このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

むかしの おとなの 男の 人は、どうして いつも ぼうしを かぶって いたの?

昔の成人男性は、なぜ人前で頭を出さなかったのか ── 烏帽子が語る「かぶりもの」の話

烏帽子 ── 元服でかぶせられた帽子と、漆に残った布目

分野:歴史・文化

ちばけんの つちの 中から、むかしの 烏帽子えぼしの あとが 見つかりました。ぼうしでは なく、漆うるしに うつった 布ぬのの あとです[2]。

むかしの 日本の おとなの 男の 人は、頭に なにも かぶらずに 人前に 出るのを、はずかしいと おもって いました。元服げんぷくで もらう 烏帽子えぼしは、その 頭を かくす、おとなの しるしでした[2]。どうして 頭を 出すのが はずかしかったのか、烏帽子えぼしは 何で できて いて、いまは どこで 見られるのかが わかります。

千葉県市原市の鎌倉時代の溝から、烏帽子そのものではなく、漆に写った布の繊維の跡が見つかっています[2]。布と漆でできた帽子は、土の中でほとんど消えてしまうからです。

昔の日本の成人男性にとって、かぶりものなしの頭を人前にさらすのは恥ずかしいことでした。平安時代の貴族は、家でくつろぐときも帽子を脱がないのが普通だった、と紹介されています[4]。元服でかぶせてもらう烏帽子は、その頭を隠すための帽子です。なぜ頭を出すのが恥だったのか、烏帽子は何でできていたのか、いまはどこで見られるのかが分かります。

千葉県市原市の鎌倉時代の溝からは、烏帽子そのものではなく、漆に写った布の繊維の跡が見つかっている[2]。布と漆でできた帽子は、土の中でほとんど消えてしまうからだ。

元服のときに男子へかぶせた烏帽子は、なぜそこまで大切にされ、なぜ頭から消えたのか。露頂を恥とするしきたり、素材の変化、出土品、現代に残る場所が分かる。

読み方を切り替えられます。画面の上にある「よみかた」のボタンで、小学校低学年むけ・小学校高学年むけ・中学生むけの3つの書き方に切り替わります。むずかしいと思ったら、いつでもやさしい方に戻ってください。選んだ読み方はブラウザが覚えているので、次に別の記事を開いたときも同じ読み方で始まります。

1. 「元服」で、はじめに 何を かぶるの?

1. 元服の日、少年の頭にのせられたもの

1. 元服と烏帽子 ── 髪を結い、黒い帽子をかぶせる

元服げんぷくは、男の 子が おとなに なる ことを みんなで いわう ぎしきです。むかしは 11さいから 16さいの あいだに おこなう ことが 多かった そうです[6]。

この ぎしきで、かみを むすんで もらい、頭に 烏帽子えぼしを のせて もらいます。烏帽子えぼしは、「くろく ぬった ぼうし」と いう いみの ことばです[1]。武士ぶしの 家では、冠かんむりの かわりに 烏帽子えぼしを つかい、かぶせて くれる 人を 烏帽子親えぼしおやと よびました[5]。

ぼうしを かぶると、おとなの なかまいり。では、どうして ぼうしが おとなの しるしに なったのでしょう。

むかしの男の子は、成長のとちゅうで、ある日を境に頭の上のものが変わりました。それが元服です。元服は男子の成人の儀式で、奈良時代以降、おおむね11〜16歳のあいだに行われたとされます[6]。

儀式では、髪を結い、帽子をかぶせます。武家では、冠の代わりに烏帽子を使い、かぶせる役の人を烏帽子親、かぶる本人を烏帽子子と呼びました[5]。烏帽子という名は、烏塗り、つまり黒く塗った帽子という意味だとされています[1]。

大人になった印が、服でも刀でもなく「帽子」なのです。では、なぜ帽子が大人のしるしだったのでしょうか。

元服は男子の成人儀礼で、奈良時代以降、おおむね11〜16歳の間に行われた。天武天皇11年(682)に結髪加冠の制が定められたと説明され、儀礼の中心は「髪を結い、冠をかぶせる」ことにあった[6]。

武家では、この冠の役を烏帽子が担った。加冠の役を烏帽子親、かぶせてもらう側を烏帽子子と呼ぶ[5]。烏帽子は「烏塗りの帽子」の意で、古代の圭冠が変化したものとされる[1]。

成人の目印が持ち物でも名前でもなく頭のかぶりものだった理由は、次章の露頂のしきたりにある。

2. どうして 頭を ださないの?

2. 頭を出すのは、なぜ恥ずかしかったのか

2. 露頂は恥 ── 髻を隠すという大人のしきたり

むかしの 日本の おとなの 男の 人は、かぶりものを しない 頭を 人前に さらす ことを、「はじ」と かんがえて いました[2][3]。

もとどりという、かみを たばねた ところが あります。烏帽子えぼしなどは、この もとどりを かくす ために できたと せつめいされて います[3]。

こんな はなしも つたわって います。うたを よむ 人の きよはらの もとすけは、まつりの 日に うまから おちて、冠かんむりを おとして しまいました。わらわれると、あわてずに 自分から わけを はなして まわった そうです[4]。

ぼうしは はずかしさを まもる ものでした。では、その ぼうしは 何で できて いたのでしょう。

昔の日本の成人男性の頭には、守るべき決まりがありました。かぶりものをしない頭を人前にさらす「露頂」は恥とされた、と市原歴史博物館も吉川弘文館の解説も述べています[2][3]。

理由として説明されるのが、髻です。髪を頭の上で束ねた部分で、烏帽子などは、その髻を隠すために発達したといわれます[3]。解説では、これを朝廷の貴族が定めたしきたりとしています。

平安貴族の逸話も紹介されています。公の場では冠、私的な場では烏帽子をかぶるのが作法で、家でくつろぐときも脱がないのが普通でした[4]。歌人の清原元輔は、賀茂祭の行列の中で落馬して冠を落とし、頭をさらすことになりました。笑う人々に自分から事情を話して回った、と伝えられています[4]。

古い説話に由来する話なので、事実の細部は断定できません。それでも、頭を出すことがどれほど気になる出来事だったかが伝わってきます。では、その帽子は何でできていたのでしょうか。

烏帽子を理解するうえで、まず押さえるのは「露頂」である。かぶりものをしない頭を人前に出すことは、成人男性にとって恥辱とされた[2]。吉川弘文館の解説は、これを朝廷貴族が定めたしきたりと位置づける[3]。

では、なぜ頭が問題になるのか。烏帽子などは髪を束ねた髻を隠すために発達したと説明され、髻は露頂の恥と結びつけて語られる[3]。

この感覚は逸話にも表れる。平安貴族は、公的な場では冠、私的な場では烏帽子をかぶり、家でも脱がないのが常識だったと紹介される[4]。歌人の清原元輔が賀茂祭で落馬して冠を落とし、頭をさらしたとき、笑う人々に自分から事情を説明して回ったという話も伝わる[4]。ただしこれは説話に由来する伝承である。

恥を避けるための帽子なら、素材にも工夫があったはずだ。次の問いは、烏帽子が何でできていて、どう変わったかである。

3. 烏帽子えぼしは 何で できて いたの?

3. 布の帽子から、紙を固めた帽子へ

3. 絹・紗の袋から、紙を漆で固めた帽子へ ── 素材の変化と種類

はじめの 烏帽子えぼしは、やわらかい 絹きぬなどの 布ぬので ふくろの かたちに つくり、うすく 漆うるしを ぬって ハリを もたせたもの でした[1]。

のちに、平安へいあんじだいの おわりごろから、紙を 漆うるしで かたく ぬりかためて つくる ように なりました[1]。

かたちも いろいろです。貴族きぞくは ふだんに、ふつうの 人は とくべつな ひに かぶり、たて烏帽子えぼしや かざおれ烏帽子えぼしの ような しゅるいが ありました[1]。

ところで、布ぬのと 漆うるしの ぼうしは、土の 中に のこるのでしょうか。

初期の烏帽子は、平絹や紗で袋の形に作り、薄く漆を引いて張りを持たせたものでした。平安時代の終わりごろからは、紙を漆で固く塗り固めて作るようになります[1]。やわらかい布の帽子が、形の崩れにくい紙と漆の帽子に変わっていったわけです。

使う人も場面も広がりました。貴族は普段使いに、庶民は晴れの場に用い、のちには身分や年齢によって形と塗りを変えるようになります。立烏帽子、風折烏帽子、侍烏帽子、揉烏帽子といった種類がありました[1]。

こうした烏帽子は、いま博物館で実物を見られるのでしょうか。布と漆の帽子が地面の下でどうなるのかを、千葉県の発掘が教えてくれます。

烏帽子の作りは、時代とともに変わった。初期のものは平絹や紗を袋形に仕立て、薄く漆を引いて張りをもたせたものだった。ところが平安末期になると、紙を漆で固く塗り固める作り方が広がる[1]。布の袋を漆で支える構造から、紙を漆で固めた形が崩れにくい構造へ移ったことになる。

用途も変化した。貴族は平常用、庶民は晴れの場に用いたが、のちには階級や年齢などによって形と塗りを異にするようになる。立烏帽子、風折烏帽子、侍烏帽子、揉烏帽子など、種類が増えたのはその結果として説明される[1]。

この変化は、辞典の記述にとどまらず、遺跡の出土品とも照らせる。布と漆の烏帽子が埋まると何が残るのか。次章で、千葉県の発掘例を見る。

4. 土の 中から 出てきた ものは?

4. 千葉の溝から出てきたのは、帽子ではなく「布目」

4. 市原市・西野遺跡の出土品 ── 漆に写った麻と絹の繊維痕

ちばけんの 市原市に ある 西野いせきの みぞから、むかしの 烏帽子えぼしの あとが 出て きました。かまくらじだいの もので、いまから 800ねんほど まえの ものです[2]。

出て きたのは、ぼうしの かたちが そのまま のこった もの では ありません。麻あさの 布ぬのを しんに して、絹きぬの 布ぬのを はりあわせ、漆うるしを ぬった あとです。布ぬのの ほうは ほとんど なくなり、漆うるしに 布ぬのの めが うつって のこって いました[2]。

ほとんど きえて しまう ものが、なぜ のこったのでしょう。みずが たっぷり ある 土地で、ずっと みずに つかって いた ため、すっかり くさって なくなる ことを まぬがれた、と はくぶつかんは せつめいして います[2]。

この ぼうしは、いつ ごろまで かぶられて いたのでしょう。

千葉県市原市の西野遺跡では、鎌倉時代(12世紀末〜13世紀前半)の溝から、烏帽子の痕跡が見つかりました。平成15年のことです[2]。

ここで大事なのは、見つかったのが烏帽子そのものではない点です。麻布を芯にして絹布を貼り合わせ、漆を塗った烏帽子でしたが、胎はほぼ残らず、漆に布の繊維の跡が転写された状態でした[2]。この出土品は、前章で見た烏帽子の作りが、実際の暮らしの中にあったことを示す手がかりになります。

布と漆の帽子が消えずに残ったのは、地下水位の高い土地で長く水に漬かっていたためと、市原歴史博物館は説明しています[2]。水の中という特別な条件が、烏帽子の布目を現代まで運んだのです。

こうして実物に近い姿が確かめられる一方で、烏帽子は次第に頭の上から姿を消していきます。

千葉県市原市の西野遺跡では、鎌倉時代(12世紀末〜13世紀前半)の溝から烏帽子の痕跡が出土した(平成15年)[2]。麻布を芯に絹布を貼り合わせ、漆を塗り重ねた構造である。

注意すべきは、出土したのは烏帽子の本体ではなく、漆に転写された布の繊維痕だという点だ。胎となる布はほぼ分解して残らなかった[2]。ここから分かるのは、少なくともこの出土品の烏帽子が麻と絹を組み合わせ、漆で固めた構造だったことである。前章の紙を固めたタイプとは別のつくりで、烏帽子の素材が一つではなかったことがうかがえる。

痕跡が残った理由も条件つきである。地下水位が高い沖積地で、長期間水漬けの状態だったため、完全な分解を免れたという[2]。同じ条件がなければ、布や漆の製品は土の中に残りにくい。

では、これほど手間をかけた帽子は、いつまでかぶられたのか。

5. 烏帽子えぼしは いつ 頭から きえたの?

5. 烏帽子が消えたあと、大人のしるしは何になったのか

5. 烏帽子の退場と月代 ── 室町後半から露頂が当たり前になる

烏帽子えぼしは、かまくらじだいの おわりごろから、だんだん かたちだけの ものに なって いきました。そして むろまちじだいの おわりごろから、つかわれなく なります。かわりに、頭を 出す ことが ふつうに なって いきました[1]。

かぶりものが なくなると、おとなの しるしは どうなったのでしょう。武士ぶしの 中でも くらいの ひくい 人たちは、おでこから あたまの てっぺんまでを そる「月代さかやき」を つくる ことで、おとなと みなされる ように なりました[5]。

月代さかやきとは、烏帽子えぼしが あたって すれる ところを そった ものです[5]。ぼうしの かわりに、頭に あとを つけた かたちです。

烏帽子は、鎌倉時代の終わりごろから形式化が進み、室町時代の末ごろから用いられなくなったと説明されます[1]。別の研究者は、おおむね15世紀後半以降に武士の頭から烏帽子が消えたと述べており、年代の言い方には少し幅があります[3]。露頂が一般化し、烏帽子は儀式用として残りました。

では、大人のしるしだった帽子がなくなると、何が代わりになったのでしょうか。国立国会図書館の解説によると、室町時代から下級武士は、烏帽子の代わりに月代をつくることで成人とみなされました[5]。月代とは、烏帽子が当たってすれる額の際から頭頂部までを剃ったものです。

帽子の跡が、頭の上の形になって受け継がれた、と見ることもできます。ここは解説の説明の範囲での読みです。

消えたはずの烏帽子ですが、いまも見られる場所があります。

烏帽子は、鎌倉末期から形式化が進み、室町末期から用いられなくなって露頂が一般化し、儀式用に残ったと説明される[1]。吉川弘文館の解説は、おおむね15世紀後半以降に武士の頭部から烏帽子が消えたとし[3]、「室町末期」という辞典の言い方と年代の幅が異なる。消えた時期は、一つの年に決めにくい。

では、烏帽子をかぶらなくなった武士は、成人をどう示したのか。国立国会図書館の解説によると、室町時代から下級武士は、烏帽子の代わりに月代をつくることで成人とみなされた[5]。月代は、烏帽子が当たってすれる額の際から頭頂部までを剃ったものである。

露頂を恥としたしきたりと、烏帽子が当たる部分を剃る月代とは、同じ「頭の扱い」の延長にあるように見える。ただし、月代が烏帽子の廃れを引き起こしたとまでは言えない。

烏帽子は日常の頭からは消えたが、儀式や祭りの場には残った。その現在地を見る。

6. 今でも 烏帽子えぼしに あえるの?

6. 今、烏帽子に会えるのはどこか

6. 神職・行司・えんぶりの太夫 ── 儀式と祭りに残った烏帽子

いまの 烏帽子えぼしは、おまつりや ぎしきの ときに あえます[1]。

神社で はたらく 人は、烏帽子えぼしを かぶって います。くつろいだ ふうの 服に あわせる ぼうし として、烏帽子えぼしを つかうと せつめいされて います[7]。すもうの ぎょうじも、ひたたれと いう 服に あわせて 烏帽子えぼしを かぶります[1]。

青森県の「えんぶり」は、春を よぶ おまつりです。まいてを する たゆうが、つる・かめ・しょうちくばい・えびす・だいこくなどの めでたい もようの 烏帽子えぼしを かぶります。烏帽子えぼしには 神さまが やどり、たゆうは 神さまの すがたに なると かんがえられて います[8]。

はずかしさを かくす ぼうしから、神さまを むかえる ぼうしへ。かたちを かえて、いまも のこって います。

日常の頭から消えた烏帽子は、儀式や祭りの場で残っています。辞典は、神職や大相撲の行司(直垂と合わせる)などで使われていると説明します[1]。國學院大學の資料では、神職用のかぶりもので、浄衣や狩衣など略式の装束に合わせるものとされています[7]。

青森県の伝統工芸品「えんぶり烏帽子」は、春を呼ぶ祭り「えんぶり」で、舞い手の太夫がかぶります。鶴、亀、松竹梅、えびす、大黒といったおめでたい図柄で飾られ、農の神の象徴で、神が宿り、太夫は神の化身になるとされています[8]。

元服で髻を隠した帽子が、いまは神を迎える帽子として華やかに飾られている。かぶる人も、見る人も、同じ名前の帽子に違う意味を重ねています。

現在、烏帽子は神職、大相撲の行司(直垂と合わせる)、雅楽などで使われる[1]。國學院大學デジタルミュージアムは、神職用のかぶりもので、浄衣や狩衣など略式の装束に合わせるものと説明する[7]。

祭りの場では、烏帽子は別の意味を帯びる。青森県の伝統工芸品「えんぶり烏帽子」は、鶴、亀、松竹梅、えびす、大黒などのめでたい図柄で飾られ、春を呼ぶ祭り「えんぶり」の舞い手である太夫がかぶる。農神の象徴で、神が宿って太夫は神の化身になるとされる[8]。

こうしてみると、頭を隠す実用の帽子として生まれた烏帽子が、祭りの中では神の宿る飾りとして使われていることが分かる。同じ名前の帽子が、時代の中で別の役を引き受けてきた。

烏帽子えぼしに あいに いこう

烏帽子に会いにいく

烏帽子を観察し、原典を読む

今日 できること:テレビで すもうを 見る ときが あれば、ぎょうじの 頭を 見て みましょう。烏帽子えぼしは どんな いろと かたちを して いるでしょう。

出かけて できること:神社の おまつりで、神社で はたらく 人の ぼうしを 見て みましょう。まわりの 人の かぶりものと、くらべて みるのも おもしろいです。

くわしく しりたい とき:いちはらの れきし博物館はくぶつかんの 「西野いせきの 烏帽子えぼし」を よむと、ぼうしの あとの しゃしんと せつめいが 見られます[2]。

今日できること:大相撲の中継を見る機会があれば、行司の頭に注目してみてください。烏帽子の色、形、直垂との組み合わせはどうなっているでしょうか。

出かけてできること:神社の祭りでは、神職のかぶりものを見てみましょう。ほかの人の頭の上と見比べると、「かぶる意味」の違いが見えてきます。

公式情報:市原歴史博物館の「西野遺跡の烏帽子」には、出土した痕跡の説明があります[2]。青森県の伝統工芸品の紹介ページでは、えんぶり烏帽子の図柄が見られます[8]。

この記事は、辞典・博物館・公的機関の解説を突き合わせたものである。烏帽子の素材の変化、出土品の限界、廃れた時期の幅は、資料ごとに言い方が異なる。気になった点は原典で確かめてほしい。

観察としては、大相撲の行司や神社の神職の頭を見ることで、烏帽子の色や形を比べられる。資料としては、市原歴史博物館のノート[2]、国立国会図書館のNDLカレイドスコープ[5]、青森県の伝統工芸品の紹介[8]が出発点になる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文の事実は、次の資料で確認できる範囲に限っています。

  1. コトバンク「烏帽子」(日本大百科全書ほか) https://kotobank.jp/word/烏帽子 (烏帽子の意味・素材・種類・消えた時期・現在の使われ方)
  2. 市原歴史博物館 ノート009「西野遺跡の烏帽子」 https://www.imuseum.jp/siryo_chosa_kenkyu/kenkyu/note/521.html (露頂の恥・出土した烏帽子の痕跡)
  3. 吉川弘文館note「侍烏帽子と肩衣」(佐多芳彦) https://note.com/yoshikawa_k/n/n9622a5027810 (髻を隠す・武士の頭から消えた時期)
  4. 平安マガジン「平安貴族、冠を取った姿を晒すのは…」 https://heianmagazine.com/culture/hat-heian-values (平安貴族の作法と清原元輔の逸話)
  5. 国立国会図書館 NDLカレイドスコープ「武家の成人儀礼」 https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/31/2.html (烏帽子親・月代)
  6. コトバンク「元服」 https://kotobank.jp/word/元服 (元服の年齢・結髪加冠の制)
  7. 國學院大學デジタルミュージアム https://d-museum.kokugakuin.ac.jp/bts/detail/?id=3689 (神職の烏帽子)
  8. 青森県「青森県の伝統工芸品(えんぶり烏帽子)」 https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/sangyo/chikikigyo/aomori_dento-kogei_enburieboshi.html (えんぶり烏帽子)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

  •  初版を公開。

このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。