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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

えきの したには、どうして おみせが おおいの?

駅の高架下には、なぜ店が多いのか ── 頭の上を電車が通る場所の100年

鉄道高架下に店が並ぶ理由 ── 煉瓦アーチ高架橋(1910年)から鉄道会社の沿線開発まで

分野:歴史・文化

ゆうらくちょうと しんばしの あいだには、100ねんいじょう まえの れんがの アーチが つづいて います。その したに、おみせが ならんで います。

あたまの うえを でんしゃが とおるのに、どうして おみせを ひらくの でしょう。この きじを よむと、その わけと、おみせを つづける くふうが わかります。

新橋と有楽町のあいだには、1910年に使われはじめた煉瓦のアーチ高架橋があります。その下の約300mの区間に、いまは飲食店などが並んでいます。

頭の上を電車が走る場所に、なぜ店ができたのでしょうか。震災で焼け出された店主の話、電車の音への備え、鉄道会社が高架下を街づくりに使う考え方から、その答えが分かります。

新橋〜有楽町間の煉瓦アーチ高架橋は、1910年(明治43年)に使用が始まり[1]、その高架下は、いまは商業施設として使われている。頭上に電車が通る場所に店が集まるのは、偶然ではなさそうだ。

なぜ高架下は店に向いたのか、権利金のいらない場所が何を生んだのか、騒音と振動はどう扱われるのか、鉄道会社はなぜ今それを開発するのか。この記事を読むと、高架下に店が集まる理由と、その使われ方の変化が分かる。

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1. せんろの したに、ひろい ばしょが できた

1. 線路を持ち上げたら、下に何ができたのか

1. 線路を高く上げると、下に細長い空間ができる ── 新橋〜有楽町間の煉瓦アーチ

まちの まんなかに、せんろを ひくと、みちを ふさいで しまいます。そこで、せんろを たかい ところに のせる ことが あります。これが「こうか」です。

すると、せんろの したに、ほそながい すきまが できます。ゆうらくちょうから しんばしの あいだの したには、ぜんぶで やく 10000へいほうメートルの ひろさが うまれました。たて100メートル、よこ100メートルの しかくと おなじくらいの ひろさです[1]。

ただし この 10000へいほうメートルは、2つの 会社が つかう ぶんの ごうけいです。

この あいだの れんがの こうかきょうは、1910ねんに つかいはじめられました[1]。

下にできた、細長い空間

街の中に線路を平らに通すと、道路をふさいだり、街を二つに分けたりします。そこで線路を高い場所に上げると、線路の真下に、細長い空間が残ります。これが高架下です。

新橋駅から有楽町駅のあいだでは、煉瓦のアーチでできた高架橋が1910年(明治43年)に使われはじめました。高架下は約300mの区間で、JR東海とJR東日本が協力して開発し、両社グループの会社が運営する計画を2019年に発表しました[1]。

この区間で生まれた空間は、JR東海とJR東日本の両社を合わせて約10,000㎡です。10,000㎡は、たて100m・よこ100mの正方形と同じ広さです。ただしこれは2社の合計で、JR東日本が開発を進めた分は約8,600㎡と紹介されています[1]。

では、こうしてできた空間に、最初に店を開いたのはどんな人だったのでしょうか。

都市の中で線路を平面のまま通せば、踏切や街の分断を生む。それを避けて線路を高架にすると、構造物の真下に、細長く連続した空間が残る。これが高架下だ。

新橋〜有楽町間では、煉瓦アーチ高架橋が1910年(明治43年)に使用を始めた。JR東海の2019年の発表によれば、高架下の区間は約300mで、JR東海とJR東日本が約10,000㎡の空間を生み出し、2020年初夏の開業を目ざしていた[1]。10,000㎡は100m×100mに等しい。ただし、この値は両社の合計で、JR東日本の開発エリアは約8,600㎡とされる[1]。

ここまでが、店の入れ物の話だ。では、この入れ物を最初に店として使ったのは誰で、なぜそこを選んだのか。

2. やけだされた てんしゅは、どうして ガードしたを えらんだの?

2. 焼け出された店主は、なぜガード下を選んだのか

2. 権利金のいらない場所 ── 関東大震災後にガード下へ移った店

いわさきぜんえもんさんは、1920ねんに あさくさで おでんやを ひらいた 人だと つたえられて います。そこへ かんとうだいしんさいが おきて、みせは やけて しまいました[5]。

あたらしい 場所を さがす とき、めに とまったのが ガードしたです。ふつうは みせを かりる とき、「けんりきん」という おかねを さきに はらいます。ガードしたは、それが いらなかった と いわれます[5]。

よなかまで やすく たべられる みせとして、はやったと つたえられて います。ただし、うつった 場所が ゆうらくちょうだったとは、かいて ありません。

おでん屋の岩崎さん

百科事典のウィキペディアには、次の話が書かれています。岩崎善右衛門さんは1920年に浅草でおでん屋を開いていましたが、関東大震災で焼け出されました。そこで、権利金のいらないガード下に目をつけて移ったといいます[5]。

権利金は、店や土地を借りるときに、家賃とは別に最初に払うお金です。焼け出されて、手元にお金が少ない店主にとって、これが要らない場所は大きな助けだったでしょう。深夜まで安く食べられる店として繁盛したとも書かれています[5]。

ただし、移った先が有楽町だったとは書かれていないので、場所は決められません。

「日本初」の店つき高架橋

同じ百科事典には、日本で初めて高架下に店を構える設計で作られたのは、1910年に有楽町〜新橋間にできた「第一有楽町架道橋」だとあります[5]。この話は一次資料では確かめられていないため、「とされる」としておきます。

関東大震災の後、浅草で1920年に開業していたおでん屋の岩崎善右衛門は、焼け出されたのち、権利金のいらないガード下に目をつけて移転した。深夜まで安く食べられる店として繁盛したという[5]。権利金は賃貸借の際に賃料とは別に支払う一時金で、被災して資金に乏しい店主には、これが不要という条件が決め手になりうる(この因果は資料の記述から筆者が読み取った推測である)。

この記述の出典は百科事典で、引用元までは未確認だ。移転先が有楽町だったとは書かれていない。同じ項には、日本で初めて高架下に店舗を構える設計の高架橋が、1910年の第一有楽町架道橋だとあるが、こちらも一次資料は未確認で、「とされる」の域を出ない[5]。

大正から昭和の貸付制度については、今回の調査で一次資料を取得できなかった。「権利金不要」が店の増えた理由のすべてとは言い切れない。

3. ガードしたの おみせは、「いえ」なの?

3. ガード下の店は「家」なのか

3. ガード下の店は家屋か ── 家屋税をめぐる行政訴訟

ガードしたに みせが ふえると、こまった ことが おきました。おかねの きまりでは、みせは 「いえ」か どうか、はっきり しなかったのです。

東京ふが、ガードしたの みせにも 「いえ」と おなじ ぜいきんを かけた とき、みせの 人は、ふちじを うったえましたが、まけたと つたえられて います[5]。

この はなしの もとは、ひゃっかじてんです。くわしい ことは、しらべ きれて いません。

店が増えると、法律の上の扱いも問題になりました。東京府がガード下の店も家屋とみなして家屋税を課した際、店の経営者が府知事を相手に行政訴訟を起こしましたが、敗訴したと百科事典に記されています[5]。

線路の下でも、そこに屋根と壁のある店があれば「家」として扱われた、という話です。この話も百科事典の記述にとどまり、原典は確かめられていません。

店として認められる場所だとしても、頭の上には電車が走っています。音や揺れは、どう防いでいるのでしょうか。

ガード下の店が増えると、その法的地位が争われた。百科事典によれば、東京府がガード下も家屋とみなして家屋税を課した際、店舗経営者が府知事を相手取って行政訴訟を起こしたが、敗訴した(年は記されていない)[5]。高架の下でも、屋根と壁のある店は家屋とみなされうる、という判断の例だ。ただし、この記述は原典が未確認である。

店としては認められる場所だとしても、頭上を電車が走る事実は変わらない。では、音と振動はどう扱われるのか。

4. あたまの うえの でんしゃの おとは、どうしているの?

4. 頭の上の電車の音は、どう防ぐのか

4. 空気伝搬音と固体音 ── 吊り構造・浮床構造という対策

でんしゃが とおる とき、おとは 2つの みちで つたわります。ひとつは、くうきを とおる おと。もうひとつは、ゆれが てつの ぼうや コンクリートを つたわって、てんじょうから でる おとです。

コップの 水を たたくと、ゆれが ひろがりますね。でんしゃの ゆれも、たてものの なかを つたわって、いろいろな ところから おとに なって でて きます。

ただし ほんとうは、コップより ずっと ふくざつです。

JR東日本は、てんじょうを つりさげる やり方や、ゆかを うかせる やり方など、おとを へらす ぎじゅつを つくって きた と、しょうかい されて います[6]。

音は二つの道で伝わる

高架下の騒音は、大きく二つに分けて考えます。一つは空気を伝わる音です。もう一つは、電車の振動が高架の構造物を伝わり、天井などから音になって出てくる「固体音」です[6]。

固体音は、コップの水をたたいたときに、水面が揺れて広がるのに少し似ています。ただし、高架の構造物はもっと複雑で、この例は伝わり方のイメージに過ぎません。

JR東日本は、固体音への対策として、天井などを吊る「吊り構造」や、床を浮かせる「浮床構造」など、建物の構造を変える対策の技術を開発してきた、と紹介されています[6]。ただし、この説明は検索結果に出た要約を読んだもので、元の資料の本文までは確かめられていません。

音を防ぐ工夫がある一方で、高架下の使い道は、店だけではありません。時代とともに、どう変わってきたのでしょうか。

高架下の騒音は、空気を伝わる空気伝搬音と、振動が構造物を伝わって天井などから放射される固体音(こたいおん)に分けて考えられる。JR東日本は、固体音対策として、吊り構造や浮床構造(建物構造の変更を伴う対策)などの技術開発を行ってきたとされる[6]。

具体的な低減量などの数値は扱わない。

ここまでの話は、「頭上に電車があっても店にできる」という条件づくりだ。では高架下の使い道は、店だけだったのか。実際の用途は、時代とともにどう動いてきたのか。

5. こうじょうが おみせに、そして こうばんも

5. 工場から飲食店へ、そして交番や保育所まで

5. 用途の入れ替わり ── 1965〜1985年の変化と、廃駅の再生

ガードしたに あったのは、おみせだけでは ありません。むかしは、こうじょうや そうこが ある ところも ありました。

東京の こうかを しらべた けんきゅうでは、1965ねんから 1985ねんに とくに つかいかたが かわった と いいます。こうじょうから、しょくじの みせに かわった ところも あります[2]。

いまは、こうばんや ほいくしょ、あつまりの 場所、こうえん、スポーツの 場所まで あります[3]。

つかわれなく なった 駅の こうかも、あたらしく かわりました。まんせいばし 駅は 1943ねんに おやすみに なりましたが、2013ねんに、れんがの アーチを いかした おみせに なりました[7]。

使い方は時代で変わってきた

日本の高架下の活用は100年以上の歴史があり、使い方は時代で変わってきた、と日本大学の研究は述べています[2]。東京の市街線の高架橋では、1965〜1985年に特に大きく変わり、工場から飲食業に変わった区間もあります。倉庫や事務所、電気店などの小売が増えた区間もあります[2]。

店のほかにも

別の研究では、高架下の使い道として、交番、保育所、集会場、公園、ホテル、スポーツ施設、商業、住戸などが挙げられています[3]。

役目を終えた駅が店に

万世橋駅は1912年(明治45年)に開業し、1943年に営業を休止しました。その煉瓦アーチの高架は、2013年に商業施設として再生されたと紹介されています[7]。ただし、これは検索結果で見た要約に基づいています。

高架下は、100年以上にわたり使われてきたが、その用途は一定ではない。日本大学の研究は、東京の市街線高架橋で1960〜2015年の用途変化を調べ、1965〜1985年に特に大きく動いたこと、工業利用から飲食業利用へ変わった区間があること、倉庫・事務所・電気店などの小売が増えた区間があることを報告している[2]。用途はこの後さらに、交番、保育所、集会場、公園、ホテル、スポーツ施設、商業、住戸などに広がったとされる[3]。

営業を休止した駅の高架が、再び人の集まる場所になった例もある。万世橋駅は1912年に開業し、1943年に営業を休止した。その煉瓦アーチ高架は、2013年に商業施設として再生された[7]。ただし、この万世橋の記述は検索結果の要約にとどまる。

用途が変わるたびに、誰がそれを決めているのか。高架下の所有者は誰で、いま何を目ざして開発しているのか。

6. いまの てつどうがいしゃは、どうして ガードしたを つくるの?

6. いま、鉄道会社はなぜ高架下を開発するのか

6. 「場所貸し」から沿線の街づくりへ ── 中目黒高架下と2015年のガイドライン

ガードしたは、たいてい てつどうがいしゃの ものです[3]。人が あつまる 場所に して、まちを にぎやかに しようと する ことが あります。

とうきゅうは、なかめぐろの こうかの したに、2016ねんに 28この おみせを つくりました。ながさは やく 700メートルです[4]。ただ おみせに かすだけでなく、まちづくりに いかす ためだと せつめい して います[4]。

ただし、どこでも こうなる わけでは ありません。ちほうの まちでは、おかねに なりにくく、すすみにくいと いわれます[3]。

持ち主は、鉄道会社

高架下は主に、所有者の鉄道会社が活用します。首都圏では積極的に進む一方、地方都市では利益が出にくく、進みにくいと日本大学の研究は述べています。岐阜駅の例では、高架下に市、県、JR東海がそれぞれの施設を置きました[3]。

場所貸しから街づくりへ

東急は2016年に、中目黒高架下(飲食・物販・オフィス28店舗、約700m)を開業しました[4]。東急の社史は、高架下という資産を「単なる場所貸し」にせず、沿線の街づくりに生かして沿線の価値を高めることを狙った、と説明しています[4]。

日本大学の研究は、国土交通省が2015年に「鉄道沿線まちづくりガイドライン」を作り、使い道が少なかった高架下の開発が進んだ、と書いています[2]。ガイドラインは、この論文の記述として紹介しています。

最初の店主にとって高架下は、権利金のいらない場所でした。いまの鉄道会社にとっては、街の魅力をつくる場所です。同じ空間が、時代ごとに別の役目をもらってきたのです。

高架下空間は、主に所有者である鉄道会社が活用する。首都圏では積極的に開発されるが、地方都市では収益が乏しく進みにくいと、岐阜駅の事例研究は述べる。同駅では在来線高架(高さ23.8m)の下に、市・県・JR東海がそれぞれ施設を置いた[3]。

都市部で開発が進む背景として、東急の社史は、中目黒高架下(約700m、飲食・物販・オフィス28店舗、2016年開業)について、高架下という資産を単なる場所貸しにせず、沿線の街づくりに生かして沿線価値の最大化に役立てる狙いだったと記す[4]。社史のページには開業年が2015年と2016年で混在する箇所があり、日本大学の資料が示す2016年を採った。

日本大学の研究は、国土交通省が2015年に「鉄道沿線まちづくりガイドライン」を策定し、連続立体交差事業が進められるとともに、低未利用空間だった高架下の開発が取り組まれた、と記述する[2]。なお、ガイドラインは論文の記述として扱う。

権利金のいらない場所(第2章)から、街の価値を上げる資産へ。高架下の役目は変わったが、線路の下に細長い空間が残るという構造そのものは、変わっていない。

7. じぶんの まちの ガードしたを みて みよう

7. 自分の町の高架下を歩いてみる

7. 出口 ── 高架下を観察する/資料に当たる

おうちの ちかくの 駅の こうかの したに、どんな 場所が あるか、ちずで さがして みましょう。おみせの ほかに、こうばんや ほいくしょが あるかも しれません。

そとで みる ときは、せんろに ちかづかず、みちの 上から みてください。おうちの 人と いっしょに いきましょう。

てんじょうを みあげて、でんしゃが とおった ときの おとが、おみせの 中で どう きこえるか、たしかめても おもしろいです。

駅の案内図や、家にある地図で、近くの駅の高架下に何があるかを探してみてください。飲食店だけでなく、駐輪場、集会場、保育所などがあるかもしれません。それぞれ、今回の記事のどの時代の使い方に近いか考えると、面白くなります。

出かけられるなら、道路から見える範囲で、高架下の天井や壁の形に工夫があるか観察してみましょう。線路には近づかず、道路の上から見てください。

もっと知りたいときは、鉄道会社の発表や、日本大学の学術講演会の論文を読むと、高架下の使い方が時代でどう変わったかが詳しく載っています[2]。

近くの駅の高架下を、地図と現地で観察し、用途を分類してみる。飲食、物販、事務所、公共施設、駐輪場などのうち、どれが多いか。第5章の研究が示す用途の変遷と照らして、その駅の高架下がどの時期の使い方に近いかを考える。線路内や柵のある場所には入らず、道路など公共の場所から見る。

次に、資料に当たる。日本大学の学術講演会の論文[2][3]は、高架下の用途変遷と、地方都市の事例を扱う。東急の社史[4]は、開発の狙いを企業の言葉で読める。JR東海の発表資料[1]は、新橋〜有楽町間の数値の一次資料だ。本記事の百科事典の記述[5]は、引用元をたどって確かめる価値がある。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:JR東海の発表資料、日本大学理工学部の学術講演会論文2本、東急の社史、ウィキペディアの高架橋の項、JR東日本の技術資料と観光案内の検索要約を使った。JR東日本の2件は、本文を取得できていない。

  1. JR東海 プレスリリース「内山下町橋高架下開発計画」(2019年9月3日)。 https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000039928.pdf (煉瓦アーチ高架橋の使用開始年、高架下の区間の長さ、空間の広さについて)
  2. 日本大学理工学部 学術講演会 F2-6「鉄道高架下の土地利用変遷」(2018年)。 https://www.cst.nihon-u.ac.jp/research/gakujutu/62/pdf/F2-6.pdf (高架下の用途の変化と、2015年のガイドラインについて)
  3. 日本大学理工学部 学術講演会 F-52「岐阜駅高架下」(2012年)。 https://www.cst.nihon-u.ac.jp/research/gakujutu/56/pdf/F-52.pdf (所有者、首都圏と地方の違い、高架下の使い道について)
  4. 東急 社史 第9章第3節第3項。 https://www.tokyu.co.jp/history/chapter09_3_3/ (中目黒高架下の開発の狙いについて)
  5. 「高架橋」日本語版ウィキペディア。 https://ja.wikipedia.org/wiki/高架橋 (岩崎善右衛門の話、家屋税の訴訟、「日本初」の店つき高架橋について。引用元は未確認)
  6. JR東日本 技術資料。 https://www.jreast.co.jp/development/tech/pdf_6/39-44.pdf (固体音の対策の紹介について。検索結果の要約のみで、本文は未確認)
  7. JR東日本「万世橋」の案内ページ。 https://www.jreast.co.jp/funtokyo/dokoe/vol06/spot/07.html (万世橋駅の開業と休止、商業施設への再生について。検索結果の要約のみ)

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