1. 名前は スペイン語なのに、どこで ひろまったの?
1. 名前はスペイン語なのに、広まったのはどこか
1. 名はスペイン語、広まった舞台はテキサス:ここまでが確かな部分
先に 答えを 言います。チリコンカンは、アメリカの テキサス州、とくに サンアントニオで ひろまった りょうりだと いわれて います[2]。
ただし、「ここで うまれた」と はっきり 言える 話では ありません。はじまりには、いくつか 話が あります。
テキサスの りょうりは、スペインの りょうりと もとから すんで いた 人たちの りょうりが まざり、あとから ふえた メキシコの 人たちの りょうりも くわわって できたと いわれます[1]。「テクスメックス」と よばれる なかまの りょうりです。チリコンカンは、その なかまの 中の 有名な りょうりの 一つと されて います。
名前は スペイン語でも、できあがった ばしょは テキサス。この ずれが、この りょうりの おもしろい ところです。
先に答えの要点を書きます。チリコンカンは、テキサス州、とくにサンアントニオで広まった料理とされ、起源には複数の説があります[2]。「ここで生まれた」と一つに決められる話ではありません。
背景にあるのが、テクスメックス料理です。スペイン料理と、もともとその土地にいた人々の料理が混ざって原形ができ、そこへ19世紀にテキサスで増えたメキシコ移民の料理が加わって、テキサスで完成したと説明されます[1]。チリコンカンはその代表的な一品とされています。ただし、この説明はテクスメックス全体の話で、チリコンカンだけの起源は書かれていません。
名前はスペイン語なのに、広まったのはアメリカの町。このずれが、話の入口です。では、広まった町では、どんな場所で、だれが売っていたのでしょうか。
結論の要点を先に置く。チリコンカンは、テキサス州、とくにサンアントニオで広まった料理とされ、起源には複数の説がある[2]。名前の由来は比較的はっきりしていて、スペイン語の Chile con carne(唐辛子と肉)の日本語読みである[1]。
この料理が属するテクスメックスは、スペイン料理と先住民の料理が融合した原形に、19世紀にテキサスへ増えたメキシコ移民の料理が加わり、テキサスで完成したと説明される[1]。ただし、この出典が述べているのはテクスメックス全体の成り立ちであり、チリコンカン単独の起源までは書いていない。そのため、「どこで生まれたか」は別の資料で確かめる必要がある。
では、広まった町の様子は、どう記録されているのか。次の章で、サンアントニオの広場の屋台を見る。
2. 夜の 広場には、どんな 屋台が ならんだの?
2. 日が暮れると、サンアントニオの広場に何が並んだのか
2. 日没から明け方まで開く屋台:メキシコ系の女性たちが支えた広場の名物
むかしの サンアントニオの 広場では、日が くれると、屋台が ならびました。売って いたのは、メキシコに つながる 女の 人たちです。この 人たちは「チリ・クイーンズ」と よばれました[3]。
チリコンカンの ほかに、トウモロコシの こなで つくる タマーレなども 売られて いました[3]。1860年代から 1930年代の おわりごろまで、この 広場の 名物だったと いわれます。
お店は 日ぼつから 朝まで あいて いました。木を もやした 火で にこんだり あたため なおしたり して、石油の ランタンの あかりの 下で 食べたのです。がっきを ひく 人が テーブルを まわり、おかねの かわりに、りょうりで はらう こともあったと つたえられます[3]。
火と あかりと 音がくの ある 夜の 食事。そう 思うと、ちょっと お祭りみたいです。
日が暮れると、サンアントニオの広場には屋台が並びました。売っていたのは、メキシコ系の女性たちで、「チリ・クイーンズ」と呼ばれました。チリコンカンを主役に、タマーレやエンチラーダなども売られたといいます[3]。この屋台は1860年代から1930年代末ごろまで、町の名物だったとされます(出典によって、始まりも終わりも少し幅があります)。
屋台は日没から明け方まで開き、鍋はメスキートという木の薪火で調理したり温め直したりしました。テーブルを照らしたのは石油ランタンです。楽師が席を回り、お金の代わりに料理で支払う場面もあったと伝えられます[3]。
火のにおいと灯り、音楽。屋台というより、夜の小さな祭りの場に近かったのかもしれません。この料理を目当てに、遠くからわざわざやってくる人たちもいました。それはだれで、何に引かれたのでしょうか。
サンアントニオの広場の屋台は、日没から明け方まで営業した。調理と温め直しはメスキートの薪火、照明は石油ランタンで、楽師が席を回り、料理で支払うこともあったと記される[3]。この夜の屋台を担ったのが、メキシコ系の女性たち、通称チリ・クイーンズ(chili queens)である。主力のチリコンカンのほか、タマーレ、エンチラーダ、チリ・ベルデ、フリホーレスなども並んだ[3]。
時期は、出典により1850年代または1860年代から1930年代・40年代初めまでと幅がある。屋台は1860年代ごろから1930年代末ごろまで続いたとされる。約70〜80年にわたり、夜の広場の風景を形づくった計算になる。
では、この屋台はどんな客を引き寄せたのか。次の章で、旅行者の記録を見る。
3. どうして とおくの 人まで、食べに きたの?
3. 遠くからの旅行者は、広場の辛い味をどう受け止めたのか
3. 鉄道と万博:辛い新しい味は、旅行者を通じて町の外へ出た
東や 北の 町から、てつどうで 来た 旅人が、広場に あつまりました。目あては、からくて あたらしい 味です[3]。
1895年、作家の スティーヴン・クレインは、この 味を 「地ごくの れんがの こな」と 書いたと つたえられます[3]。それほど からかった、と いう ことでしょう。
1893年には、アメリカの シカゴで 大きな ばんぱくが ひらかれ、サンアントニオの チリの 屋台が 出ました。多くの アメリカの 人が はじめて チリを 食べる きっかけに なったと いわれます[2]。ただし、正式に 出た 屋台だったのかどうかは、本に よって 書き方が ちがいます。
町で 食べた 旅人、ばんぱくで 食べた 人。食べた 人が 家に 帰って 話せば、味の うわさは 広がって いきます。
広場には、東部や北部から鉄道で来た旅行者もやってきました。辛くて新しい味に引かれたのです[3]。作家のスティーヴン・クレインは1895年に、その味を「地獄の煉瓦の粉」にたとえたと伝えられています[3]。クレインは、辛さを強い言葉で表したと伝えられています。
町の外へ出る機会は、もう一つありました。1893年のシカゴ万国博覧会です。サンアントニオのチリ・スタンドが出て、チリが広まるきっかけの一つになったとされます[2][5]。公式の出展だったかどうかは資料で書き方が分かれ、来場者の多くが初めて食べたという話も、確かな数字があるわけではありません。
町で食べた旅行者、博覧会で食べた来場者。味はそれぞれの町へ持ち帰られたと考えられます。ところが、広場の屋台そのものは、このあとどうなったのでしょうか。
屋台の客層は、地元の人だけではなかった。東部・北部から鉄道で来た旅行者が、辛い新しい味に引かれて広場を訪れたという[3]。作家スティーヴン・クレインは1895年、その味を pounded fire-brick from Hades(地獄の煉瓦の粉)と評したと引用される[3]。
拡散の契機はもう一つある。1893年のシカゴ万国博覧会(コロンビア博)にサンアントニオのチリ・スタンドが出て、普及のきっかけの一つになったとされる[2][5]。公式出展だったかどうかは資料で説明が分かれ、「多くの人が初めて食べた」という話も定説とまでは言えない。なお、サンアントニオの町の創設を1731年とする記述(カナリア諸島の16家族)[2]から数えると、万博は162年後にあたる。
旅行者や万博を通じて味が外へ出た一方、広場の屋台そのものには別の事情が起きていた。
4. 屋台が なくなっても、チリは どうして ひろがったの?
4. 広場の屋台が消えたあとも、チリが広がり続けたのはなぜか
4. 衛生をめぐる規制で屋台は消え、缶詰がチリを全米へ運んだ
広場の 屋台は、ずっと つづいた わけでは ありません。町は、えいせいを りゆうに、屋台を とじたり 開いたり しました[6]。
1900年代の はじめには、町の まん中の 広場から 出されたと いわれます。1939年には 市長が、みんなで つかう 調理ばと けんこうカードを もとめました。そして 1940年ごろには、屋台は すがたを けしたと 書かれて います[6]。
では、そのあと、チリは なくなったのでしょうか。いいえ。かんづめが ひろまった おかげで、チリは アメリカじゅうに ひろがり つづけたと いわれます[2]。
かんづめなら、遠くの 町でも 食べられます。広場で 生まれた 味が、台所や 店だなに 入った のです。
広場の屋台は、いつまでも続いたわけではありません。市は衛生を理由に、屋台を閉めたり再開したりを繰り返しました[6]。1900年代の初めには中心部の広場から追い出され、1939年には市長が中央の調理場と健康カードを求めたとされます。1940年ごろには、チリ・クイーンズの屋台は姿を消したと書かれています[6]。時期は出典で少しずれるため、どれも「ごろ」としておきます。
それでも、チリは消えませんでした。缶詰の普及によって、全米へ広がり続けたといわれています[2]。
広場の鍋は、缶の中に場所を移したのでしょう。ところが、広がるほど「結局、どこの料理なのか」という疑問は強くなります。州どうしの言い分は、どう食いちがうのでしょうか。
屋台の衰退は、衛生規制の積み重ねで説明される。市は衛生を理由に屋台の閉鎖と再開を繰り返し、1900年代初めに中心部の広場から追い出し、1939年には市長が中央の調理場と健康カードを求め、1940年ごろには姿を消したという[6]。追い出しの時期(1902年説など)と、市の衛生局による閉鎖(1940年代初めとする説明もある)は別の出来事として語られており、年代は「ごろ」で扱うのが妥当である[6]。
それでも料理は消えなかった。缶詰の普及により、チリは全米に広がり続けたとされる[2]。屋台という「その場で食べる形」から、缶詰という「持ち運べる形」へ移ったことで、産地と食べる場所が切り離されたと読める。
産地と食卓が離れるほど、「発祥」の主張が互いにぶつかる余地は大きくなる。次に、その主張を整理する。
5. 「うちが はじまり」と 言う 州が あるのは なぜ?
5. 「うちが発祥」と言う州があるのはなぜか
5. 起源は一つに決まらない:カナリア諸島説、テキサスとニューメキシコの食いちがい
はじまりの 話の 一つに、カナリアしょとうの 人たちが もちこんだ にものが もとだと いう 話が あります。サンアントニオは、1731年に カナリアしょとうの 16 かぞくが つくった町だと 書かれて います[2]。ただし、たしかな きろくの うらづけは よわいと いわれ、たくさんの 話の 一つに とどまります。
1977年、テキサス州の 議会は、チリを 州の 公式りょうりに 決めました[4]。その けつぎには、チリの はじまりは サンアントニオだと 書かれていますが、チリ・クイーンズの ことは 出てきません。
いっぽう、となりの ニューメキシコ州の 人たちは、「テキサスが はじまり」には 強く はんたいして います[4]。そもそも 「チリ」が 指す ものも 州で ちがいます。ニューメキシコでは とうがらしの 実や 植物や、それを つかった いろいろな りょうり。テキサスでは、ある 一つの りょうりです[4]。
おなじ 言葉でも、さしている ものが ちがう。だから 話が かみあわないのかも しれません。
起源の説の一つに、カナリア諸島からの移民が持ち込んだ煮込み料理が元になったという話があります。サンアントニオは1731年に、カナリア諸島の16家族が築いた町だと書かれています[2]。ただし確かな史料の裏づけは弱く、説の一つにとどまります。
1977年、テキサス州議会はチリを州の公式料理に定めました。決議は、チリの伝統がサンアントニオで始まったと述べますが、チリ・クイーンズには触れていません[4]。
一方、ニューメキシコ州はこの主張に強く異を唱えます[4]。理由の一つは、「チリ」の指すものが州で違うことです。ニューメキシコでは唐辛子の植物や実、それを使う複数の料理を指し、テキサスでは特定の一品を指します[4]。
よく引用される初期の記述の一つに、1828年にサンアントニオを訪れたJ.C.クロッパーの日記があります。肉を細かく刻み、肉と同じほど多い唐辛子と煮る貧しい家の食事を書いたもので、日記には「チリ」の名は使われていないと紹介されます。
起源をめぐる説は一つではない。カナリア諸島説は、サンアントニオ(サンフェルナンド・デ・ベハル)を1731年に築いた16家族のカナリア諸島移民が煮込みを持ち込んだとするが、確かな史料の裏づけは弱く、有力説の一つにとどまる[2]。
州の側の主張も食いちがう。1977年、テキサス州議会は下院共同決議第18号(第65議会)でチリを州の公式料理と定めた。決議はチリの伝統がサンアントニオで始まったと述べるが、チリ・クイーンズには触れない[4]。これに対しニューメキシコ州は、起源の主張に強く異を唱える。さらに chili の指す範囲が違い、ニューメキシコでは植物・実・複数の料理を指し、テキサスでは特定の1品を指す[4]。つまり、争いの一部は言葉の定義の差に根ざしている可能性がある。
「チリのような料理」のよく引用される初期の記述の一つとして、1828年にサンアントニオを訪れたJ.C.クロッパーの日記が挙げられる。肉を細かく刻み、肉と同じほど多い唐辛子で煮る貧しい家の食事で、日記には「チリ」の名は使われていないと紹介される。
年数も確かめておく。1731年から1893年の万博までが162年、万博から1977年の決議までが84年である。決議は、屋台が消えて約40年後に、屋台を語らないまま起源を述べたことになる。
6. チリコンカンを 見かけたら、なにを 見る?
6. 身近な「発祥」を、材料と出典で読み比べる
6. 一つの「発祥」を疑う:ラベルと出典を読み比べる
やってみよう:スーパーで、チリコンカンの かんづめや、チリコンカンの もとを 見て みましょう。見つからなければ、おうちに ある ほかの かんづめや レトルトの ひょうじで、りょうりの 名前と ざいりょうの かんけいを 見て みても いいです。うらの ひょうじには、「とうがらし」や 「チリパウダー」と いった 名前が あるか 見て みます。「チリ」が 入って いるかも 見て みましょう。
りょうりの 名前は、スペイン語。ひろまった ばしょは、テキサスの 広場。でも、はじまりを 「ここ」と 一つに 決めるのは むずかしい。そんな りょうりが 身近に あります。
ほかの りょうりでも、「どこが はじまり?」と 気に なったら、本や 図かんを 2さつ ならべて、読みくらべて みましょう。
やってみよう:スーパーで、チリコンカンの缶詰やレトルトの素を手に取り、裏の原材料表示を見てみましょう。「チリパウダー」や唐辛子の名前があるか、肉のほかに何が入っているかを見ます。名前は「唐辛子と肉」でも、実際の中身は商品ごとにちがうはずです。店で見つからなければ、家にある別の缶詰やレトルト食品の表示で、料理名と材料の関係を見てもかまいません。
もう一つ、気になる料理の「発祥」を2冊の本や資料で読み比べるのもおすすめです。州や町の言い分、伝承の説、史料が残っているかを分けてメモすると、「確かなこと」と「言われていること」の境目が見えてきます。
この記事の出典欄には、サンアントニオ側の記事と、州の決議を解説した資料を並べました。広場の屋台のにぎわいと、決議のそっけなさの差に、そのまま気づけるはずです。
確かめ方の一つは、現物の表示である。チリコンカンの缶詰やレトルトの素の原材料表示で、チリパウダーや唐辛子の記載、肉以外の材料を見る。名前は「唐辛子と肉」でも、商品ごとの中身は調べないと分からない。家でできる範囲の観察にとどめ、調理は必須としない。
もう一つは、出典の読み比べである。本記事では、サンアントニオ側の歴史記事[3]、地元報道[6]、南部の食文化を扱う資料[2]、州の公式料理を解説する資料[4]を突き合わせた。広場の屋台を描く資料と、決議の文面(チリ・クイーンズに触れない)との温度差は、同じ「発祥」でも誰が何のために語るかで中身が変わることを示す一例だろう。
その他の料理の「発祥」も、伝承・州や町の主張・史料の三つに分けて読めば、確かな部分が見えやすくなる。1828年の日記のように二次資料でしか確かめにくい記述は、原文に当たる価値がある。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文の事実は、次の資料にもとづきます。年代は資料によって幅があるため「ごろ」で書いています。
- eat-treat.jp コラム「チリコンカン」 https://www.eat-treat.jp/columns/1091 (名前の由来、テクスメックスの成り立ち)
- Museum of the New South, "Chili con carne" https://www.museumofthenewsouth.org/southern-tables/chili-con-carne (広まった場所、カナリア諸島説、万博、缶詰)
- Journal of San Antonio, "Popular Chili Queens Graced San Antonio Plazas" (UIW) https://www.uiw.edu/sanantonio/jenningschiliqueens.html (広場の屋台、旅行者、クレインの評)
- State Symbols USA, Chili https://statesymbolsusa.org/node/1201 (1977年の州の公式料理、州ごとの主張)
- Wikipedia, "Chili con carne" https://en.wikipedia.org/wiki/Chili_con_carne (1893年の万博の位置づけ)
- San Antonio Report, "Recognizing San Antonio Chili Queens" https://sanantonioreport.org/recognizing-san-antonio-chili-queens/ (屋台が消えた経緯)
なおした ところ
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