1. けんきゅうの すみに、1ぎょうだけ
1. 発見は、論文の脚注の1行だった
1. 1900年の脚注:別の主題の論文に書かれた観察
1900ねん、ランドシュタイナーという 人が、べつの テーマの ろんぶんを 書きました。その すみの ちゅういがきに、1ぎょうだけ、おもしろい ことを 書いています[1]。
けんこうな 人の けっせいは、どうぶつの せっけっきゅうだけでなく、ほかの 人の せっけっきゅうも、かためる ことが ある、というのです。けっせいは、血の うわずみの 水の ような ぶぶんです。
ほかの 人の 血と まぜると、かたまる ことが ある。これが、のちの 血液型の はじまりだと いわれます。
主役ではなかった観察
1900年、ランドシュタイナーは、別の主題の論文を発表しました。その脚注に、健康な人の血清は動物の赤血球を固めるだけでなく、ときに他人の赤血球も固める、という観察が書かれていたと紹介されています[1]。
血清は、血が固まったあとに残る、赤血球を含まない液体です。赤血球が集まって塊になることを「凝集」といいます。
1900年と1901年を分けて読む
「血液型の発見は何年か」と聞かれて、資料によって1900年とも1901年とも書かれているのは、この脚注と、翌年の分類論文のどちらを数えるかが違うからです[2]。この記事では、1900年を脚注の観察、1901年を分類の発表として書き分けます。
では、その1行を、ランドシュタイナーはどう確かめたのでしょうか。
1900年、ランドシュタイナーは別の主題で書いた論文(Centralblatt für Bakteriologie 27:357)の脚注に、健康なヒトの血清は動物の赤血球だけでなく、他個体のヒトの赤血球をも凝集させることがある、と記した[1]。血清は血液から血球を除いた液体、凝集は赤血球が互いに付着して塊になる現象である。
この観察は、本題の論文のなかで主役ではなかった。だが、健康な人どうしの血でも、混ぜれば固まる組み合わせがあるという事実が記されていた。その翌年、ランドシュタイナーは組み合わせを調べた分類論文を発表している。
ただし「何年に発見されたか」は、資料で数え方が割れる。1900年を脚注、1901年を分類論文とみる書き方がある[2]ため、本稿はこの2つを区別する。血液型の発見は、1つの年の1つのひらめきではなく、小さな観察と、それを確かめる実験の2段階で進んだと読める。
では、この脚注の観察は、どのような実験で整理されたのか。
2. 22人の 血を まぜて みたら
2. 22人の血を混ぜ合わせると、3つに分かれた
2. 1901年の分類論文:22人の血清と赤血球の組み合わせ
つぎの 年の 1901ねん、ランドシュタイナーは、じぶんや なかまを ふくむ 22人の 血を しらべました[2]。けっせいと せっけっきゅうを、いろいろな 人どうしで まぜあわせたのです。
すると、かたまる くみあわせと、かたまらない くみあわせが ありました。そこで 人の 血は、A・B・Cの 3つの グループに わけられました[3]。
この ときの ぶんるいに、ABは ありませんでした。のちに Cは、Oと よばれる ように なります。
自分や同僚の血で試す
1901年、ランドシュタイナーはウィーンの医学雑誌に論文を発表しました。自分や同僚を含む22人の健康な人から血清と赤血球をとり、組み合わせを混ぜて、固まるかどうかを調べたと紹介されています[2]。
A・B・Cの3つ
調べた結果、人の血はA・B・Cの3つに分けられました。この時点のCは、のちに「O」と呼ばれるようになる型です[3]。AB型はこの分類に含まれていません。
脚注の翌年、22人の実験で分類が発表されました。では、4つ目の型は、誰がいつ見つけたのでしょうか。
1901年、ランドシュタイナーはWiener klinische Wochenschriftに論文を発表した。自身や同僚を含む22人の健康な人から血清と赤血球を得て、組み合わせを混ぜ合わせ、凝集の有無を調べたと紹介されている[2]。
凝集のパターンから、血液はA・B・Cの3群に分けられた。このCは、のちにO(次の章以降で扱う)と呼ばれる群であり、AB型はこの論文の分類に含まれていなかった[3]。
注目したいのは、自分や同僚を含む22人が研究に協力した、身近な少人数の実験だったことだ。大がかりな装置ではなく、血清と赤血球を組み合わせて固まるかを見るだけの手順で、人の血に型があることが示された。脚注の観察の翌年に、この分類が発表されている。
ただ、3群だけでは、型は出そろっていなかった。残る型を見つけたのは誰か。
3. 4つめを みつけたのは だれ?
3. 4つ目のAB型は、同僚と学生が見つけた
3. 1902年のAB型:デカステロとストゥルリによる発見
4つめの グループは、1902ねんに みつかりました。みつけたのは、ランドシュタイナーの なかまの デカステロと、わかい けんきゅうの なかまの ストゥルリです[4]。
この 4つめが、いまの AB型です。さいしょに ぶんるいした 人が、ぜんぶを ひとりで みつけたのでは ありません。
ちかくで いっしょに しらべた 人たちが、のこりの ピースを うめたのです。
最初の分類者とは別の人たち
4つ目の型は1902年、ランドシュタイナーの同僚のアルフレート・フォン・デカステロと、その学生のアドリアーノ・ストゥルリが見つけたとされます[4]。これがAB型です。
ある解説記事の要約には、アメリカの研究者がAB型を足したと読める部分がありました。しかし、英語の資料を見ると、見つけたのは1902年のウィーンの2人とされています[5]。
これで型は4つそろいましたが、名前の付け方はまだバラバラでした。
4つ目の型は、1902年に、ランドシュタイナーの同僚のアルフレート・フォン・デカステロと、その学生のアドリアーノ・ストゥルリが報告した(Münchener medizinische Wochenschrift 49:1090-95)[4]。これがAB型である。
ここで、出典の読み方に注意がいる。国内の解説記事の要約には「米国の研究者がAB型を足した」と読める箇所があった。しかし英語の資料では、発見は1902年のウィーンの2人とされている[5]。誰がいつ何を見つけたかは、要約だけでなく別の資料と突き合わせて読む必要がある。
この章で分かるのは、血液型の分類が、最初の論文を書いた1人で完成したのではなく、同じ研究の場にいた同僚と学生が次の1つを足して進んだ、ということだ。こうして4つの型はそろったが、呼び名は研究者ごとに別々のまま広がった。名前は、どう整理されたのか。
4. 「C」が 「O」に なった わけ
4. 「C型」が「O型」と呼ばれるようになるまで
4. 1910年の呼びかえと1927年の文字表記の提案
1910ねんに、ドゥンゲルンと ヒルシュフェルトが、Cを 0(ゼロ)、4つめを ABと よぶ いいかたを ひろめました[5]。
それでも、ほかにも よびかたが ありました。1927ねんに、ランドシュタイナーじしんが、O・A・B・ABの 文字で あらわす ことを、すすめました[5]。
こうして いまの よびかたが かたまって いきました。
Cが「O」に変わった
1910年、フォン・ドゥンゲルンとヒルシュフェルトが、ランドシュタイナーのCを数字の0(ゼロ)、4つ目の型をABと呼ぶ名づけを広めたとされます[5]。
混乱をおさめる提案
当時は、文字と数字の2つの呼び方が並んでいて、読む人は混乱しました。1927年にランドシュタイナー自身が、2つの方式に代えて、文字のO・A・B・ABで表すことを提案したとされます[5]。この呼び方が今に続いています。
では、その「数字の方式」とは、どんな混乱だったのでしょうか。
1910年、フォン・ドゥンゲルンとヒルシュフェルトは、ランドシュタイナーのCを数字の0(ゼロ)と呼び、4つ目の型をABと呼ぶ名づけを広めた[5]。
名づけは、1つの方式にまとまったわけではなかった。ローマ数字の方式(次の章)と文字の方式が並び、読み手は、同じ時期の論文でも、どちらの表記かを確かめる必要があった。1927年、ランドシュタイナー自身が、混乱していた2つの方式に代えて文字のO・A・B・AB(Oはアルファベット)の表記を提案したとされる[5]。現在の4つの名称は、この提案に連なる。
初めの分類から、文字表記の提案まで、およそ四半世紀かかっている。名前の整理に時間がかかったのは、発見が1つの国、1つの研究室で完結せず、各地で別々に分類と名づけが進んだからだと読める。ローマ数字の混乱は、実際にはどう起きたのか。
5. 「1ばん」が くにで ちがった
5. 同じ「I型」が、国によって別の型を指した
5. 1907年のヤンスキー方式とモス方式:同じ数字、逆の対応
1907ねん、チェコの ヤンスキーは、血を I・II・III・IVの 4つに わけました。I型は、いまの O型にあたります[5]。
ところが アメリカの モスは、おなじ すうじで、べつの わけかたを しました。モスの I型は、いまの AB型です。IV型が いまの O型です。
おなじ「I型」でも、くにによって ちがう 血を さします。これは、とても あぶないことです。1921ねんには、アメリカの 学会などが、ヤンスキーの ほうを つかうよう、すすめたと されます[5]。
2つの国の数字
1907年、チェコの血清学者ヤンスキーはローマ数字I〜IVで4つの型を分類しました。Iは今のO、IIはA、IIIはB、IVはABにあたります[5]。
同じ年、アメリカの医師モスは、同じ数字を使いながら、別の対応の分類を作りました。モスではIがAB、IIがA、IIIがB、IVがOです。IとIVが逆になっています[5]。
数字の食いちがいが怖いわけ
1907年には、ニューヨークのマウントサイナイ病院の医師オッテンバーグが、血液型を調べてから輸血した最初の例の一つとされます[8]。血液型が輸血に使われはじめたころに、同じ数字が別の型を指していたことになります。1921年には、アメリカの学会などがヤンスキー方式の採用を勧告したとされます[5]。
名前と番号は整理されていきました。では、血液型はどのように親から子へ伝わるのでしょうか。
1907年、チェコのヤンスキーはローマ数字I〜IVの分類を発表した。I=O、II=A、III=B、IV=ABにあたる。同じ年、アメリカのモスは同じ数字で別の対応の分類を作った。I=AB、II=A、III=B、IV=Oで、IIとIIIは同じだが、IとIVが逆になっている[5]。
この逆転は、記録の上だけの話にとどまらなかった。同じ1907年に、ニューヨークのマウントサイナイ病院の医師オッテンバーグが、血液型を調べてから輸血する方法を使った最初の例の一つとされる[8]。型を調べて輸血する発想が現場に入った時期に、同じ「I型」が国ごとに別の型を指す状態だったことになる。そのため1921年、アメリカの学会などはヤンスキー方式の採用を勧告したとされる[5]。
ここで注意したいのは、IIとIIIが両方式で一致しているため、取りちがえは「どれか1つ」ではなく、IとIVの組で起きるという点だ。名前と番号が整理された一方で、血液型が親から子へどう伝わるのかという説明は、まだ直す余地があった。
6. おや こ の 血は どう つたわる?
6. 親から子への伝わり方は、1924年に直された
6. 遺伝の説明:二組の遺伝子から三つの対立遺伝子へ(1924年)
1910ねんの ドゥンゲルンたちは、「Aか Aじゃ ないか」「Bか Bじゃ ないか」の 2くみで、いでんを せつめい しました[6]。
でも、この せつめいでは、AB型の おやから O型の こが うまれる ことに なって しまいます。
1924ねんに、ベルンシュタインが、A・B・Oの 3つの いでんしで せつめいする ことを ていあん しました。この せつめいが、いまも つかわれて います[6]。
ランドシュタイナーは、1930ねんに ノーベルしょうを もらいました。さいしょの はっけんから、およそ 30ねんあとです[7]。
2組の遺伝子では合わなかった
1910年のドゥンゲルンとヒルシュフェルトは、「Aか、A以外か」「Bか、B以外か」という2対の遺伝子を考えました。ところがこの考えでは、AB型の親からO型の子が生まれることがありえてしまいます[6]。
3つの対立遺伝子という説明
1924年、フェリックス・ベルンシュタインが、A・B・Oの3つの対立遺伝子という説明に直しました[6]。対立遺伝子とは、同じ場所にある遺伝子の何種類かの版のことです。この説明が、今も使われているとされます。
脚注から約30年
ランドシュタイナーは、1930年にノーベル生理学・医学賞を受けました。分類論文の1901年から約30年後です[7]。
1910年のドゥンゲルンとヒルシュフェルトは、遺伝を「Aとそれ以外」「Bとそれ以外」の2対の遺伝子で説明した。しかし、この説明だとAB型の親からO型の子が生まれうる[6]。実際の観察と合わないため、説明は直される必要があった。
1924年、フェリックス・ベルンシュタインは、A・B・Oの3つの対立遺伝子(同じ場所に入る何種類かの版)という説明に直した[6]。この説明が現在も使われている。2対の遺伝子では、「AでもBでもある」親が、AもBも持たない子を生みうる。3つの対立遺伝子なら、1人が2つ持つ組み合わせとして、AB型の親から出せるのはAかBだけになる。
ランドシュタイナーは、1930年にノーベル生理学・医学賞を受けた。1901年の分類論文から約30年後の受賞である[7]。1行の脚注から始まった観察は、命名・番号の整理・遺伝の説明の直しを重ねて、今の形になった。
7. かみと えんぴつで ためして みよう
7. 3つの遺伝子を、紙と鉛筆で試す
7. 3つの対立遺伝子のルールを、紙の上で検算する
かみに、「A」「B」「O」と 書いた 3まいの カードを かんがえます。人は、おとうさんと おかあさんから 1つずつ カードを もらいます。
「A」と「B」を もらえば、AB型です。「O」を 2まい もらえば、O型です。
では、AB型の おやと O型の おやの あいだに、O型の こは うまれるでしょうか。かみに 書いて、たしかめて みましょう。
紙の上のルールで考える
A・B・Oと書いた3種類のカードを使って、遺伝のルールを確かめます。人は、両親から1枚ずつカードを受け取ります。AとBを持てばAB型、Oを2枚持てばO型です。AとOならA型、BとOならB型として扱います。
ここで、AB型の親(AとB)と、O型の親(OとO)を考えます。子が受け取る組み合わせを書き出して、O型の子が生まれうるかどうかを調べてみてください。AB型の親とO型の親からは、O型の子は生まれないことが確かめられます。
原典にあたるなら
最初の脚注の観察は、1900年のCentralblatt für Bakteriologie 27:357に載った論文に書かれています。分類を書いた1901年の論文も、出典欄の資料から探せます。
3つの対立遺伝子A・B・Oで、AB型の親(AとB)とO型の親(OとO)から生まれる子の型を、紙に書き出して検算できる。子は両親から1つずつ遺伝子を受け取るので、Aの親からA、Oの親からOを受け取れば、子はAとOを持ち、A型になる。Bの親からB、Oの親からOなら、子はBとOを持ち、B型になる(AとBはOに対して優先して現れるとして扱う)。つまり、O型の子は生まれない。
2対の遺伝子の説明(1910年)では、AB型の親からO型の子が生まれうるため、この検算と観察がずれることが、1924年の修正につながったと読める[6]。
原典は、1900年のCentralblatt für Bakteriologie 27:357(脚注)と、1901年のWiener klinische Wochenschrift(22人の分類)である。出典欄の資料の多くは二次資料の要約なので、年・名称・対応表の細部は、原論文や学会史にあたって確かめてほしい。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文は、ここにある資料の内容を、自分の言葉で言いかえたものです。年・人名・名称は、資料によって細部が異なることがあります。
- LITFL, Karl Landsteiner(1900年論文の脚注の紹介) https://litfl.com/karl-landsteiner/ (1900年の脚注の観察)
- 現代ビジネス(ブルーバックス)「血液型にもともとC型が」 https://gendai.media/articles/-/76819 (1901年の分類論文、22人の実験)
- Rockefeller University, Karl Landsteiner https://www.rockefeller.edu/our-scientists/karl-landsteiner/2554-nobel-prize/ (A・B・Cの分類、Cの改名)
- PMC, Karl Landsteiner: A Versatile Blood Scientist https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11458791/ (1902年のAB型の発見)
- Wikipedia, ABO blood group system https://en.wikipedia.org/wiki/ABO_blood_group_system (命名、ローマ数字の方式、勧告。要約のため二次資料)
- PMC, ABO blood group system に関する論文 https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC9297968 (遺伝の説明、ベルンシュタイン)
- 世界大百科事典(コトバンク)ラントシュタイナー https://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC-148191 (1930年のノーベル賞)
- Wikipedia, Karl Landsteiner https://en.wikipedia.org/wiki/Karl_Landsteiner (1907年のオッテンバーグの輸血)
なおした ところ
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