1. しゃきょうじょは、どのくらい おおきな しごとばなの?
1. 経師だけで延べ733人 ── 751年の写経所は大きな職場だった
1. 751年正月の記録 ── 延べ1246人の内訳と、「延べ」の意味
むかしは、おきょうを 1ぽんずつ、人が 手で かきうつして いました。写経所は、その しごとを する、東大寺に おかれた ところです[3]。
751ねんの 1月の きろくでは、おきょうを かく 人だけで、のべ 733人も いました[1]。「のべ」は、その ときまでに はたらいた 人を ぜんぶ たした かずです。みんなが いっぺんに いたわけでは ありません。
では、これだけ たくさんの 人は、なにを して いたのでしょう。
お経を書き写す役所
奈良時代、お経を書き写す仕事は、国の大きな事業でした。写経所は東大寺に置かれた機関で、天皇や皇后の考えに応じて、大小さまざまな写経を行いました[3]。
751年正月の記録について、世界大百科事典は、経師733人、校生146人、装潢123人、史生15人、案主50人、舎人150人、食領29人を挙げています。この7つの職種を合わせた延べ人数が1246人です。ほかに、優婆塞や仕丁なども記されています[1]。
「延べ」は同時にいた人数ではない
「延べ」は、期間中に働いた人を数えた合計です。同時に1246人が机をならべていたという意味ではありません[1]。この数字は事典の記述にもとづくもので、ここでは大きさの目安として見ておきます。
写経には何年もかかる事業もありました。光明皇后が願って始まった五月一日経は、736年に書き写しが始まり、約15年で七千巻あまりが写されたとされています[6]。
これだけの量を、いったい誰がどう分け合ったのでしょうか。
世界大百科事典「写経所」は、751年正月の写経所の記録として、経師733人・校生146人・装潢123人・史生15人・案主50人・舎人150人・食領29人を挙げ、この7職種の延人員を1246人とする(合計は計算で一致する)。事典には優婆塞や仕丁も記されており、1246人は写経所の全体ではなく、挙げられた職種の延べ人数である[1]。経師は《法華経》を写す人である。
注意したいのは「延人員」の意味だ。これは期間中に働いた人数の合計で、同時在籍の人数ではない。しかも、この数字は事典の記述1件にもとづくため、規模の目安として読むのが安全だ。
この機関は、天皇や皇后の意志に応じて大小さまざまな写経事業を行い、経師や校生を雇って組織的に書写させた[3]。事業が長期になる例もあり、五月一日経は736年に皇后宮職の写経所で始まり、約15年で七千巻余が写されたという[6]。ではその仕事は、どう分けられていたのか。
2. 1ぽんの おきょうは、どんな 人たちで できたの?
2. 書く人のほかに、直す人も、紙をととのえる人もいた
2. 経師・校生・装潢 ── 一巻の経を作る分業
おきょうを かく 人だけでは、1ぽんは できません。
かく 人は、経師と いいます。かいた ものを よみ、まちがいを なおす 人は、校生です[2]。
ほかにも、紙を そめたり、まきじくや ひもを つけたり する 人(装潢)や、ひょうしに 絵を かく 人、じむを する 人、ざつようを する 人も いました[2]。
みなさんの 学校の 係に にています。ただし ほんとうは、まちがいが ゆるされない、国の しごとでした。
3. はたらく 人は、どこから きたの?
3. 役所の書き手から、町の字の上手な人へ
3. 能筆者の出向と民間採用 ── 事業ごとに人を集める仕組み
はじめは、いろいろな 役所から、じの じょうずな 人が きて、おきょうを かきました。のちに、まちに すむ 人の 中からも、じの じょうずな 人が えらばれました[1]。
はたらく 人には、布施と いう おれいが わたされました。いまの おきゅうりょうに あたります。じが うまいと、くらいを もらったり、おぼうさんに なる ことを ゆるされたり した 人も いました[1]。
ただし、人の えらびかたや よびよせかたには、わかって いない ところが おおいと されて います[4]。
世界大百科事典によると、写経所の経師や校生は、はじめ諸官庁の字の上手な人を出向させて務めさせていました。のちに、民間からも字の上手な人を採用するようになりました[1]。
働いた人には布施という報酬が支給されました。実績によっては位を授けられたり、出家することを許されたりした人もいます[1]。字の上手さが、仕事の場と暮らしの道を開くことがあったわけです。
757年から764年ごろの造東大寺司の写経機関では、大小30余りの写経が行われていました。そのたびに、書写する量と期間に応じて、経師・装潢・校生の延べ人数が見積もられ、各所から集められたと研究されています[4]。ただし、誰をどう選んで呼び出したかという仕組みには、分かっていない点が多いとされています。
では、集められた人たちは、毎日どんな暮らしをしていたのでしょうか。
写経所の人員は、第1期には諸官庁の能筆者を出向させて経師・校生とし、のち民間から能筆者を採用した。勤務者には布施(報酬)が支給され、叙位にあずかり、得度出家を許される者もあった[1]。ここでいう第1期がいつかは、この資料からは分からない。
人員の確保は、事業ごとに行われた。山本幸男の論文によると、天平宝字年間(757〜764)の造東大寺司の写経機関では、大小合わせて30余りの写経が行われ、書写量と書写期間に応じて経師・装潢・校生の延べ人員が見積もられ、各所から召集されていた[4]。ただし、選定・召集の仕組みには不明な点が多い。
そのため、ある時点の人数は、事業の規模に左右される。では、召集された人たちは、現場でどう過ごしたのか。
4. とまりこみの はたらく 人は、なにを たべたの?
4. 泊まり込みの食事 ── 朝夕2回、経師がいちばん多かった
4. 食法と一事業75人分の給食 ── 差のある米の支給量
はたらく 人は、写経所に とまりこんで いたと かんがえられます。ごはんは、あさと ゆうがたの 2かい だったようです[5]。
おこめの かずは、人に よって ちがいました。おきょうを かく 人は いちばん おおく、つぎに 紙を ととのえる 人、つぎに まちがいを なおす 人でした。にくや おさかなは、かかれて いません[5]。
ある 仕事では、75人ぶんの ごはんを、ふたりで つくったと いいます[5]。ひとり 37人 ぶんより おおい ことに なります。
1日2回の食事と、役目による差
写経生は写経所に泊まり込んで作業し、食事は朝夕の2回だったと考えられています[5]。
正倉院文書にある「食法」では、経師と装潢は1日に米2升、校生は1升6合と定められていました。経師がもっとも優遇され、そのあとに装潢、校生、史生・雑使・膳部の順に続きます。肉や魚は見あたりません[5]。
当時の升には大升と小升の別があり、論文は米2升を、大升で約1.42リットル、小升で約0.48リットルと換算しています[5]。
2人で75人分
762年12月の事業では、経師40人・題師1人・装潢4人・校生8人の53人と、膳部2人・雑使4人・駆使丁16人の22人、合わせて75人分の給食が出され、膳部の2人が大量調理を担いました[5]。計算すると、1人あたり約37〜38人分です。
これは1つの事業の例で、さきの延べ1246人とは別の規模の話です。では、これほど細かい食事の量まで、なぜ今に伝わったのでしょうか。
写経生は写経所に泊まり込んで作業し、食事は朝夕2回だったと考えられる(推定)。正倉院文書の「食法」では、経師・装潢は1日米2升、校生は1升6合で、経師、装潢、校生、史生・雑使・膳部の順に差がつく。肉や魚は見えない[5]。
論文には大升・小升の別があり、米2升は大升で約1.42リットル、小升で約0.48リットルと換算されている。論文には「二合」と誤記された箇所もあり、2升の値を採った[5]。
調理の規模も記録されている。762年12月の「奉写大般若経用度雑物帳」の事業では、経師40人・題師1人・装潢4人・校生8人の53人と、膳部2人・雑使4人・駆使丁16人の22人、合計75人分の給食が支給され、膳部2人が大量調理を担った(1人あたり約37.5人分)[5]。これは1事業の例で、延べ1246人とは別の尺度だ。では、食事の量まで細かい数字が、なぜ今に伝わったのか。次に、その記録を見る。
5. どうして 1250ねんも まえの 人の なまえが わかったの?
5. 作業報告書「手実」が、書き手の名前を残した
5. 手実と奥書の照合 ── 華厳経巻14の写し手の特定
経師は、しごとの たびに、手実という 紙を だして いました。どの おきょうを、なんまき、いつ かいたか。そして、紙を なんまい つかったか、です[3]。
学校で、つかった ノートの ページかずを きろくする ことに にています。ただし てじつには、しごとの ないようや つかった 紙の まいすうも かかれて いました。むかしは 紙が とても たいせつだったので、まいすうも きっちり きろくされました[3]。
けんきゅうする 人は、おきょうの おくがきや ふでの くせと、手実を くらべました。そして、775ねん 5がつごろに 五百木部真勝という 経師が かいたと わかりました。紙の まいすうも、手実の とおり 13まいでした[3]。
1250ねんまえの 人の しごとが、いまの わたしたちにも とどいたのです。
経師は、仕事をするたびに「手実」という文書を出しました。経名・巻数・年月日を書いた作業報告書で、使う紙などを請求する書類でもありました。当時は現代以上に紙が貴重で、使った枚数もきっちり記録されました[3]。
慶應義塾図書館の華厳経巻14は、経巻の奥書や筆跡と手実を突き合わせることで、775年5月ごろ、経師の五百木部真勝が写したと特定されました。紙の枚数も手実どおり13張でした[3]。
写経所の文書は、不要になったあとも正倉院に残り、たくさんの文書が伝わっています[7]。そのなかには、写経の紙の裏に戸籍や計帳が書かれたものも含まれます。
帳簿には、名前の知られていない書き手たちの仕事も記録されていました。
経師の手実は、経名・巻数・年月日を記した作業報告書兼物品請求書で、巻物の形(手実帳)で残る。当時は紙が貴重で、使った枚数まで記録された[3]。
慶應義塾図書館の華厳経巻14は、奥書・筆跡と手実を照合して、宝亀6年(775)5月ごろ、経師・五百木部真勝(いおきべの ましかつ)が写したものと特定された。紙数も手実どおり13張だった[3]。(同論文には「768」と読める誤記があるが、本文の年は775である。)
こうした文書は、東大寺の写経所で作られ使われたものが不要になって正倉院に残った史料群(正倉院文書)である[7]。写経文書の裏に戸籍・計帳が書かれたものも含まれる。
手実が巻物の形で残り、経巻の奥書や筆跡と突き合わせられたことが、一人の書き手まで追えた理由である。
6. じぶんで 経師と 校生を やって みよう
6. 一人で経師と校生をやってみる
6. 出口 ── 写し手の目で読む、帳簿の資料
おうちの 人と そうだんして、きょうかしょの 一だんらくを、1まいの 紙に かきうつして みましょう。かかった 時間も はかります。
かけたら、もとの ぶんと みくらべて、まちがいを さがします。まちがいを さがす やくが 校生です。いくつ あったでしょう。
もっと しりたく なったら、おうちの 人と、下の しりょうを ひらいて みてください。
教科書の1段落を、1枚の紙に書き写して、かかった時間をはかってみてください。書き終えたら、もとの文と見くらべて、写しまちがえた箇所を探します。書く役の経師と、見直す役の校生を、一人でやってみるわけです。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
出典について:百科事典、大学・図書館の公開資料、文化庁の公開ページなどを使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。
- 改訂新版 世界大百科事典「写経所」(コトバンク)。https://kotobank.jp/word/写経所 (751年の人数、職員の出自と待遇について。二次資料)
- 写経所(3rd-in 事典ページ)。https://pedia.3rd-in.co.jp/wiki/写経所 (写経所の職種と分業について。二次資料)
- 慶應義塾図書館 MediaNet No.22 住吉朋彦「大方広仏華厳経巻14の写し手」。https://www2.lib.keio.ac.jp/publication/medianet/article/pdf/02200580.pdf (写経所の組織と、手実による写し手の特定について)
- 山本幸男「天平宝字年間における経師・装潢・校生の動向一覧表の提示」(国際仏教学大学院大学リポジトリ)。https://icabs.repo.nii.ac.jp/record/566/files/杉本一樹.pdf (事業ごとの人員の見積りと召集について)
- 「奈良時代写経所における『飯』の炊飯法の一考察」(東北生活文化大学紀要 bulletin10)。https://www.thcu.ac.jp/research/pdf/bulletin/bulletin10_03.pdf (食事の回数・量・大量調理について)
- 文化遺産オンライン「央掘魔羅経巻第三(五月一日経)」。https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/167138 (五月一日経の規模について)
- 国立国会図書館 リサーチ・ナビ「正倉院文書」。https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/humanities/post_735 (正倉院文書の概要について)
なおした ところ
更新履歴
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