1. ワニが ないて いる、と いう はなしは いつから?
1. 「泣きながら食べるワニ」の話は、いつ生まれたのか
1. 伝説の起点 ── 13世紀の書物と、14世紀の旅行記
むかし、ヨーロッパには「ワニは えものを たべながら なく」と いう はなしが ありました。
1265ねんごろの ほんに、この はなしを ワニと むすびつけた ものが あります。14せいき の おわりの『マンデヴィルの たび』と いう ほんには、「なきながら たべる」と かかれました[1]。
そのうち「ワニの なみだ」は、ほんとうは かなしく ないのに ながす なみだの たとえに なりました。1563ねんには、イギリスで この ことばが つかわれた れいが ある そうです[1]。
ただし、これは むかしの人の おはなしです。ワニが ほんとうに ウソなきを して いたわけでは ありません。
泣きながら獲物を食べるワニ、という話は、中世ヨーロッパの文献に見られます。ことばの由来を調べた資料によると、1265年ごろのブルネット・ラティーニの書物が、この話をワニと結びつけた最初の例だとされています[1]。14世紀後半の『マンデヴィルの旅行記』には、ワニが人を「泣きながら食べる」と書かれました[1]。
たとえとしての「ワニの涙」
やがて「crocodile tears(ワニの涙)」は、心にもない涙のたとえになります。遅くとも1563年には、エドマンド・グリンダルが、ある男の悔い改めを「偽りの涙」と批判する文で使っています[1]。
シェイクスピアの『オセロ』(1603年)にも、女の涙が地に落ちれば、ひと粒ごとにワニになる、という台詞があります。ただし、この言い回しをシェイクスピアが作ったわけではありません。
この話は、ワニの何を言い当てていたのか
ここまでは、ことばの歴史です。食べているときに涙が出るという話に、実際に観察の裏づけはあるのでしょうか。
「泣きながら食べる」という伝説をワニと結びつけた最初の例は、1265年ごろのブルネット・ラティーニの書物とされ、14世紀後半の『マンデヴィルの旅行記』ではワニが「泣きながら食べる」と書かれた[1]。伝説そのものの最古の記録はワニの話ではなく、別の怪物にまつわる約1000年ごろの話で、ワニに結びついたのは13世紀になってからである[1]。
この伝説は、のちに「偽りの涙」を意味する慣用句になる。1563年にエドマンド・グリンダルが、男の悔い改めを疑って「crocodile tears」と書いた例が、遅くとも最古の用例の一つとされる。1623年の辞書は、これを「fayned teares(作った涙)」と定義した[1]。シェイクスピア『オセロ』(1603年)には、女の涙が地に落ちるとひと粒ごとにワニになる、という台詞があるが、言い回しの語そのものは出ず、シェイクスピアが作ったわけでもない。
ここで疑問が残る。「ウソ泣き」の側面は、中世の人々の解釈だ。では、ワニが食事中に涙を流す、という観察の部分は事実なのか。この記事の後半は、その点を確かめた2007年の報告から始まる。
2. ごはんの とき、ほんとうに なみだが 出るの?
2. 2007年、食事中の涙を観察した研究者たち
2. 2007年の観察 ── 7頭中5頭が涙を流した
2007ねん、アメリカの けんきゅうしゃが、どうぶつえんの ような ところの アリゲーターと カイマンを、ごはんの ときに 見ました。7とうの うち、5とうが、たべて いる あいだに なみだを ながしたと いいます[2]。なみだが あわだつ 目も ありました。
この なみだは、ごはんの ときに 出て います。かなしい きもちの なみだだと いえる しょうこは ありません。
ただし、この けんきゅうで 見たのは アリゲーターと カイマンで、いわゆる「クロコダイル」は 見て いません[2]。
この疑問に取り組んだのが、神経科医のマルコム・シャナーです。彼は、人の「食べているときに涙が出てしまう」まれな症状を調べていて、ワニのなかまの涙を確かめようと考えました[2]。
フロリダ大学のケント・ヴリートらは、フロリダの飼育施設で、カイマン4頭とアリゲーター3頭の食事を観察しました。7頭のうち5頭が、食べている間に涙を流し、目が泡立つようすの個体もありました[2]。この報告は2007年に学術誌『BioScience』に載り、食事中の涙は「独特のやり方」だと紹介されています[3]。
この観察で言えること
ここで言えるのは、アリゲーターとカイマンで、食事中に涙が出ることがある、という点です。観察された数は7頭と少なく、ワニ(クロコダイル)そのものは観察されていません[2]。「ワニの涙は本当」と言い切るには、対象を限って読む必要があります。
この研究を始めたのは、人の「食事中に涙が出る」まれな症状を調べていた神経科医のD・マルコム・シャナーである[2]。フロリダ大学のケント・ヴリートらは、フロリダの飼育施設で、カイマン4頭・アリゲーター3頭の食事を観察した。7頭中5頭が食べている間に涙を流し、目が泡立つ個体もいた。ワニ(クロコダイル)は対象に含まれていない[2]。
論文はShaner & Vliet(2007)、『BioScience』57巻7号615〜617頁。抄録は、crocodilians(ワニ類)が食事中に涙を流す現象を「独特のやり方」だと報告している[3]。キーワードにはprandial lacrimal ebullition(食事に伴う涙の泡立ち)がある。本文は未読で、観察の詳細は大学の広報記事によった。
したがって、この研究が示したのは「飼育下のアリゲーターとカイマンの一部が、食事中に涙を流した」ことで、サンプルは7頭、観察は1か所の施設に限られる。クロコダイル属を含むワニ類全体に広げて言うには、さらに別の観察が要る。
3. なみだは どこから、どうして 出るの?
3. 食事中の涙は、どうして出るのか ── 息の説とかむ力の説
3. 涙の出方 ── 息の説と、かむ力の説
ヴリートさんは、ごはんの ときの「シューシュー」「ハアハア」と いう いきが かんけい して いると かんがえて います。
ごはんの ときの いきが、はなの おくの すきまを とおる とき、なみだが 目に 出て くるのかも しれない、と いう かんがえです[2]。ただし、しくみは まだ はっきり して いません。
ほかの けんきゅうしゃは、つよく かむ ことで、なみだが しぼりだされる のでは、と かんがえて います[2]。どちらも、からだの うごきで なみだが 出ると いう せつ で、きもちの せつめいは して いません。
では、涙はどうして食事のときに出るのでしょうか。ヴリートは、食事のときに出る「シューシュー」「ハアハア」という息が関係すると考えています。息で押された空気が副鼻腔を通り、涙腺から出た涙と混ざって目に現れる、という説明です[2]。
ただし、正確な仕組みはまだはっきりしていません。別の研究者は、強くかむことで涙が絞り出されるのではないか、という別の案も出しています[2]。どちらも、からだの動きで涙が出るという説明で、感情を理由にしていない点は同じです。
涙の中身は、人に似ている
ブラジルの研究チームは、ヒロハシカイマン10頭などの涙を、試験紙で集めて調べました。ナトリウムや塩化物などの組み合わせは、人の涙と似ていました。タンパク質は多く、人に次ぐ多さでした[6]。
著者らは、目が大きく露出していて、涙の量が少ないことが、タンパク質が多い理由だろうと考えています[6]。ただしこの数字は、調べた個体をまとめて分析したもので、ワニ全般の基準値ではありません。
ヴリートは、食事に伴う「シューシュー」「ハアハア」という呼吸が、副鼻腔に空気を通し、涙腺からの涙と混ざって目に出るという仮説を示した[2]。感情を理由にしない説明である。だが正確な仕組みは分かっておらず、別の研究者(ブリットン)は、強くかむ力で涙が絞り出される、という別案を出している[2]。どちらも仮説で、決着していない。
では、その涙は人の涙と同じ成分なのか。2020年のブラジルの研究(Oriá et al.)は、ヒロハシカイマン10頭などの涙を試験紙で集めて分析した。電解質の組み合わせは人に似ており、ナトリウムと塩化物はやや多かった。総タンパク質は人が最も多く、カイマンは2番目だった[6]。
著者らは、カイマンの涙に比較的タンパク質が多いのは、目の表面が広く露出し、涙の産生が少ないためと考える[6]。ただし、これは個体をまとめた分析で、種の基準値ではない。しかも、この研究が調べたのは、食事中の涙ではなく、ふだんの涙である点にも注意が要る。
4. 人にも、ごはんの ときに なみだが 出る ことが あるの?
4. 人にもある「ワニの涙症候群」
4. 神経のつなぎ違いと、症状の名前の由来
じつは、人にも「ワニの なみだ」と よばれる ことが あります。ごはんを たべる ときに、かたほうの 目から なみだが 出て しまう のです。
これは、だれにでも おこる ことでは ありません。かおの しんけいが いたんだ あとに、まれに おこります[4]。
しんけいは、だえきを 出す ところに いくはずが、まちがえて なみだを 出す ところにも つながって しまう のだと かんがえられて います[5]。それで、たべて だえきが 出る ときに、なみだも 出ます。
これは、かなしい きもちとは かんけいが ありません。
人にも、食事のときに片方の目から涙が出てしまう、まれな状態があります。顔の神経(顔面神経)の麻痺(ベル麻痺やハント症候群、けがなど)の後に起こることが多く、麻痺の3〜12か月後に出た例が報告されています[4]。「食事中は誰でも涙が出る」というわけではありません。
どうして起こると考えられているか
仕組みは、神経のつなぎ違いだと考えられています。顔面神経が傷んで回復するとき、唾液腺へ向かうはずの神経が、涙腺にもつながってしまう。すると、食べて唾液が出るときに、涙も出ます[5]。ただし、早い時期に出るものは別の説(神経線維どうしの短絡)もあり、どれも同じ仕組みと決まったわけではありません。
名前の由来
この症状の名前は、約1400年ごろの小説(マンデヴィルの旅行記)の、ワニが獲物を食べながら涙を流す話に由来するとされます。1913年に報告され、1920年代に名前がついたと紹介する資料もあります[4]。言い伝えが、医学用語として今も使われているのです。
人の「ワニの涙症候群」は、食事のときに片側の目から涙が異常に出る、まれな状態である。末梢性顔面神経麻痺(ベル麻痺・ハント症候群・外傷など)の後遺症として起こることが多く、麻痺の3〜12か月後に出た例が報告されている[4]。
仕組みは、神経のつなぎ違い(誤方向再生)と考えられている。顔面神経が傷んで回復する過程で、唾液腺へ向かう線維が涙腺にもつながり、唾液分泌のときに涙も出る[5]。ただし、早期に発症する例は神経線維どうしの短絡という別の説もあり、一つの仕組みでは説明しきれない[4]。
名前は、約1400年ごろの小説(『マンデヴィルの旅行記』)の、ワニが獲物を食べながら偽善的に涙を流す話に由来するとされる。医学論文は、1913年にオッペンハイムが報告し、ボゴラドが命名したと紹介する。ただしボゴラドの年は資料によって1926年とも1928年ともされ、ここでは1920年代にとどめる[4]。
ここで面白いのは、2007年のワニの観察が、この症状を調べていた神経科医の発想から始まった点である[2]。ワニの涙と人の症状が、同じ名前の別々の現象としてではなく、「食べるときに出る涙」として、研究者の頭の中でつながった。
5. なみだは、きもちの ためだけ じゃ ない
5. 涙の役目は「気持ち」だけではない
5. 涙の3つの分類と、目の表面を守る役目
なみだと いうと、かなしい ときの ものを おもいうかべます。でも、なみだは ふだんから 目を まもって います。
目の おもては、いつも なみだで うるおって います。ごみを ながしたり、目に えいようを あげたり する やくめも あります[6]。
ワニが ごはんの ときに ながす なみだは、かなしみの なみだだと いえる しょうこは ありません。ただ、なみだが 出る しくみは、人でも まだ わからない ことが おおいのです[7]。
日本の眼科の解説は、涙を働きから3つに分けます。目の表面をいつもうるおす基礎分泌、異物などに対処する反射性分泌、感情の高まりで多く流れる情動性分泌です[7]。この3つの分け方で見ると、「悲しい涙」は3つのうちの一つです。ワニの食事中の涙がどれに当たるのかは、ここで使った資料からは分かりません。
涙の主な役目は、目の表面の潤滑、栄養、老廃物の除去、保護と安定を保つことです[6]。涙腺と中枢神経が協調して分泌を調節していますが、不明な点も多いといいます[7]。
涙が出る場面は、悲しいときだけではありません。ワニの涙の話は、涙を「気持ちのしるし」としか見ていなかった時代の見方を、今も映しているのかもしれません。
日本の眼科の解説は、涙液を働きによって3つに分ける。目の表面を絶えず潤す基礎分泌、異物などに対処する反射性分泌、感情の高揚で多量に流れる情動性分泌である。分泌は涙腺と中枢神経が協調して調節するが、不明な点も多い[7]。
涙の主な役目は、目の表面の潤滑・栄養・代謝産物の除去・保護と安定である[6]。伝説が「情動性」の涙だけを前提にしていたのに対し、食事中の涙は、この3分類のうち感情には当たらない。ただし、食事中の涙が3つのどれにあたるのかは、今回の資料には書かれていない。
感情の有無は、また別の問いである。この研究が示せたのは、悲しみとは別の理由で涙が出ることまでで、ワニが感情を持つか持たないかは、ここでは扱わない。
6. じぶんの なみだを 見つけて みよう
6. 自分の涙が出る場面を、数えてみる
6. 出口 ── 涙が出た場面を3つの型に分けて記録する
いちにち、なみだが 出そうに なった ときを、ノートに かいて みましょう。あくびで なみだが 出た とき、まぶしくて なみだが 出た とき、かなしくて なみだが 出た とき、など。
かいた ものを、「いつも うるおして いる もの」「ごみなどに こたえた もの」「きもちが うごいた もの」に わけて みると、どれが いちばん おおいか わかります。
ただし、どう わけて よいか まよう ものも あるはずです。それで かまいません。
どうぶつえんなどで ワニや カイマンを 見る ときは、ごはんの ようすを 見て みましょう。ただし、ぜったいに さくに ちかづかないで ください。
1日のうちに、涙が出そうになった場面をノートに書いてみましょう。あくびをしたとき、まぶしいとき、玉ねぎを切ったとき、悲しいとき、など何でもかまいません。
書いたものを「基礎分泌」「反射性」「情動性」の3つに分けてみると、自分の涙がどんな場面で出たのかを見直せます。どれにも分けにくい場面があれば、そのまま残しておきましょう。そこに新しい疑問が生まれるかもしれません。
もっと読みたくなったら、フロリダ大学のニュース記事[2]や、2020年のカイマンの涙の論文[6]が出発点になります。動物園などでワニのなかまを見るときは、柵に近づかず、目のようすをそっと観察してみてください。
自分で確かめるなら、1日のうちに涙が出そうになった場面を記録し、基礎分泌・反射性分泌・情動性分泌の3つに分ける。うまく分けられない場面が残れば、それは分泌の調節に不明な点が多いという記述[7]と重なる。
資料を読むなら、観察の経緯はフロリダ大学の広報記事[2]、カイマンの涙の成分は2020年のOriá et al.の論文[6]、人の症状は医学書院の抄録[4]が出発点になる。2007年の論文本文は有料のため、まずは抄録[3]を読むとよい。
残る問いは二つある。食事中の涙の仕組みは、息の説とかむ力の説のどちらなのか。そして、クロコダイル属でも同じ現象が起こるのか。どちらも、この記事の資料では決着していない。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
出典について:語源の解説、大学の広報記事、学術誌の抄録、医学書院の抄録、MSDマニュアル、ブラジルの研究論文を使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。
- Word Origins「crocodile tears」。https://www.wordorigins.org/big-list-entries/crocodile-tears (伝説の古い記録と、慣用句の用例について。二次資料)
- フロリダ大学 UF News「Researchers: No faking it, crocodile tears are real」(2007年)。https://archive.news.ufl.edu/articles/2007/10/researchers-no-faking-it-crocodile-tears-are-real.html (観察の頭数、涙の出方の仮説、研究のきっかけについて)
- Shaner & Vliet「Crocodile Tears」BioScience 57(7):615-617(2007年、抄録)。https://bioone.org/doi/full/10.1641/B570711 (原論文の抄録。本文は有料で未読)
- 吉野ら 耳鼻咽喉科・頭頸部外科 62(9)(1990年、抄録)。https://webview.isho.jp/journal/detail/abs/10.11477/mf.1411900134 (人のワニの涙症候群の症状と名前の由来について)
- MSDマニュアル プロフェッショナル版「顔面神経麻痺」。https://www.msdmanuals.com/ja-jp/professional/07-神経疾患/神経眼科疾患および脳神経の疾患/顔面神経麻痺 (神経のつなぎ違いによる仕組みについて)
- Oriá ら「Frontiers in Veterinary Science 7:574」(2020年)。https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC7438592/ (涙の役目と、カイマンの涙の成分について)
- 中村滋 臨床眼科(医学書院、抄録)。https://webview.isho.jp/journal/detail/abs/10.11477/mf.1416201920 (涙の3つの分類について)
なおした ところ
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