド紙幣にチューリングの肖像が採用され、流通が始まった[2]。かつて国家によって処罰された人物が、今ではその国の紙幣に描かれている。この変化そのものが、チューリングの業績と、彼が受けた不当な扱いの両方を、後の時代がどう受け止め直したかを物語っている。

じぶんでも しらべて みたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

すいぞくかんで タテジマキンチャクダイを 見つけたら、体の 大きさの わりに、しまの あいだの はばが そろって いるか 見て みよう。もし 小さい 子と 大きい おとなが 2ひき ならんで いたら、しまの 数を くらべて みよう。大きい 方の しまが、ただ ひきのばされて いるのでは なく、しまが ふえて いたら、それが チューリングの りろんが よそくした ことと おなじなのだ。

もし きかいが あれば、おうちの 人と いっしょに、AI(じんこう ちのう)を つかった サービスと もじだけで 会話して みて、あいてが 人間なのか きかいなのか、どこまで 見わけが つくか ためして みるのも おもしろい。それは、チューリングが70年いじょうも 前に 考えた といを、いまの 自分の 手で たしかめて みる ことでも ある。

水族館でタテジマキンチャクダイを見かけたら、体の大きさのわりに、縞の間隔がそろっているかを見てみよう。もし小さい個体と大きい個体が並んでいたら、縞の本数を見比べてみよう。大きいほうの縞が、ただ引き伸ばされているのではなく、数が増えていたら、それがチューリングの理論が予言したことと同じだ。

もし機会があれば、おうちの人といっしょに、AI(人工知能)を使ったサービスと文字だけで会話してみて、相手が人間なのか機械なのか、どこまで見分けがつくか試してみるのもおもしろい。それは、チューリングが70年以上も前に考えた問いを、いまの自分の手で確かめてみることでもある。

水族館でタテジマキンチャクダイを見かけたら、体の大きさのわりに、縞の間隔が一定に保たれているかを観察してみよう。もし成長段階の異なる個体(小さい個体と大きい個体)が並んでいたら、縞の本数を見比べるとよい。大きい個体の縞が単純に引き伸ばされているのではなく、本数が増えているとしたら、それこそがチューリングの理論が予言した現象そのものである。

もし機会があれば、身近な人工知能(AI)を使ったアプリやサービスと文字だけで会話してみて、相手が人間なのか機械なのか、どこまで見分けがつくか試してみるのもおもしろい。それは、チューリングが70年以上前に考えた問いを、今の自分の手で確かめてみることでもある。

しらべた ところ

参考にした情報源

参考にした情報源

  1. Wikipedia「アラン・チューリング」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/アラン・チューリング (1936年の論文「計算可能数について」と万能チューリングマシンの概念、1946年のACE(自動計算機関)の詳細設計案の発表、1950年の論文「計算する機械と知性」とチューリングテストの提案、1952年の論文「形態形成の化学的基礎」、1952年の同性愛行為による起訴とホルモン治療の選択、2009年のゴードン・ブラウン首相による公式謝罪、2013年のエリザベス女王による恩赦は同出典による)
  2. Wikipedia「Alan Turing」(英語版)。 https://en.wikipedia.org/wiki/Alan_Turing (万能チューリングマシンが他のあらゆる計算機械の動作を模倣できるという概念であること、1952年の起訴と収監の代わりにホルモン治療(化学的去勢)を受け入れたこと、1954年6月7日に41歳で青酸中毒により死亡し検死は自殺と判断したが事故による中毒の可能性とも矛盾しないとされること、2021年6月23日の誕生日にあわせてイングランド銀行の新50ポンド紙幣にチューリングの肖像が採用されたことは同出典による)
  3. JT生命誌研究館「Topics チューリングの卵 生物の模様の秘密」。 https://www.brh.co.jp/publication/journal/011/to_1 (大阪大学の近藤滋が、成長しても縞の間隔が一定に保たれる生きものとしてタテジマキンチャクダイに着目したこと、その縞模様が成魚になっても消失せず成長に伴う間隔の広がりを修正するようダイナミックに変化し続けその過程がチューリングの方程式の予測と正確に一致したこと、この研究がNature誌(vol.376)に掲載されたことは同出典による)
  4. Science Museum (London)「Alan Turing granted Royal Pardon」。 https://blog.sciencemuseum.org.uk/alan-turing-granted-royal-pardon/ (1952年2月の逮捕と有罪判決、収監の代わりにホルモン治療(化学的去勢)を受け入れたこと、2009年のゴードン・ブラウン首相による公式謝罪、2013年の国王大権にもとづく恩赦、この恩赦が3万7千人以上の署名を集めた嘆願活動を経て実現したことは、イギリスの国立科学博物館〔Science Museum〕の解説による)

なおした ところ

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