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奈良ならの 大仏だいぶつは、だれが なんの ために つくったの?

奈良の大仏はなぜつくられたのか ── 聖武天皇の願いと、「草一本」の呼びかけ

東大寺の大仏(盧舎那仏)造立の動機 ── 聖武天皇の詔にみる「国の安定」と「知識」の思想

分野:歴史・文化

いまから 1300ねんほど まえ、天皇てんのうが、国くにじゅうの 人に こう 言いました。「草を 1ぽん、土を ひとにぎり、もって くるだけでも いい。大仏だいぶつを つくる ために、手つだって ほしい」。

この 天皇てんのうが、奈良ならの 東大寺とうだいじの 大仏だいぶつを つくろうと した 聖武しょうむ天皇てんのうです。いちばん えらい 人が、どうして 「手つだって」と たのんだのでしょう。そのわけを、そのころの できごとと、天皇てんのうの 言葉から 考えます。

奈良の東大寺の大仏をつくると決めた聖武天皇は、743年の詔(天皇の命令の文書)で、草一本、土ひとにぎりを持ち寄るだけの人の協力もよい、と呼びかけました。同じ詔には、人々を無理に働かせてはならない、という考えも書かれています[7]。

国でいちばん力のある人が、なぜそんな呼びかけをしたのでしょうか。そもそも、なぜ大仏だったのでしょうか。その背景には、そのころの世の中の不安と、聖武天皇の願いがあったと考えられています。

天平15年(743年)10月15日、聖武天皇は近江国の紫香楽宮で、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅像を造る詔を発した。『続日本紀』に収められたこの詔は、国家の安泰を願う一方で、権力で民を使役すれば「誹謗や罪を招きかねない」と戒め、草一本・土ひとにぎりの協力でも認めるという異例の内容を含む[4]。

この記事では、造立の動機を、疫病・災害・政変が続いた天平期の社会不安、華厳経の思想、「知識」と呼ばれる信仰集団の仕組みの3点から整理する。製法や大きさは扱わず、「なぜ造ったのか」に絞る。

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1. どうして 大仏だいぶつを つくろうと したの?

1. 答えを先に ── 世の中を落ち着かせたい、という願い

1. 造立の背景 ── 国家の安泰と万民の救済を願う詔

いちばん みじかく 言うと、こうです。聖武しょうむ天皇てんのうは、びょうきや じしんや あらそいで 不安ふあんに なった 世の中を、仏ほとけの 力で 落ち着かせたいと 願ねがったのではないか、と 考えられて います。そして、国くにじゅうの 人の 力を あわせて、とても 大きな 仏ほとけの 像ぞうを つくろうと 考えたのです。

この 仏ほとけの 名前は、盧舎那仏るしゃなぶつです。世界ぜんたいを 光で てらす 仏ほとけと いわれます[3]。

それが 743ねんです。そのとき 出した 詔みことのり(天皇てんのうの 命令めいれいの 文)には、「むりやり はたらかせては いけない」と いう 気もちも 書かれて いたと いわれます[4]。つまり、「みんなの 気もちを あつめたい」と 言ったのです。

いちばん短く言うと、こうです。聖武天皇は、病気・地震・争いで不安になった世の中を、仏の力で落ち着けたいと願いました。そのために、国じゅうの人の力を集めて、盧舎那仏という大きな仏像をつくろうとしたのです。

盧舎那仏は、『華厳経』というお経に出てくる仏で、世界そのものを象徴する仏だとされます[3]。詔が出たのは天平15年(743年)です。東大寺のホームページは、聖武天皇がこの詔を出したことを、大仏づくりのはじまりとして説明しています[1]。

ただし、聖武天皇の気持ちは、残された記録から「そうだったと考えられている」ものです。この記事では、詔の言葉と、そのころの出来事から、願いを読みといていきます。

造立の動機は、一言でいえば、社会不安を仏教の力で鎮め、国家の安泰を図ることだった。東大寺の公式サイトは、天平15年(743年)に盧舎那大仏造顕の詔が出されたことを造立の起点として述べる[1]。公式サイトの英語版は、政治的な争い、天然痘の流行、藤原広嗣の乱を経て、聖武が仏教により深く傾き、仏教こそ国を安定させる道だと考えたと説明する[2]。

盧舎那仏は『華厳経』に説かれ、世界の存在そのものを象徴する仏とされる[3]。ただし、聖武個人の内面は史料から推測されたものであり、動機の細部には研究者によって幅がある(たとえば光明皇后や藤原仲麻呂の関与を重く見る説がある[3])。以下では、詔の文言と同時代の出来事から読み解く。

2. そのころ、どんな ことが あったの?

2. 病気・災害・乱がつづいた時代

2. 天平期の社会不安 ── 天然痘・災害・広嗣の乱・遷都

そのころの 日本には、こまった ことが つづきました。737ねんには、天然痘てんねんとうと いう 病気が 大きく はやり、えらい 人たちも たくさん なくなりました[5]。ひでりや、飢うえや、大きな じしんも ありました[4]。

740ねんには、九州で 藤原広嗣ふじわらのひろつぐと いう 人が 朝廷ちょうていに さからう あらそいを おこしました。天皇てんのうは 都を はなれ、いくつもの 場所へ 都を うつしました[5]。

天皇てんのうの くわしい 気もちは、記録きろくからは 分かりません。ただ、どうしたら 国くにが 落ち着くのかと 考えて、仏ほとけに たよる 思いが 強くなったと 考えられて います[2]。

聖武天皇の時代は、不安なできごとが続きました。天平6年(734年)に大きな地震があり、日照りや飢えも重なっていました[4]。天平9年(737年)には天然痘が大流行し、政治の中心にいた藤原四兄弟をはじめ、多くの高官が亡くなっています[5]。

さらに、天平12年(740年)には九州で藤原広嗣の乱が起こります。乱のさなかに、天皇は関東へ向かい、その後は恭仁京へ都を移しました。そのあとも、難波や紫香楽へと都が動いていきます[5]。

こうした不安を取りのぞき、国を安定させたいという願いが、大仏づくりの背景にあったと推測されています[3]。天皇個人の心の中までは分からないので、「そう考えられている」という書き方になります。

聖武の治世は、災厄と政変が連続した。天平6年(734年)に大地震、旱魃や飢饉が相次ぎ[4]、天平9年(737年)には天然痘が大流行して藤原四兄弟を含む政府高官の多くが病没した[5]。天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こり、聖武は乱の最中に関東へ行幸したのち恭仁京へ遷都、その後も難波・紫香楽と都が転々とした[5]。

こうした不安を除き国を安定させたいという意図が大仏造立の背景にあったとされるが、これは史料にもとづく推測である[3]。詔の要旨は、仏の恩徳を天下に及ぼすことを述べるもので、個々の災害を理由に挙げた形にはなっていない[4]。

3. どうして「仏ほとけ」の 力なの?

3. なぜ仏教なのか ── 河内の知識寺と国分寺

3. 動機の宗教的背景 ── 知識寺の盧舎那仏と国分寺建立の詔

そのころの 日本では、仏教ぶっきょうは、国くにを まもる 大きな 力だと 考えられて いました。

740ねん、聖武しょうむ天皇てんのうは、いまの 大阪府おおさかふに ある 知識寺ちしきじと いう おてらで、盧舎那仏るしゃなぶつの 像ぞうを おがみました。それを きっかけに、大きな 仏ほとけを つくりたいと 思ったと、続日本紀しょくにほんぎと いう 歴史れきしの 本に あると されます[4]。

「知識ちしき」は、いまの 「ものを よく 知って いる」では なく、おなじ 信しんじる 気もちを もつ 人の なかまの ことです。知識寺ちしきじは、そういう なかまが 力を あわせて つくった おてらでした。

また 741ねんには、国くにじゅうに 「国分寺こくぶんじ」を つくる ように 命めいじました。東大寺とうだいじは、その 国分寺こくぶんじの 中心と なる おてらに なりました[4]。

聖武天皇は、天平12年(740年)に河内国(いまの大阪府)の知識寺で盧舎那仏を拝み、造立を思いついたと『続日本紀』に書かれている、とされます[4]。「知識」は、いまの意味の「知識」ではなく、同じ信仰をもつ人々の集まりのことです。知識寺は、そういう人々が力を出し合って建てたお寺でした。

さらに、天平13年(741年)には、国ごとに国分寺・国分尼寺を建てる詔が出されました。『金光明最勝王経』という、国を守る教えのお経にもとづくもので、東大寺は、その総国分寺(いわば国分寺全体の中心)と位置づけられていきます[4]。

つまり、大仏づくりは、突然の思いつきではありませんでした。仏の力で国を守るという考えが先にあり、そこに、知識寺で見た「みんなの力でつくる大仏」の姿が重なったのです。

動機の宗教的な背景には2つの流れがある。第一に、天平12年(740年)2月、聖武が河内国大県郡の知識寺で盧舎那仏を拝し、造立を思い立ったという『続日本紀』の記事で、これがきっかけとされる[4]。「知識」は同じ信仰をもつ人々の集団を指し、知識寺はそうした集団がつくった寺である[4]。

第二に、護国の経典への信仰である。天平13年(741年)の国分寺建立の詔は、『金光明最勝王経』の護国思想にもとづき、国ごとに国分寺・国分尼寺の造営を命じた。東大寺は総国分寺と位置づけられた[4]。盧舎那仏造立は、国家規模の護国政策の延長にあった。なお、東大寺の起源は、神亀5年(728年)に聖武の皇太子基親王の菩提を弔うために建てられた山房にあるとされる[1]。

4. 天皇てんのうは、なんて 言ったの?

4. 詔にこめられた言葉 ── 「心を集めるのがむずかしい」

4. 743年の詔 ── 権力による動員を戒め、「知識」の自発を求める

743ねん、天皇てんのうは 詔みことのりと いう 文を 出しました。中には、つぎの ような ことが あると いわれます[4]。

  • 世の中の 人みんなの しあわせを 願ねがって、大仏だいぶつを つくる。
  • 天皇てんのうは 力も おかねも もって いるので、大仏だいぶつを つくること じたいは かんたんだ。
  • でも、むりやり はたらかせると、人々から 悪く 言われたり、つみに なったり する かもしれない。
  • だから、まいにち 仏ほとけに 手を あわせ、「自分も つくって いる」と 思う 人に 手つだって ほしい。
  • 草を 1ぽん、土を ひとにぎり、もって くる だけでも いい。

この 「草 1ぽん、土 ひとにぎり」は、東大寺とうだいじの ホームページでも しょうかい されて います[2]。国くにの 役人が むりに 集める ことは、禁きんじられた とも いわれます[4]。

いちばん えらい 人が、むりに はたらかせず、少しずつの 手つだいを よびかけた。ここが、大仏だいぶつの 話の おもしろい ところです。

詔は、『続日本紀』に収められています。要点を、現代のことばにすると、次のようになります[4]。

  • 仏の恩を天下にゆきわたらせ、国の安泰と、万物の栄えを願う。
  • 盧舎那仏の金銅の像をつくる。この事業に加わる人を「知識」とし、ともに仏の恵みを受けたい。
  • 私は天下の富と勢いを持つ。像をつくることは、むずかしくない。だが、人々を無理に働かせれば、悪口や、罪を招くおそれがある。
  • だから、加わる人は、真心をもって毎日盧舎那仏を拝み、自分がつくる気持ちになってほしい。草一本、土ひとにぎりの協力も、拒まない。
  • 国司や郡司が、このために人々から無理に取りたててはならない。

東大寺の公式サイトは、詔の一節として「事の成り易くして、心は至り難し」(つくることはやさしいが、心を集めるのはむずかしい)と、「一枝の草、一把の土を持て、像を助け造らんことを請願するものあらば、恣に之を聴せ」を紹介しています[7]。

ここでいう「呼びかけ」の姿が、どこまで現実になったかは別の問題です。あとの章で、大仏づくりに実際に関わった人々を見ていきます。

詔の要旨は次のとおり。(1)仏の恩徳を天下に行き渡らせ、天下の安泰と万代の福を願う。(2)盧舎那仏の金銅像を造り、事業に加わる者を「知識」とし、ともに利益を受けて悟りに至ることを望む。(3)聖武は「天下の富を有つ者は朕なり」と述べ、造像は容易だが、人民を強制すれば誹謗や罪を招くおそれがあると戒める。(4)参加者は誠心をもって日々盧舎那仏を拝し、自ら造る気持ちをもつこと。草一本・土ひとにぎりの寄進も拒まない。(5)国司・郡司が民から無理に取り立てることを禁じる[4]。

東大寺公式サイトは、詔の一節として「天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢いを有つ者は朕なり」「事の成り易くして、心は至り難し」「一枝の草、一把の土を持て、像を助け造らんことを請願するものあらば、恣に之を聴せ」を挙げ、造像を請願する者は自由に許せ、という趣旨だと解説する[7]。英語版も、人々に像づくりを助けるよう呼びかけたと説明している[2]。

留意したいのは、これが詔という建前の文章であって、実際に民が自発的にのみ動員されたかどうかは別の検討課題だということだ。詔が強制を戒めていること自体は、強制が起こりうると意識されていたことをうかがわせる。

5. だれが、どうやって 力を かしたの?

5. 行基と、大仏づくりに関わった人々

5. 行基の協力と、造立の経過(743〜749年)

大仏だいぶつづくりに ちからを かした 人の 中に、行基ぎょうきと いう おぼうさんが います。行基ぎょうきは、はしを かけたり、池を ほったり して、人々と いっしょに はたらく 人だと いわれます。東大寺とうだいじの ホームページでは、行基ぎょうきが 人々に よびかけて 協力きょうりょくを あつめた 人として しょうかいされて います[2]。

天皇てんのうが 行基ぎょうきを まねいた とも 考えられて います。行基ぎょうきは 745ねんに、おぼうさんの 中で いちばん 高い くらい「大僧正だいそうじょう」に なりました[3]。

大仏だいぶつづくりの 場所は、はじめは 紫香楽しがらきと いう ところでした。745ねんに 都が 奈良ならに もどると、奈良ならで 大仏だいぶつが つくられました。そして 749ねんに、大仏だいぶつの 体の 鋳造ちゅうぞうが おわりました[1]。

ほかにも、大仏だいぶつを つくる 人、金を とどけた 人など、たくさんの 人の 名前が のこって います。国じゅうの たくさんの 人が かかわったと 考えられて います[3]。

大仏づくりに力を貸した人として、僧の行基が知られています。行基は、民衆と一緒に橋や池をつくり、仏教を広めた僧です。東大寺は、行基を、人々に呼びかけて大仏づくりの協力を集めた人として紹介しています[2]。

ただし、聖武天皇が行基を招いたいきさつには、「知識寺で知識の集団を率いた万福が天平12年冬に亡くなったので、行基を招いたと考えられる」という説明があります[3]。また、行基はかつて朝廷から取りしまりを受けた経歴があり、協力を求めること自体に政治的なむずかしさがあったとも指摘されています[4]。行基は天平17年(745年)に、僧のいちばん高い位の「大僧正」に任じられました[3]。

造像の場所は、詔が出た紫香楽から、都がもどった奈良へ移りました。東大寺は、都が平城にもどると造像が始まり、天平21年(749年)に仏身の鋳造が終わったと説明しています[1]。大仏を設計し造った技術者の名前も伝わります。大仏師は国中公麻呂、鋳造の責任者は高市大国と高市真麻呂とされます[3]。

工事には、国じゅうから多くの人が関わったと考えられています[3]。

詔に応じて協力を組織した人物として行基が挙げられる。東大寺公式サイト英語版は、行基を、人々を動かして資金や協力を集めた人物として紹介する[2]。行基の登用の経緯は、知識寺の知識集団を率いた万福が天平12年冬に没したため、聖武が北摂・和泉で同様の活動をしていた行基を招いたと考えられている。行基は養老元年(717年)に朝廷の弾圧を受けた経歴があり、協力を求めること自体に政治的な難しさがあったとも指摘される[4]。行基は天平17年(745年)に大僧正に任じられた[3]。

造像の経過は、東大寺公式サイトによれば、詔のあと都が平城に戻ると造像が始まり、天平21年(749年)に仏身の鋳造が完了した[1]。技術者として、大仏師に国中公麻呂、鋳師に高市大国・高市真麻呂の名が伝わる[3]。749年には陸奥国で産金があり、陸奥国守・百済王敬福が金を献上した[3]。

動員の規模は、一次史料で確かめた数字を示せないため、ここでは書かない。また、光明皇后と藤原仲麻呂が造立に深く関わったとする学説もあり[3]、「聖武個人の願い」だけで説明しきれるかは議論が分かれうる。

6. できあがった あとは どうなったの?

6. 752年の開眼供養と、そのあと

6. 開眼供養(752年)と、東大寺・大仏の位置づけ

752ねんの 4がつ、東大寺とうだいじで 「開眼供養かいげんくよう」と いう 大きな ぎしきが ありました。大仏だいぶつに 目を あけて もらう(いのちを いれる)、という いみの ぎしきだと されます。仏ほとけとして あがめる ための、しんこうの ぎしきです。東大寺とうだいじの ホームページでも、この ぎしきが 「さかんに おこなわれた」と しょうかい されて います[1]。

ぎしきの 中心に なった おぼうさんは、インドから きた 菩提僊那ぼだいせんなさんと いう 人でした[2]。

聖武しょうむ天皇てんのうは、そのころ、むすめの 孝謙こうけん天皇てんのうに ゆずって、天皇てんのうを やめていました(749ねん)。756ねんに なくなり、お妃きさきの 光明皇后こうみょうこうごうは、天皇てんのうの 大切な ものを 大仏だいぶつに ささげました[5]。

ところで、鎌倉かまくらにも 大仏だいぶつが あります。こちらは 阿弥陀如来あみだにょらいで、1252ねんごろに つくりはじめられた と いわれます[6]。つくった わけは、この 記事では 取りあげません。「大仏だいぶつ」は、ひとつではなく、時代ごとに ちがう 思いで つくられて きたのです。

天平勝宝4年(752年)4月、東大寺で、大仏の開眼供養会が盛大に行われました[1]。開眼供養は、仏像に目を描き入れ、仏としてあがめるための儀式です(信仰上の意味です)。この日の導師を務めたのは、インド出身の僧・菩提僊那でした[2]。

東大寺の公式サイト(英語版)は、聖武天皇、行基、初代の別当(寺の長)の良弁(ろうべん)、菩提僊那の4人をあげて、東大寺を「四聖建立の寺」と呼んでいる、と説明します[2]。

聖武天皇は、749年に娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位しており、開眼のときは、すでに天皇ではありませんでした。756年に亡くなり、光明皇后は、四十九日に遺愛の品々を大仏に奉げました[5]。

鎌倉にも大仏があります。こちらは阿弥陀如来で、1252年(建長4年)ごろに造立が始まったと言われます[6]。ただ、公式サイトにはつくった理由までは書かれていません。大仏は、時代ごとにちがう思いでつくられてきたものです。この記事では、東大寺の大仏だけを追いました。

天平勝宝4年(752年)4月、東大寺で開眼供養会が営まれた[1]。開眼導師はインド出身の菩提僊那、講師は大安寺の隆尊、読師は元興寺の延福とされる[3]。東大寺公式サイト英語版は、聖武天皇・行基・良弁・菩提僊那を「四聖建立の寺」として挙げる[2]。

聖武は749年に娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位し、出家の時期には諸説ある。756年に崩御し、光明皇后は四十九日に遺愛品を大仏に奉献した[5]。

なお、鎌倉の大仏(国宝銅造阿弥陀如来坐像)は、1252(建長4)年ごろに造立が始まったとされるが、高徳院公式サイトの該当ページには造立の目的の記述はない[6]。奈良の大仏が国家鎮護と知識の思想に立つ一方、他の大仏の動機は別に検討する必要がある。ここでは、「国家規模の仏像造立」としての東大寺の例にとどめる。

7. もっと しらべて みたい ときは

7. 自分でも調べてみたくなったら

7. 読んでみたい資料

いつか、奈良ならの 東大寺とうだいじに いったら、大仏だいぶつの 前で、「天皇てんのうは、ここで なにを ねがったのかな」と 考えて みて ください。おうちの 人と いっしょに、東大寺とうだいじの ホームページを 見て、「草 1ぽん、土 ひとにぎり」の ことばを さがして みよう。

  • 天皇てんのうが 「草 1ぽん、土 ひとにぎり」と 言った わけを、じぶんの ことばで 言って みる。
  • 「みんなで つくる」ことは、学校の 行事や クラスの 活動と、どこが にて いるか、考えて みる。

実際に東大寺へ行けるなら、大仏の前で、聖武天皇がここに何を願ったのか、考えてみてください。行けないときは、東大寺の公式サイトの歴史のページを読むだけでも、年号の流れがつかめます。

  • 『続日本紀』の天平15年10月の詔の現代語訳を探して、「事の成り易くして、心は至り難し」のくだりを自分で読んでみる。
  • 学校の行事など、「みんなで何かをつくる」場面と比べて、「心を集める」ことのむずかしさを考えてみる。
  • 記事の最後の出典のうち、東大寺の公式ページと、詔の解説を読み比べてみる。

一次史料である『続日本紀』巻第15(天平15年10月15日条)の詔の原文と現代語訳に直接あたるとよい。本記事は詔の内容を二次的な解説(百科事典など)に頼っており、細部の言いまわしは原文で確かめてほしい。

  • 詔の「事の成り易くして、心は至り難し」の前後の文脈を、原文または現代語訳で読む。
  • 東大寺公式サイトの記述と、解説書の記述を比べ、動機(宗教的・政治的・社会的)のどれを重く見ているか整理する。
  • 行基の評価(弾圧から大僧正へ)が、詔の「強制を戒める」姿勢とどうつながるか、考えてみる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

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出典について:東大寺・高徳院の公式ページを優先しました。詔の文言と主な日付は、東大寺の「よくある質問」で確かめました。ただし、知識寺・行基・動員人数・参列者数などは、百科事典サイト(Wikipedia)のまとめに頼っています。Wikipediaの内容は『続日本紀』『東大寺要録』などを根拠にしていますが、この記事ではそれらの原文までは確かめていません。引用や数字は、原典で確かめてから使ってください。

  1. 東大寺「歴史」。 https://www.todaiji.or.jp/information/history/ (東大寺の起源、743年の詔、都が平城にもどってからの造像、749年の鋳造完了、752年の開眼供養)
  2. 東大寺「大仏」ページ(英語版)。 https://www.todaiji.or.jp/en/information/daibutsu/ (背景の説明、「一枝の草、一把の土」、行基、菩提僊那、四聖建立の寺)
  3. Wikipedia「東大寺盧舎那仏像」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/東大寺盧舎那仏像 (造立の理由の整理、知識寺・行基・関わった人々、延べ人数の推計、開眼供養の関係者)
  4. Wikipedia「大仏造立の詔」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/大仏造立の詔 (詔の発布日と内容の要旨、時代背景、国分寺建立の詔、行基の協力。『続日本紀』所収)
  5. Wikipedia「聖武天皇」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/聖武天皇 (737年の天然痘、740年の藤原広嗣の乱と遷都、749年の譲位、756年の崩御)
  6. 高徳院「鎌倉大仏の歴史」。 https://www.kotoku-in.jp/history (1252年ごろの造立開始、阿弥陀如来坐像、『吾妻鏡』に最古の記録)
  7. 東大寺「よくある質問」(盧舎那仏造顕の詔)。 https://www.todaiji.or.jp/faq/ (詔の一節の原文と解説、743年の詔・749年の鋳造完了・752年の開眼供養会の日付)

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