1. はかまの 中は、ズボン? スカート?
1. 袴の中は、ズボンなのか、スカートなのか
1. 外見は同じなのに、袴には「襠のある型」と「ない型」がある
おいわいで はかまを はいた 人を 思い うかべて みて ください。足もとが ひろがって、スカートのように 見えますね。
じつは、はかまには 二つの しゅるいが あります。一つは、またの ところに 四角い ぬのが 入って いて、中が ズボンのように 二つに わかれて います。もう 一つは、その ぬのが なくて、ながい スカートのように つながった ものです。
四角い ぬのは、襠と いいます。まちの ある はかまは、馬乗袴とも よばれます。まちの ない はかまは、行灯袴です。
この 二つは、そとから 見ると、そっくりです。では、どうして 二つの かたちが うまれたのでしょう。
2. 二つに わかれた 形は、馬と かんけいが ある?
2. 二本の脚に分かれた形は、馬に乗る暮らしとつながっている
2. 脚が二本に分かれた形の源流:乗馬と防寒のズボン
二つに わかれた ズボンの 形は、馬に のる くらしと ふかく むすびついて いると いわれます。広い 草原で 馬に のると、足を 馬の 左右に かけます。足を 左右に ひらくので、スカートのように つながった 形では のりにくいのです。
また、さむい ところでは、足を あたためる ふくでも ありました。中国の 人は、この ような ふくを 胡服と よびました。
日本でも、古墳時代の 埴輪に、ズボンのような ものを はいた 男の 人が います。むかしの 日本の 男の 人は、うえの ふくと、足を とおす 下の ふくを 着て いたのです。
ただし、日本の はかまが ぜんぶ ここから 来たと、言い切る ことは できません。ここから 先は、いくつかの 見方が あります。
二本の脚に分かれたズボンは、世界史の中で、ステップ(草原)で馬に乗る暮らしと切り離せないものだったと、百科事典は説明します[2]。馬に乗るとき、脚は馬の左右にかけます。スカートのような筒では動きにくいのです。寒い地域では、防寒着としても役立ちました。
世界大百科事典によると、中国ではこの服装を胡服と呼び、朝鮮半島を経て奈良時代の日本にも影響したとされています[2]。
日本には、もっと古い手がかりもあります。古墳時代の男子は、上衣と、ズボン状の下衣(衣褌=きぬばかま)をつけ、女子は衣と裳(も)をつけていたと説明されます。その姿は埴輪に残っています[1]。この埴輪の姿は、中国の魏晋南北朝時代の北方の人びとの胡服の系統に近いとみられています[1]。
ただし、これは「系統が近い」という見方で、日本の袴が全部ここから来たとまでは言えません。袴の語源を見ると、別の道すじも見えてきます。
二本の脚に分かれた形は、どこから来たのか。世界大百科事典の「ズボン」の項は、長ズボンがステップ地帯の乗馬の習慣と不可分に結びつき、寒冷地では防寒着でもあったと述べる。中国ではこの服装を胡服と呼び、朝鮮半島を経て奈良時代の日本にも影響したとされる[2]。馬に乗るときは脚を左右に開くため、二本の脚に分かれた服が役立つ。この説明は、乗馬の動作とも合っている。
日本側の資料はどうか。古墳時代の男子は、上衣とズボン状の下衣(衣褌)、女子は衣と裳(も)の服装で、埴輪にその姿が見られる[1]。世界大百科事典の「袴」の項は、埴輪の姿が中国の魏晋南北朝時代の北方諸族の胡服の系統に近いとみる[1]。
ここで注意したいのは、二つの限界である。第一に、「系統に近い」は、直接輸入されたことの証明ではない。第二に、百科事典によって、埴輪の下衣を衣褌と呼ぶか、脚衣と呼ぶかが分かれており、呼び方が一定しない。したがって、現時点で言えるのは、日本の袴に北方の乗馬服の系統が関わっていた可能性が高い、というところまでである。ならば、「はかま」という語はどこから来たのか。
3. 「はかま」という ことばは、スカートから?
3. 「はかま」の語源は、スカートのような裳にある?
3. 語源の通説:裳を腰に巻く服から、脚を通す服へ
ここで、おもしろい 話が あります。「はかま」という ことばは、「はきも」から かわったと いう かんがえが、いまの ところ いちばん 有名です。
「も」は、むかしの 人が こしに まいた スカートのような ぬのです。「はく」は、足に 通す こと。こしに まいた ぬのから、足を 通して はく ふくに すすんだ、という 見方です。
つまり、はかまの もとには、ズボンだけでは なく、スカートのような ふくも 入って いるのかも しれません。ただし、ことばの 由来は、ぴたりと 決まった わけでは ありません。
実は、「はかま」という言葉の由来を調べると、スカートのような服が出てきます。いまの通説は、『大言海』が示した「穿裳(はきも)」が変化した、という説です[1]。
裳は、腰に巻く、スカートに近い布です。この裳から袴が発達し、脚を通してはくようになった、という見方があります[1]。腰に巻く布が、やがて脚を通す形へ変わったというわけです。
こう考えると、袴には二つの系統が重なっている可能性が見えてきます。馬に乗る人びとの二本脚のズボンと、日本に古くからある、腰に巻く裳の考え方です。二本脚の型と、スカート状の型の両方が日本で使われたことも、この二つの流れで説明できるかもしれません。
ただし、語源は「通説」であって、確定したものではありません。同じ形の袴が、どう使い分けられたのかを、次は江戸の武士の場面で見ましょう。
袴の語源は、『大言海』の「穿裳(はきも)ノ転」が現在の通説とされる[1]。腰に巻いた裳から袴が発達し、脚を通してはくようになった、という見方である。これは、前章で見た乗馬服由来の説とは、出発点が異なる。
では、二つの説は対立するのか。必ずしもそうではない。袴の形に着目すれば乗馬服の系統があり、語の成り立ちに着目すれば腰に巻く裳の系統がある。のちに襠のない型と襠のある型の双方が現れることも、この二つの流れを重ねると説明しやすい。ただし、これは筆者の整理であり、資料が直接そう述べているわけではない。また語源は通説であって確定ではない。
いずれにせよ、平安時代には、表袴や指貫を上衣の内側に着け、武家の時代には、上衣の上から袴を着る形が広まったと説明される[1]。女性の袴は、平安以降の女房装束に欠かせなかった[1]。袴は、貴族から武家へ、立場を変えながら使われ続けた。その武家の時代に、形はどう整えられたのか。
4. 馬のりの はかまは、どうして まちを 高く したの?
4. 江戸の乗馬用袴は、なぜ襠を高くしたのか
4. 江戸の乗馬用袴と、襞(ひだ)にまつわる説明
江戸の ころ、松葉屋理右衛門という 人が、馬に のる 時の はかまを 考えたと いわれます。
この はかまは、まちを 高い ところに つけて います。そうすると、馬に のっても、すねが 見えません。馬に のる ために 足を ひらいても、はかまの すそが めくれにくい ように した くふうです。
この 馬のりの はかまは、明治の あとには、男の 人の いちばん きちんと した 服の 一つに なりました。はおりと いっしょに 着ます。
はかまの まん中には、ひだが あります。前に 5本、うしろに 1本、と いう はかまが あります。この ひだには 「五つの 大切な こと」を あらわすなど、いくつもの いみづけが いわれます。ただ、しっかりした ものは 見つからず、あとから 考えられた ものと 見られます。
江戸の寛文のころ、松葉屋理右衛門という人が、乗馬用の袴を考え出したと伝えられています[1]。この袴は、襠を高くつけて、馬に乗っても、すねが見えないようにしたといいます。足を開いて馬にまたがっても、裾が乱れにくい工夫です。
この考案者は百科事典の記述で、馬乗袴の形そのものの始まりとは別に考える必要があります。ただ、「馬に乗る」という目的が、襠の位置を決めたことは、はっきりしています。
明治時代以降、馬乗袴は紋付羽織と合わせる、男子の礼装になりました[1]。
袴の中央に寄せるひだ(寄襞)は、寛永(1624〜1644)のころに始まり、正徳・享保(1711〜1736)以降、袴の中央にとられて形式が整ったと説明されます[1]。男袴には、前に5本、後ろに1本のひだを取る形が、武道の袴などで知られます。前の5本を五つの大切な徳(仁義礼智信)に、後ろの1本を「二心がない」ことに結びつける説明が広く伝わっていますが、いわれの出どころは示されず、後の世の解釈と見られます[8]。後ろのひだの本数は、資料や流派によって1本とも2本ともされます。
江戸時代、乗馬という目的は、袴の形を具体的に決めた。馬乗袴は、寛文ごろ松葉屋理右衛門が乗馬用に考案したとされ、襠を高く付けて、馬上でもすねが見えないようにした[1]。足を開いても裾が割れにくい構造にするには、襠を高い位置に置くのが合理的である。ただし、考案者は百科事典の記述であり、馬乗袴の形そのものの起源とは区別する必要がある。
明治以降、馬乗袴は紋付羽織と合わせる男子の礼装になった[1]。このほか、山袴・雪袴などの作業用の袴も襠有袴で、用途ごとに襠と裾の形を変えて使われた[7]。
襞にも、年代の手がかりがある。寄襞は寛永(1624〜1644)ごろに始まり、正徳・享保(1711〜1736)以降に袴の中央にとられて、形式が整った[1]。男袴では、前5本・後ろ1本の襞が武道などで知られるが、後ろは流派や書によって2本とも書かれる。前5本を仁義礼智信(五常)に、後ろ1本を二心のなさに結びつける説明は広く流布している。しかし、これらは「といわれる」型の後世の解釈で、出典が示されないものが多い[8]。史実として扱うのは避けたい。
こうして襠をもつ馬乗袴は、男子の礼装として定着した。ところが、礼装になると、不便も目立ってくる。そこから、襠のない袴が生まれる。
5. 女の子の はかまは、どうして 二つに わかれて いないの?
5. 襠のない行灯袴は、なぜ生まれ、女学生に広まったのか
5. 襠をなくした行灯袴:礼装の不便から、女学生の制服へ
男の 人の れいそうの 馬のりばかまは、ふべんな ところも ありました。そこで、まちの ない はかまが 生まれました。きがえや あるくのが らくで、ふだんぎ としても 使われました。これが 行灯袴です。
明治の 時代に なると、この ながい スカートのような 行灯袴は、女の 学生の ふくに なりました。むかしの 女の 人の はかまは、いちど すたれたと いわれますが、また 着られるように なったのです。
1887年に、華族女学校で はかまが せいふくに 決まりました。これが、はじまりの 一つと される 出来事です。先生の 下田歌子が 考えたと いう 話も ありますが、ほかの かんがえも あって、はっきりは 決まりません。
この はかまの よい ところは、うごきやすさと きれいさが 両方 あることです。明治の おわりごろから 昭和の はじめまで、女学生の つうがく服として、ひろく 着られました。先生や 工場で はたらく 女の 人、電話の かかりの 人も 着ました。
馬乗袴は男子の礼装になりましたが、礼装として着るには不便でした。そこで襠を低くした襠無袴(行灯袴)が生まれ、着脱や歩くことが楽な略装、普段着になったと、日本大百科全書は説明します[5]。
明治になると、行灯袴の仕立てが、女学生の服として使われます。平安時代の女性の袴は早くすたれましたが、明治になって女学生の袴として再び用いられ、1887年には華族女学校(かぞくじょがっこう)の制服として採用されました[1]。この袴は、襠のない行灯袴の仕立てでした。女学生の袴がいつ始まったかは、ほかの説もあって一つに決められません。
華族女学校の教授だった下田歌子が、機能性と優美さを兼ねた女袴を考案した、と紹介されることが多いのですが、諸説あります[6]。この女袴は股が左右に分かれないロングスカート型で、のちに一般の女学校にも広がりました[6]。
通学服として広く着られたのは、明治30年代から昭和初期のあいだです[9]。袴は宮中の装束に由来し、教師・工女・事務員・電話交換手など、働く女性にも着られました[9]。
行灯袴の初めて出る用例は、幸田露伴の『新浦島』(1895)にあります[4]。この名前が、形が広まったころの言葉だとわかります。
馬乗袴は礼装としては整っていたが、日常には不便だった。そのため襠を低くした襠無袴、すなわち行灯袴が生まれ、着脱や歩行が楽な略装・普段着になったと日本大百科全書は説明する[5]。この袴は、外見は襠有袴と同様であり、明治時代に女学生が着用し、のちに男子も着るようになった。行灯袴の初出の用例は、幸田露伴『新浦島』(1895)とされる[4]。
では、女学生の袴はいつ始まったのか。平安時代の女性の袴は早くすたれたが、明治に女学生の袴として再び用いられ、1887年には華族女学校の制服に採用された。形式は襠のない行灯袴の仕立てだった[1]。
発案者について、華族女学校教授の下田歌子が、機能性と優美さを兼ねた女袴を発案したと紹介されることが多いが、諸説ある[6]。女袴は男袴のように股が左右に分かれないロングスカート型で、のちに一般の女学校にも広まった[6]。最初の着用時期についても諸説があり、一つに決められない。
明治30年代から昭和初期は、袴が女学生の通学服として一般的だった時期にあたる[9]。袴は宮中の装束に由来し、教師・工女・事務員・電話交換手など働く女性にも着られた[9]。分かれない形は、礼装の不便をなくす工夫であると同時に、それまで袴を使えなかった立場の人にも広がった形だったといえる。
6. 見つけた はかまを、しらべて みよう
6. 身近な袴の「股」を確かめる
6. 袴の仕立てを確かめ、資料に当たる
みて みよう
おいわいや、学校の 行じで はかまを 着た 人を 見かけたら、あるく ときの 足もとを よく 見て みましょう。足が うごくと、中が 二つに わかれて いるのか、つながって いるのかが 見えることが あります。見えない ときは、写真や 本で たしかめます。ひだの 数も、かぞえて みましょう。
はかまの 写真が のった 本や、ふくの むかしを しらべた 本が 学校の としょかんに あれば、ひらいて みましょう。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文で使った資料です。
- コトバンク「袴」(日本大百科全書・世界大百科事典). https://kotobank.jp/word/%E8%A2%B4 (古墳時代の服装・語源・形式の変遷・女学生の袴)
- コトバンク「ズボン」(世界大百科事典). https://kotobank.jp/word/%E3%82%BA%E3%83%9C%E3%83%B3-84894 (長ズボンと乗馬の関係)
- コトバンク「馬乗袴」. https://kotobank.jp/word/%E9%A6%AC%E4%B9%97%E8%A2%B4 (襠と馬乗袴)
- コトバンク「行灯袴」(精選版日本国語大辞典). https://kotobank.jp/word/%E8%A1%8C%E7%81%AF%E8%A2%B4 (行灯袴の定義と初出)
- コトバンク「行灯袴」(日本大百科全書). https://kotobank.jp/word/%E8%A1%8C%E7%81%AF%E8%A2%B4 (男子の行灯袴が生まれた理由)
- マネーポスト「女袴の紹介記事」. https://www.moneypost.jp/891226/2/ (下田歌子と女袴)
- Wikipedia「袴」. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%B4 (作業用の袴)
- 剣道袴の襞(babarinex-kendo.com). https://babarinex-kendo.com/kendo-hakama-folds/ (襞の数と意味づけの説明)
- 全国美術館会議「はいからモダン袴スタイル展」. https://www.museum.or.jp/event/95161 (女学生と働く女性の袴)
なおした ところ
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