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横浜よこはまの 中華街ちゅうかがいの もんが できたのは、1955ねんって ほんとう?

横浜中華街の牌楼(門)は、戦前せんぜんには1つもなかった:三つの中華街が、別々の事情で生まれたわけ

横浜中華街の牌楼ぱいろうは戦前せんぜんには無く、最初は1955年:横浜・神戸こうべ・長崎の中華街はなぜ別々の事情で生まれたのか

分野:歴史・文化

よこはまの 中華街ちゅうかがいに ある 大きな もん(牌楼ぱいろう)や 中国ふうの たてものは、戦前せんぜんには なかったそうです。はじめての 牌楼ぱいろうが できたのは、1955ねんでした。もんが ない ころ、中国の ひとたちは どうして そこに あつまって いたのでしょう。

この メモでは、横浜よこはま・神戸こうべ・長崎ながさきの 3つの 中華街ちゅうかがいが、ぜんぶ ちがう わけで うまれた ことが わかります。

横浜中華街にある牌楼ぱいろう(中国風の門)は、戦前には無く、戦後に建てられたものだと報告されています。そのうち、日本で最初の牌楼ができたのは、1955年です。では、門のなかった時代に、中国の人たちはなぜその場所に集まったのでしょうか。

この記事では、横浜・神戸・長崎の三つの中華街が、仲介役の仕事、住める場所の制限、荷物蔵の埋め立て地という別々の事情から始まったことが分かります。

横浜中華街の牌楼(中国風の門)は、研究によれば戦前には無く、戦後に建てられたものである。そのうち日本で初めての牌楼が完成したのは1955年で、「中華街」という呼び名が定着したのもこの頃とされる。では、門のない時代に、人々はなぜそこへ集まったのか。

この記事では、横浜・神戸・長崎の中華街の起こりが、仲介役の需要、条約未締結による居住制限、荷物蔵のための埋め立てという異なる事情に由来し、現在の「中華街らしい姿」はその後に整えられたことが分かる。

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1. 中華街ちゅうかがいの もんは、いつ できたの?

1. 横浜中華街の門は、いつ建ったのか

1. 横浜中華街の牌楼は、いつ建ち始めたのか:「中華街」という名の定着と合わせて

横浜よこはまの 中華街ちゅうかがいには、大きな もんが あります。牌楼ぱいろうと いいます。いまは 店が 600けんいじょう ならんで います。

この もんは、むかしから あったように みえます。でも、ある けんきゅうでは、牌楼ぱいろうや 中国ふうの たてものは 戦前せんぜんには なくて、戦後せんごに たてられた ものだと しらべて います。

よこはまの まちの きろくには、1955ねん 2月に、日本ではじめての 牌楼ぱいろうが できて、おいわいの しきが あったと かいて あります。この ころから、「中華街ちゅうかがい」という なまえが ひろまったと かんがえる けんきゅうしゃも います。

では、もんが できる まえの まちは、どんな ところだったのでしょう。

横浜中華街を歩くと、あちこちに中国風の門が立っています。牌楼といい、風水の考えにもとづいて建てられたものだそうです。いまは600軒以上の店が並ぶ、にぎやかな町です[3]。

ところが、筑波大学の研究によると、これらの牌楼や廟などの中国風の建造物は、戦前には無く、戦後に建てられたものです[1]。横浜市中区の年表には、1955年(昭和30年)2月に、中華街の薩摩町寄りの入口に「日本で初めての牌楼」が完成し、落成式があったと書かれています[2]。

この牌楼には「中華街」と書いた扁額が掲げられました。同じ研究は、「中華街」という呼び方がこの頃から定着し、旧埋立居留地の北側を指す名前としてこのとき初めて登場したといえる、と述べています[1]。これは研究者の見方なので、それ以前に誰もその言葉を口にしなかったという意味ではありません。

門より前の町は、どんな場所だったのでしょうか。

横浜中華街の地区には、現在10基の牌楼や廟などの中国風建造物が建てられている。牌楼は風水思想にもとづいて建てられ、600軒以上の店が並ぶ[3]。一見すると昔からの景観に見えるが、末廣拓登の研究(筑波大学)は、これらが戦前には無く、戦後に建てられたものだと指摘する。なお「10基の牌楼や廟など」という記述であり、牌楼だけが10基という意味ではない[1]。

では、いつ始まったのか。横浜市中区の年表は、1955年(昭和30)2月に、中華街の薩摩町寄りの入口に日本で初めての牌楼が完成し、落成式が行われたと記す[2]。前述の研究は、この牌楼門に「中華街」の扁額が掲げられた頃から「中華街」の呼び名が定着したと見ており、旧埋立居留地の北側を示す名称としてこのとき初めて登場した「といえる」と、評価の形で書いている[1]。つまり、町の姿と町の名前の両方が、この時期に整えられた可能性が高い。

そうなると、問いは逆向きになる。門も「中華街」という名もない時代に、中国人はなぜ横浜のその場所へ集まったのか。

2. 中華街ちゅうかがいの まえの よこはまには、どうして 中国の ひとが いたの?

2. 門のなかった横浜に、中国の人が集まった理由

2. 買弁と関帝廟:門のなかった時代に、中国人が横浜へ集住した理由

1859ねんに、横浜よこはまの みなとが ひらかれて、がいこくの ひとが すむ ばしょ(居留地きょりゅうち)が できました。がいこくの 店と 日本の 店が、ものを うり かいする ためです。

でも、ことばも しゅうかんも ちがう どうしでは、はなしが すすみません。そこで やくに たったのが、中国から きた ひとたちです。買弁ばいべんと いう、あいだに はいって とりもつ しごとを して、貿易ぼうえきを ささえました。

この ひとたちは、そのまま 居留地きょりゅうちの なかに まちを つくりました。ある けんきゅうしゃは、関帝廟かんていびょうという おみやが あった ことが、ひとが あつまって すむ きっかけに なったと かんがえて います。

1923ねんの 関東大震災かんとうだいしんさいで まちは たいへんな ことに なりましたが、また もとの ように たてなおされました。

じゃあ、おなじ ころの 神戸こうべでは、どうだったのでしょう。

1859年に横浜が開港すると、外国人が住む居留地ができ、外国の商人と日本の商人が貿易を始めました。このとき重要だったのが、買弁と呼ばれる、取引の間に入る仲介役の中国人です[1]。言葉も習慣もちがう相手との商売では、間に立つ人がいなければ話が進みません。

そうして渡ってきた中国人は、居留地の中に中国人街をつくりました。研究では、関帝廟の存在が、旧埋立居留地への集住を促したとされています。関帝廟は、商売繁盛の神として知られる関羽をまつる廟です[1][3]。仕事の場と心のよりどころが近くにそろった、ともいえそうです。

町は1923年の関東大震災で壊滅しましたが、復興しました[1]。そして門が建ち並ぶのは、さらにあとの戦後です。

横浜の中国人は「商売の仲介役として呼ばれ、居留地の中に集まった」人たちでした。では、同じ時期の神戸でも、同じ形で町ができたのでしょうか。

横浜は1859年の開港以降、外国人居留地が形成された。中国人は、日本人と西洋人が貿易をするうえで重要な買弁(外国商社と現地商人の間を取り持つ仲介役)として日本に渡り、中国人街を築いた[1]。言語も商慣習も異なる当事者が直接交渉できない以上、間に立つ専門職が必要になる。町の起こりは、貿易という仕組みの中で需要が生じたことにある。

では、なぜ散らばらずに一か所へ集まったのか。伊藤(2018)は、関帝廟の存在が、中国人の旧埋立居留地への集住を促したとする。これは研究者の見方であり、唯一の理由と断定する資料ではない。関帝廟が祀る関羽は商売繁盛の神とされ[3]、商いを生業とする人々にとって、信仰の場が居住地を決める一因になりうる、という筋道が読み取れる。

町は1923年の関東大震災で壊滅したが、復興した[1]。これらを踏まえると、横浜の中華街は、仲介役という仕事と廟という拠り所を核に、居留地の中で形づくられた町であり、牌楼の並ぶ景観はその後の層にあたる。

ところが、神戸の場合は事情がまったく異なる。

3. 神戸こうべでは、どうして 中国の ひとは そとに すんだの?

3. 神戸の中国人は、なぜ居留地のすぐ西に店を開いたのか

3. 条約が無かった神戸:居留地に住めない中国人が、雑居地に町をつくるまで

神戸こうべの みなとが ひらいたのは、1868ねんです。ここにも、がいこくの ひとの ための 居留地きょりゅうちが ありました。

ところが、その ころの 日本は、清国しんこく(いまの 中国)と、くにどうしの やくそく(条約じょうやく)を むすんで いませんでした。そのため、中国の ひとは、一部いちぶの はたらく ひとを のぞいて、居留地きょりゅうちの なかに すめなかったのです。

そこで、居留地きょりゅうちの すぐ にしに ある、みんなが ざっと まじって すめる ところ(雑居地ざっきょち)に、店を ひらきました。

ひがしにしに 160メートル、みなみきたに 80メートルほどの せまい まちに、ざっかの 店、ぶたにくの 店、漢方薬かんぽうやくの 店、やおやや さかなやなどが ならんで いたそうです。洋服ようふくを つくる 職人しょくにんも すんで いました。

この まちには、どうして「南京町なんきんまち」という なまえが ついたのでしょう。

神戸は1868年に開港しました。横浜とちがうのは、このとき清国と日本のあいだに条約がなかったことです。そのため中国人は、一部の使用人を除いて外国人居留地の中に住むことができませんでした[4]。

そこで中国人は、居留地のすぐ西側にある雑居地(外国人と日本人が混じって住める地域)に集まり、雑貨商・豚肉商・飲食店などを始めました[5]。「住める場所がほとんど無い」ことが、かえって一つの町を生んだわけです。

最初の南京町は、東西約160メートル、南北約80メートルの狭い町でした。雑貨店、豚肉店、漢方薬店、生鮮食料店などが軒を並べ、洋服職人らも住んでいました[4]。

人も急に増えました。神戸の中国人は、開港の年には10数人だったのが数か月で240人になった、とされています。1879年には617名、1893年には約1060人でした[4]。

ところで、なぜ「南京」町と呼ぶのでしょうか。

神戸は1868年に開港した。横浜との決定的なちがいは、清国と日本の間に条約が締結されていなかった点にある。そのため中国人は、一部の使用人を除き、外国人居留地内に住むことができなかった[4]。住める場所が限られたことで、居留地のすぐ西側の雑居地に集まり、雑貨商・豚肉商・飲食店などを始めたことが南京町の発展につながったとされる[5]。

当初の南京町は、東西約160メートル、南北約80メートルの狭い町で、雑貨店・豚肉店・漢方薬店・生鮮食料店などが軒を連ね、洋服職人も住んだ。これが現在の南京町の最初の様子とされる[4]。

人口の伸びも急だった。同資料によれば、神戸の中国人は開港の年に10数人、数か月で240人とされ、1879年に617名、1893年に約1060人と増えた。ただし、これらの数字は中国人全体の人数であり、すべてが南京町の住民だったとは限らない[4]。

では、「南京町」という名はどこから来たのか。

4. 「南京町なんきんまち」の なまえと、もんは?

4. 「南京町」の名の由来と、のちに建てられた三つの門

4. 「南京町」の名の由来説と、1981年の復興計画で建った三つの楼門

「南京町なんきんまち」の なまえに ついては、ひとつの はなしが あります。

むかし、長崎ながさきで 中国と ものの やりとりを して いた ひとたちは、南京なんきんの ちかくを ながれる 大きな かわの あたりから きた ひとが おおかった、という はなしです。でも、これは ひとつの せつで、きまった ことでは ありません。

この まちにも、のちに もんが たちました。1981ねんに、まちを げんきに する けいかくが たてられて、ひがしに 長安門ちょうあんもん、にしに 西安門せいあんもん、みなみに 海栄門かいえいもんという もんが できました。

この まちの おまつり「春節祭しゅんせつさい」は、1997ねんに、神戸こうべ市の たいせつな ぶんかの ひとつに えらばれて います。

こうして みると、まちが うまれた ときと、もんが たった ときは、ずいぶん ちがいます。では、長崎ながさきは?

「南京町」という名は、江戸時代に長崎貿易に携わった中国人の多くが、南京周辺の長江中下流域の出身だったからだ、という説があります[4]。あくまで説の一つで、長崎の中国人たちの呼び名が神戸に伝わった、という見方です。

この町にも、のちに門が建ちました。1981年に「南京町復興環境整備事業実施計画」がつくられ、十字路の東に長安門、西に西安門、南に海栄門という楼門が建てられました[5]。

町の行事の春節祭は、1997年に神戸市の地域無形民俗文化財に指定されています[5]。

町が生まれた時期と、門がそろった時期は、神戸でもずいぶん離れていました。では、長崎の「新地」は、どうでしょうか。

「南京町」の名は、江戸時代の長崎貿易に従事した中国人の多くが南京周辺の長江中下流域の出身だったからだ、という説がある[4]。出典は「説がある」とするにとどまり、命名の経緯は確定していない。

町の景観は、のちに計画的に整えられた。1981年に「南京町復興環境整備事業実施計画」が策定され、十字路の東側に長安門、西側に西安門、南側に海栄門という楼門が建てられた[5]。なお長安門の完成年は資料によって異なるため、ここでは挙げない。春節祭は、1997年に神戸市の地域無形民俗文化財に指定された[5]。

この点で、神戸も横浜と同じ構図にある。町の起こりは開港直後の雑居地であり、「中華街らしい姿」は100年以上あとの整備によって整えられた。では、長崎の新地は、どう違うのか。

5. 長崎ながさきの「新地しんち」は、どうして 新しい ばしょなの?

5. 長崎の「新地」は、海を埋め立てた荷物蔵の跡だった

5. 長崎新地:中国船の荷物蔵として造られた埋立地が、のちに中華街になるまで

長崎ながさきには、江戸えどじだいに、中国の ひとが すむ ために かこまれた ばしょ(唐人屋敷とうじんやしき)が ありました。1689ねんに できて、まちの いえに ちらばって いた 中国の ひとは、ここに あつめられました。

「新地しんち」は、これとは べつの ばしょです。1702ねんに、うみを うめたてて、中国の ふねの にもつを しまって おく 蔵くらの ための とちを つくりました。これが「新地しんち」の はじまりと いわれて います。

その あと、この ばしょは 中華街ちゅうかがいに なりました。

いまは、十字路に、30〜40けんくらいの 店が ならびます。もんは、中国の 福州から しざいと 職人しょくにんを よんで つくったそうです。

長崎には、江戸時代に中国人(唐人)が住むための囲われた区域、唐人屋敷がありました。元禄2年(1689年)に完成し、それまで民家に散らばって泊まっていた唐人は、すべてここに収容されました。主な目的は密貿易の防止だったとされています[6]。

「新地」は、これとは別の場所です。元禄15年(1702年)、梅香崎の海を埋め立てて、中国船の荷物を納める「新地蔵所」が造られたのが始まりです[7]。土地そのものが新しく造られたから「新地」と呼ばれた、ということです。

その後、この場所は中華街になりました[7]。

いまの新地中華街は、十字路に、約30〜40店が並びます(資料により数が異なります)。四方の入口の中華門は、福州市から資材と職人を呼び、風水にもとづいて東西南北の正しい位置に建てられたと紹介されています[7]。

三つの町を並べると、何が見えてくるでしょうか。

長崎の唐人屋敷は、元禄2年(1689)に完成した。民家に散宿していた唐人はすべてここに収容されたが、主な目的は密貿易の防止とされる[6]。新地はこれとは別の場所で、元禄15年(1702)に梅香崎の海面を埋め立て、中国船の荷物を納める「新地蔵所」を造ったのが始まりである[7]。土地が新しく造られたことが、地名の由来になっている。

現在の新地中華街は、十字路に約40店舗(約30店とする記述もある)が並ぶ。四方の中華門は、福州市から資材と職人を呼び集め、中国の屋根瓦を使い、風水に基づいて正確な東西南北に配置したと紹介されている[7]。ただしこの情報は観光系の紹介で、一次資料による裏づけは限られる。

ここまでで三つの町を見終えた。では、それぞれの「始まり」と「中華街らしい姿」は、どう結びつくのか。

6. 3つの 中華街ちゅうかがいは、なにが ちがうの?

6. 三つの中華街を並べると見えること

6. 横浜・神戸・長崎を並べると、「町の始まり」と「中華街らしい姿」はなぜ別の話なのか

3つの 中華街ちゅうかがいは、はじまりが ぜんぶ ちがいました。

横浜よこはまは、貿易ぼうえきの あいだに はいる ひとが あつまった まち。神戸こうべは、居留地きょりゅうちに すめなかった ひとが、そとに ひらいた まち。長崎ながさきは、うみを うめたてた 蔵くらの とちから うまれた まちです。

そして、「中華街ちゅうかがいらしい」もんが たったのは、横浜よこはまと 神戸こうべでは、まちが できた ずっと あとでした。横浜よこはまでは 1955ねん、神戸こうべでは 1981ねんの けいかくの あとです。

いま、あかい もんを くぐる とき、「この もんが ない ころ、ここには どんな ひとが いたのかな」と かんがえて みると、いつもの まちが すこし ちがって みえるかも しれません。

三つの町の始まりは、まったく別の事情でした。横浜は、貿易の間に立つ仲介役の中国人が居留地に集まった町。神戸は、条約がなくて居留地に住めない中国人が、すぐ西の雑居地に店を開いた町。長崎は、海を埋め立てて造った荷物蔵の土地が、のちに中華街になった町です。

そして「中華街らしい姿」は、横浜と神戸では、町が生まれたずっとあとに整えられました。横浜は1955年の牌楼が最初で、神戸は1981年の計画で楼門が建ちました。長崎は福州から資材と職人を呼んで中華門が造られました。

門のない時代、そこにはどんな人がいて、何をしていたのか。この問いを持って門を見上げると、ふだんの景色が少し違って見えるかもしれません。

三つの町の始まりは、仲介役の需要(横浜)、条約未締結による居住制限(神戸)、荷物蔵のための埋め立て(長崎)と、それぞれ別の事情に由来する。横浜と神戸に共通するのは、「中華街らしい姿」が、町の成立よりずっとあとに整えられたことである。横浜では1955年の牌楼が最初で、神戸では1981年の復興計画で楼門が建った。長崎では福州から資材と職人を呼んで中華門が造られた。

今回の資料の範囲でいえば、横浜の「中華街」という呼び名も牌楼と同じ頃に定着したとする研究がある。「景観」「名称」「町の起こり」を別の時間軸で捉えることが、中華街の歴史を読むときの手がかりになるだろう。

自分でも しらべて みたく なったら

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

今日できること:おうちの ひとと、「中華街ちゅうかがいの もんには、どんな ことばが かいて あるのかな」と、しゃしんを さがして みましょう。

出かけてできること:ちかくに 中華街ちゅうかがいが あれば、もんの かずや かたちを みて、しらべた ことと くらべて みましょう。

公式の じょうほう:横浜よこはま市の かんこうの サイトや、ひょうご県の ページで、まちの ようすを しらべられます。

今日できること:中華街の写真を探して、門に掲げられた文字や飾りを見比べてみましょう。「中華街」と書かれた扁額が、どの門にあるのかを探すのも面白い発見になります。

出かけてできること:近くに中華街があれば、門が何基あるか、どの門が新しく見えるかを観察してみましょう。町の始まりと門の関係を、自分の目で確かめられます。

公式情報:横浜市の観光サイト、兵庫県のウェブページ、長崎市の公式サイトで、それぞれの町の成り立ちが紹介されています。

今日できること:筑波大学の研究論文(末廣拓登)と、横浜市中区の年表を読み比べる。年表の1955年の記述と、論文の「中華街」という呼び名の定着の話が、どうつながるかを確かめられる。

出かけてできること:近くの中華街で、門や廟の建立年を示す説明板があるかを探し、本文の年と照らしてみる。

公式情報:神戸大学リポジトリの論文、兵庫県のウェブページ、長崎市公式サイトは、出典欄から読める。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文の事実は、次の資料にもとづきます。観光案内サイトの記述は、補助的に使いました。

  1. 末廣拓登「『横浜中華街』の形成過程とその要因に関する研究」筑波大学 https://www.heritage.tsukuba.ac.jp/wp-content/uploads/2020/07/2_Suehirot.pdf (買弁・関帝廟・牌楼が戦後であること・「中華街」の呼び名)
  2. 横浜市中区「中区年表」 https://www.city.yokohama.lg.jp/naka/kusei/koho/reference/chronology.files/0002_20200318.pdf (1955年の牌楼完成)
  3. 横浜市観光情報サイト「横浜中華街」 https://www.welcome.city.yokohama.jp/spot/details.php?bbid=815 (店数・風水・関羽)
  4. 「チャイナタウンとしての南京町の戦略」神戸大学リポジトリ https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/81009037/81009037.pdf (条約の有無・南京町の最初の様子・人数・名前の説)
  5. 兵庫県 神戸県民センター長メッセージ(平成31年1月) https://web.pref.hyogo.lg.jp/kok12/senterchoumesse/senterchou3101.html (雑居地・1981年の計画と楼門・春節祭の指定)
  6. 長崎市「唐人屋敷の三つの堂」 https://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p000712.html (唐人屋敷の完成)
  7. GLT「長崎新地中華街」 https://www.gltjp.com/ja/directory/item/12865/ (新地蔵所・現在の中華街。観光系の紹介)

なおした ところ

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