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こわれた オルガンの しゅうりから、どうして ピアノの かいしゃが 2つも うまれたの?

壊れたオルガンの修理から世界のピアノメーカーへ:ヤマハとカワイをつないだ、師匠と11歳の弟子

ヤマハとカワイの成り立ち ── 小学校のオルガン修理(1887年)と、11歳で入った弟子の独立

分野:歴史・文化

ヤマハと カワイは、ピアノで せかいに しられた かいしゃです。はじまりは、しょうがっこうに あった、こわれた オルガンを なおした ことでした。

しかも、カワイを つくった ひとは、11さいで ヤマハの こうじょうに はいった でしでした。ふたりは、どうして べつべつの かいしゃを もつように なったのでしょう。この メモでは、ふたつの かいしゃの うまれかたが わかります。

世界に知られるピアノメーカー、ヤマハとカワイ。そのはじまりは、1887年、浜松の小学校で壊れたオルガンを直した、ひとりの技術者でした。しかもカワイをつくった河合小市は、11歳でその人の工場に入った弟子です。

師匠と弟子は、なぜ別々の会社を持つことになったのでしょうか。この記事では、修理からピアノづくり、独立、そして音楽教室までの流れが分かります。

ピアノで世界に知られるヤマハとカワイは、どちらも浜松から生まれた。ヤマハの出発点は、1887年に小学校で壊れたオルガンを直したことで、カワイの創業者は、11歳でその工場に入り、約30年後に独立した弟子だった。

修理の技術者がなぜピアノまで作れたのか、弟子はなぜ約30年後に独立したのか、そして作ったピアノを誰が買ったのか。この記事では、複数の資料の年号の食いちがいに触れながら、二つの会社の成り立ちが分かる。

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1. しょうがっこうの こわれた オルガンを、だれが なおしたの?

1. 小学校の壊れたオルガンを、だれが直したのか

1. 1887年の浜松尋常小学校で、オルガンを直した技術者

1887ねん、はままつの しょうがっこうに、アメリカで つくられた オルガンが ありました。ところが、その オルガンは こわれて いました[1]。

なおす ことに なったのは、やまは とらくすと いう ひとです。この ひとは、びょういんで つかう きかいの しゅうりを して いた ぎじゅつしゃでした。きかいを なおす うでを みこまれて、たのまれたのです[3]。

やまはさんは、なおしながら、オルガンの なかの しくみを よく しらべました。それから、にほんで はじめての ほんかくてきな オルガンを つくったと つたえられて います[3]。

たとえば、じこくを あわせる とけいを ぶんかいして、もういちど くみたてる ことを おもいうかべて ください。なかを みた ひとは、おなじものを つくる ヒントを えられます。ただし、オルガンは とけいより ずっと ぶひんが おおいので、たとえは あくまで めやすです。

1887年、静岡県の浜松尋常小学校(いまの浜松市立元城小学校)に、アメリカ製のオルガンがありました。ところが、そのオルガンが壊れてしまいます。直しに呼ばれたのが山葉寅楠です[1]。

山葉は、もともと医療機器の修理をしていた技術者でした。機械を直す腕を見込まれて、オルガンの修理をたのまれたと紹介されています[3]。オルガンの専門家ではなかったのに、なぜ引き受けられたのでしょうか。

答えは、修理そのものにあったようです。直しながら中のつくりを学び、やがて日本で最初の本格的なオルガンを作ったとされています[3]。壊れた楽器は、分解して中を見られる、いちばん身近な教科書だったともいえます。

ただし、オルガンづくりに成功した年は、沿革では同じ1887年、別の記事では翌1888年と、資料によってちがいます[1][3]。ここでは1880年代の終わりごろと考えておきます。次に気になるのは、オルガンが作れたなら、ピアノも作れるのか、という点です。

1887年、静岡県の浜松尋常小学校(現・浜松市立元城小学校)で、山葉寅楠が米国製のオルガンを修理した。これがヤマハの歴史の始まりとされる[1]。

注目すべきは、山葉が楽器の専門家ではなく、医療機器の修理に携わる技術者だったことだ。機械修理の技術力を見込まれて依頼を受けたと紹介される[3]。つまり、依頼の理由は楽器の知識ではなく、機械の構造を読み解く力だった。では、なぜ修理がそのまま製造につながったのか。修理は、分解して内部の構造を確かめられる機会であり、山葉は構造を学んだのち、日本最初の本格的なオルガンを作ったとされる[3]。

ただし、製造に成功した年は、沿革では1887年、別の記事では翌1888年と食いちがう。そのため、ここでは年を一つに決めず、1880年代の終わりごろとして扱う。修理の腕がオルガンを生んだのなら、次の問いは、同じ腕でピアノにまで届いたのかである。

2. オルガンが つくれたら、ピアノも つくれるの?

2. オルガンから、ピアノづくりへ進めたのはなぜか

2. 会社の設立(1897年)と、ピアノ第1号(1900年)に至る道筋

オルガンが うまく いくと、やまはさんは かいしゃを つくりました。1897ねんの ことで、なまえは「にほんがっきせいぞう」と いいます[1]。

そのあと、1899ねんに アメリカへ みに いきました。そして1900ねんに、アップライトピアノの 1ごうきを つくりました[1][4]。

ドイツの ぎじゅつを かんがえながら、ひとりでは なく、みんなで つくったと いわれます。なかまの なかには、かわい こいちと いう わかい ひとも いました[4]。

この ピアノは、ヤマハの せつめいでは「にほんで はじめての ピアノ」です。ただし、「はじめて」は かいしゃごとの いいかたなので、すこし ゆるく きいて おくと よいでしょう。

1897年、日本楽器製造株式会社が設立され、山葉寅楠が初代の社長になりました[1]。修理の職人が、会社の社長になったのです。

山葉は1899年にアメリカへ視察に出かけ、1900年にアップライトピアノの第1号をつくりました[1][4]。ドイツの技術を参考にし、山葉のほかに松山大三郎、山葉直吉、河合小市らが協力したとされています[4]。

この第1号は、ヤマハの説明では日本で最初のアップライトピアノです。ただし「日本初」という言い方は各社の説明にもとづくものなので、ゆるやかに受け止めておくのがよいでしょう。

注目したいのは、協力者の名前に、あとでカワイをつくる河合小市がいることです。小市とは、どんな人だったのでしょうか。

1897年、日本楽器製造株式会社が設立され、山葉寅楠が初代社長に就いた[1]。個人の修理から会社組織へと移ったことで、輸入品の修理に頼らず、楽器を作って売る体制が整えられていった。

山葉は1899年に米国を視察し、翌1900年にアップライトピアノの第1号を完成させた[1]。ドイツの技術を参考にし、山葉寅楠、松山大三郎、山葉直吉、河合小市らが手を組んだとされる[4]。なお、この第1号を「日本初」と呼ぶのはヤマハ側の説明に見られる表現で、一般に断定できるかどうかは別の問題である。

このとき、協力者の一人に名前の挙がる河合小市は、のちにカワイの創業者となる人物である。師と弟子が同じ工場でピアノを作っていた時期があった、という点が、この物語の出発点になる。

3. かわい こいちは、どんな しょうねんだったの?

3. 11歳で工場に入った河合小市は、どんな少年だったのか

3. 河合小市は、車大工の家からピアノづくりへ進んだ

かわい こいちは、1886ねんに、はままつで うまれました。いえは、くるまを つくる しごとを して いました[5]。

1897ねん、こいちは 11さいで、やまはさんの がっきの こうじょうに はいりました[5]。やまはさんの かいしゃが できたのと、おなじ としです。

そこで、ピアノの ちょうりつや つくりかたの ぎじゅつを みがきました。ピアノには、キーを おすと ハンマーが げんを たたく ぶぶんが あります。ここが とても むずかしい ところです。

こいちは、この ぶぶんを ひとりで べんきょうして つくったと いわれます。でき あがった ねんは、しりょうに よって ちがいます[5]。

河合小市は1886年、浜松の車大工の家に生まれました。1897年、11歳のときに山葉の楽器製造所に入ります[5]。ヤマハの会社ができたのと同じ年に、少年の修業が始まっていたのです。

そこでピアノの調律や製造の技術を磨きました[5]。車大工の家で育った少年が、木や金具を扱う手仕事を、楽器の世界で生かしたことになります。

とくに難しいのが、ピアノの「アクション」です。鍵盤を押すと、ハンマーが弦を打つ部分のことです。小市はこれを独学で完成させたとされますが、完成した年は、1900年、1903年、1907年と、資料によってばらつきがあります[5]。そのため、明治の終わりごろまでに完成したと幅をもたせて考えます。

師匠のもとで腕を上げた小市は、やがて自分の道を選びます。それはなぜだったのでしょうか。

河合小市は1886年に浜松の車大工の家に生まれ、1897年、11歳で山葉の楽器製造所に入った[5]。この年は、日本楽器製造が設立された年と同じである。つまり小市は、会社の成長とともに働き始めた世代にあたる。

ここでピアノの調律や製造の技術を身につけ、とくに難所とされるアクション(打弦機構。鍵盤の動きをハンマーが弦を打つ動きに変える部分)を独学で完成させたとされる[5]。ところが、その完成年は、浜松だいすきネットでは明治36年(1903年)、別の資料では1900年や1907年とばらつく。そのため、年は一つに決めず、明治の終わりごろまでの幅で考えるのが妥当である。

入所の年は1897年とされている。

では、弟子が自分の会社を持つに至ったのは、どのような経緯だったのか。

4. おしえて もらった ひとから、どうして はなれたの?

4. 弟子はなぜ、自分の会社を立ち上げたのか

4. 1927年の独立:河合楽器研究所の創立とその後

こいちが 11さいで はいってから、30ねんが たちました。1927ねん、こいちは はままつで なかまと いっしょに「かわいがっき けんきゅうじょ」を つくりました[2]。

つぎの としの 1928ねんには、ふつうの かたちの アップライトピアノと、グランドピアノの 1ごうきを うりだしました[5]。

どうして やまはさんの かいしゃを はなれたのかは、しりょうに よって せつめいが わかれます。ここでは、どちらかに きめません。

はっきり している のは、でしが じぶんの かいしゃを つくり、いまの カワイに つづいた という ことです。

11歳で入った少年が約30年後、1927年に浜松の仲間たちと「河合楽器研究所」を創立しました。工場は浜松市寺島町にありました[2]。

創立の翌年の1928年には、標準型のアップライトピアノの第1号と、グランドピアノの第1号が発売されています[5]。会社として動き出してから1年で、2種類のピアノを世に出したことになります。

その後、会社の名前は1929年に河合楽器製作所と改められ、1951年に株式会社河合楽器製作所になりました[2]。小市は、アクションや響板の新しい仕組みで特許を取ったとも紹介されています[9]。

では、なぜ師匠のもとを離れたのでしょうか。資料によって説明が分かれ、ある説明では事業の方針が変わったため、別の説明では労働をめぐる争いがあったためとされます。どちらが決め手だったのか、ここでは断定しません。

11歳で入所してからちょうど30年後の1927年、河合小市は浜松で仲間とともに河合楽器研究所を創立し、ピアノ製造を始めた。工場は浜松市寺島町に置かれた[2]。翌1928年には標準型のアップライトピアノ第1号とグランドピアノ第1号を発売している[5]。研究所と名乗りながら、創立の翌年に二種類のピアノを製品として出した点が目を引く。

1929年に河合楽器製作所と改称し、1951年に株式会社河合楽器製作所へ改組した[2]。小市は自在アクションや響板の仕様で特許を取得したと紹介されるが、これは販売店の紹介記事の要約に依るため、確度は高くない[9]。

独立の理由は、資料により説明が異なる。会社が事業を多角化したためという説明と、労働争議があったためという説明があり、どちらが決め手だったかは分かれたままだ。はっきりしているのは、弟子が約30年かけて独立し、今日まで続く会社を作ったことだ。

二つの会社が並んだことで、新しい問題が生まれた。ピアノを作る力はそろったが、それを買って弾く人は、どれだけいたのだろうか。

5. ピアノを つくっても、ひく ひとが いなかったら?

5. ピアノを作っても弾く人がいなければ、どうなるのか

5. 音楽教室:弾く人を育てる仕組みと、普及をめぐる評価

ピアノを つくっても、ひく ひとが いなければ、うれません。ふたつの かいしゃは、1950ねんだいに おんがくの きょうしつを ひらきました。

ヤマハは 1954ねんに、おんがくきょうしつの もとに なる きょうしつを はじめました。カワイは 1956ねんに「カワイおんがくきょうしつ」を つくりました[1][2]。

ひとが ならって ひけるように なれば、じぶんの いえにも ピアノが ほしくなる ひとが ふえます。けんきゅうしゃは、いえに ピアノが ひろまるのに、ヤマハの おんがくきょうしつなどの かつどうが ひとやく かったと してきして います[8]。

この ころ、ヤマハは かわかみ げんいちさんが しゃちょうで、カワイは かわい しげるさんが つぎました[6]。

1950年代、二つの会社は同じことに気づいたようです。ピアノは、作れるだけでは売れません。弾ける人が増えて、はじめて家に欲しくなります。

ヤマハは1954年に音楽教室の前身となる教室を開き、カワイは1956年にカワイ音楽教室を創設しました[1][2]。ピアノを売る会社が、弾く人を育てる場所もつくったことになります。

経営史の研究は、日本でピアノが家庭に広まった最大の理由を、ヤマハ音楽教室を中心とする普及活動だと指摘しています[8]。「需要を生んだ」というのは研究者の評価なので、そのまま会社の説明として受け取らないのがよさそうです。

このころ、ヤマハは川上源一が1950年から社長として、カワイは河合滋が1955年に社長として引っぱりました。二人とも、極めて有能な経営者と評されています[6]。

ピアノを量産できても、買い手がいなければ成り立たない。そこで二社は、弾く人を育てる場を作った。ヤマハは1954年に音楽教室の前身となる教室を開講し、カワイは1956年にカワイ音楽教室を創設した[1][2]。

この動きを、研究はどう評価しているか。経営史の論文は、欧米をはるかに上回る速さで大衆層にピアノが広まった最大の理由を、ヤマハ音楽教室を中心とする音楽普及活動だと指摘する[8]。ただし、この論文は本文を直接確認できておらず、要旨レベルの把握であることに注意が必要である。また「需要を生んだ」という言い方は社史に見られる解釈で、評価として読むのが適切だ。

経営面では、ヤマハは川上源一(1950年に社長就任)、カワイは河合滋(1955年に就任)という経営者のもとで発展したと、雑誌記事は評する[6]。国内の需要を育てたあと、次の舞台は海外になる。

6. にほんの ピアノは、どうして うみを わたったの?

6. 日本のピアノはどう海をわたり、いまどう並んでいるのか

6. 海外進出と現在のシェア:23.9%と5.5%を同じ単位で読む

ヤマハは 1958ねんに メキシコ、1960ねんに アメリカに、うる ための かいしゃを つくりました。カワイは 1963ねんに、アメリカの カリフォルニアに かいしゃを つくりました[1][2]。

ヤマハは、1960ねんだいの なかごろに、ピアノを つくる かずで せかいで いちばんに なったと いわれます。ただ、ねんは 1965ねんと 1967ねんと、しりょうに よって ちがいます[4][7]。

にほんで つくられる ピアノは、はままつの ちかくで つくられる ものが おおいと いわれます[3]。

こいちが 11さいで はいった まちから、ふたつの かいしゃが うまれた のです。

ヤマハは1958年にメキシコ、1960年にアメリカに販売会社をつくりました。カワイは1963年にアメリカのカリフォルニアに、カワイアメリカを設立しています[1][2]。

ヤマハがピアノの生産台数で世界一になったのは、1960年代半ばです。年は1965年と1967年で、資料によって食いちがいます[4][7]。

いまの数字も見ておきましょう。2020年のディールラボの調べでは、楽器の世界市場の割合は、ヤマハが23.9%、カワイが5.5%でした[3]。ただしこれは楽器全体の数字で、ピアノだけの割合ではありません。ピアノについては、この記事で、ヤマハが世界1位、カワイが2位と紹介されています。国内で作られるピアノは、浜松の近辺で作られるものが多いそうです[3]。

浜松の小学校のオルガンから始まった糸は、こうして世界の音楽室までつながりました。

ヤマハは1958年にメキシコ、1960年に米国に販売子会社を設立し、カワイは1963年に米国カリフォルニア州にカワイアメリカコーポレーションを設立した[1][2]。国内で育てた需要のあと、海外へ販路を広げた順序である。

ヤマハがピアノの生産台数で世界一になった年は、販売店の沿革では1965年、社史系の記事では1967年と割れる[4][7]。そのため、1960年代半ばと幅で書くのが安全である。

現在の位置を示す数字として、2020年のディールラボ調べで、楽器の世界市場シェアはヤマハ23.9%、カワイ5.5%と伝えられる[3]。両者を割ると、23.9÷5.5で約4.3倍になる。ただしこれは楽器全体の数字で、ピアノ単体ではない。ピアノについては、同じ記事がヤマハを世界1位、カワイを2位と紹介している[3]。国内のピアノは浜松近辺で作られるものが多いとされる。

師匠と弟子という、同じ町の二人が出発点だったことは、この数字の背景を読むうえで見落とせない。ただし、この関係がシェアの結果をどこまで説明するのかは、資料からは分からない。

7. おんがくしつの ピアノに、どちらの なまえが ある?

7. 音楽室のピアノの蓋に、どちらの名前がある?

7. 身近なピアノで確かめる:社名の読みくらべと、資料への入口

がっこうの おんがくしつや、こうみんかんの ピアノを、そっと みて みましょう。ふたや ぜんめんに、「YAMAHA」か「KAWAI」と かいて あるかも しれません。

なまえを みつけたら、はままつで うまれた ふたつの かいしゃの はなしを おもいだして みて ください。ピアノを ひく ときは、さわって よいか、まわりの ひとに きいてからに しましょう。

もっと しりたく なったら、ほんの うしろに ある しりょうの いりぐちを、おうちの ひとと みて みましょう。

学校の音楽室や、公民館、ピアノを置いているお店で、ピアノの蓋や正面を見てみましょう。「YAMAHA」と「KAWAI」のどちらかの名前があるかもしれません。見つかったら、ピアノの前で、小学校のオルガンから始まった師弟の話を思い出してみてください。

さわったり弾いたりするときは、先生や持ち主の人にたずねてからにしましょう。

この記事は、年号の食いちがう箇所をなるべく幅で書きました。河合小市の人生は浜松だいすきネットに、両社の年表は有価証券報告書をもとにした沿革に、それぞれまとまっています。出典欄から、確かめてみる入口が見つかります。

ところで、鍵盤を押すと、どうしてハンマーが弦を打つのでしょうか。

身近なピアノの社名で、この記事の話を確かめられる。学校の音楽室や公民館のピアノの蓋や正面に、YAMAHAかKAWAIの名前があるかを見てみる。楽器に触れるときは、管理している人に断ってからにする。

河合小市の生涯は浜松だいすきネット、ヤマハとカワイの年表は有価証券報告書をもとにした沿革、普及の評価は経営史の論文(J-STAGE)にある。出典欄から入れる。

弟子が約30年後に独立した背景には、二つの説明がある。身近なピアノの社名を見つけたら、その会社がどちら側の話だったかを、思い出してみるとよい。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

年号は有価証券報告書をもとにした沿革と、複数の二次資料を突き合わせて整理した。資料で年が食いちがうものは、幅をもたせて書いている。

  1. ヤマハ株式会社の沿革(有価証券報告書ベース) https://edinetdb.jp/company/E02362/history (オルガン修理・会社設立・ピアノ製造・海外進出の年)
  2. 河合楽器製作所の沿革 https://edinetdb.jp/company/E02363/history (創立・改称・音楽教室・米国進出の年)
  3. 現代ビジネス記事 https://gendai.media/articles/-/128724 (山葉寅楠の経歴・世界シェア)
  4. ヤマハピアノの歴史 https://piano1.jp/brand/yamaha/rekishi/ (ピアノ第1号・協力者・世界一の年)
  5. 浜松だいすきネット 河合小市 https://hamamatsu-daisuki.net/industry/greatmen/greatmen03.html (河合小市の生い立ち・アクション・初期のピアノ)
  6. Newsweek日本版 https://www.newsweekjapan.jp/articles/-/52512?page=3 (二人の経営者の評価)
  7. The社史 https://the-shashi.com/tse/7951/ (世界一の年の別説)
  8. 田中智晃「日本楽器製造にみられた競争優位性」(経営史学) https://www.jstage.jst.go.jp/article/bhsj/45/4/45_4_52/_pdf (音楽教室とピアノの普及)
  9. 島村楽器 カワイ紹介 https://www.shimamura.co.jp/update/?p=47832 (特許の紹介)

なおした ところ

更新履歴

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