1. メンコの ごせんぞは、どろで できて いたの?
1. メンコの前に遊ばれた、粘土を焼いた泥面子
1. 紙のメンコ以前:粘土を焼いた泥面子と、銭を使う遊びとの近さ
江戸の まちの 子どもたちは、ねんどを かたに おして、やいた 小さな まるい ものを もって いました。どろめんこと いいます。大きさは 2から 5センチ、あつさは 1センチくらいです。
あそびかたは、じめんに おいた どろめんこに、手に もった どろめんこを ぶつけます。じめんに かいた わくの 中に、投げ入れる あそびも ありました[1]。
この あそびは、どうせんを つかった 「ぜにうち」に にて いると、いわれて います。江戸東京はくぶつかんには、江戸時代の どろの メンコが 108こ、まとめて しまわれて います[2]。
では、いま よく 知られて いる 紙の メンコは、いつごろ できたのでしょう。
江戸の町の子どもたちは、粘土を型抜きして焼いた、小さな円盤を持っていました。泥面子です。大きさは直径2〜5cm、厚さは1cmほどでした[1]。手のひらに何枚も入る大きさです。
遊び方は、地面に置いた泥面子に、手に持った泥面子をぶつけるもの。あるいは、地面に書いた枠の中に投げ入れるものでした。新宿区の解説は、これが銅銭を使う「意銭(ぜにうち)」という遊びに似ていると述べています[1]。お金で遊ぶ遊びが、粘土の円盤に移ったとも読めます。
江戸東京博物館は、江戸時代(17〜19世紀)の泥メンコを108個まとめて所蔵しています[2]。ひとつだけではなく、まとまった数が作られて残っていたことが分かります。
では、いま私たちが思い浮かべる紙のメンコは、いつ、どんな材料の変化を経て現れたのでしょうか。
メンコと聞いて思い浮かぶのは紙だが、江戸時代の子どもが手にしていたのは、粘土を型抜きして焼いた土製の円盤、泥面子である。直径2〜5cm、厚さ約1cmで[1]、手の中でいくつも持てる大きさだった。
遊び方は二通りある。地面に置いた泥面子に手持ちの泥面子をぶつけるか、地面に描いた枠の中に投げ入れるかである。新宿区の解説は、これを銅銭を使う「意銭(ぜにうち)」に似た遊びとしている[1]。つまり、硬貨を投げ当てる遊びの道具が、安く作れる粘土の円盤に置きかわったと読める。ただし、銭うちから泥面子が生まれたと直接示す資料は、ここでは使っていない。
江戸東京博物館のデジタルアーカイブは、泥メンコ108個を「江戸時代 17〜19世紀」の資料として所蔵する[2]。これだけまとまった数が作られ、残されていたことが分かる。
ここで注目したいのは、材料である。粘土から鉛へ、鉛から紙へ。メンコは、このあと材料を替えながら遊び方も変えていく。それはいつ起きたのか。
2. なまりから紙へ。メンコは どう かわったの?
2. 鉛のメンコから紙のメンコへ、「起こし」が流行する
2. 鉛から紙へ:明治10年代・20年代の材料の入れかわりと、「起こし」の登場
つぎに あらわれたのは、明治10ねんだい(1877〜1886ねん)に つくられるように なった、なまりの メンコです[3]。
そして 明治20ねんだい(1887〜1896ねん)に、紙の メンコが うまれた、と いわれて います[3]。いま わたしたちが 思いうかべる メンコです。
紙の メンコで はやったのが 「おこし」と いう あそびです。じめんに うちつけた いきおいで、あいての メンコを ひっくりかえします[3]。
やすい おかしや おもちゃを うる だがしやも、明治の 時代に はじまったと いわれます[4]。やすい あそび道具が 手に はいる 場所が あったことは、あそびが ひろまった ころの せなかに なって いたかも しれません。
泥面子のあと、メンコの材料は何度か替わります。兵庫県立歴史博物館の解説によると、明治10年代(1877〜1886年)に、鉛でメンコが作られるようになりました。泥を焼いた面子から、金属の面子へと材料が変わったことになります[3]。
続いて明治20年代(1887〜1896年)の日清戦争のころには、紙のメンコが生まれます。同じ解説は、このころに「起こし」という遊び方が広まったと書いています。地面に打ちつけた勢いで相手のメンコをひっくり返す遊びです[3]。
泥面子の遊びは、置いた面子に「ぶつける」「枠に入れる」でした。紙のメンコの遊びは、打ちつける勢いで相手を「ひっくり返す」に変わります。材料が替わった時期と、遊びの中心が替わった時期は、資料の上で重なっています。
この時期に、駄菓子屋も現れます。明治時代に起源をもつ駄菓子屋は、安価な菓子やおもちゃを売る店です[4]。紙のメンコが広まった背景として、安い遊び道具が子どもの手に届く場所があったことは、押さえておく価値があります。
メンコの材料の流れは、ここまでで泥、鉛、紙と見えてきました。では、もう一つの遊び、ベーゴマはどうでしょう。
兵庫県立歴史博物館の解説に従えば、明治10年代(1877〜1886年)には鉛のメンコが作られるようになった[3]。土の円盤から金属へ、材料が替わったことになる。続いて明治20年代(1887〜1896年)の日清戦争のころに紙のメンコが生まれ、「起こし」という、地面に打ちつけた勢いで相手のメンコをひっくり返す遊び方が広まった[3]。
ここで遊びの中心が変わっていることに気づく。泥面子の遊びは、置いた面子に当てるか、枠に入れるかだった[1]。紙のメンコでは、打ちつけた勢いで相手をひっくり返すことが勝敗を決める。材料の入れかわりと遊びの中心の移りかわりが、同じ時期に重なっている。ただし、材料が変わったから遊び方が変わった、という因果までは、資料に書かれていない。
身近な買い物の場にも変化があった。国土交通省の多言語解説文データベースは、駄菓子屋が明治時代に起源をもち、安価な菓子やおもちゃを売る店だとしている[4]。安い遊び道具を売る店が生まれたことは、遊びが子どもに届いた背景の一つとして押さえておく価値がある。
では、ほぼ同じころ、もう一つの代表的な遊びであるベーゴマは、どんな材料から始まったのか。
3. ベーゴマの ごせんぞは、貝の からだったの?
3. 貝殻に鉛を詰めた「貝ごま」から始まった工夫
3. ベーゴマの源流:貝殻に鉛を詰める工夫と、重心の低さ
ベーゴマは、はじめは 鉄の こまでは ありませんでした。江戸の ころは、ばい貝と いう 貝の からに、すなや なまりを つめて、ろうで ふさいだ ものが つかわれて いました[5]。
どうして なまりを いれたのでしょう。1830ねんの 本、『きゆうしょうらん』には、貝の からに なまりを とかして いれ、さきの ほうを おもくして、こまを おちつかせる くふうが 書かれて います[6]。
おもい ところが ひくいと、こまは たおれにくく なります。貝の からに なまりを いれたのは、そのための くふうだったと、考えられます。
ただし 貝の こまが、いつから あそばれて いたのか、はっきりした はじまりは、わかって いません。
ベーゴマの始まりは、金属ではなく貝殻でした。日本独楽博物館の解説によると、江戸時代には、ばい貝に砂や鉛を詰め、蝋などでふさいだものが使われていました[5]。
茨城県立歴史館の回答は、文政13年(1830年)に出た『嬉遊笑覧』に、貝殻に鉛を溶かし入れ、先端を重くして重心を低く安定させる工夫が書かれていると述べています[6]。
コマは、重い部分が低いほど倒れにくくなります。貝殻に鉛を入れるのは、そのための工夫だったと考えられます。貝殻という身近な物に、重さを足して性能を変えていたことになります。
貝ごまの遊びがいつ始まったのかは、資料によって、はっきりしていません。ただ、1830年の文献に鉛の工夫が記されていることは分かっています。
では、この貝ごまは、いつ金属のベーゴマになったのでしょうか。
日本独楽博物館は、江戸期の貝ごまを、ばい貝に砂や鉛を詰め、蝋などでふさいだものと説明する[5]。茨城県立歴史館は、文政13年(1830年)の『嬉遊笑覧』に、貝殻に鉛を溶かし入れて先端を重くし、重心を低く安定させる工夫が述べられていると回答している[6]。
この工夫には、重さの置き場所という物理の考え方が見える。コマは、重い部分が回転軸の近く、とくに低い位置にあるほど倒れにくい。貝殻の先に鉛を集めれば、重心が下がる。もっとも、この説明は一般的な力学の考え方であり、1830年の文献がそう書いているわけではない。資料が述べているのは、鉛を入れて安定させようとした工夫までである。
砂や鉛を詰めて蝋でふさぐ方法は、中身を貝殻の中に閉じこめる作りである。軽い貝殻に重さを足して、回り方を調整していたことになる。
貝ごまがいつから遊ばれたか、正確な開始時期は特定されていない。年代が確かめられるのは、1830年の文献の記述までだ。では、この「重さで性能を調整する」発想は、金属の登場でどう変わったのか。
4. かなものの ベーゴマは、いつごろ ぜんこくに ひろまったの?
4. 金属のベーゴマの誕生と、大正時代の全国への広がり
4. 金属製ベーゴマの誕生と全国への普及:明治40年ごろから昭和の形の工夫まで
かなものの ベーゴマが うまれたのは、明治40ねん(1907ねん)ごろです。いもの、つまり とかした 金ぞくを かたに ながして つくる こまです[6]。
かたに ながして つくるので、同じ かたちの こまを、いくつも つくる ことが できます。
そして 大正時代に、金ぞくの ベーゴマは 全国に ひろまりました[6]。昭和に なると、あたった ときに はじきとばされないよう、かどを けずる くふうが されたそうです。やがて 八かくけいの ものも つくられました[6]。
茨城県立歴史館の回答によると、鋳物製のベーゴマが誕生したのは明治40年(1907年)ごろで、大正時代に全国へ広まりました[6]。鋳物は、溶かした金属を型に流して作ります。同じ形のこまを、同じ型から何個も作れます。
日本独楽博物館は、旧サイトの記事を引いて、明治40年ごろには真鍮製、その後は鉄製のベーゴマが現れたと伝えています[5]。「鋳物製」と「真鍮製」と、資料により言い方がちがいますが、金属のこまが明治40年ごろに現れたという点は重なります。
形の工夫は、昭和に入ってから進みました。当たったときに飛ばされないよう、角を削って尖らせるなどの工夫がされ、また、八角形の製品も作られたようです[6]。ただし、この形の変化の細かい時期や経緯は、資料によってちがう可能性があります。
貝殻に鉛を詰める工夫から、型に流して作る金属の製品へ。重さで性能を調整する発想は、材料が変わっても受けつがれています。金属ベーゴマは、いまも作られているのでしょうか。
茨城県立歴史館の回答は、明治40年(1907年)ごろに鋳物製のベーゴマが誕生し、大正時代に全国へ広まったと述べる[6]。鋳物は、溶かした金属を型に流して固める方法で、同じ形を大量に作るのに向く。貝殻に鉛を詰める手作りの貝ごまと比べると、形と重さをそろえやすい。
日本独楽博物館は、旧サイトの記事に基づき、明治40年ごろには真鍮製、その後は鉄製のベーゴマが現れたとする[5]。「鋳物製」と「真鍮製」では、呼び方がそろっていない。製法と材料のどちらから述べたのかは、資料からは決められない。両方に共通して言えるのは、金属製が明治40年ごろに現れ、大正に全国へ広まったという点である。
昭和に入ると、当たったときに飛ばされないよう、角を削って尖らせる工夫がされ、また、八角形の製品も作られたようだ[6]。ただし、昭和初期の形の変化の時期や経緯は、資料によって異なる可能性がある。
材料に注目すると、ベーゴマの歩みは、貝殻と鉛(江戸)、真鍮・鉄(明治40年ごろ)、そして形の工夫(昭和)と進む。貝殻から金属へ材料が替わり、さらに形が工夫されていった。その製品を支える工場は、いまも残っているのか。
5. いまも ベーゴマを つくって いる 場所は あるの?
5. 川口のベーゴマ工場と、路地裏の遊びの変化
5. 現在の製造:埼玉県川口市の鋳造所と、電子ゲームの時代の遊び
ベーゴマを つくる しごとは、いまも のこって います。ジブリの ほくぶつかんの おみせの 記じには、さいたまけんの 川口市に、日本で ただ 一つ、ベーゴマだけを つくる いもの工場が あると 書かれて います[7]。
川口には、むかし、いもの工場が 1000けん ちょっと あったそうです[7]。
そして 昭和から 平成に かわる ころ、電子ゲームが 人気に なり、メンコや ベーゴマなどの 道ばたの あそびは、へって いきました[7]。それでも、いまも つくる 人が います。
三鷹の森ジブリ美術館の紹介記事は、埼玉県川口市に、日本で唯一、ベーゴマの製造を専門にしている鋳造所があると伝えています[7]。
川口は、鋳物の町として知られます。同じ記事によると、戦後にどんどん工場が建ち、かつて川口には1000軒ちょっとの鋳物工場がありました[7]。ベーゴマは、そうした工場の技術から作られてきたものの一つです。
一方、三鷹の森ジブリ美術館の記事は、昭和から平成へと時代が移るなかで電子ゲームが台頭し、メンコやベーゴマなどの路地裏の遊びは下火になったと紹介しています[7]。それでも、ベーゴマは今も作られています。
では、この道すじを、読者が自分の手と目で確かめるには、どうすればよいでしょうか。
三鷹の森ジブリ美術館の記事「マンマユート便り」は、埼玉県川口市に、現在、日本で唯一ベーゴマの製造を専門にしている鋳造所があると述べる[7]。同じ記事は、戦後に工場が次々に建ち、かつて川口には1000軒ちょっとの鋳物工場があったとも述べる[7]。ベーゴマは、鋳物工場の集積という地域の技術基盤のうえに作られたのである。
同じ記事は、昭和から平成へと時代が移るなかで、電子ゲームが台頭し、子どもの遊びが大きく変わったとも記す[7]。メンコやベーゴマなどの路地裏の遊びが下火になった背景として、記事は電子ゲームを挙げている。ただし、その影響の大きさを数字で示す資料は、今回のなかにはない。
材料と流行の流れを整理すると、江戸の泥・貝殻から、明治10年代の鉛、20年代の紙、40年ごろの金属へと、遊び道具は身近で手に入る材料に合わせて変わっていた。流行が弱まっても作る工場が残っていることは、遊び道具が鋳物の技術と結びついていたことを思わせる。
この道すじを、自分の目で確かめるには、何を見ればよいのか。
6. じぶんで ためして みよう
6. 紙を重ねて、自分のメンコの重さを変えてみる
6. 重さによる勝ちやすさを試し、原典で確かめる
きょう できる こと
いらない チラシを、おなじ 大きさに きって、4まいと 8まいを かさねた メンコを つくって みましょう。おり紙で つつんで、ずれないように します。
大きな タオルの 上で うちつけて、あいての メンコが ひっくりかえるか くらべて みましょう。かるい メンコと おもい メンコで、ちがいが 出るかを 見ます。ゆびを はさまないよう、まわりの 人との きょりに 気を つけます。
おうちの 人に 聞いて みよう
子どもの ころ、どんな あそびを したか、聞いて みるのも おもしろいです。メンコや ベーゴマの ほかにも、身近な ざいりょうで つくった あそび道具が 出て くるかも しれません。
厚紙で試す
いらないチラシや厚紙を同じ大きさに切り、4枚重ねたものと8枚重ねたものを作ります。重ね方がゆるむと形が崩れるので、折り紙で包むなどして固めます。
大きなタオルの上で打ちつけて、相手のメンコが返るかを比べてみましょう。軽いメンコと重いメンコで、結果に差が出るかを見ます。勢いよく手を振るので、指をはさまないよう、周りの人との距離に気をつけます。
家の人に聞く
子どものころ、どんな遊びをしたか、聞いてみるのもおもしろいです。メンコやベーゴマ以外にも、身近な材料で作った遊び道具が出てくるかもしれません。
資料を読むなら
泥面子は新宿区の解説[1]、鉛と紙のメンコは兵庫県立歴史博物館[3]、ベーゴマの材料は茨城県立歴史館[6]と日本独楽博物館[5]、川口の鋳造所はジブリ美術館の記事[7]で読めます。
重さの効果を手で確かめる
厚紙を同じ大きさに切り、4枚重ねと8枚重ねのメンコを作る。重ねがゆるむと形が崩れるので、折り紙で包んで固める。大きなタオルの上で打ちつけ、同じ人が同じ場所で、同じ相手のメンコに10回ずつ打ちつけ、返った回数を数える。重いほど有利かは、勢い、角度、風にも左右される。1回の結果では何も言えず、何回か繰り返して数える必要がある。手を振る遊びなので、指をはさまないよう、周りの人との距離を取る。
資料を読むなら
泥面子の大きさと遊び方は新宿区の解説[1]、江戸時代の所蔵例は江戸東京博物館[2]、鉛と紙のメンコ、「起こし」は兵庫県立歴史博物館[3]、駄菓子屋の起源は国土交通省の解説文データベース[4]、貝ごまと金属ベーゴマは日本独楽博物館[5]と茨城県立歴史館[6]、川口の鋳造所と遊びの変化はジブリ美術館の記事[7]にある。年代や形の変化には、資料ごとに説明がちがう部分が残る。表現のちがいを見比べるところから、自分の問いが生まれる。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文で使った資料です。
- 新宿区「泥面子」. https://www.city.shinjuku.lg.jp/kanko/bunka02_001069.html (泥面子の大きさ・遊び方・銭うち)
- 江戸東京博物館デジタルアーカイブス 泥メンコ(資料番号90203769). https://www.edohakuarchives.jp/detail-85646.html (江戸時代の泥メンコの所蔵)
- 兵庫県立歴史博物館「明治」. https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/digital_museum/bunka-jiten/meiji/ (鉛・紙のメンコと「起こし」)
- 国土交通省 多言語解説文データベース「昭和の町 駄菓子屋の夢博物館」. https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R1-02612.html (駄菓子屋の起源)
- 日本独楽博物館「独楽の歴史」. https://komahaku.komamawashi.com/learn/history/ (貝ごま、真鍮・鉄のベーゴマ)
- 茨城県立歴史館「昔のくらし『あそびの変化』ご質問への回答」. https://rekishikan-ibk.jp/topics/post-8510/ (『嬉遊笑覧』、鋳物製の誕生と大正の普及、昭和の形)
- 三鷹の森ジブリ美術館「オリジナルベーゴマ[マンマユート便り Vol.5]」. https://www.ghibli-museum.jp/shop/gior/009565/ (川口の鋳造所、電子ゲームと遊びの変化)
なおした ところ
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