1. 「きねんさい」って、どんな おまつり?
1. 駒場祭のもとになった一高の「紀念祭」は、どんな祭りだったのか
1. 駒場祭の前身にあたる一高の「紀念祭」は、何をする祭りだったのか
こまばさいの もとは、「きねんさい」という りょうの おまつりだと いわれます[6]。りょうは、学生が ねとまりする たてものです。
りょうが できた ことを いわって、おちゃを のみながら はなす 会を ひらきました。えんぜつも ありました。けんを もって まう「けんぶ」や、りょうの うたを うたう ことも ありました[6]。
学生だけでは ありません。先生や、そつぎょうした 人も きて、いっしょに すごしました。学校の 中は、みんなに ひらかれました[6]。
では、この 学校は、どんな ところだったのでしょう。
東京大学の広報によると、一高の紀念祭は、学生の自治寮ができたことを祝う寮祭でした。祭りでは茶話会が開かれ、演説が行われ、剣舞や寮歌の披露もありました[6]。
学生だけの内輪の会ではありません。学生と教員、卒業生が交流する場で、学内は一般にも公開されました[6]。おとなになった卒業生が顔を出し、地域の人も訪れる。いまの学園祭に近い光景が、すでにあったことになります。
ここで一つ、不思議な点があります。紀念祭が祝ったのは「自治寮」でした。学生が自分たちの寮を自分たちで動かす、というところに、この学校の個性が表れていそうです。そもそも旧制高校とは、どんな学校だったのでしょうか。
東京大学広報によれば、紀念祭は一高で行われた寮祭で、自治寮の成立を祝って始まった。内容は茶話会、演説、剣舞、寮歌の披露などで、学生・教員・卒業生が交流し、学内が一般に公開された。東京大学の駒場祭は、この紀念祭を前身とする[6]。
注目したいのは、祝われたのが校舎の完成や学校の創立ではなく、「自治寮の成立」だった点である。学校の行事の中心に、学生が自分たちで運営する寮が置かれていた。外に開かれた祭りだったことと合わせると、寮が学校の外とも結ばれた場だったことが分かる。
では、この「自治」は、旧制高等学校のどのような仕組みの中から出てきたのか。まず学校そのものの位置づけから確かめる。
2. 「こうこう」なのに、なんの ための 学校?
2. 「高等学校」と名のつく学校は、大学の前の通過点だった
2. 専門学科が原則のはずが、大学予科が中心になった学校
むかしの 高校は、いまの 高校とは ちがいます。おもに、大学に すすむ 人の ための 学校でした[1]。
もっと くわしく いうと、「ていこくだいがく」という 大学に すすむ 人が ほとんどでした。入る のは、男の 子だけでした[1]。
数は、そんなに おおくありません。1940年には、全国で 32校。学生は あわせて 2万5000人ほどでした[1]。入学しけんは、とても むずかしかったそうです。
むずかしい 学校に 入った 学生たちは、どんな まいにちを おくったのでしょう。
1894年(明治27年)の高等学校令で、それまでの高等中学校が高等学校と名前を変えました。この令は、専門学科を教えることを原則にし、帝国大学に入る人のための予科は「置くことができる」としていました[2]。
ところが実際には、専門学科は育たず、大学予科のほうが中心になっていきました[2]。旧制高校は、実質的に帝国大学の予科の役割を果たし、卒業生の大部分は帝国大学へ進みました。男子だけに開かれた、選ばれた少数者の学校でした[1]。
数字で見ると、その「少数」ぶりが分かります。日本大百科全書によると、1940年(昭和15年)には、官立・公立・私立を合わせて32校、学生の総数は約2万5000人で、1校あたり平均およそ780人でした[1]。入学試験の競争倍率はきわめて高く、一方で、いったん入れば帝国大学へは比較的入りやすかったと説明されています[1]。
将来の大学進学が約束されたような学校で、学生たちは何をしていたのでしょう。大学の準備だけなら、寮も祭りも歌もいらなかったはずです。
制度の出発点は1894年(明治27年)の高等学校令で、それまでの高等中学校が高等学校と改称された。令は、専門学科(4年)の教授を原則とし、帝国大学に入る者のために予科(3年)を置けるとした[2][1]。つまり、大学予科は例外的な位置づけだった。
ところが実際には、専門学科は発展せず、予科のほうが学校の中心になった[2]。その結果、旧制高校は実質的に帝国大学の予科の役割を担い、卒業者の大部分が帝国大学へ進んだ。男子だけに開かれた、選ばれた少数者の学校でもあった[1]。ただし、「特権的」という評価は辞典の説明であり、当時の人の受け止め方がすべてこうだったとは限らない。
規模を確かめておく。日本大百科全書によると、1940年(昭和15年)には官・公・私立を合わせて32校、学生総数は約2万5000人だった[1]。25,000÷32で、1校あたり平均約780人になる。この年の数字で、全体が小さな学校の集まりだったことが分かる。入学試験は非常に高い競争倍率を示したが、入学できれば帝国大学へは比較的入りやすかった[1]。
なお、旧制高校は1886年(明治19年)から1950年(昭和25年)の廃止までに全国で41校あったとされる[3]が、これは長い期間の延べの数で、同時に41校あったわけではない。1940年の32校とは別の数え方である。
大学へ進む道がほぼ見えていた学生が、毎日を過ごした場所がある。その寮で、何が起きていたのか。
3. りょうで 学生は、どう くらして いたの?
3. 大学の予科なのに、なぜ「自由と自治」が合言葉になったのか
3. 「自由と自治」と寄宿寮:予科中心の学校で自治が目立った背景
むかしの 高校の とくちょうは、「じゆうと じち」と いわれます[4]。じぶんたちの ことは、じぶんたちで きめる、という ことです。
この とくちょうは、とくに 番号の ついた 学校で めだちました。「だいいち高校」から 「だいはち高校」までが、ならびます[4][3]。
学生が くらす りょうも、そうでした。りょうの はじまりは、めいじ20ねんだいの はじめ、東京の 一高に さかのぼります[5]。
学生が りょうを じぶんたちで うんえいする ように なった わけは、はっきり わかっていません。でも、りょうで うたう うたが、たくさん うまれました。
旧制高校を特徴づけるキーワードは「自由と自治」だと、金沢の四高に関する資料は述べています。第一から第八までの番号をつけたナンバースクールで、とくに目立ったそうです[4][3]。
学生の自治が表れた場所の一つが寄宿寮でした。寮の始まりは、明治20年代のはじめの第一高等中学校までさかのぼります[5]。寮の運営は学生の自治にまかされ、一高では寮の自治制度が明治30年代に定着したと、世界大百科事典の「寮歌」の項は説明しています[5]。
なぜ予科の学校で自治が育ったのかについて、今回の資料だけで言い切れる理由はありません。ただ、大学に進む道がほぼ見えていた学生たちが、受験の準備だけでなく、自分たちの生活を自分で動かす場を持っていたことは、紀念祭や寮歌の存在から読み取れます。
では、その寮の暮らしから、何が生まれたのでしょうか。
旧制高校の特色は「自由と自治」とされる。金沢の四高の記念文化交流館に関する資料は、これが四高を含むナンバースクール(第一〜第八)で顕著だったと述べる[4]。ナンバースクールは番号のつかない学校より先に作られた[3]。
この自治を支えたのが寄宿寮である。寮の起源は明治20年代はじめの第一高等中学校にさかのぼり、一高では寮自治制度が定着した明治30年代に多くの寮歌の名曲が生まれた[5]。
ここで、「予科中心の学校だから自由だった」とは書けない点に注意したい。資料はそれぞれ、制度(予科が中心)と特色(自由と自治)を別々に述べているだけで、両者を因果で結んではいない。確かなのは、大学進学が見えている学生の寮に、自治と祭りと歌があった、という事実のほうである。
では、寮の自治から生まれた歌とは、どんなものだったのか。
4. りょうの うたは、どんな ふうに うまれたの?
4. 寮で生まれた歌「寮歌」は、どのように広がったのか
4. 寮歌の成立:1892年の最古の例から、「嗚呼玉杯に花うけて」の波及まで
りょうの うたは、「りょうか」と いいます。じてんに よると、いちばん ふるい りょうかは、1892年に つくられました[5]。
その あと、りょうが できた ことを いわう まつりの たびに、あたらしい りょうかが うまれる ように なりました[5]。
とくに ゆうめいなのは、「ああぎょくはいに はなうけて」と いう うたです。1902年に、一高で つくられた うたで、いまでも うたい つがれて います[5]。
この うたは、ほかの 高校の りょうかを つくる ときにも えいきょうを あたえたと いわれます。
この 学校は、いまは もう ありません。どう なったのでしょう。
百科事典によると、最も古い寮歌は1892年に作られました。その後、1895年以降は、寮を開いた記念の祭りのたびに新しい寮歌が作られるようになります。明治30年代には名曲、名歌が次々に生まれました[5]。
なかでも知られるのが、1902年の嗚呼玉杯に花うけてです。一高で歌い継がれ、全国の高校の寮歌づくりにも影響を与えたと説明されています[5]。
紀念祭の内容に「寮歌の披露」が入っていたことを思い出してください[6]。寮の自治を祝う祭り、祭りのたびに生まれる新しい歌、そしてほかの学校へ広がる曲。寮と祭りと歌が、一つの流れの中でつながっていたことが読み取れます。
この流れは、のちにどうなったのでしょうか。
世界大百科事典は、最古の寮歌を1892年の第一高等中学校の《雪ふらばふれ》(落合直文作詞)とする。その後、1895年以降は寮開設記念祭ごとに新しい寮歌が作られるようになり、一高で寮の自治制度が定着した明治30年代には名曲・名歌が輩出した[5]。
代表例が1902年の嗚呼玉杯に花うけてで、一高で歌い継がれ、全国の高校の寮歌づくりにも影響した[5]。
紀念祭では寮歌の披露が行われた[6]。寮の成立を祝う祭りと、祭りのたびに作られる歌、他校へ広がった歌が、同じ流れで結ばれていたことになる。1895年以降の新作は、寮の記念祭で作られた歌として紹介されている。
では、これほど多くの学生を育てた学校は、その後どうなったのか。
5. この 学校は、いま どこに あるの?
5. 制度がなくなったあと、一高の跡地には何が残ったのか
5. 1950年の廃止と、一高の駒場移転:祭りが大学に受け継がれた経路
この 学校は、1947年に、なくなる ことが きまりました。1950年の 3月の おわりに、れきしを おえました[7]。
多くの 学校は、あたらしい 大学の 一ぶに なりました[7]。
一高は、1935年に、東京の ほんごうから こまばに うつりました[6]。その あとの ばしょが、いまの 東京大学の こまばキャンパスです[6]。
だから、こまばさいの もとが、一高の きねんさいなのです。
旧制高校は、1947年(昭和22年)4月1日に学校教育法の制定にともなって廃止が決まり、1950年(昭和25年)3月末に歴史を閉じました。多くは新制大学の一部になりました[7]。
一高は、1935年に本郷から駒場へ移りました。その跡地が、いまの東京大学駒場キャンパスです[6]。東京大学の駒場祭が一高の紀念祭を前身とするという話は、この場所の歴史を通して見ると、つながりがよく分かります。
学校の制度はなくなっても、寮で生まれた祭りは、場所と名前を変えながら学園祭として受け継がれたことになります。では、旧制高校の空気に、いま直接ふれられる場所はあるのでしょうか。
旧制高校は、1947年(昭和22年)4月1日の学校教育法制定にともなって廃止が決まり、1950年(昭和25年)3月末にその歴史を閉じた。多くは新制大学の一部となった[7]。
一高は1935年に本郷から駒場へ移り、その跡地が現在の東京大学駒場キャンパスである[6]。駒場祭が紀念祭を前身とする[6]という説明と、この移転の事実を合わせると、寮の祭りが場所を介して大学の学園祭へつながった経路が分かる。制度が消えても、学校があった場所と、祭りの名残は残った。
なお、紀念祭がいつ、どのような経緯で「駒場祭」になったのかは、引用した広報の記事の範囲では詳しく書かれていない。ここは、広報が述べる「前身にあたる」という関係の確認にとどめる。
制度が消えたあとの旧制高校に、いま直接ふれられる場所はないのか。
6. まつもとの きねんかんで、りょうの へやを のぞいて みよう
6. 松本の記念館で、旧制高校の寮の部屋をのぞく
6. 松本の旧制高等学校記念館で、資料から旧制高校の暮らしを確かめる
長野県の まつもとに、むかしの 高校の ことを つたえる きねんかんが あります。
ここには、せいふくや こうしょう、まつもとの 高校の「しせいりょう」を さいげんした コーナーが あります[3]。りょうの へやが、どんな ふうだったのかを、見られます。
となりには、1920年に できた 校しゃが のこって います。国が まもる たいせつな たてもので、「じゅうよう文かざい」です[3]。
とおくて 行けなくても、だいじょうぶです。じぶんの 町の 大学や 学校の おまつりの はじまりを、しらべて みましょう。「まえの すがた」が みつかる かもしれません。
松本市の旧制高等学校記念館では、制服や校章のほか、松本高等学校の「思誠寮」を再現したコーナーや、敷地の模型などが見られます[3]。寮の部屋の大きさや雰囲気を、自分の目で確かめられる場所です。
すぐ隣の旧松本高等学校本館(1920年竣工)は重要文化財です。出身者には、梶井基次郎、井上靖、北杜夫らがいるそうです[3]。
遠くて行けなくても、近くの大学や学校のウェブサイトで、学園祭の始まりや歴史が書かれたページを探せば、いまの祭りの前身が見つかるかもしれません。東京大学の広報に紀念祭の話が載っていたように、祭りの「前の姿」は意外な場所にあります。開館日や料金は、行く前に市の公式案内で確かめてください。
松本市の旧制高等学校記念館には、制服・校章、松本高等学校の「思誠寮」の再現コーナー、敷地模型などが展示されている[3]。隣の旧松本高等学校本館(1920年竣工)は重要文化財で、出身者には梶井基次郎、井上靖、北杜夫らがいる[3]。
次に読むなら、駒場祭と紀念祭の関係を書いた東京大学広報の記事[6]と、学制百年史の高等学校の項[2]が入口になる。後者は、専門学科と予科の関係を、条文の言い方から確かめられる。
家や学校にある行事の案内や、学校のウェブサイトの沿革のページでも、「前の姿」は探せる。今の運動会や文化祭は、いつ、何の記念で始まったのか。見つかった一文を、この記事の紀念祭と同じように、出どころつきでメモしておくとよい。
現地を訪れる場合は、開館時間・休館日などの最新の情報を、市の公式案内で確認すること。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
年号・学校数・学生数は、下の資料にある内容をまとめたものです。観光情報サイトの案内は、記念館の展示内容の確認だけに使いました。
- 日本大百科全書「高等学校(旧制)」(コトバンク)https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1-496854 (高等学校令、帝国大学への進学、1940年の学校数・学生数)
- 文部科学省『学制百年史』二 高等中学校から高等学校へ https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317633.htm (専門学科と予科の関係)
- 旧制高等学校記念館(松本市)の案内(るるぶ&more.)https://rurubu.jp/andmore/spot/80018771 (全国41校、記念館の展示内容)
- 石川四高記念文化交流館に関する資料(金沢大学学術情報リポジトリ)https://kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/record/33982/files/1-8.pdf (「自由と自治」の特色)
- 世界大百科事典「寮歌」(コトバンク)https://kotobank.jp/word/%E5%AF%AE%E6%AD%8C-149914 (寮の起源、寮歌の歴史)
- 東京大学広報(駒場祭と紀念祭、一高の駒場移転)https://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1543/02features.html (紀念祭の内容、駒場キャンパス)
- 日本大百科全書・世界大百科事典「高等学校[旧制]」(コトバンク)https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%5B%E6%97%A7%E5%88%B6%5D (廃止の経過)
なおした ところ
更新履歴
更新履歴(改版の記録)
- 初版を公開。
このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。