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むかしの 紙は、うらまで つかうほど たいせつだった?

奈良時代の紙は、なぜ裏まで使うほど大切だったのか

戸籍の裏にお経の記録 ── 奈良時代の紙はなぜ大切だったのか

分野:歴史・文化

1300年ほど まえの 日本では、つかい おわった 書きものの うらや あいて いる ところまで、もういちど つかって いました。紙は 1まいずつ かぞえて、まい数も きびしく ほうこくして いたそうです[1]。

どうして そこまで 紙を たいせつに したのでしょう。紙が なにから、どんな 手間で 作られ、だれが 作らせて いたのかが わかります。

奈良時代の写経所では、使い終えた書類の裏や余白まで再び使い、紙は一枚でも大切に扱って、枚数を厳しく報告していたと伝わります[1]。今のコピー用紙のように、使い捨てにはしなかったのです。

なぜそこまで、紙は貴重だったのでしょうか。材料と作り方、国が職人と原料を集めたしくみ、そして貴重な紙に生まれた使い道と工夫が分かります。

奈良時代の写経所では、廃棄になった文書の余白や裏まで再使用し、紙の枚数を厳重に報告していた[1]。正倉院に残る文書の裏には、戸籍や計帳といった公文書が書かれている[2]。紙は、そこまで節約すべき品だったのである。

その背景には、原料を手間をかけて下ごしらえする製紙の工程と、国が職人を置き、諸国から原料や紙を納めさせた仕組みがあった。この記事では、延喜式の工程の解説と、正倉院文書にもとづく研究論文をあわせて読み、紙の値打ちの理由が分かるようにする。

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1. うらの 書きものを、どうして また つかうの?

1. 捨てるはずの文書の裏に、別の記録が残っていた

1. 写経所の紙の扱い ── 枚数の報告と、裏面に残った公文書

1300年ほど まえ、おきょうを 書き うつす 役所の ような ところが ありました。その ばしょを 写経所しゃきょうじょと いいます。

天平11年(739年)ごろの 写経所しゃきょうじょでは、紙は 1まいでも たいせつに あつかい、まい数を きびしく ほうこく して いたと いいます。いらなく なった 書きものも、あいた ところや うらを また つかい、うらうちと いう 作業にまで つかいました[1]。

おもしろい ことに、写経所しゃきょうじょの 書きものの うらには、戸籍こせきなどの 国の 書きつけが のこって います[2]。おもてには おきょうの 記録きろくが、うらには 戸籍こせきなどの 書きつけが のこって います。1まいの 紙が、2どの しごとを して いたのです。

では、紙は なにから、どう 作られて いたのでしょう。

奈良時代、お経を書き写す役所のような場所を、写経所といいました。天平11年(739年)ごろの写経所では、紙は一枚でも大切に扱われ、枚数は厳しく報告されたといいます。廃棄になった文書も、余白や裏まで再び使われ、裏打ちにまで回されました[1]。

この「裏まで使う」様子は、今も紙の上に残っています。写経所の文書の裏側(紙背)には、戸籍や計帳といった公文書が書かれたものがあります[2]。表はお経の書き写しの記録、裏は役所の書類。一枚の紙が、二度働いたことになります。

さらに正倉院文書には、紙の種類・産地・用途・数量が記録され、紙そのものも現存しています。記録と実物が両方残っている点が、研究にとって大きな価値だと町田誠之は述べています[1][2]。

では、そこまで節約された紙は、何から、どうやって作られていたのでしょうか。

天平11年(739年)ごろの写経司(写経所)では、紙は一枚でも大切に扱われ、枚数は厳重に報告された。廃棄処分となった文書も、余白や裏まで再使用され、裏打ちにまで使われたという[1]。節約が制度の運用にまで入りこんでいたことは、「紙がいくらでも手に入る品ではなかった」ことを示す状況証拠になる。

その痕跡は現物に残っている。写経所の文書の裏(紙背)には戸籍・計帳などの公文書があり、紙を再利用していたことが分かる[2]。さらに町田誠之は、正倉院文書には紙の種類・産地・用途・数量が記され、しかも紙そのものが現存する点が実に貴重だと述べる[2]。記録と実物をつき合わせられる材料は、古代の紙の研究では珍しい。

ただし、再利用の事実だけでは、紙の値段(米や銭への換算)は分からない。この調べでは、奈良時代の紙一枚の価格を示す数値までは見つかっていないため、本稿は「貴重さ」を、取り扱い方と、後の章で見る作り方・集め方から読んでいく。まず問うべきは、材料と製法である。

2. 紙は、なにを ほぐして 作るの?

2. 紙は木の皮や麻のぼろを、水の中でほぐして作る

2. 紙の原理 ── 繊維を水に分散させて薄い層にすくう

紙の もとに なるのは、木の 皮かわや、麻あさの ぬのの きれはし、ふるい あみなどです。これを ほぐして 水に うかべ、あみで すくいあげて、うすく ひろげて かわかします[1]。

この やりかたを 中国で ひろめた 人として、蔡倫さいりんが 有名です。105年に 木の 皮や ぬのの きれで 作った 紙を、王さまに さしあげたと いわれて います[3]。

ただ、蔡倫さいりんより まえの 麻あさの 紙が 見つかって いる、とも 言われます[3]。紙は、ひとりの 人が 一ぺんに 作った ものでは なく、すこしずつ よく なって いった ものと 考えられて います。

さて、日本では、どんな 手間を かけて 作ったのでしょう。

水にほぐして、網ですくう

紙づくりの基本は、木の皮、麻のくず、古い魚網などの繊維をほぐして水に浮かべ、網ですくい上げて薄い層にし、乾かすことです[1]。それ以前の書写材料は、動物の皮、木片、竹簡、パピルスなどでした[1]。

蔡倫は「発明者」だったのか

後漢の蔡倫は、西暦105年に樹皮、麻布、魚網などで紙を作らせ、和帝に献上したと伝えられます[3]。ところが、蔡倫より前の前漢のものとされる麻の紙が出土したという解説もあり、今では蔡倫は発明者というより、質のよい樹皮の紙づくりを監督して広めた人と考えられることがあります[3]。

つまり紙は、誰か一人のひらめきではなく、材料や方法の改良が積み重なったものらしいのです。その技が日本に伝わり、国の仕事として整えられていきました。

製紙の原理は、木の皮・麻の屑・古い魚網などの繊維をほぐして水中に浮かべ、網ですくい上げて薄い層にして乾かす、というものである[1]。この方法が現れる以前の書写材料は、動物の皮、木片、竹簡、パピルスなどだった[1]。繊維を水に分散させてから薄く重ねるため、原料が布や樹皮でも、同じ平らな面ができる。

中国では、後漢の蔡倫が西暦105年に、樹皮・麻布・魚網などで紙を作らせて和帝に献上したと伝えられる(蔡侯紙)[3]。ところが、前漢のものとされる麻の紙が出土しているという解説があり、そのため蔡倫は「発明者」というより、良質な樹皮紙の製造を監督し普及させた人物と見られるようになった[3]。出土の年・場所などの細部は、この記事では事典の解説の範囲にとどめ、「伝承と出土の両方がある」とだけ受けとめておく。

要するに、紙は一人の発明ではなく、麻・樹皮と製法の改良の積み重ねの産物と考えるのが無理がない。その技術を日本で受けとめた奈良時代の工房が、実際にどんな手順を踏んだのかが、次の問いになる。

3. 皮から 紙に なるまで、どんな 手間が あったの?

3. 皮を煮て、流水にさらし、臼でつく ── 平安時代の規定に残る5つの手順

3. 戴・煮・択・春・成紙 ── 延喜式に見る工房の工程と、原料の下ごしらえ

平安じだいの 決まりの 本、えんぎしき(927ねんごろに できた)には、国の 役所の 紙づくりの 手じゅんが 出て います[4]。

手じゅんは 5つ。①ちょうどよい 長さに 切る。②にて、いらない ものを とる。③原料げんりょうを 水が ながれる ところに 一日 いじょう さらし、手で ごみを つまみとる。④うすで ついて、せんいを ほぐす。⑤どろどろに して、すく。

③の 「ごみ とり」は、とても 手間の かかる しごとです。ながれる 水に、一日 いじょうも つけて おくのですから[4]。

手じゅんの 前にも 作業が あります。コウゾという 木は、ふゆに 切って、おおきな かまで むし、あついうちに おおぜいで 皮を はぎ、かわかして とっておける 黒い 皮に します。それから 水に つけて 外がわを けずり、白い 皮に する、という 作り方が いわれます[4]。ただし これは のちの 時代の やり方から 考えた もので、昔の 作業場も 大すじは 同じだったと 見られて いるのです。

こんなに 手間が かかる 紙を、だれが 作って いたのでしょう。

延喜式にある5つの手順

延喜式(927年ごろ完成)には、図書寮での紙づくりの工程が出ています。おおむね「戴(原料を適当な長さに切る)→煮(煮て不純物を除く)→択(流水に一昼夜以上さらし、手で汚れをつまみ取る)→春(臼でついて繊維をほぐす)→成紙(パルプ状にして漉く)」という順です[4]。

特に「択」は、籠に入れた原料を流れる水に一昼夜以上さらしたうえ、人の手で汚れを取る作業です[4]。きれいな紙は、この地味な手間から生まれました。なお延喜式は平安時代の規定なので、奈良時代とまったく同じだったとは言い切れません。

工房に届くまでの下ごしらえ

原料のコウゾは、冬に切り取り、束にして大釜で蒸し、熱いうちに大勢で皮をはぎます。干すと保存できる黒皮になり、水に浸して外側を削り、流水で節を取ると白皮になります。この白皮が中央の工房に納められたと考えられます[4]。こちらは後世の方法をもとにした推定で、古代の実際には分からない部分も残ります。

これだけの工程を、毎日、大量にこなす人たちが必要でした。それを支えた国の仕組みを見てみましょう。

延喜式(927年ごろ完成)の図書寮の項からは、紙づくりが、おおむね戴・煮・択・春・成紙という工程だったと読み取れる。戴は原料を適当な長さに切ること、煮は煮熟して不純物を除くこと、択は煮熟を終えた原料を籠に入れて流水に一昼夜以上さらし、手で汚れを選り取ること、春は臼でつき繊維をほぐすこと、成紙はパルプ状にして漉くことである[4]。繊維を煮て柔らかくしたあとで、さらに水と手作業で夾雑物を取るため、「択」は、一昼夜以上の水さらしと手作業を要する工程だった。

ただし延喜式は平安時代の規定であり、奈良時代の工房がまったく同じ手順だったとまでは断定できない。ここでは「後の規定に残る、国の工房の手順」として読む。

原料の下ごしらえも工程の一部だった。コウゾは冬に根を残して切り、束にして大釜で蒸し、熱いうちに大勢で皮をはぐ。これを干したものが黒皮(荒皮)で、保存できる。水に浸して外皮を削り、流水で節を取れば白皮になり、この白皮が中央の工房に納められたとみられる[4]。ただしこの記述は後世のやり方をもとにした推測で、古代の実際の方法には不明な部分が残る。それでも、皮はぎ→黒皮→白皮→工房という分業の道筋は、紙が一つの場所だけでは作れなかったことを示している。

では、この分業を誰が、どの規模で担ったのか。そこで、国の制度に目を移す。

4. 国は、どれくらい 大きな しごととして 紙を 作らせた?

4. 職人は少数、原料と紙は全国から ── 国が紙づくりを支えた

4. 図書寮・紙戸・諸国 ── 官営の製紙と、未納の記録が示す規模

702ねんの きまり(たいほうりょう)で、ずしょりょうと いう 役所が 紙を 作ると 決まりました。やましろの 国に 紙を 作る 50戸の 家を きめて、ぜいを まけてやり、国で つかう 紙を すかせました。紙づくりの うでの いい 人は、はじめは 4人、天平の ころは 8人でした[1][5]。

職人しょくにんは すくないのに、紙の 原料げんりょうは 日本の あちこちから あつめました。774ねんの 役所の 書きつけには、まだ とどいて いない 紙が ぜんぶで 15650まい、紙の げんりょうの あさが 248きんと 書かれ、いが から あわまで たくさんの 国の 名前が ならびます[1]。

この 15650は 「とどいて いない 分」の 数で、作った 紙ぜんぶの 数では ありません。でも それだけ 多くの 国に、紙の 原料げんりょうを そだて おさめる 仕事が わりふられて いたことが わかります。

では、手間を かけて 集めた 紙は、どんな ことに つかわれたのでしょう。

少数の職人と、特別な家々

大宝令(702年)で、図書寮が製紙を行うと定められました。山背国には紙戸50戸が指定され、租税を免じるかわりに、官用の紙を漉かせました。技術者の造紙手は、最初は4人、天平時代には8人でした[1][5]。

全国から集まる紙と原料

職人の数に比べると、紙の需要は大きなものでした。宝亀5年(774年)の図書寮の文書には、納められていない紙が合計15650帳、紙麻(原料)が248斤と記され、伊賀から阿波まで多くの国の名が並びます[1]。この15650は「未納分」の合計で、全生産量ではありません。それでも、紙や紙麻が諸国に割り当てられ、納入を求められていたことが分かります[1]。

職人がいて、全国から原料や紙が納められる。紙は、国の仕組みの中でようやく成り立つ品でした。では、そうして集めた貴重な紙は、どう使われたのでしょうか。

大宝令(702年)によって、図書寮が製紙を行うと定められた。山背国に紙戸50戸が指定され、租税を免じて官用紙を漉かせた。造紙手は最初4人、天平時代には8人になった[1][5]。少数の専門技術者と、免税された家々を中核に置いたのは、紙づくりには原料の下ごしらえから漉く作業まで多くの工程があり、制度はその仕事を担う人と家を定めていたと考えられる。

ところが需要は、この体制だけでは足りなかった。宝亀5年(774年)の図書寮解「諸国未進紙並筆紙麻等事」には、未進(納められていない分)の合計が紙15650帳、紙麻248斤と記され、伊賀から阿波まで多くの国の名が並ぶ[1]。数字の読み方には注意がいる。15650は未納分の合計であって、全生産量ではない。それでも、紙と原料が諸国に割り当てられ、納入を求められていたことは、この文書から読める[1]。

そう考えると、紙は工房一つで完結する品ではなく、国全体の割り当てによって成り立つ品だったことになる。そのため、写経所が一枚の紙を数え、裏まで使ったことは、単なる倹約ではなく、国が集めた資源を使い切る作法でもあったと読める(これは本稿の読みで、資料が直接そう述べているわけではない)。

では、そうして集められた紙は、どんな用途に広がり、どんな工夫が生まれたのだろうか。

5. 大切な 紙は、どんな 使い道と くふうに なった?

5. 貴重な紙に、使い道と工夫が増えていった

5. 色紙・障子・漉き返し・流し漉き ── 紙の用途の広がりと技術の工夫

紙の 使い道は、おきょうの 書きうつしだけでは なくなって いきました。770年から 780年の 書きものには、紙を おきょうを おさめる たてものの とびらや しょうじに つかう ことが 出て きます[1]。

770年の 帳面には、色を つけた 紙 2万ちょうと 書かれて います。これは 文書の 記事を 合わせると、1年で 2万まい ほどに あたると 言われます[1]。1日に 直すと 55まい ほどです。

色の 黄色い 紙は、キハダと いう 木の 皮で そめました。キハダには 虫を よせつけにくい はたらきが あると、むかしの 人が けいけんで 気づいたからだ と 言われます[1]。

使い おわった 紙を ほぐして、また 紙に する「すきかえし」も ありました。うすい すみ色に なるので、うすずみがみとも よばれます[5]。紙は、さいごまで ぜんぶ つかいきる もの だったのです。

写経のほかにも、使い道が広がる

奈良時代の後期、770〜780年の正倉院文書には、経堂の戸や障子に紙を使う記録があります[1]。書くための紙が、建物の一部にも使われ始めたのです。また770年の「奉写一切経料紙墨納帳」には「須岐染紙二万張」とあり、加工した色紙の量は、文書の記事を合計すると年間約2万枚になるといわれます[1]。1年を365日として割ると、1日あたり約55枚です(計算例)。これは「加工した色紙」の推計で、紙全体の量ではありません。

黄色い紙には、理由があった

写経に使われた黄色い紙は、キハダの樹皮で染められていました。キハダの樹皮に防虫の働きをする物質が含まれることを、経験から見つけたためとされます[1]。紙の色には、そうした経験の知恵が関わっていたのかもしれません。

使った紙を、もう一度紙にする

使い終えた紙をほぐして漉き直す「宿紙(漉き返し)」も、この時代の流れの先にあります。記録上は886年の日本三代実録の記事が最初とされますが、正倉院文書の「本古紙」(748年の用紙など)が元祖かもしれないと町田は考えています。辞典の解説によれば、紙屋院で多く漉かれ、薄墨色になるため薄墨紙ともいいます[5]。

こうして貴重な紙は、少しずつ作り方も用途も豊かになっていきました。その痕跡は、今の和紙にも読み取れます。

紙の用途は、書写用にとどまらなくなっていく。770〜780年の正倉院文書には、紙を経堂の戸や障子(堂戸障子料)に使う記事がある。「下紙四十四張、張障子二枚料」のような記載から、紙が窓や障子に使われ始めたことが分かる[1]。また770年の『奉写一切経料紙墨納帳』には「須岐染紙二万張」の記載があり、加工色紙の量は文書の記事から合計すると年間約2万枚になるとされる[1]。365日で割ると1日約55枚である(計算例)。ただしこれは加工色紙の推計であり、紙全体の量ではない。

色にも技術があった。延喜式は、色紙には必ず約30%のガンピ繊維を混ぜて漉くと規定する[1]。ここでいう約30%は色紙の規定であり、他の紙にあてはまる数字ではない。写経の黄紙はキハダで染められたが、これは樹皮に防虫の性質があることを、経験的に見いだしたからだとされる[1]。こうした染めの技術は、経典を保存するという目的に結びついていた。

製紙法そのものも変わっていく。奈良時代は溜め漉きが中心で、ガンピなど粘りのある繊維を混ぜる工夫が、のちの流し漉き(トロロアオイなどの粘剤を使う方法)につながったと町田は考える。流し漉きは8世紀後半ごろに図書寮で生まれ、9世紀前半には和紙づくりの定法になったと「考えられる」とされる。根拠は、正倉院に残る各時代の紙の繊維の並び方を顕微鏡で調べた結果である[1]。これは研究者の推定であり、発明と断定はできない。

使った紙の再生にも歴史がある。宿紙(漉き返し)は、日本三代実録の886年の記事が最初とされる。しかし町田は、正倉院文書の「本古紙」(748年の用紙など)が元祖とみられるとも述べる。ただし本古紙=漉き返しとまでは確証がない[5]。辞典の解説によれば、紙屋院で多く漉かれ、薄墨色のため薄墨紙ともいう。

これらを並べると、紙は節約される一方、建物に使われたり、漉き返されたりして、用途や作り方も広がったと読める。その痕跡は、紙の繊維や色に残っている。

6. うちの 紙を、ひかりに すかして みよう

6. 家の紙を光に透かして、繊維と使い方を観察する

6. 紙の繊維を観察する ── 現物と論文を往復するための手がかり

おうちに ある コピーようしと、しょうじの 紙や 習字の 紙(あれば)を、まどの ひかりに すかして みましょう。どちらが 白く、どちらに 細い すじが 見えるでしょう。

つぎに、いらなく なった 紙の うらを 見て ください。うらが しろい ままの 紙は ありますか。うらを メモに つかうと、1300年まえの 写経所しゃきょうじょの 人と 同じ ことを して いることに なります。

むかしの 紙が くわしく 知りたく なったら、町田さんの 「正倉院しょうそういんの紙」と いう 研究の 文章が いちばん くわしいです[1]。むずかしい ところも ありますが、図書館や ネットで さがせます。

紙の繊維の違いは、家にある紙でも観察できます。コピー用紙と、障子紙や習字の半紙(あれば)を、窓の光にかざしてみましょう。繊維の太さ、すじの見え方、白さは同じでしょうか。拡大鏡があれば、より細かく見えます。

もう一つは、「裏を使う」ことです。いらなくなったプリントの裏が白いままなら、そこに計算やメモを書いてみます。写経所の人たちが、表はお経の記録、裏は役所の書類と使い分けた気持ちが、少し分かるかもしれません。

もっと調べたいときは、町田誠之「正倉院の紙」(J-STAGE、日本語)が、紙の種類・産地・数量の話を詳しく書いています[1]。延喜式の工程は、橋本裕さんの論文[4]が読みやすい入口です。

観察の入口は、手元の紙を光にかざすことである。コピー用紙と、障子紙や半紙(あれば)を比べ、繊維の太さ・向き・色の違いを見る。拡大鏡があれば、より細かく見える。町田誠之は、正倉院の各時代の紙の繊維の並び方を顕微鏡で調べ、流し漉きの成立時期を推定した[1]。家で再現はできないが、「繊維の向きで作り方の違いを読む」という発想は、同じ道すじで体験できる。

もう一つは、裏紙の再利用である。不要な印刷物の裏が白ければ、メモに使い、写経所が「裏まで使った」ことを実感できる。さらに、1日あたり約55枚という本稿の計算例(年間約2万枚の加工色紙を365日で割ったもの)を、自分で検算するのも有効だ。数字の出どころ(推計か、未納分か、規定か)を区別して読む習慣になる。

町田誠之の論文[1]は、正倉院文書にもとづく紙の種類・産地・数量や、流し漉きの推定を扱い、推定の部分は「考えられる」と書き分けられている。橋本裕の論文[4]は、延喜式の工程とコウゾの下ごしらえを解説する。国立国会図書館のリサーチ・ナビ[2]は、正倉院文書の調べ方の案内である。いずれも日本語で読め、本稿の数字の一次的な根拠は、町田論文と橋本論文にある。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:論文、辞典の解説、図書館の案内を使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。

  1. 町田誠之「正倉院の紙」紙パ技協誌26巻1号(1972年)。https://www.jstage.jst.go.jp/article/jtappij1955/26/1/26_1_4/_pdf (写経所の紙の扱い、官営製紙、未納の記録、用途の広がり、流し漉きの推定について。やや古い総説)
  2. 国立国会図書館 リサーチ・ナビ「正倉院文書」。https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/humanities/post_735 (文書の裏の再利用、紙の記録と現存について)
  3. コトバンク「蔡倫」(デジタル大辞泉・日本国語大辞典ほか)。https://kotobank.jp/word/%E8%94%A1%E5%80%AB (蔡倫と紙の材料について。辞典の解説)
  4. 橋本裕「律令制下の紙の収取に関する二・三の問題」。https://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/465/files/135748 (延喜式の工程、コウゾの下ごしらえについて)
  5. 紙屋院(辞典解説)。https://pedia.3rd-in.co.jp/wiki/%E7%B4%99%E5%B1%8B%E9%99%A2 (紙戸・造紙手、宿紙について。辞典の解説)

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