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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

にほんの むかしの ひとは、どうして かおに あかや しろを ぬったの?

日本の化粧は、なぜ赤・白・黒を塗ったのか:古墳から明治までの役目の移り変わり

日本の化粧は何のために塗られたのか:古墳の赤、白粉、江戸の三色、明治の洋風化から読む役目の移り変わり

分野:歴史・文化

ふるい ふるい じだいの はにわには、ほっぺたが まっかな ものが あります。ふしぎですよね。じつは、むかしの けしょうは、きれいに なる ためだけでは なかった ようです。

とおい エジプトでは、くろい アイメイクが めを まもったかも しれない、と いう けんきゅうも あります。では、日本の けしょうは なんの ために ぬって いたのでしょう。この ページを 読むと、こふんの じだいから めいじまで、まもる ねがい、みぶんの しるし、はやりと、やくめが かわって いった ことが わかります。

古代エジプトの化粧の容器から、鉛の化合物が見つかりました。フランスの研究チームは、この黒いアイメイクが目の感染症を防ぐ役目を持っていたかもしれない、という仮説を出しています[2]。化粧は、飾りだけのものではなかったのかもしれないのです。

この記事の中心は日本の化粧です。エジプトの話は、守りの願いが化粧にあったかもしれないという手がかりとして、途中で出てきます。では、日本の人たちは、古墳時代から明治まで、何のために顔に色を塗ってきたのでしょうか。この記事を読むと、化粧が「守りの願い」「身分や結婚の印」「流行」と、時代ごとに別の役目を持ってきたことが分かります。

古代エジプトの黒いアイメイクの容器を分析したフランスの研究チームは、含まれる鉛化合物が培養した皮膚細胞の一酸化窒素の産生を増やしたと報告し、目の感染症を防ぐ役目があった可能性を提案した[2]。ただし人が使った効果を直接示したものではなく、仮説である。化粧は装飾に限られない、という見方が出てくる。

この記事の中心は日本の化粧史であり、エジプトの話は比較の手がかりとして途中に置く。では日本の化粧は、何のために、どう変わってきたのか。この記事を読むと、古墳時代の赤、江戸の三色、明治以降の洋風化を通して、化粧の役目が「呪術的な守り」から「社会的な印」「流行」へと移ったことが分かる。

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1. はにわの ほっぺは、どうして あかいの?

1. 埴輪の頬の赤は、飾りではなかったのか

1. 古墳時代の埴輪に塗られた赤は、何を意味していたのか

こふんの じだいの 埴輪はにわには、りょうほうの 頬ほおに あかい いろを ぬった ものが あります。この あかは「しゅ」と いう、あかい えのぐです[1]。

おしゃれの ため、と おもいますよね。でも、かんがえられて いるのは、ちがう わけです。1700ねんいじょう まえの 中国の ほんには、日本に すむ 人たちが からだに あかい えのぐを ぬる ことが かかれて います。あかには、わるい ものから まもる まじないの ちからが あると いう せつが あります。

ただし、はにわの あかも おなじ いみだったかは、わかっていません。はっきり きまった わけでは ありません。

では、あかい いろの ほかにも、まもる ために ぬった ものは あるのでしょうか。

古墳時代の人物埴輪には、左右の頬に朱を塗ったものがあります[1]。塗り方は、口紅のようでも、チークのようでもありません。顔に赤い丸や線を置いたような姿です。

3世紀の『魏志倭人伝』にも、倭人が体に赤い顔料を塗るという記述があります。そこから、赤には生命や呪術的な意味をこめたとする説明があります[1]。ただし、埴輪の赤も同じ意味だったかどうかは分かっておらず、断定できるものではありません。それでも、化粧の始まりに「きれいに見せる」より「守る」という気持ちがあった可能性は、大切な手がかりです。

赤いのは日本だけではありません。次に、遠く離れたエジプトの黒い化粧を見てみましょう。

古墳時代の人物埴輪には、左右の頬に朱を塗った例がある[1]。これを現代の頬紅と同じ発想で読むと、見誤るおそれがある。3世紀の『魏志倭人伝』には、倭人が体に赤い顔料を塗るという記述があり、赤には呪術的な意味があったとされるからである[1]。

ただし、この呪術説は二次資料の解説に基づく「とされる」説で、埴輪の赤が同じ意味だったと言い切る根拠は示されていない。確かに言えるのは、日本の化粧の早い段階に、朱という顔料を顔や体に塗る行為が存在したことまでである。

では、守りの願いは日本だけの発想だったのか。時代はずっとさかのぼるが、海の向こうの古代エジプトの黒い化粧にも、似た見方が出されている。

2. エジプトの くろい アイラインは、めを まもる くすり だったの?

2. 古代エジプトの黒いアイメイクは、目を守る薬だったのか

2. 古代エジプトの黒いアイメイクは、感染症を防ぐ役目を持っていたのか

エジプトの ふるい ほんにも、けしょうを した 人が でてきます。めの まわりを くろく ふちどる けしょうです。

フランスの けんきゅうチームは、ルーヴルびじゅつかんに ある けしょうの いれものを しらべました。すると、なかから「なまり」を ふくむ こなが みつかりました。この こなを、そだてた ひふの さいぼうに くわえると、からだを まもる はたらきに かかわる ものが、ふえたと ほうこく されました[2]。

けんきゅうチームは「めの びょうきを ふせぐ やくめが あったのかも しれない」と かんがえました。ただし、これは かせつです。人が つかって ききめが あったと わかった わけでは ありません。なまりは どくが つよい ものでも あります。まねは しないでね。

2010年、フランスの研究チームは、ルーヴル美術館が持つ古代エジプトの化粧の容器を分析しました。見つかった黒い粉には、鉛の化合物が含まれていました。この鉛化合物が培養した皮膚の細胞に働くと、細胞が出す一酸化窒素の量が最大で約240%増えると見積もられました。実際に細胞で測った数字ではなく、顔料に含まれる鉛化合物の量をもとにした推定です[2]。一酸化窒素は、体が細菌などと戦うときに関わる物質です。

研究チームは、この黒い縁どりが目の感染症を防ぐ役目を持っていた可能性を提案しました。古代エジプトの文書も、化粧を病気からの守りと結びつけ、あらゆる階層の人が日常的に使ったとされています[3]。

注意したいのは、これが仮説だということです。調べたのは容器の中の顔料と培養した細胞で、人が使った効果を直接確かめたわけではありません。鉛は毒性が高く、まねをしてよいものでもありません[2]。

見つかった4種の鉛化合物のうち2つは、自然には存在せず、作るのに約30日の手間がかかるとされます。つまり古代エジプトに、化合物を作れる人がいたと推測されています[3]。

赤で守り、黒で守る。では、白は何のために使われたのでしょうか。

2010年、フランスの研究チームは、ルーヴル美術館の古代エジプトの容器試料を分析し、黒いアイメイクに含まれる鉛化合物が、培養した皮膚細胞の一酸化窒素の産生を最大240%増やすと推定した。これは顔料中の鉛化合物の量をもとにした推定で、実測値ではない[2]。一酸化窒素は免疫の応答に関わる分子であり、研究者は、少量の鉛塩が感染への備えを高め、目の感染症を防ぐ役目を果たした可能性を提案した。

この結論には限界が三つある。第一に、調べたのは容器の顔料と培養細胞で、人の目に塗った効果は直接確かめられていない。第二に、240%は顔料中の鉛化合物の量をもとにした推定値で、実測ではない。第三に、鉛は毒性が高く、現代の安全の基準で勧められるものではない[2]。

それでも注目されるのは、4種の鉛化合物のうち2つが自然界には存在せず、合成に約30日の手間がかかるとされる点だ。そのため、古代エジプトに化学の知識を持つ作り手がいたと推測される。古代エジプトの文書は化粧を病気からの守りと結びつけ、あらゆる階層の人が日常的に使ったとされる[3]。見た目を飾る行為が、もしかすると医療的な意味を併せ持っていたのかもしれない。

では、顔を白く塗る習慣は、日本でどう始まり、なぜ姿を変えたのか。

3. しろい おしろいは、どこから きて、どうして かわったの?

3. 白粉は、どこから来て、なぜ別の材料に替わったのか

3. 鉛白の白粉は、いつ日本で作られ、なぜ使われなくなったのか

かおを しろく する 白粉おしろいは、600ねんだいごろ、中国から「なまりの しろい こな」が つたわって、日本でも つくられるように なった と いわれます[4]。「日本書紀にほんしょき」には、692ねんまでに 国内で つくって いた きろくが あるそうです。

しろくて うつくしい。ながい あいだ、この こなは あいされました。けれども、なまりは からだに よく ない ものです。そこで、なまりを ふくむ おしろいは、1933ねんの おわりまでに つくる ことが、1934ねんの おわりまでに うる ことが、きんしされました。かわりに、さんかあえんや にさんかチタンが つかわれるように なりました[4]。

なまりを ふくむ おしろいが きんしされて、かわりの ざいりょうが つかわれるように なったのです。

顔を白くする白粉は、7世紀ごろ中国から鉛白(なまりを使った白い顔料)が伝わり、日本でも作られるようになったとされます[4]。『日本書紀』には、692年までに国内で白粉が作られていた記録があるとされ、持統天皇の時代に僧の観成が鉛の粉を作って献上し、喜ばれたという解説もあります。これは百科事典(ウィキペディア)の解説に基づく話なので、「記録があるといわれる」くらいに受け止めてください。

鉛白は広く使われました。ところが鉛は体に害があり、使い続けた人の中毒が問題になりました。そのため、鉛を含む白粉は、製造が1933年末まで、販売が1934年末までに禁止され、酸化亜鉛や二酸化チタンに替わっていきました[4]。

白は、美しさだけでなく、材料の安全を考え直す歴史も持っていたのです。そして、白と並ぶ赤と黒が、江戸ではまったく別の役目を持ちます。

日本の白粉は、7世紀ごろ中国から鉛白が伝わったことで始まったとされる。『日本書紀』には、692年までに国内で作られていた記録があるとされ、持統天皇の時代に僧の観成が鉛粉を献上したという解説もある[4]。ただしこれは百科事典(ウィキペディア)の解説に基づく話なので、「記録があるといわれる」程度に受け取るのが妥当である。

鉛白は発色がよく広まったが、鉛中毒が問題になった。そのため、含鉛白粉は製造が1933年末まで、販売が1934年末までに禁止され、酸化亜鉛や二酸化チタンが代わりに使われるようになった。なお、1900年に国産の無鉛白粉が出たとする資料と、取締規則とする資料があり、年の意味は一つに決まらない[4]。

ここで注意したいのは、白粉の歴史が「良いものが悪いものに置きかわった」単純な話ではない点だ。当時の人にとって鉛白は美しさの最良の材料であり、害が分かって初めて、代わりの材料が求められた。それでは、材料が決まったあと、江戸の人は化粧に何を込めたのか。

4. えどの けしょうで、その 人の ことが わかったの?

4. 江戸の三色の化粧から、何が読み取れたのか

4. 江戸の化粧は、白・紅・黒の三色でどんな社会的な印になっていたのか

江戸えどの けしょうは、しろい おしろい、あかい 紅べに、くろい はぐきと まゆずみの、3つの いろが 中心でした[6]。

この けしょうの しかたで、その 人が どんな 身分か、なんさいぐらいか、けっこんして いるかどうかが わかった、と いわれます。けしょうは、じこしょうかいカードのような やくわりも して いたのです。

げんろくの じだい(1688〜1704ねん)には、おんなの 人が おとなに なる ときや けっこんの ときに、は を くろく ぬり、まゆを かく ことが、だいじな ぎしきの ひとつに なりました[1]。

そのご、はやりも かわります。さいしょは あそびの 場の 女の人たちの あいだで、うすい けしょうが はやり、ふつうの 女の人にも ひろがりました。

江戸の化粧は、白粉(白)、紅(赤)、お歯黒と眉作り(黒)が中心で、色にすると白・紅・黒の三色だったとされます[6]。たった三色なのに、塗り方で身分や年齢、既婚か未婚かが分かったといわれます。

元禄時代(1688〜1704)には、お歯黒と眉墨が、女性の元服や婚礼と結びつきました。つまり化粧は、大人になった、結婚したという通過儀礼の一つになったのです[1]。

流行も動きます。江戸の初め、家光のころから、遊女の間で薄化粧が流行し、やがて一般の女性にも広がりました[1]。厚く塗る化粧から、うすく見せる化粧へ。好みが変わったのです。

化粧の役目が「守り」から「社会の印」と「流行」へ移った江戸。では、この仕組みは、明治にどう変わったのでしょうか。

江戸の化粧は、白粉・紅・お歯黒と眉作りが中心で、色にすると白・紅・黒の三色にまとまる。塗り方で身分、年齢、既婚か未婚かが読み取れたとされる[6]。ただしこの区別の細部は、解説書の要約で確かめたものであり、地域や時期の差は考えに入れて読む必要がある。

元禄時代(1688〜1704)には、お歯黒と眉墨が女性の元服や婚礼に結びつき、通過儀礼の一つとなった[1]。ここで化粧は、個人の好みではなく、「この人は大人になった」という周囲への知らせとして働いた。

一方で、流行も変わる。江戸初期の家光のころから遊女の間で薄化粧が流行し、一般女性にも広がった[1]。決まりごとの強い化粧の中にも、見え方の好みの変化があったことになる。

こうした「社会的な印」としての化粧は、明治政府の政策で大きく揺らぐ。それはどんな形で起きたのか。

5. めいじの じだいに、けしょうは どう かわったの?

5. 明治の洋風化で、化粧はどう変わったのか

5. 明治の洋風化は、化粧の習慣と化粧品づくりをどう変えたのか

明治めいじの じだいに なると、国は、まず てんのうの かぞくや きぞくに「は を くろく する こと」と「まゆを ぬく こと」を やめるように と、れいを だしました。1870ねんの ことです[5]。

ぜんぶの 人に いったのでは ありません。おなじ ころ、けしょうの しゅうかんも、すこしずつ かわり はじめました。

そのころ、くすりの みせから、あたらしい けしょうひんも うまれました。1872ねんに できた「しせいどう」は、せいようふうの くすりやさん です。1897ねんに、あかい けしょうすいを うりはじめ、「あかい みず」と よばれました[7]。

1870年、明治政府は皇族と華族に対し、お歯黒と引眉(眉を抜いたり剃ったりする習慣)を禁じる令を出しました。禁止されたのは皇族と華族で、全国民ではありません(百科事典の解説による)[5]。同じころ、化粧の習慣も変わり始めました。

同じ時期、薬の知識が化粧品に使われます。資生堂は1872年に日本初の洋風調剤薬局として創業し、1897年(明治30)に化粧品業界へ進出して、化粧水「オイデルミン」を発売したとされます。赤い色から「資生堂の赤い水」と呼ばれました[7]。

薬局から化粧品へ。資生堂は薬の店として始まり、化粧水も売るようになりました。化粧品づくりに、薬の知識が入ってきた例です。

1870年、明治政府は皇族と華族に対し、お歯黒と引眉を禁じる令を出した。対象は皇族・華族であり、全国民ではない(百科事典の解説による)[5]。同じころ、化粧の習慣も変わり始めた。

同じころ、化粧品の作り手が薬の分野から現れた。資生堂は、1872年に日本初の洋風調剤薬局として創業し、1897年(明治30)に化粧品業界へ進出して化粧水「オイデルミン」を発売したとされる。赤い色から「資生堂の赤い水」と呼ばれた[7]。ただし1897年の発売年は、会社の沿革の要約に基づく記述なので、年表の原文で確かめることが望ましい。

鉛白の追放、お歯黒の禁止、薬局出身の化粧水。呪術的な守りから始まった化粧は、社会的な印、そして肌の手入れという役目へと、材料と制度の両方が変わることで移っていった。この変化の中で、昔のままの作り方を守る人たちもいる。

6. むかしの けしょうを、さがして みよう

6. 絵や展示の中に、化粧の痕跡を探してみる

6. 図像と現存の製品で、化粧の役目の移り変わりを確かめる

ほっぺの あかい はにわの しゃしんを、としょかんの ほんや、はくぶつかんの パンフレットで さがして みよう。「ここに ぬって あるのかな」と、じっくり みると、おもしろいよ。

江戸えどの 女の人の え(うきよえ)にも、くちびるの あかや、まゆの かたちが かかれて います。おうちの 人と いっしょに、え を みながら、くちびるや まゆが どう かかれて いるか みて みよう。え だけでは、けっこん して いるかは きめられない ことも、おぼえて おいてね。

ちなみに、1825ねんに できた 紅べにやさん「いせはん」は、いまも「こまちべに」という、たまむしいろに ひかる くちべにを つくって います[8]。

埴輪の頬の赤を確かめるには、図書館の古墳の本や、博物館の図録で、人物埴輪を探してみてください。「ここに朱が塗ってあるのかな」と、顔の部分に注目して見ると、写真の見え方が変わります。

江戸の浮世絵にも、唇の赤や、眉の形が描かれています。絵だけで、その人が結婚しているかどうかを決めることはできません。ここでは、唇や眉がどう描かれているか、化粧がどう描き分けられているかを観察してみてください。時代や地域で差もあるので、「そう描かれている」ことを楽しむ気持ちで見るのがおすすめです。

伊勢半は、1825年(文政8)創業の紅屋で、玉虫色に輝く口紅「小町紅」を作り続けています。玉虫色の輝きは、良質の証といわれます[8]。昔の化粧が、今も続いている例です。

確かめる方法は、身近な図像にある。人物埴輪の写真や図録で、頬の朱の位置を観察すれば、本文の「赤は呪術的な意味を持つとされる」という説明を、自分の目で読み直せる。浮世絵では、唇の紅、眉の形、お歯黒の有無が描き分けられていることがある。ただし絵だけで結婚の有無は決められないので、ここでは化粧がどう描かれているかの観察にとどめ、本文の説は参考として照らし合わせるとよい。

今も続く例として、伊勢半は1825年(文政8)創業の紅屋で、玉虫色に輝く口紅「小町紅」を作り続けている。玉虫色の輝きは良質の証とされる[8]。

資料としては、本文で使ったコトバンクやポーラ文化研究所の紹介、各社の公式沿革は二次的な整理を含む。さらに知りたい人は、『日本書紀』の持統紀の原文、ポーラ文化研究所『日本の化粧』の原文、資生堂の公式年表へ進むと、本文で「とされる」と書いた部分を、自分で照合できる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文で使った資料です。二次資料の解説を含むため、記述の強さを「とされる」にそろえました。

  1. コトバンク「化粧」 https://kotobank.jp/word/%E5%8C%96%E7%B2%A7-59394 (埴輪の朱、江戸の元禄・薄化粧)
  2. National Geographic News「Cleopatra's Eye Makeup」(2010) https://www.nationalgeographic.com/science/article/100114-cleopatra-eye-makeup-ancient-egyptians (古代エジプトのアイメイク研究)
  3. Phys.org「Ancient Egyptian cosmetics: magical makeup」(2010) https://phys.org/news/2010-01-ancient-egyptian-cosmetics-magical-makeup.html (合成の鉛化合物)
  4. Wikipedia「白粉」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%B2%89 (白粉の伝来と鉛白の禁止)
  5. Wikipedia「化粧」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E7%B2%A7 (1870年のお歯黒・引眉の禁止令)
  6. ポーラ文化研究所『日本の化粧』紹介ページ https://www.hanmoto.com/583-2 (江戸の三色)
  7. 資生堂 企業情報(沿革) https://corp.shiseido.com/jp/company/history/ (創業とオイデルミン)
  8. 伊勢半 紅公式サイト https://www.isehan-beni.co.jp/ (小町紅)

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