このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

献血けんけつの 血は、どうやって 人を 助けるように なったの?

血を分けて命を助ける ── 輸血が安全になるまでと、献血のはじまり

輸血と献血の歴史 ── ABO式血液型の発見(1900年)から血液銀行(1937年)、日本の献血体制(1964〜1974年)まで

分野:からだ

けがや 手術しゅじゅつで、たくさん 血が なくなった 人が います。その 人に 血を わければ、助かる ことが あります。

でも 昔は、これが とても あぶない ことでした。どうして 安全に なったのか、じゅんばんに 見て いきましょう。

大きなけがや手術で血がたくさん失われたとき、他の人の血を分けてもらう「輸血」で命がつながることがあります。けれども、この方法は200年ほど前まで、うまくいくかどうかが運しだいの賭けでした。

何が分かって、何が発明されて、いまの安全な輸血になったのか。日本で「献血」だけで血をまかなう体制ができるまでの十数年もふくめて、流れを追います。

輸血の最初の記録は17世紀にさかのぼるが、安全な医療になったのは20世紀に入ってからだ。1900年のABO式血液型の発見[2]、1910年代の抗凝固剤の報告[3]、1937年の血液銀行[1]が土台を作った。

日本では、1952年に売血と献血が並んで始まり、1964年の閣議決定を経て、1974年に輸血用血液の献血による自給が達成された[4]。技術の話と制度の話を、出典つきで一続きにたどる。

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1. 昔の 人は、どうして 血を わけようと したの?

1. 血を分ける試みは、長いあいだ賭けだった

1. 初期の輸血 ── 1667年ごろのドニと19世紀前半のブランデル

血が たくさん なくなると、人は 生きて いられません。だから 昔から、「だれかの 血を 分けられないか」と 考える 人が いました。

三百五十年ぐらい 前には、子ひつじの 血を 人に 入れた 医者が いたと つたえられて います。でも 病気の 人は なくなり、この やり方は してはいけない ことに なりました。

それから 百五十年ほどして、イギリスの 医者ブランデルが、人の 血を 人に 入れました。赤ちゃんを 生んだ あとに 血が 止まらなく なった お母さんを、助けられた ことが ありました。

でも うまく いく ときと、いかない ときが ありました。その わけは、まだ だれも 知りませんでした。

輸血の歴史は、17世紀のフランスにさかのぼるとされます。医師ドニが1667年ごろ、貧血と高熱の患者に子羊の血を入れました。患者が亡くなったため、この方法は禁じられたと伝えられています[1]。

ロンドンの産科医ブランデルは、19世紀前半に人から人への輸血を試みました。お産のあとに大量に出血した女性たちのうち、何人かの命を救えたという記録があります。ただし、成功した年は資料によって1825年とも1827年ともされ、そろっていません[1]。

救えた例がある一方で、同じやり方で重い副作用が出ることもありました。そのちがいを説明できる人は、まだいませんでした。

記録に残る初期の輸血は、17世紀後半のドニ(Jean-Baptiste Denis)による、子羊の血のヒトへの輸血である。1667年ごろ、貧血と高熱の患者に行われ、患者が亡くなったために禁止されたとされる[1]。

ロンドンの産科医ブランデル(James Blundell)は、出産後の弛緩出血で命が危うい女性に、夫などの血を直接投与し、若干の救命例を得た。年代は資料によって1825年・1827年とゆれるため、本稿は「19世紀前半」とする[1]。

成功と失敗がまじる状態が続いたが、両者を分ける原因は当時つかめていなかった。答えが出るのは、1900年である。

2. 血にも「型かた」が あると 分かった のは いつ?

2. 1900年、血には「型」があると分かった

2. ランドシュタイナーとABO式血液型(1900〜1901年、1930年ノーベル賞)

1900年、オーストリアの ランドシュタイナーが、大きな 発見を しました。人の 血には、A・B・Oという ちがいが あったのです。あとで、ABという 型かたも 見つかりました。(本によって、年が 少し ちがいます。)

びんに ふたを する とき、大きさが 合う ふたでないと しまりません。血も、合わない 型かたを まぜると、体の 中で 重い ふくさようが 出ることが あります。

ただし ほんとうの しくみは、ふたと びんより ずっと こみいって います。

型かたを しらべて 合う 血を えらべば、あぶない ゆけつが へらせます。この 発見で、ランドシュタイナーは のちに ノーベル賞しょうを もらいました。

1900年、ウィーンで研究していたランドシュタイナーは、人の血にA型・B型・O型があることを見つけました。翌年ごろにはAB型も加わります。資料によって、発見が1900年、論文発表が1901年、AB型の追加が1901〜02年など、年に少しずつゆれがあります[2]。

この発見が大切だったのは、型が合わない血を入れたときに起こる重い副作用や死亡事故の理由が、はじめて説明できたからです。型を調べて合う血を選べば、事故は減らせます[2]。

ランドシュタイナーは、この業績で1930年にノーベル生理学・医学賞を受けたと紹介されています[2]。

ウィーンのランドシュタイナー(Karl Landsteiner)は、1900年に人の血にA・B・Oの型があることを見いだし、AB型は翌1901年ごろに加わった。発見1900年、論文発表1901年、AB型追加1901〜02年など、資料ごとにゆれがある[2]。

意義は、型の合わない血液の使用で生じていた重い副作用と死亡事故の原因が説明でき、事故を減らせるようになった点にある[2]。1930年にノーベル生理学・医学賞を受けたとされるが、本稿はノーベル財団の原文を直接確認できておらず、日本赤十字社の記述による[2]。

3. 血は、ためて おく ことが できる のかな?

3. 固まらない工夫と、血をためておく仕組み

3. 抗凝固剤(1914〜15年)と血液銀行(1937年)

血には、体の 外に 出ると かたまる せいしつが あります。のりが かわいて かたまるのと にています。かたまった 血は、もう 人に 入れられません。

1914年から 15年ごろ、クエン酸さんナトリウムという 薬を 入れると 血が かたまらない ことが 知られました。これで、血を とって しばらく おき、いる ときに つかえるように なりました。

この 発見は、何人もの 医者や 研究者が かかわって います。ひとりの 手がらでは ありません。

1937年、アメリカの シカゴで、世界で はじめての 「けつえきぎんこう」が できました。お金の かわりに、血を あずかって おく ところです。

もう一つの壁は、血が体の外に出るとすぐ固まってしまうことでした。1914〜15年ごろ、クエン酸ナトリウムを血に加えると固まらないことが、輸血に使える方法として報告されました。これを抗凝固剤といいます。血を採ってしばらくおき、必要なときに使えるようになったのです[3]。

この報告に関わった医師は、ユスタン、アゴーテ、ルイゾンなど複数います。誰か1人の手柄ではなく、同じころにいくつかの場所で試みが重なっていたようです[3]。

1937年、シカゴのファンタスが世界初の血液銀行を作りました。1回の採血量は500mL、保存は10日間だったと紹介されています[1]。血を「その場で人から人へ」ではなく、「ためて、届ける」ものに変えた一歩でした。

血液は体外に出ると凝固する。1914〜15年、クエン酸ナトリウムが抗凝固剤として輸血に使えると報告され、採血して保存し、必要時に取り出して使うことが可能になった[3]。この報告にはユスタン、アゴーテ、ルイゾンら複数の研究者が関わり、発見者を1人に絞れない[3]。

1937年、シカゴでファンタス(Bernard Fantus)が世界初の血液銀行を設立した。採血量500mL、保存期間10日間とされる[1]。

血液型の発見が「何を入れるか」、抗凝固剤と保存が「いつ入れるか」の問題を解いた。輸血は、緊急に居合わせた提供者に頼る医療から、備蓄された血液を使う医療へ移り始めた。

4. 日本では、血は どうやって あつめて いたの?

4. 日本の二本立てと「黄色い血」

4. 売血と献血の併存(1952年)と「黄色い血」追放運動(1962年ごろ)

日本では 1952年から、二つの やり方が ならんで 始まりました。一つは、お金を はらって 血を 買う「売血」。もう一つは、お金を もらわず 血を わけて くれる 人に たのむ「献血けんけつ」です。

そのころ、血を 売る 人の 中には、お金の ために 短い あいだに 何回も 血を とる 人が いました。すると 赤い 部分が もどらず、うすい 黄色の 部分が 目立つ 血に なります。これを 「黄色い血」と よびました。

体に よくないし、売血の 血から びょうきが うつる ことも ありました。悪いのは 血を 売った 人では なく、仕組みの ほうです。

そこで 学生たちが 中心に なって、「黄色い血を なくそう」という 運動が 全国に ひろがりました。

日本では1952年に、売血で運営される商業血液銀行と、献血による日本赤十字社の血液銀行が、並んで事業を始めました[4]。

まもなく、売血の問題が目立ってきます。お金を得るために、赤血球が回復しないほど短い間隔で何度も採血を繰り返すと、血の黄色い血漿の部分が目立つようになります。これが「黄色い血」という呼び名の由来です。提供する人の健康に悪い影響があり、肝炎の感染も少なくありませんでした[5]。

1962年ごろ、供血者の貧血と、売血による輸血後の肝炎が社会問題になり、「黄色い血」追放運動が始まりました。学生などの運動は全国に広がっています[4][5]。責められるべきは血を売った人ではなく、お金を出して血を買う仕組みのほうだった、と考えられます。

1952年、売血による商業血液銀行と、献血による日本赤十字社の血液銀行が、ともに血液事業を始めた[4]。

「黄色い血」とは、金銭を得るために赤血球が回復しない短い間隔で採血を繰り返した人の血で、黄色い血漿部分が目立つ状態を指す。提供者の健康への悪影響に加え、肝炎の感染も少なくなかった[5]。

1962年ごろ、売血による供血者貧血と、売血の輸血による血清肝炎の多発が社会問題となり、「黄色い血」追放運動が始まる[4]。学生などの運動が全国に広がった[5]。問題の所在は個々の提供者ではなく、血液を売買に委ねる制度にあった。

5. 「献血けんけつだけ」に かわる まで、どれくらい かかったの?

5. 1964年の決定から、10年で献血だけの体制へ

5. 1964年の閣議決定と1974年の自給達成

1964年3月、日本に いた アメリカの 大使ライシャワーさんが、血を わけて もらった あとに かんえんに なりました。大きな ニュースに なりました。

この ニュースだけが 原因げんいんでは ありません。学生たちの 運動や 新聞の きじも、くにを 動かしました。

1964年8月21日、くには 「人に 入れる 血は、献血けんけつで あつめる」と 決めました。この 日が、いま「献血けんけつの 日」です。

この 前の 年、献血けんけつの 血は 50人分の うち 1人分ぐらいでした。それが 10年ほどで、ぜんぶ 献血けんけつで まかなえるように なりました。1974年の ことです。

1964年3月、駐日アメリカ大使のライシャワー氏が、輸血のあとで肝炎にかかりました。この出来事は大きく報じられましたが、それだけが理由ではなく、学生たちの運動や報道も、変化を後押ししました[6]。

1964年8月21日、日本政府は、輸血用の血液を献血によって確保する体制をつくると閣議決定しました。この日付が、いまの「献血の日」です[6]。

決定の前年、献血由来の輸血用血液は約2%にすぎなかったとされます。50人分のうち1人分くらいです。それが1974年、輸血用血液を献血でまかなう自給が達成されました[4]。約10年で、「ほとんどが売血」から「全部が献血」に変わったことになります。

なお、売血による保存血の製造は1969年にやみ、国内の有償採血が完全になくなったのは1990年です[4]。1974年の自給達成と、有償採血の完全廃止は別の出来事です。

1964年3月、駐日米国大使ライシャワー(Edwin O. Reischauer)が輸血後に肝炎に罹患した。同年8月21日、政府は輸血用血液を献血により確保する体制の確立を閣議決定した。この日が「献血の日」である[6]。契機は大使の件だけでなく、学生運動や報道も後押ししたとされる[6]。

閣議決定の前年、1963年の献血由来の輸血用血液は約2%にとどまっていた(日本赤十字社の記述。厚生労働省の年表には数値がない)[6][4]。1974年に輸血用血液の献血による自給が達成され、預血制度も廃止された[4]。

ただし、1969年に売血による保存血の製造が終わり、国内の有償採血が完全に廃止されたのは1990年である。自給の達成(1974年)と有償採血の廃止(1990年)は区別して読む必要がある[4]。

6. 血は、どうやって もっと 安全に なったの?

6. 検査を積み重ねて、血をより安全に

6. 検査の導入年表(1972〜1999年)と、限界を前提にした問診

献血けんけつの 血は、人に 入れる 前に、びょうきの もとが ないか、しらべられます。この しらべる ものは、時代とともに ふえて いきました。

日本では、C型かたかんえんを しらべる 方法ほうほうを、世界で いちばん はやく 始めた とも いわれます。1989年の ことです。

それでも、ぜったいに 安全とは いえません。まだ 知られていない ウイルスは、しらべられないからです。だから 病院で ゆけつを うけた ことが ある 人には、ねんのため 献血けんけつを おことわりする ことも あります。

これは、血を もらう 人を まもるための 大切な きまりです。

献血された血は、病気のもとが入っていないか、検査を重ねて確かめられます。厚生労働省の年表には、1972年にB型肝炎に関わるHBs抗原検査、1986年にHIV抗体検査、1989年にC型肝炎のHCV抗体検査、1999年に核酸増幅検査(NAT)が始まったと記されています[4]。

1989年のHCV抗体検査は「世界に先がけて」始められたと紹介されています。1986年には、いまの400mL採血や、成分採血も導入されています[4]。

それでも、検査には限界があります。まだ知られていないウイルスまでは見つけられません。そこで、問診票で輸血を受けた経験などを尋ね、念のため献血を遠慮してもらう仕組みが、安全の一部になっています[4]。

厚生労働省の年表によれば、検査は段階的に導入された。1972年にHBs抗原検査、1986年にHIV抗体検査(あわせて400mL採血と成分採血を導入)、1989年に輸血後C型肝炎予防としてHCV抗体検査(世界に先がけたとされる)、1999年に核酸増幅検査(NAT)である[4]。

ただし検査は万能ではない。未知のウイルスを排除できない技術の限界を踏まえ、念のため輸血歴などのある人には献血を遠慮してもらう運用がある。問診は、検査を補う安全の一部として位置づけられる[4]。

安全は、検査技術の進歩だけでなく、「限界を認めたうえで、手前で止める」仕組みの組み合わせで保たれていると読める。

7. いまも 献血けんけつが いるのは、どうして?

7. いまも毎日、献血が必要な理由

7. 保存期間の延長(2023年・2025年)と、日々の需要

血は、まだ 人の手で 作る ことが できません。それに、ずっと おいて おく ことも できません。だから 毎日、だれかの 血が いります。

赤い 部分(赤血球せっけっきゅう)の 血を つかえる 日数は、いままで、血を とってから 21日でした。2023年3月から、28日まで のびました。

血を わけて くれる 人と、それを 安全に とどける 人と、しらべる 人。たくさんの 人の 手が、つながって います。

血は人工的に作れず、長くも保存できません。そのため献血は、昔のことではなく、毎日必要とされています。全国で1日に平均約3,000人が輸血を受けているという紹介もありますが、これは民間のサイトが日本赤十字社などの資料をまとめたもので、原文では確かめていません[8]。

保存できる期間も、少しずつ延びています。日本赤十字社の医療関係者向けの案内では、赤血球製剤の有効期間が、2023年3月に採血後21日から28日になりました[7]。血小板製剤も、2025年に4日から6日へ延びたと紹介されていますが、こちらは二次資料の記述です[8]。

200年ほど前の人にとって、血を分けるのは賭けでした。いまは、型・固まらない工夫・ためる仕組み・検査・献血という、何段もの仕掛けに支えられています。

血液は人工的に作れず、長期保存もできないため、献血は継続的に必要とされる。全国で1日に平均約3,000人が輸血を受けるという数字があるが、民間サイトが公的資料を要約したもので、原文で確認していない[8]。

保存期間は延びている。日本赤十字社の医療関係者向け情報によれば、赤血球製剤の有効期間は2023年3月に採血後21日から28日へ延長された[7]。血小板製剤の4日から6日への延長(2025年7月末供給分から)は、二次資料の記述にとどまる[8]。

現在の献血者数や年齢条件などの最新情報は、日本赤十字社の公式サイトで確認できる。

8. もっと 知りたく なったら

8. 自分でも調べてみたくなったら

8. さらに調べるなら

今日 できること

  • 8月21日が「献血けんけつの日」なのは、なぜだったか、もう一度 読みかえして みよう。
  • ポスターや テレビで 「献血けんけつ」の ことばを 見つけたら、どんな ことが 書いて あるか 読んで みよう。

くわしく 知りたい とき

  • 日本赤十字社の ホームページには、献血けんけつの 歴史れきしが のって います。おうちの 人と いっしょに 見て みましょう。

今日できること

  • 「黄色い血」追放運動を担った学生たちは、どうやって全国に運動を広げたのか、想像して書き出してみる。当時の新聞や資料で確かめられそうな点を1つ選んでおく。
  • 輸血の歴史を、「何が分からなかったか」と「何が分かって解決したか」の組で年表にしてみる。

出かけてできること

  • 図書館で「輸血」「血液」の本を探し、ランドシュタイナー以前と以後で書き方がどう違うかを比べる。

公式情報

  • 日本赤十字社・厚生労働省の血液事業のページで、最新の制度と数字を確認できる。

今日できること

  • 本稿で「資料によってゆれる」とした年(ブランデル、ランドシュタイナー)について、別の資料を1つ探して比べる。
  • 1964年の閣議決定の前後で、輸血用血液に占める献血の割合が資料ごとにどう書かれているか調べる。

出かけてできること

  • 図書館の医学史の棚で、輸血の歴史を扱う本を探す。

公式情報

  • 日本赤十字社「血液事業」、厚生労働省「血液対策」のページ。献血や輸血の最新の情報が載っている。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:日本輸血・細胞治療学会、日本赤十字社、兵庫県赤十字血液センター、厚生労働省の資料を使いました。民間サイトの数字は、原文で確かめられていないと本文に書きました。

  1. 日本輸血・細胞治療学会「輸血の歴史」 https://yuketsu.jstmct.or.jp/general/history_of_blood_transfusion/ (ドニ・ブランデル・血液銀行)
  2. 日本赤十字社 赤十字NEWS「輸血なるほどヒストリーvol.2」 https://www.jrc.or.jp/about/publication/news/20230817_034532.html (血液型の発見とノーベル賞)
  3. 兵庫県赤十字血液センター「輸血の歴史」 https://www.bs.jrc.or.jp/kk/hyogo/special/m6_02_transfuse.html (抗凝固剤)
  4. 厚生労働省「血液事業のあゆみ(ミニ年表)」 https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11120000-Iyakushokuhinkyoku/0000189361.pdf (日本の制度・検査の年表)
  5. 日本赤十字社「8月21日は献血の日です」(2022年) https://www.jrc.or.jp/donation/blood/news/2022/0819_027623.html (「黄色い血」)
  6. 日本赤十字社「8月21日は献血の日です」(2025年) https://www.jrc.or.jp/donation/blood/news/2025/0812_048359.html (1964年の閣議決定)
  7. 日本赤十字社 医療関係者向け情報(2022年12月) https://www.jrc.or.jp/mr/product/information/pdf/info_202212_1.pdf (赤血球製剤の有効期間)
  8. 献血マップ「保存期間」 https://kenketsumap.com/guide/hozon-kikan (民間サイト。1日の輸血人数・血小板の保存期間)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

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