1. 袴は、もともと だれの ふくだったの?
1. 袴は男性の服として始まり、女性の服からは一度消えていた
1. 袴は男性の下衣として始まり、女性の日常着からは一度消えた
袴は、むかしの ひとが 足の ほうに はく、ひろい ズボンのような ふくです。こふんじだいには、おとこの ひとが 上に きる ふくに あわせて はいて いました。
おんなの ひとも、へいあんじだいには はきました。十二単という、おひなさまの ような ふくの したに、赤い 袴を はいて いたのです。
でも、しばらくすると 女の ひとは 袴を はかなく なります。こそでという、かるくて うごきやすい ふくが ふつうに なったからです。こそでは、いまの 着物の もとに なった ふくです。
では、どうして また 女の こが 袴を はくように なったのでしょう。
2. めいじの がっこうで、女の こは どんな 袴を はいたの?
2. 明治の学校で、女子が紫の袴をはき始めた
2. 明治の女学校で、教員から生徒へ袴が広がった
おんなの こが 袴を はく ことが ふえたのは、めいじじだいの がっこうです。まず、がっこうの 先生が 袴を はき はじめました。つぎに、学生も はくように なります。
東京の あとみがくえんでは、1875ねんに がっこうが はじまった ときから、むらさきいろの 袴を 学生に はかせたと いいます。
1897ねんの まえあとには、女の 学生が 袴を はくのが ふつうに なったと いわれて います。
この ころの 女の 学生は、どんな すがたで まちを あるいて いたのでしょう。
明治4年(1871年)ごろから、女学塾の塾長や教授が袴を使い始め、明治11年(1878年)ごろには、女学生が紫の袴をつけるようになったと説明されています[2]。教える側から、学ぶ側へと広がったのです。
跡見学園の記録では、開学した1875年から、創設者の跡見花蹊が、生徒に紫色の袴を着用させることを決めたとされています[3]。
ただ、袴がどの学校でも当たり前になったのは、もう少しあとです。明治期の女学生が袴を一般的に着るようになるのは、明治30年(1897年)前後といわれています[4]。
当時の袴は、どんな色で、街でどう見られたのでしょうか。
袴が女性の服として戻ってきた経路は、学校の中である。風俗博物館の解説では、明治4年(1871年)ごろに女学塾長や教授が袴を用い、同11年ごろには女学生が紫の袴をつけたとされる[2]。
個別の学校では、これより早い例が確認できる。跡見学園は、開学した1875年に、創設者の跡見花蹊が生徒に紫色の袴を着用させることを決めたと自校の資料で述べている[3]。つまり、明治11年ごろという全体の目安より、先に始めた学校があったことになる。なお、資料間で開始時期の幅があるため、最初の一校や正確な年を断定することはできない。
その後、袴が学校の外でも目に付く存在になるのは、明治30年(1897年)前後である。明治期の女学生が袴を一般的に着るのはこの時期といわれる[4]。教員が先に使い、一部の学校が制度として採り入れ、最後に全体へ広がったという順序が読み取れる。
では、広がった袴は、街の人の目にどう映ったのか。
3. まちで 目だった 女の こは、なんと よばれたの?
3. 海老茶色の袴の女学生は、街でどう見られていたのか
3. 海老茶色の袴は、なぜ「ハイカラ」の象徴になったのか
めいじの 30ねんだいに なると、まちには 女学生の すがたが ふえました。この ころの 女学生は、えびちゃいろの 袴を よく はいて いたので、「えびちゃしきぶ」と いう あだなが つきました。
やがすりの きものに、えびちゃの 袴。かみの けは、まえを たかく ふくらませる かたち。これが、そのころの 女学生の すがたです。
ある ひとは、じてんしゃに のって 学校へ 通いました。その すがたは、西ようふうで おしゃれだと 話題に なり、「ハイカラ」と いう 言葉の ひょうばんに なったと いわれます。
この すがたは、いまの そつぎょうしきに つながって いるのでしょうか。
明治30年代の女学生は、海老茶色の袴をつけた姿が街でよく見られました。そのため、「海老茶式部」というあだ名まで付いたといいます[5]。
典型的な姿は、束髪(西洋の婦人の髪型をまねて、前髪を高く膨らませた髪型)に、矢絣の着物、そして海老茶袴の組み合わせです[6]。
この姿を象徴する人物として、国立公文書館アジア歴史資料センターの解説は、三浦環の名を挙げています。女学生時代に、この格好で自転車を乗りこなした姿が、西洋風でしゃれた人、つまり「ハイカラ」の代名詞になったというのです[6]。
和服の袴が、洋風のおしゃれとも結びついていた。ここに、男性の服が女性の人気の服に変わった理由の一つがありそうです。
明治30年代の街では、海老茶色の袴をつけた女学生が目立った。鎌倉市鏑木清方記念美術館の解説は、この時期の女学生に「海老茶式部」という異名が付いたほど、海老茶色の袴姿が街中でよく見られたと述べる[5]。
その姿は、束髪に矢絣の着物、海老茶袴という組み合わせで説明される。束髪とは、西洋の婦人の髪型をまねて、前髪を高く膨らませた髪型である[6]。つまり袴は、日本の伝統だけでなく、西洋の髪型と組み合わさって「新しい女学生像」を作っていた。
国立公文書館アジア歴史資料センターの解説は、三浦環が女学生時代にこの姿で自転車に乗りこなしたことが、西洋風でしゃれた人を意味する「ハイカラ」の代名詞になったと説明する[6]。男性の下衣だった袴が、女性の「新しさ」を示す服になったのは、この結びつきが背景にあると考えられる。ただし、これは一つの解説に基づく説明であり、袴が広まった理由のすべてを示すものではない。
この人気の姿は、そのまま現代まで続いたのか。実は、一度途切れている。
4. 一ど きえた 袴は、どうして また 出て きたの?
4. 一度見られなくなった袴は、漫画をきっかけに戻ってきた
4. 袴が卒業式に戻ったのは、漫画と明治へのあこがれが重なったため
この 袴の すがたは、しょうわの はじめから せんじちゅうに かけて、見られなく なりました。その ころは、じみな ふくを きる ことが もとめられたからです。
それから ずっと あとの 1975ねんに、「はいからさんが とおる」という まんがが、「しゅうかん しょうじょフレンド」で はじまりました。1977ねんまで つづいた おはなしです。
この まんがが、そつぎょうしきの 袴が ひろまる きっかけに なったと 考えられて います。
1980ねんだいには、めいじや たいしょうの 女学生に あこがれた 袴の すがたが、とても はやりました。
いまも 女子だいがくせいが そつぎょうしきで 袴を きるのは、「ハイカラ」と いわれた むかしの にんきに あやかって いるからだと、せつめい する しりょうも あります。
明治に広まった袴と束髪の姿は、昭和の初めから戦時下にかけて見られなくなりました。質素な服装が求められた時代だったからです[7]。
戻ってきたきっかけとして挙げられているのが、1975年から1977年まで「週刊少女フレンド」に連載された漫画『はいからさんが通る』(原作:大和和紀)です。山野美容芸術短期大学の卒業式の髪型を調べた論文は、この漫画の影響が考えられると述べています[7]。
1980年代には、明治・大正の女学生へのオマージュが感じられる袴スタイルの卒業式が、大流行しました[7]。
いまも女子大生が卒業式で袴を着るのは、「ハイカラ」といわれた当時の人気にあやかっているからだ、と国立公文書館アジア歴史資料センターの解説は説明しています[6]。
では、この話を自分で確かめるには、どこを見ればよいでしょうか。
袴の姿は、明治の人気のあと、いったん途切れた。山野美容芸術短期大学の紀要は、昭和の初めと戦時中は地味で質素な身なりが求められた時代で、袴に束髪という装いはしだいに街から姿を消したと述べている[7]。そのため、現代の卒業式の袴は、明治からの連続した習慣ではない。
では、なぜ戻ってきたのか。同じ論文は、広まったきっかけとして、1975年から1977年まで「週刊少女フレンド」(講談社)に連載された漫画『はいからさんが通る』(原作:大和和紀)の影響が考えられると述べる[7]。断定ではなく「考えられる」という書き方である。
続く1980年代には、明治・大正の女学生へのオマージュが感じられる卒業式の袴スタイルが大流行した[7]。国立公文書館アジア歴史資料センターの解説も、今の女子大生が卒業式で袴を着るのは、ハイカラといわれた当時の人気にあやかったものだと説明する[6]。
以上から、男性の下衣として始まり、明治の学校で女性の服になり、一度途切れ、昭和後期の漫画と明治へのあこがれによって、卒業式の定番へ戻ったという流れが読み取れる。卒業式の習慣が最初に始まった正確な日付は、この記事の資料からは一つに決められない。
5. 自分の がっこうの ふくの れきしを 調べて みよう
5. 袴のゆくえを、身近なところから探してみる
5. 袴の流れを、自分の目で確かめる手がかり
おうちの アルバムを 開いて みましょう。おじいさんや おばあさん、おとうさんや おかあさんの そつぎょうしきの しゃしんは ありますか。
どんな ふくを きて いるでしょうか。袴の ひとは いますか。年が ちがうと、すがたが かわって いるかも しれません。
がっこうの 図書室で、じぶんの がっこうの れきしの 本を さがすのも いいでしょう。せいふくが いつ きまったのかを 見つけたら、だれかに 話して みてください。
家族のアルバムに、卒業式の写真があれば、見比べてみましょう。袴の人がいるか、いるなら髪型や色はどうか。年代によって、変わっているかもしれません。
自分の学校や、近くの女学校の歴史を、学校の図書室や地域の図書館で調べるのもおすすめです。いつ制服が決まったのか、袴を使っていた時期があるのか、学校の年表に出ていることがあります。
跡見学園のように、袴を最初から制服にしていた学校もありました。身近な学校の歴史に、袴はどう関わっているのでしょうか。
この記事で使った資料の多くは、博物館・大学・学校自身の公開ページである。出典欄のリンクから、原文を読んでみてほしい。特に、山野美容芸術短期大学の紀要は、卒業式の髪型を長年観察した記録で、袴の復活を考える手がかりがある[7]。
自分でできる確かめ方もある。家族のアルバムで、卒業式の写真を年代順に並べてみると、袴の有無や色、髪型の違いが見えてくる。学校史や地域の図書館の資料から、自分の学校がいつ制服を決めたかを調べることもできる。
残る問いもある。袴がなぜ女子学生の服として定着したのかについて、資料は「ハイカラ」の人気や漫画の影響を挙げるが、それ以上の細かい因果は、さらに別の資料が必要になる。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文で使った資料です。袴の歴史の説明、女学生の袴の始まり、卒業式での復活の三つに分けて参照しました。
- 兵庫県小野市立好古館「袴(はかま)~古墳時代から現在まで~」 https://www.city.ono.hyogo.jp/section/~kokokan/koukokan/zouhin/1-10_hakama.html (袴の起源と、女性の袴の減少)
- 風俗博物館「女学生姿」 https://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000188 (明治の女学生の袴の始まり)
- 跡見学園「制服」 https://www.atomi.ac.jp/progress/visual_identity/uniform.html (開学当初の紫の袴)
- 共立女子大学 公開講座講演 https://www.kyoritsu-wu.ac.jp/academics/undergraduate/kasei/hihuku/news/detail.html?id=318 (明治30年前後に一般的になったこと)
- 鎌倉市鏑木清方記念美術館「秋宵」 https://www.kamakura-arts.or.jp/kaburaki/collection/shusho.html (海老茶式部という異名)
- 国立公文書館アジア歴史資料センター「戦前と戦後で女性のファッションはどう変わったの?」 https://www.jacar.go.jp/exhibition/glossary/tochikiko-henten/qa/qa02.html (女学生の姿とハイカラ、現代とのつながり)
- 山野美容芸術短期大学「卒業式におけるヘアスタイル定点観測の可能性」 https://www.yamano.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2024/05/vol.31_1-8.pdf (袴が見られなくなった時期と、漫画の影響)
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