1. あつい しるを、どうして てで もてるの?
1. 熱い汁を、なぜ手で持てるのか
1. 熱い汁を手で持てる理由 ── 木の漆器と、匙を使わなくなった理由の一つ
おみそしるの おわんは、りょうてで もって、そのまま くちを つけて のめます。あつい しるが はいって いても、おわんが そんなに あつく ならないからです。
きで できた うるしの うつわは、ねつが つたわりにくい と いわれます[1]。だから てで もてて、くちを つけても だいじょうぶ なのです。
むかしの にほんでは、さじも つかって いました。でも ならじだいの あとは、だんだん さじを つかわず、はしだけで たべるように なります。おわんを てで もてた ことも、その りゆうの ひとつと されて います[1]。
では、この もちやすい まるい かたちは、どうやって つくるのでしょう。
お味噌汁のお椀を両手で包むように持って、そのまま口をつける。あたりまえの動きですが、熱い汁を入れた器でこれができるのは、器の材料のおかげです。
農林水産省の資料によると、木でできた漆器は熱が伝わりにくく、熱い汁物を入れても手で持てて、直接口をつけて飲むこともできます。日本で匙を使う伝統が消え、箸だけで食べるようになったのは奈良時代以降で、手で持てる椀があったことが、匙を使わなくなった理由の一つとされています[1]。
まず、熱い汁を手で持てる理由を見ました。次は、丸い形の作り方を見ていきます。
手に持てる椀の第一の条件は、熱い汁を入れても持てることである。農林水産省の資料は、木製の漆器は熱が伝わりにくいため、熱い汁物を入れても手で持て、直接口をつけて飲めたと説明する。そのため匙は次第に使われなくなり、奈良時代以降の日本では箸だけで食べる形が定着したという[1]。
ただし、これは「椀が原因で匙が消えた」と言い切る資料ではなく、椀が手に持てたことを理由の一つとして挙げるものにとどまる。
では、手に持てるという性質のうえに、丸くて口当たりのよい形は、どのように作られたのか。次の章で、木を削る側から見る。
2. まるい かたちは、どうやって けずるの?
2. 丸い形は、木を回して削り出す
2. ろくろで挽く木の椀 ── 形は土器の器種とおおむね一致する
きを くるくる まわしながら けずると、まるい かたちに なります。この どうぐを「ろくろ」と いいます。ろくろで きの うつわを つくる しごとは「きじや」と よばれて きました[5]。
ならけんの あすか・ふじわらの ちいきでは、7せいきの ろくろで つくった うるしぬりの おわんなどが 7てん みつかって います[2]。
この ころの しょっきの かたちは、おなじ じだいの どきと だいたい いっしょでした[2]。かたちは どきと にて いて、きで つくる やりかたが ふえて いったのです。ろくろで つくる ものが おおく なるのは、8せいき いごと されます。
では、ぬる うるしは、いつごろから あったのでしょう。
木の器の作り方は、昔から大きく分けて4つあったとされます。木をくり抜く刳物、ろくろにかけて回しながら削る挽物、板を組む指物、薄い板を曲げる曲物です。お椀の丸い形に近いのは、ろくろで作る挽物です。回しながら削るので、丸い形になりやすいのです。
奈良文化財研究所の紀要によると、飛鳥・藤原地域では7世紀の挽物の食器が7点確認されています。漆を塗った椀もあります。紀要では、ろくろで作る挽物が刳物よりも主流になるのは8世紀以降とされ、7世紀のものはその芽生えと評価されています[2]。
この当時の食器の形は、おおむね土器の器種と一致するそうです[2]。形は土器のものに近く、作る方法が木の挽物に広がっていった、と見えます。ろくろで木を削る職は、木地屋(木地師)と呼ばれます[5]。
丸い形を作る道具はそろいました。では、表面の漆は、いつごろから塗られていたのでしょう。
椀の丸さは、木をどう加工するかと深く結びついている。古代の木製容器は、刳物・挽物・指物・曲物に分けられ、ろくろで回転させて成形する挽物が刳物より主流になるのは8世紀以降のこととされる[2]。弥生時代にさかのぼるとする説もあるが、7世紀について確かな例が示されているので、ここでは7世紀を出発点にする。
奈良文化財研究所の紀要は、飛鳥・藤原地域で7世紀の挽物食器(漆を塗った椀などを含む)が7点確認され、8世紀以降に盛んになる生産の芽生えとして評価されている、と述べる[2]。数が少ないため「7世紀に一般化した」とは言えず、あくまで始まりの兆しである。
もう一つ注目したいのは、これらの食器の形がおおむね土器の器種と一致する点である[2]。ろくろで丸く削れば形が決まる、という単純な話ではなく、当時すでに使われていた土器の形に、木という素材が合わせられていった、と読める。木を挽く職人は木地屋(木地師)と呼ばれ、ろくろで盆や椀など塗らない木地のままの器を作った[5]。
では、その木地に塗る漆の技術は、いつ頃からあったのか。
3. うるしは、いつから ぬって いたの?
3. 縄文の人は、もう漆を塗っていた
3. 漆の技術は縄文時代にあった ── 是川遺跡から言えることと言えないこと
あおもりけんの これかわいせきから、じょうもんじだいの おわりごろの ものが 963てん みつかって います。くにの たいせつな ぶんかざいです[3]。
この なかには、うるしを ぬった うつわが 101てん、きの うつわが 91てん ありました。あかい いろの もとに なる ベンガラを まぜた うるしを ぬった どきも あります[3]。
ここで わかるのは、うるしを ぬる わざが、じょうもんじだいに もう あった ことです。これらを「おわん」と よべるかは、わかりません。
わざは あったのに、うるしの おわんが ひろまるのは ずっと あとです。なにが かわったのでしょう。
青森県八戸市の是川(中居)遺跡から出た963点は、縄文時代晩期のもので、国の重要文化財です。このうち漆器が101点、木製品が91点あり、漆に赤い顔料のベンガラを混ぜて塗った土器もあります[3]。
縄文時代の人が、漆を塗る技を持っていたことは、これで分かります。ただし、県のページが示しているのは土器や木製品の名前までで、これを「椀」と呼べるかどうかまでは分かりません。「縄文の人も漆のお椀を使っていた」と書くのは、資料より少し先へ進みすぎです。
技術があったのに、漆のお椀が食卓の中心になるまでには、そこからずいぶん時間がかかったようです。何がそれを変えたのでしょうか。
漆の技術そのものは、椀の歴史よりもずっと古い。青森県八戸市の是川(中居)遺跡の出土品963点は縄文時代晩期のもので、国の重要文化財に指定されている。内訳には漆器101点、木製品91点があり、漆にベンガラを混ぜた赤い漆を塗った土器も含まれる[3]。
ここから言えるのは、縄文時代晩期に、赤い漆を器に塗る技術があった、というところまでである。県の資料が示すのは土器・木製品といった総称であり、「椀」の出土として書かれているわけではない。したがって、縄文時代の椀が庶民の食卓にあった、と読むのは無理がある。
では、技術があったのに、なぜ漆椀の食膳が整うのは11〜12世紀ごろになったのか。次の章の資料は、その手がかりを、漆を塗る「手間」に求めている。
4. うるしを 1かいだけ ぬる ちえって?
4. 漆を1回しか塗らない工夫が、お椀を広げた
4. 工程を省いた渋下地漆器が広がり、食膳が変わっていった
11〜12せいきごろ、てまを おおきく へらした、かんたんな うるしの うつわが あらわれました[4]。
したじに、かきの しぶと、すみの こなを まぜて つかいます。うるしは 1かい くらい しか ぬりません[4]。
つくる てまが へると、うるしの おわんを ほしがる ひとが、ふえて いったと されます。どきの おわんは ぐっと へり、うるしの おわんを まん中に、やきものの おわんが たす しょくたくが できました[4]。
てまを へらす ちえが、おわんを ひろげた ようです。
国立歴史民俗博物館の研究報告は、11〜12世紀ごろ、工程や材料を大きく省いた簡素な漆器(渋下地漆器)が現れたと整理しています。下地には柿渋と炭の粉を混ぜたものを使い、漆を塗るのは1層ほどです[4]。
手間と材料が減った分、安く作れるようになったと考えられます。報告では、需要が急速に広がり、土器の椀が大きく減って、漆の椀を軸に、陶磁器や瓦器の椀が補う新しい食膳のかたちができたとされています[4]。
題名の問いに戻ると、お椀は、熱い汁を手で持てる木の性質と、ろくろで丸く削る技、それに漆を簡単に塗る工夫がそろって、手で持てて安く作れる器になりました。ここまでが答えの中心です。
では、その大量のお椀を、だれが、どんな木で作ったのでしょうか。
11〜12世紀ごろに現れた渋下地漆器は、工程と材料を大きく省いた簡素な漆器である。下地に柿渋と炭粉を混ぜたものを使い、漆は1層程度しか塗らない[4]。手間のかかる従来のやり方からすれば、見かけは「手抜き」に近いが、そのぶん安く、数を作れる。
国立歴史民俗博物館の研究報告は、この安い漆器への需要が急速に広がり、土器椀が激減して、漆椀を軸に陶磁器・瓦器の椀が補う新しい食膳のかたちが形成されたとしている[4]。ここで「出現」と「急速な普及」を同じ年代に固定しないよう注意したい。要旨が述べるのは、11〜12世紀ごろに現れ、その後に広がった、という大きな流れである。
題名の問いへの答えを整理すると、手に持てて丸い椀は、木の漆器が熱を伝えにくいこと、ろくろで回して削る挽物の技術、漆を1層にして安く作る下地の工夫の3つが合わさって、広まった。形そのものを直接論じる資料は今回の材料になく、形については「土器と対応する」までしか言えない。
では、大量の椀を作る体制は、どのように整ったのか。
5. だれが、たくさんの おわんを つくったの?
5. 木を削る人と、漆を塗る人が分かれていく
5. 分業と樹種の拡大 ── 木地屋と塗り手が分かれていく
へいあんじだいの おわりごろから、きを けずる ひとと、うるしを ぬる ひとが、あちこちで うつわを つくりはじめました[4]。きを けずる ひとと ぬる ひとが、しごとを わけるように なって いきます。
きじやは、13せいきの かまくらじだいには、きの しごとから わかれた しごとに なって いたようです。もともと やまから やまへ うつる くらしが つよかった とも されます[6]。
15せいきには、ブナや トチノキなど、いろいろな きが うるしの うつわに つかわれました。やすい したじに あわせた ようです。しるものや ぞうすいが ひろまった ことも、うるしの うつわの ひろがりを おした とされます[4]。
安く作れる漆器が広がると、作る側も変わっていきます。研究報告によると、平安時代の後期以降、塗師と木地師が各地で漆器づくりを始め、木地づくりと塗りの分業が進みました[4]。
木地屋については、13世紀の鎌倉時代には木工から分かれた職になっていたようで、もともと山から山へ移り住む性格が強かったとされます[6]。木のあるところへ出向いて、器を削り出していた、ということでしょう。
15世紀になると、安い渋下地に合わせて、ブナやトチノキなど多様な木が食用の漆器に使われました。汁物や雑炊の普及が、漆の食器の普及を後押ししたともいわれます[4]。
ここまでを見ると、お椀は、木を削る人と、漆を塗る人と、汁物を食べる暮らしが、一緒に広げたようです。では、そのあとの時代の食卓は、どうなったのでしょうか。
安価な漆器が広がると、作り手の側にも変化が起きた。研究報告の要旨によると、平安後期以降、塗師や木地師が自立を求めて各地で漆器生産を始め、木地づくりと塗りの分業へ移行した[4]。
木地屋は、13世紀の鎌倉期には木工から分化していたようで、土地に縛られず山から山へ移る性格が強かったとされる[6]。ただしこの記述は「ようである」という推測の強さで書かれており、年代を固定して使うことはできない。
15世紀には、渋下地の漆器が安く作れることに合わせて、ブナ・トチノキなど多様な樹種が食用の漆器に使われた。禅宗の影響による汁物・雑炊の普及が、食用漆器の普及を後押ししたともされる[4]。
この流れは、「安く作れる下地ができる」「分業が進む」「材料の木が増える」「汁物の食文化が需要を支える」と、供給と需要の両側が同時に動いたことを示している。では、こうして広がった椀は、近世の食卓でどんな位置にあったのか。
6. えどじだいの ごはんの おわんは、なにで できて いたの?
6. 江戸時代前期、ご飯の碗は主に漆器だった
6. 江戸前期の飯碗は漆器だった ── 「お茶碗」の呼び名との距離
えどじだいの はじめごろ、ごはんの わんと しるの わんは、おもに うるしの うつわでした[7]。いまの ように、ごはんを やきものの ちゃわんに よそう すがたとは、すこし ちがいます。
そのころの やきものの わんは、おおきめで、おちゃを のむ ために つかわれたと かんがえられて います[7]。
ごはんの うつわを「おちゃわん」と よぶように なった わけは、はっきり しません[7]。
てで もてる きの おわんは、ひとりに ひとつの ものと して、ながく つかわれて きました。
江戸時代の前期、飯碗や汁碗は主に漆器でした。やきものの碗は大ぶりの陶器が中心で、内側の擦れた跡などから、喫茶用だったと推定されています[7]。いまの「陶磁器の茶碗でご飯を食べる」姿は、このころにはまだ中心ではなかったことになります。
江戸時代の中ごろには、陶器の喫茶碗が小形になっていきます。日常の茶が「点てる茶」から「点てない茶」へ変わった可能性を示すものと、この研究の筆者は見ています。飯碗を「お茶碗」と呼ぶ由来と、その始まりの時期は、はっきりしていません[7]。
お椀と箸は個人の持ち物が基本で、自分専用のものを手に持って食べるのが日本の食べ方になりました[1]。手に持つ丸い形は、木の性質、ろくろ、漆の下地の工夫が重なって、そのかたちに落ち着いたと考えられます。
江戸時代前期の飯碗や汁碗は主に漆器だった。陶器の碗は大ぶりのものが中心で、内面の擦れ跡などから喫茶用と推定されている。国立歴史民俗博物館の研究報告では、江戸中期ごろに陶器の喫茶碗が小形化し、これを日常の茶が「点てる茶」から「点てない茶」へ移ったことの表れと筆者は見ている[7]。
つまり、いま私たちが飯碗を陶磁器と思い込んでいる姿は、江戸前期の実態とは違う。飯碗を「お茶碗」と呼ぶ由来や始まりの時期は、必ずしも明らかではない[7]。この点は、椀を扱った別の記事に譲る。
一方、椀と箸が個人の持ち物であることは農林水産省の資料に示される[1]。熱を伝えにくい木の漆器、ろくろの挽物、安価な渋下地の漆器と、本記事で追った3つの要素は、いずれも「手に持って食べる個人用の器」を支えたものと位置づけられる。ただし、手に持って食べる習慣そのものの起源については、今回の材料からは確かなことが言えない。
7. うちの おわんを もちくらべて みよう
7. 家のお椀を持ち比べてみよう
7. 家の椀で確かめる ── 持ち比べと資料の読み比べ
おうちに きの おわんが あったら、やきものの ちゃわんと もちくらべて みましょう。からの ままで、おもさや てざわりを くらべます。
おとなに ぬるめの おゆを いれて もらえば、てに つたわる あたたかさの ちがいも わかります。あつい おゆは つかいません。
おわんの そこや うちがわの、きの めや ぬりぐあいも みて みましょう。きの おわんが ない ときは、おみせで みるだけでも かまいません。
家に木のお椀があれば、陶磁器の茶碗と持ち比べてみましょう。空のままで、重さや手ざわり、縁の厚みを比べます。
大人に、熱すぎないぬるめのお湯を入れてもらえば、手に伝わる温かさの違いも分かります。熱い湯は使いません。木の器が熱を伝えにくい、という資料の記述を、自分の手で試すことになります。
お椀の底や内側の木目、塗りの重なりぐあいも見てください。漆の層が1層なのか何層もあるのかは、見た目では分かりにくいかもしれません。それでも、1つ1つのお椀の作りを想像するきっかけになります。もっと読みたい人は、国立歴史民俗博物館の研究報告[4]を開くと、漆器の技術と食膳の変化が詳しく書かれています。
家に木の椀があれば、陶磁器の茶碗と持ち比べてみるとよい。空の状態で重さと手ざわりを見たあと、大人に熱すぎないぬるめの湯を入れてもらい、器の外側に伝わる温度の差を比べる。熱い湯は使わない。農林水産省の資料の「木製の漆器は熱が伝わりにくい」という記述が[1]、自分の手で確かめられるかどうかを見る体験である。ただし、1つの椀の比較は一例にすぎず、材質や厚みによる差まで一般化はできない。
資料の読み比べも手がかりになる。奈良文化財研究所の紀要[2]は、椀の成形(ろくろの挽物)を、国立歴史民俗博物館の報告[4]は、漆の下地と食膳の変化を、それぞれ別の側面から扱っている。軸が違う2つを並べて読むと、「形」と「下地」がどう重なって椀が広がったのかが見えてくる。原典の抄録は、国立歴史民俗博物館の研究報告のリポジトリで公開されている。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
出典について:公的機関と博物館・研究機関の資料を主に使い、辞典の項目は「木地屋」という職業の説明に使った。何に使ったかは、それぞれの項目に書いている。
- 農林水産省「「和食」を支える日本の箸文化」。https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/oishiiwashoku/article/135/ (木の漆器が熱を伝えにくいこと、匙を使わなくなったこと)
- 奈良文化財研究所紀要2012 木村理恵「飛鳥藤原地域出土の木製食器」。https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/article/10609 (挽物の始まりと、食器の形が土器と対応すること)
- 青森県庁「青森県是川遺跡出土品(重要文化財)」。https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-bunka/jubun_kouko_01.html (縄文時代晩期の漆塗りの土器と木製品について)
- 四柳嘉章「中世漆器の技術転換と社会の動向」国立歴史民俗博物館研究報告210集(2018)。https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2401 (渋下地漆器、分業、樹種の広がりについて。抄録ページの要旨を使った)
- コトバンク「木地屋」(精選版 日本国語大辞典)。https://kotobank.jp/word/木地屋 (木地屋という職業の説明)
- コトバンク「木地屋」(世界大百科事典)。https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E5%9C%B0%E5%B1%8B-50414 (木地屋が分かれた時期と移り住む性格について)
- 長佐古真也「「お茶碗」考」国立歴史民俗博物館研究報告94集(2002)。https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/1034 (江戸時代の飯碗・汁碗と茶碗について。抄録ページの要旨を使った)
なおした ところ
更新履歴
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