1. おぼうさんが ほうびを もらったのは、なぜ?
1. 白粉づくりで、なぜ僧がほうびをもらったのか
1. 692年、観成の鉛粉はなぜ褒賞に値したのか
『日本書紀』は、日本で いちばん 古い れきしの 本の ひとつです。その 中に、おぼうさんの 観成が 鉛で つくった 白い 粉を ほめられて、ぬのや わたを もらった と 書いて あります[1]。
国が、ほめて ほうびを 出す ほど、白い 粉づくりを 大切に 考えて いたようです。
この 観成は、あとで とても えらい おぼうさんに なったと いう 話も あります。ただし、同じ 人かどうかは、はっきり しません[2]。
では、どうして 顔を 白く したかったのでしょう。
692年の『日本書紀』の記事には、観成という僧が鉛で作った粉を、天皇がほめて、絁・綿・布を与えたとあります[1]。ここで書かれているのは「鉛粉」で、白粉という名前そのものではありません。それでも、日本で白い粉が作られていた古い記録として、よく取り上げられます。
観成は、のちの712年に大僧都という高い僧の位についた人と同じ人だという説明もあります[2]。ただし、これは解説サイトの見方で、確かなことではありません。
国が布を何十枚も与えるほどの技術なら、白い粉は、ただの飾りではなかったはずです。では、人々は何のために顔を白くしたのでしょうか。
『日本書紀』持統天皇6年閏5月の条には、観成が作った鉛粉を美としてほめ、絁十五匹・綿三十屯・布五十端を与えたという記事がある。資料によっては観成を元興寺の僧とするが、寺名の呼び方には揺れがあるため、ここでは僧の観成とだけ扱う。また、本文の語は「鉛粉」であり、「白粉」ではない点にも注意が要る[1]。
観成は、のちの和銅5年(712)に大僧都に任じられた人物と同一とする解説がある[2]。ただし、この同定は解説サイトの見方であり、断定はできない。
注目したいのは、与えられた品の量である。粉づくりの技術に、国が布や綿をまとめて与えるほどの価値を認めていたことになる。では、その粉は何のために使われたのか。次の章で、古代の人が白さに何を見たのかを見る。
2. むかしの 人は、どうして 顔を 白く したの?
2. 白い顔は、何のしるしだったのか
2. 白い肌が身分とあこがれの象徴になるまで
白い 肌は、「うつくしい」と いう あこがれと、「えらい 人」の しるしだったと 言われて います。
日本では、奈良時代ごろには 白粉で 顔を 白く ぬって いて、平安時代に なると、白さが 美しさの しるしに なり、上の 身分の 人の しるしとして ひろまったと、化粧を しらべて いる 人は 話して います[3]。
むかしの ローマでも、まっ白な 肌は 貴族の しるしだと 考えられた、と ある せつめいでは 言われて います。日に あたって 外で はたらかなくて よい 人、という いみです[4]。
ただし、日本の 古い じだいに、白粉が どんな ねがいで ぬられたのかを、はっきり 書いた 本は 見つかって いません。ここまでは、あとの じだいの せつめいです。
白い肌は、美しさや身分のしるしだったと説明されています。
日本の化粧文化を紹介するポーラ文化研究所の研究員は、白い肌への憧れは古くからあり、奈良時代から白粉で顔を白く塗っていたこと、白さが美の象徴となり上流階級の地位を示すものとして広がったのは平安時代だったことを述べています[3]。中国の壁画の女性が白く描かれていたことが、中国に憧れた日本の特権階級の心と重なった、という見方もあります。
古代ローマにも同じ考えがありました。一つの解説では、真っ白な肌は貴族のしるしで、日に当たって働かなくてよい身分を示したとされます[4]。外で働く人は日に焼けるので、白い顔は、働かなくてよい暮らしの目印になったわけです。
ただし注意が必要です。692年は飛鳥時代の終わりで、「奈良時代から」という説明とは少しずれがあります。古代日本の白粉が、どのような場面やどんな願いに結びついていたのかは、直接書いた資料が見つかっていません。「あこがれ」と「身分」は、平安時代以降の説明だということは覚えておきたいところです。
答えを先に言えば、白い肌は美と身分の象徴とされた、というのが現在の説明である。ポーラ文化研究所の研究員は、白い肌への憧れは古来のもので、奈良時代から白粉による白塗りの化粧があったこと、それが美の象徴となり、上流階級の地位を示すものとして広まるのは平安時代であると述べる[3]。同じ記事の要約には、中国の壁画の女性が白く描かれ、それが中国への憧れを持つ日本の特権階級の心と重なった、という見方も示されているが、本文での確認が取れていないため、可能性の一つにとどめる。
地中海世界にも同じ構図がある。古代ローマでは、真っ白な肌は貴族の目印であり、日に当たって働かなくてよい身分を示すとされた。チョークの粉、白い泥灰岩、白鉛などで顔を白くしたという[4]。ただしこの解説ページは、一次の学術書(Olson, Dress and the Roman Woman)の引用に基づく二次的な整理であり、原典で確かめる余地が残る。
注意すべきは時期の食い違いである。『日本書紀』の692年は飛鳥時代、「奈良時代から」は8世紀以降で、両者は少しずれる。また、古代日本の人々が白粉を塗った目的が、身分の表示や儀礼、魔除けなど、どのような場面や願いに結びついていたのかについては、古代日本について直接書いた資料は見つかっていない。「憧れ」と「身分」は平安期以降の説明だと分けて読む必要がある。
では、観成が作った白い粉は、実際には何でできていたのか。
3. 白い 粉は、なにで つくられて いたの?
3. 古代日本の白い粉の材料は、鉛だけだったのか
3. 古代日本の白粉には、鉛白と米粉のどちらが使われたのか
観成が つくった 粉は、鉛から できた 白い 粉だと 考えられて います。日本では、7せいきごろに 中国から、鉛の 白い 粉の つくりかたが 入って きたと いう せつめいが あります[5]。
けれど、白い 粉は 鉛だけでは ありません。平安時代の 本には、白い ものが 二しゅるい 出て きます。また、『延喜式』という きまりの 本には、もち米や あわが 白粉の ざいりょうとして 出て きます[1]。
鉛の 粉と、米の 粉と、いろいろ あったらしいのです。
鉛は、からだに わるい 毒です。鉛を 使った 白粉は、いまは 使われて いません。
観成の鉛粉は、顔に塗るための、鉛を使った白い粉でした。日本では7世紀ごろ、中国から鉛白(はふに)や、水銀を使った粉(はらや)の作り方が伝わったとされます。ただし、鉛が伝わった時期は、文献によって5世紀半ばとするものもあり、はっきり決まっていません[5]。
面白いのは、古代の白い粉が鉛だけではなかったらしいことです。平安時代の辞書『和名抄』(934年ごろ)は、「粉(しろきもの)」と「白粉(はふに)」の2種類を挙げています。『延喜式』には、宮中で使う白粉の材料として糯米と粟が出てきます[1]。江戸時代の学者の推測では、「しろきもの」が鉛白で、「はふに」が米粉だった可能性もあるそうですが、断定はできません。
古代の人は、鉛の粉と米などの粉を、使い分けていたのかもしれません。しかも、鉛の白い粉づくりは、日本で突然始まったものではありませんでした。
観成の鉛粉は、顔に塗るための鉛白、つまり鉛を原料に作った白い顔料だったと考えられる。日本への伝来については、7世紀ごろに中国から「はふに」(鉛白)と「はらや」(塩化水銀)の製法がもたらされたという説明がある一方、別の論文は5世紀半ばに鉛が中国から入ったとするため、時期は幅をもたせて読むのがよい[5]。692年に国産品が作られていたという記録は、少なくともこの時点で製法が定着していたことを示す。
ただし、古代日本の白い粉の材料は鉛に限られなかった。934年ごろの『和名抄』は「粉(しろきもの)」と「白粉(はふに)」の2種を挙げ、『延喜式』は宮中用の白粉の材料に糯米と粟を記す[1]。江戸の学者・狩谷棭斎は、前者を鉛白、後者を米粉と推測したが、これは推測であり、どちらがどれかは決まっていない。いずれにせよ、鉛の粉と植物性の粉の、どちらも使われていた可能性がある。
つまり、顔を白くするという目的に対して、複数の材料が使われた。では、鉛白という材料の作り方そのものは、どこで生まれたのか。
4. 白い 粉は、ひとつの 場所で うまれたの?
4. 鉛白は、東と西で別々に生まれたのか
4. 合成鉛白の起源:東と西で独立に発明されたという見方
中国の 青銅の 小さな 容器から、大昔の 白い 粉の のこりが 見つかりました。二千五百年ほど 前の、えらい 人の 墓から 出た ものです。しらべた 人たちは、人が 作った 鉛の 白い 粉で、化粧に 使われたらしいと 考えて います[6]。
いっぽう、古代ギリシャの 人は、酢の 上に 鉛を つるして、白い 粉を 作ったと 言われて います[7]。くさった ワインだったのでは、という 研究も あります。
中国と ギリシャで、おなじ ような 白い 粉が、べつべつに うまれた らしいのです。
つくりかたも ちがいます。中国は、とかした えきから 白い 粉を とり出しました。ギリシャは、鉛を 酢の 上に つるして 作りました。
中国の陝西省にある梁帯村遺跡は、紀元前770年から476年ごろの貴族の墓地です。そこから出た小さな青銅の容器の白い残りかすを調べたところ、溶液から沈殿させて作った合成の鉛白で、化粧品とみられると、2022年に報告されました。研究者は「世界最古の合成鉛白」と呼んでいます[6]。この年代は、墓の年代をもとにした推定です。
一方、古代ギリシャでは、紀元前4世紀に、金属の鉛を発酵・腐敗した液の上につるして白い顔料を作りました。この顔料はプシミュティオンと呼ばれます。作り方に使う液は、酢と訳されてきましたが、2020年の研究は傷んだワインだった可能性を示しています。化粧にも薬にも使われ、古代の著者によれば、女性だけでなく男性も使ったようです[7]。
中国の方法は沈殿法、ギリシャの方法は腐食法で、作り方がちがいます。論文は、紀元前1千年紀のうちに、東と西のユーラシアで合成鉛白が別々に生まれたと考えています[8]。
鉛白の起源について、2022年の論文(Han ら)は、東西ユーラシアで独立に合成鉛白が発明されたと主張する。根拠は、中国陝西省韓城市の梁帯村遺跡(芮国の貴族墓地、紀元前770〜476年)の墓から出た小さな青銅容器の白い残りかすで、溶液から沈殿させた合成鉛白と分析され、化粧品とみられる。これが「世界最古の合成鉛白」とされた[6]。ただし、この年代は墓の年代をもとにした推定である。
これに対し、地中海側では、古代ギリシャが紀元前4世紀に腐食法で鉛白を作った。テオプラストスの『石について』は、金属鉛を発酵中の液の上につるして作る方法を述べる。この白い顔料はプシミュティオンと呼ばれ、化粧にも薬にも使われた。液は酢と訳されてきたが、2020年の研究は傷んだワインを提案する。使用者は女性に限らず、男性も含まれるという[7]。
中国の沈殿法とギリシャの腐食法は、工程が異なる。論文は、合成鉛白は紀元前1千年紀に東西で独立に進化したはずだと述べる[8]。同じ「白くしたい」という願いが、別々の場所で別々の化学を生んだ可能性がある、ということだ。
では、こうして生まれた白い粉は、その後どうなったのか。
5. 白い 粉は、そのあと どう なったの?
5. 鉛白粉は、その後どうなったのか
5. 鉛白粉の終わりと、植物性・無機の代替
鉛の 白粉は、日本では ずっと あとまで 使われました。けれど、鉛は からだに わるいと わかり、昭和の はじめごろに 使うことが きんしされました[5]。
その 少し 前、1900ねんには 亜鉛から つくった 白粉が 宮中に さしだされ、1904ねんに 売り出されて います[5]。
顔を 白く したい という 気もちは、そのまま、べつの ざいりょうに うつって いったのです。
6. もっと しりたく なったら
6. 一行の記録から、さらに気になること
6. 692年の記録を『日本書紀』の原文で読む
白い 顔が「えらい 人の しるし」だった 話は、日本や ローマだけの ことでは ないかも しれません。
図書館の 人に「『日本書紀』や、むかしの 化粧に ついて 知りたい」と つたえると、本を さがす てつだいを して くれます。むかしの 絵に かかれた 人の 顔の 色を 見くらべても、おもしろいです。
そして、『万葉集』には、うめの 花が 白粉で よそおう ように さくと 読める うたが あるという せつめいも あります[9]。
692年の記事は、いまは二次的な解説を通して読むことが多い記録です。博物館や図書館で『日本書紀』の持統6年の条を探し、「鉛粉」の語がどう書かれているか、自分の目で確かめられます。
『万葉集』には、梅の花が白粉で装うように咲く、と訳せる歌があるという解説もあります。ただし、「粉」を白粉と読むのは解釈の一つです[9]。同じ歌を、別の人がどう読むか、比べてみるのも面白いでしょう。
なお、日本の古代の人が白粉に託した願いは、まだ直接の資料が少ないままです。何がわかれば、この謎は解けるのでしょうか。
この記事は二次資料に多くを負っている。『日本書紀』持統6年条の原文は、解説サイトの引用でしか読んでいないため、国史大系などの校訂本で「鉛粉」の語と前後の文脈を確かめる価値がある。
また、『万葉集』の梅花の歌の「粉」を白粉と読み、梅の花が白粉で装うように咲くと訳す解説がある[9]。ただし、この読みは解釈の一つにとどまる。ほかの注釈書が同じ語をどう扱っているか、比較できる。
未解決の問いも残る。古代日本の白粉は、身分の表示、美の追求、儀礼のどれだったのか。その答えは、平安期以降の説明ではなく、古代そのものの資料に求める必要がある。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文で使った資料です。二次的な解説を含むので、原典で確かめることをすすめます。
- コトバンク「白粉」 https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E7%B2%89 (692年の記録、『和名抄』・『延喜式』の記述)
- 歴史アーカイブ『続日本紀』解説 https://rekishiarchives.com/genmei-wadou5-4/ (観成の後の経歴)
- nippon.com「日本の化粧文化」 https://www.nippon.com/ja/views/b02602/ (白い肌が美と身分の象徴になった経緯)
- Wikipedia “Cosmetics in ancient Rome” https://en.wikipedia.org/wiki/Cosmetics_in_ancient_Rome (古代ローマの白い肌。二次的な解説)
- Wikipedia日本語版「おしろい」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%97%E3%82%8D%E3%81%84 (製法の伝来、近代の白粉。二次的な解説)
- UCAS News “World’s earliest synthetic white lead cosmetics found in China’s Shaanxi” https://news-en.ucas.ac.cn/index.php/research/3120-world-s-earliest-synthetic-white-lead-cosmetics-found-in-china-s-shaanxi (梁帯村遺跡の合成鉛白。英語)
- “On metal and ‘spoiled’ wine” (Archaeol Anthropol Sci, 2020) https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7560938/ (古代ギリシャの鉛白の作り方。英語)
- Archaeology (AIA) “Earliest synthetic white lead” https://archaeology.org/news/2022/09/20/220921-china-white-lead/ (東西で別々に生まれたという論文の紹介。英語)
- 資生堂 美と文化のブログ(2019) https://corp.shiseido.com/seminar/jp/labo/blog/2019/1030.html (『万葉集』の梅の歌の解釈)
なおした ところ
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