1. 小さな 馬の ほねは、なにを 話して いるの?
1. 127cmの馬の骨は、何を語っているのか
1. 蔀屋北遺跡の馬 ── 全身骨格が示す、馬を飼う集落
おおさかふの 四條畷に ある 蔀屋北いせきで、馬の ほねが 出ました。いまから 1500ねん ぐらい 前の、土の あなの 中に、ほぼ 1頭ぶんの ほねが のこって いたのです[1]。
かたから 前あしの 地めんまでの 高さは、127センチ ぐらいです[1]。大きな 馬では なく、小がらな 馬でした。
ほかにも、馬の ほねや 歯が たくさん 出て います。そこで、ここは 馬を かって いた 人たちの むらの あとだと 考えられて います[1]。
さらに、海を わたる ふねに つかわれた かもしれない ふねの ぶひんや、馬に つける どうぐも 出ました。おおさかふは、「はんとうから うつり住んだ 人たちの むら」と 考えて います[2]。ただし、これは おおさかふの 見方です。
それなら、うみを わたって きた 人たちは、馬の ほかにも なにかを もって きたのでしょうか。
土の穴から出てきた、ほぼ1頭ぶんの馬
大阪府四條畷市の蔀屋北遺跡で、5世紀、古墳時代中期の土坑から、馬の全身骨格が見つかりました。体高は肩から前脚の接地面まで、127cm前後です[1]。大きな馬ではなく、小がらな馬だったことになります。
骨は1頭だけではありません。馬の骨や歯が多数出ているため、馬の飼育をした人びと、つまり馬飼集団の集落跡と考えられています[1]。
船と馬具が、海のむこうを思わせる
同じ遺跡からは、朝鮮半島との往来に使われた可能性のある準構造船や、半島から伝わった馬に関係すると考えられる馬具も出ています。こうした出土品から、大阪府は「半島から移り住んだ馬飼い集団が営んだ集落」と考えています[2]。ただし、これは府の見方で、研究者のあいだで定説と決まった話ではありません。
馬の骨は、持ちこまれたものの一つにすぎません。海を渡った人たちは、ほかに何を伝えたのでしょうか。
蔀屋北遺跡では、5世紀(古墳時代中期)の土坑から馬の全身骨格が出土した。体高は肩から前脚の接地面までで127cm前後、骨と歯の出土数も多く、馬の飼育を担った馬飼集団の集落跡と考えられている[1]。1頭の骨だけなら、たまたま馬が埋められただけかもしれない。多数の骨や歯が出ていることが、飼育の場だったという読みを支えている。
さらに、朝鮮半島との往来に使われた可能性のある準構造船や、半島から伝わった馬との関連が考えられる馬具も出土した。大阪府はこれらをもとに、「半島から移り住んだ馬飼い集団が営んだ集落」と見ている[2]。ただし、これは府の解釈で、渡来人が牧を始めたという説明が研究者のあいだで定説かどうかまでは、この資料からは言えない。
では、馬のほかに、海を渡った人びとは何を持ちこんだと考えられているのか。そもそも「渡来人」とは、どんな人びとを指す言葉なのか。
2. 「とらいじん」って、どんな 人たち?
2. 「渡来人」とは、どんな人たちを指すのか
2. 「渡来人」の範囲と、何度もあった渡来の波
うみを わたって、日本に うつり住んだ 人たちを、渡来人と いいます。この 記事では、1600ねん ぐらい 前から 1300ねん ぐらい 前に、朝鮮や 中国から 来た 人たちを「渡来人」と よびます[3]。
この 人たちは、かたい やきものの 作り方、はたおり、てつの どうぐの 作り方、かんじなどを つたえたと いわれます[3]。
この 記事では、そのうち 3つを 見ます。かたい うつわと、カマドと、はたおりです。
また、うみを わたる ことは、1回 だけでは ありませんでした。じてんでは、うみを わたって きた 時期を、何回かに わけて せつめい して います[3]。
では、まず かたい うつわから 見て みましょう。
4〜7世紀ごろに、朝鮮や中国から来た人びと
渡来人は、おもに4〜7世紀ごろ、朝鮮や中国から日本へ移り住んだ人びとを指します。むかしは「帰化人」と呼ばれましたが、「帰化」という言葉に問題があるとされ、いまは「渡来人」が定着しています[3]。
伝えたとされるものは、須恵器の作り方、機織り、鉄器の技術、漢字などです[3]。この記事では、そのうち須恵器、カマド、機織りの3つを取りあげます。
渡来は一度きりではない
『日本大百科全書』は、渡来を4つの段階に分けています。紀元前2世紀から紀元後3世紀、5世紀、5世紀後半から6世紀、7世紀後半です[3]。海を渡ってきた人たちは、一つの集団ではなく、何度も続いた波の中にいたことになります。
最初に、いちばん手に取りやすい手がかり、焼きものから見ていきます。
渡来人は、おもに4〜7世紀ごろ、朝鮮や中国から日本へ移住した人びとを指す。以前は「帰化人」と呼ばれたが、「帰化」の語に問題があるとされ、「渡来人」が定着した。須恵器の製法、機織り、鉄器の技術、漢字などを伝えたとされる[3]。
ここで注意したいのは、渡来が一度きりの出来事ではなかった点だ。『日本大百科全書』は、紀元前2世紀〜紀元後3世紀、5世紀、5世紀後半〜6世紀、7世紀後半の4段階に分ける[3]。したがって、「古墳時代に渡来人が来た」という言い方は、その中の特定の波を指しているにすぎない。
この記事は、そのうち古墳時代の暮らしに残った3つの足あと、須恵器、カマド、機織りをたどる。出土品は、いつ、どこで、何が使われたかを教えてくれる。いちばん分かりやすいのは焼きものだ。
3. 水を いれる うつわが、かたく なった
3. 窯で焼いたかたい器は、何を変えたのか
3. 土師器から須恵器へ ── 焼き方のちがいと陶邑窯跡群の規模
それまでの 土の うつわは、土師器と いいます。外の ひくい ねつで やくので、やわらかくて、水を とおしやすい うつわでした[4]。
いまから 1500ねん ぐらい 前、ちょうせんから あたらしい やきものの 作り方が 来ました。かまに 入れて 高い ねつで やきしめる ので、かたい 須恵器が できます。水などを 入れる うつわに むいて います[4]。
おおさかふの みなみに ある 陶邑の あとには、かまの あとが 600こ とも 1000こ とも いわれる ほど あります。ひろさは 東西 やく15キロ、南北 やく9キロです[5]。
1600ねん ぐらい まえに はじまった、うつわの 大きな 工場の ような ばしょでした[5]。
にたきを する 場所は、どうなっていたのでしょう。
低い温度で焼く土師器、窯で焼きしめる須恵器
それまでの土器は土師器で、窯に入れず屋外の低い温度で焼きます。そのため、比較的やわらかく、水を通しやすい性質がありました[4]。
5世紀ごろ、朝鮮半島から新しい焼きものの技術が伝わり、須恵器が作られるようになります。窯で高温で焼きしめるので硬く、液体を入れる器に向きました[4]。
600基とも1000基とも言われる窯
大阪府南部、泉北丘陵の陶邑窯跡群は、須恵器の大産地です。東西約15km、南北約9kmに広がり、窯の数は600基とも1000基とも言われます。始まりは約1600年前の古墳時代で、技術は渡来人がもたらしたとされています[5]。
須恵器は、水や酒などの液体を入れる器として役立ちました。では、毎日の煮炊きの場では、何が変わったのでしょうか。
古墳時代前半までの主な土器は土師器で、窯に入れず屋外の低い温度で焼く。そのため比較的やわらかく、水を通しやすい。ところが5世紀ごろ、朝鮮半島から窯で高温焼成する技術が伝わり、硬く焼き締まった須恵器が作られた。吸水しにくい分、液体を入れる器に向いた[4]。
この技術が定着したことは、産地の規模にも表れている。大阪府南部、泉北丘陵の陶邑窯跡群は東西約15km、南北約9kmに広がり、窯は600基とも1000基とも言われる。始まりは約1600年前で、技術は渡来人がもたらしたと説明される。窯の数に幅があるのは、確認の仕方によって数が変わるためだと考えられるが、その理由はこの資料には書かれていない[5]。
須恵器は、液体を入れる器として役立った。では、煮炊きの場では何が変わったのか。その変化の一つが、カマドである。
4. 台どころは、どう かわったの?
4. 竪穴住居の台所は、カマドでどう変わったのか
4. カマドは「台所革命」か ── 普及の速さと、起源をめぐる説
よこはまの やざきやまいせきは、1500ねん ぐらい 前の むらの あとです。ここでは、ほとんど すべての 家に カマドが ありました[6]。
カマドは、土や 石で つくった、火を もやす ための 場所です。それまでは 家の 中で 火を もやして いました。
この ころ、カマドや 須恵器は、にしの 日本に つたわった ばかりの ぎじゅつで、かんとうでは まだ めずらしい ものでした[6]。
カマドが 入ったことは、「古墳時代の 台所革命」と よばれます[6]。
ただし、カマドが どこから 来たのかは、学者の 考えが 分かれて います。カマドと、にたきに つかう 土きの セットは 海を わたって きた 人たちが もたらしたと 考える 人が います。いっぽうで、作りつけの カマドは、日本の 近ぎで そだったと 考える 学者も います[7]。
ほとんどすべての家にカマドがあった村
横浜市の矢崎山遺跡は、5世紀後半の集落跡です。ここでは、ほとんどすべての住居にカマドがありました。カマドや須恵器は、朝鮮半島からの渡来人を介して西日本に伝わったばかりの技術で、同じころの関東では、まだ珍しいものでした[6]。
カマドの導入は「古墳時代の台所革命」と呼ばれ、人びとの暮らしを大きく変えたと説明されています[6]。
カマドはどこから来たのか
ただし、カマドの起源には説が分かれます。石野博信氏は、カマドと煮炊き用の土器(甕・甑)のセットと、作りつけのカマドを分けて考えました。前者は渡来した人びとがもたらしたもので、後者は弥生時代後期の「類カマド」から近畿地方で育ったとする考えです[7]。
普及の速さも地域で違い、北陸では6世紀後半〜7世紀初めごろに現れます[7]。「渡来人が持ちこんだ」と一言でまとめるには、複雑な話です。台所のほかに、もう一つ有名な技術があります。
横浜市の矢崎山遺跡では、5世紀後半の集落で、当初からほとんどすべての住居がカマドを備えていた。カマドや須恵器は、朝鮮半島からの渡来人を介して西日本に伝わったばかりの技術で、同時期の関東ではまだ珍しかった。この導入は「古墳時代の台所革命」と呼ばれ、暮らしを大きく変えたと解説されている[6]。
しかし、「カマド=渡来人の発明」と断定することはできない。石野博信氏は、カマド型土器のセット(甕・甑など)と、作りつけのカマドを分けて考えた。前者は渡来者がもたらしたが、後者は弥生時代後期の「類カマド」から近畿地方で漸移的に形成されたという見方だ[7]。起源については説が分かれており、「台所革命」も遺跡解説の言い方であって、起源の結論ではない。
普及の時期にも地域差がある。北陸では6世紀後半〜7世紀初めごろに現れる[7]。矢崎山の「ほとんどすべての住居」は、むしろ早く取り入れた例として読むのが妥当だろう。
ここまでは土と火の技術だった。布をつくる技術も、渡来した人びとと結びつけて語られる。
5. はたおりが 上手な 人たちは、どこに いたの?
5. 機織りにすぐれた秦氏は、どこにいたと伝えられるのか
5. 秦氏の伝承 ── 養蚕・機織りと、出自をめぐる説
ぬのを おる ぎじゅつも、海を わたって つたわったと いわれます[3]。
この ぎじゅつに すぐれて いたと される 一ぞくが、秦氏です。『日本書紀』には、おうじん天のうの ころ、弓月君という 人が たくさんの 人を つれて わたって きた と つたえられて います[8]。
秦氏は、かいこを 育てる ことと、はたおりが 上手で、朝廷に つかえた と されます。いまの 京都の まちの あたりに すんだと 考えられて います[8]。
ただし、弓月君が いつ、どこから 来たのかは、学者の 考えが 分かれて います。ですから、「そう つたえられて いる」と いう 話として 読みます[8]。
『日本書紀』が伝える弓月君
布をつくる技術でよく名前が出るのが、秦氏です。『日本書紀』には、応神天皇の時代に、弓月君が多くの民を率いて渡来したと伝えられています。秦氏は養蚕と機織りの技術にすぐれ、各地の秦部を率いて朝廷に仕えたとされます[8]。
拠点は、山背、いまの京都盆地の葛野郡あたりです。平安京の造営にも関わったと考えられています[8]。
伝承は、そのまま事実とは限らない
ただし、弓月君の出身や渡来の時期には説が分かれ、5世紀以降の新羅系とする説もあります[8]。物語に出てくる人物が、そのまま史実の人物かどうかも、議論が続いています。ここでは「伝えられる」話として受けとるのが安全です。
馬、焼きもの、カマド、布。では、これらを持ちこんだ「渡来人」とは、結局どんな人たちだったのでしょうか。
機織りと養蚕の技術で名前が挙がるのが、秦氏だ。『日本書紀』は、応神天皇の時代に弓月君が民を率いて渡来したと伝える。秦氏は養蚕・機織りにすぐれ、各地の秦部を率いて朝廷に仕えたとされ、拠点は山背の葛野郡あたり、平安京の造営にも関わったと考えられる[8]。
ただし、これは伝承を含む説明である。弓月君の出自や渡来時期は説が分かれ、5世紀以降の新羅系とする説もある[8]。そのため、「弓月君が何年に来た」といった年号は、ここでは示せない。人物としての弓月君の史実性も議論中で、「伝えられる」という扱いにとどめる。
伝承と遺跡では、証拠の性質が違う。馬の骨や窯の跡、カマドは、実際に土の中から出たものだ。いっぽう、弓月君の話は、後の時代に書かれた記録に頼っている。両者を同じ重さで並べないことが、この題材を読むときの注意点だ。では、遺跡の側から、渡来した人びとの姿はどこまで分かるのか。
6. 来た 人たちの ことは、どこまで わかって いるの?
6. 渡来した人たちの姿は、どこまで分かっているのか
6. 遺伝学の結果 ── 三重構造モデルは支持されなかったという報告
どんな 人が、どこから、何人 来たのか。いまも しらべて いる ところです。
2024年10月、東京大学の 研究グループは、山口県の どいがはまいせきで 見つかった、やよいじだいの 人1人ぶんの 遺伝子を くわしく しらべました[9]。
それまで、「やよいじだいと こふんじだいで、べつの ところから 来た 人たちが いた」と する 考え(さんじゅうこうぞうモデル)が ありました。この 研究では、その 考えは しじされないと いう けつろんでした[9]。
ただし、しらべたのは 1人です。これで 決まりと いう 話では ありません。わかって いるのは、わたった 人たちの なみが 何回も あって、その 足あとが 馬、うつわ、カマドに のこって いる ことまでです。
遺伝子から見ると
2024年10月、東京大学の研究グループは、山口県・土井ヶ浜遺跡の弥生人1体、壮年の女性の全ゲノムを解析しました。東アジア系と北東アジア系の成分をあわせ持つ集団が、弥生時代に朝鮮半島から渡来し、縄文人と混ざって現代日本人の祖先になったと考えています[9]。
そして、弥生時代と古墳時代で渡来人の起源が別だとする「三重構造モデル」は、支持されないと結論しました[9]。
決着した話ではない
注意したいのは、解析されたのが1体だということです。これだけで、古墳時代の人びとの出自まで決まったわけではありません。遺伝学の見方も、研究のたびに更新されていく途中です。
分かっているのは、渡来が何度も続いたことと、その足あとが馬の骨、須恵器、カマドといった形で遺跡に残っていることです。では、その足あとを、私たちは自分で確かめられるでしょうか。
人の動きは、遺跡の遺物だけでなく、遺伝学からも調べられている。2024年10月、東京大学の研究グループは、山口県・土井ヶ浜遺跡の弥生人1体(壮年女性)の全ゲノムを解析した。東アジア系と北東アジア系の成分をあわせ持つ集団が弥生時代に朝鮮半島から渡来し、縄文人と混ざって現代日本人の祖先になったと考えている[9]。
この結果から、弥生時代の渡来人は北東アジア起源、古墳時代の渡来人は東アジア起源として、別々に日本列島へ来たとする「三重構造モデル」は支持されない、と結論づけられた[9]。ただし、解析されたのは1体であり、古墳人の側のデータはこの報告に含まれない。そのため、古墳時代の渡来の実態が決着したと読むことはできない。
考古学の側では、馬飼い集落や窯跡群、カマドの普及のように、渡来した技術の足あとが確かめられている。一方、遺伝学の側では、人の出自を巡る結論がまだ動いている。考古学と遺伝学は、別の種類の手がかりを示している。
7. 足あとを、さがして みよう
7. 近くの博物館で、足あとを探してみる
7. 資料を読むときの視点と、残っている問い
1つ目。ものさしで、127センチを はかって みましょう。かべに テープを はって、高さを たしかめます。かたの 高さが これぐらいの 馬が、1500ねん ぐらい 前に いました。
2つ目。博物館に 行く ことが あれば、土師器と 須恵器の 見くらべを して みましょう。土師器は やわらかく、須恵器は かたく やかれて います。色の ちがいにも 気づくかも しれません。ガラスケースの ものは、さわりません。
3つ目。家に ある やきものの おちゃわんや おさらを 見て みましょう。つるつるか、ざらざらか。色は 何いろか。たしかめます。須恵器と 同じ ものでは ありませんが、やきものの ちがいを 見る れんしゅうに なります。わらないように、そっと もちます。
近くの郷土資料館や歴史博物館に行く機会があれば、次の3つを探してみてください。ケースの中の展示品には、手を触れません。
1つ目は、土師器と須恵器の見くらべです。色合いや、表面の質感に違いがあるかを見ます。窯で焼き締めた硬い器と、そうでない器の違いが、見た目でも分かるかもしれません。
2つ目は、住居の復元や模型で、カマドがどこにあるかを見ることです。壁際にあるのか、中央にあるのか、確かめてみます。
3つ目は、地域ごとの違いです。カマドの普及は北陸のように遅い地域もあります[7]。自分の住む地域では、いつごろの遺跡から出ているのか、展示の説明を読んでみます。
家でできることもあります。ものさしで127cmを壁にテープで測ると、馬の肩の高さが実感できます。
この題材の証拠には、強さの違いがある。遺跡の出土品(馬の骨、馬具、須恵器、カマド)は物として存在する。一方、渡来人が牧を始めたという解釈は大阪府の見方[2]、カマドの起源は説が分かれる[7]、弓月君の話は伝承を含む[8]、遺伝学の結論は1体の解析にもとづく[9]。同じ「渡来人」という言葉で語られても、確かさはそれぞれ異なる。
確かめる方法は二つある。一つは、郷土資料館などで土師器と須恵器を見くらべ、展示の説明文に「渡来」「半島」という言葉が出てくるかを探すことだ。もう一つは、文化遺産オンラインの解説を読み、記事の記述と見比べることだ[4]。
残る問いは大きい。カマドは渡来か国内か。古墳時代の渡来人は、どこから、どれくらい来たのか。蔀屋北のような馬飼いの集落は、ほかの地域にもあるのか。この記事の資料では、これらに答えは出ない。出典を開き、書かれた範囲と書かれていない範囲を自分の目で分けて読むことが、次の一歩になる。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
出典について:大阪府・堺市・文化庁系の遺跡解説、辞典の項目、大学の発表を使いました。何に使ったかは、各項目の最後に書いています。
- 大阪府「蔀屋北遺跡 馬の動向」。https://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/maibun/23-1sitomiyaumadokou.html (馬の全身骨格と集落について)
- 大阪府「蔀屋北遺跡」調査成果。https://www.pref.osaka.lg.jp/o180150/bunkazaihogo/maibun/shitomiyakita.html (準構造船・馬具と、府の見方について)
- コトバンク「渡来人」(大辞泉・日本大百科全書・ブリタニカ)。https://kotobank.jp/word/%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA (言葉の意味と、渡来の4段階について。辞典の項目)
- 文化遺産オンライン「祇園大塚山古墳出土品」。https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/479478 (土師器と須恵器のちがいについて)
- 堺市「陶邑窯跡群」。https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/suemurakamaato.html (窯跡群の規模と須恵器の使いみちについて)
- 国立文化財機構 文化遺産「矢崎山遺跡」。https://www.nact.jp/artcommons/user/detail/28415 (カマドの普及と「台所革命」について)
- 岩松保「京都府埋蔵文化財論集」所収論文。https://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu1/11iwamatsu300-11.pdf (カマドの起源をめぐる説と、地域差について)
- コトバンク「秦氏」(世界大百科事典ほか)。https://kotobank.jp/word/%E7%A7%A6%E6%B0%8F (秦氏と弓月君の伝承について。辞典の項目)
- 東京大学大学院理学系研究科 プレスリリース(Journal of Human Genetics, 2024)。https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/10527/ (弥生人1体のゲノム解析について)
なおした ところ
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