1. 「西陣」は なぜ ふしぎな 名前?
1. 「西陣」という名前の不思議
1. 西陣織とは何か ── 高級絹織物の定義
京都の 西陣という 地域で 作られる 高級な 絹の 織物を、西陣織と いいます。
ふしぎなのは、名前です。「西の 陣」と 書いて いますが、織物とは 関係が なさそうです。この 名前の わけは、あとの 章で 分かります。
まず 考えたいのは、どうして 京都だったのか、です。
西陣織は、京都府の説明では「京都がはぐくんできた高級絹織物」で、少ない量をさまざまな種類で作ることを土台にした、先染めの紋織物とされています[2]。先染めとは、糸を先に染めてから織ることです。
「西陣」は、もともとは京都の一地域の呼び名です。「陣」という字は、戦のときの陣地を思わせますが、織物とは結びつきにくい名前です。この名前の由来は4章で見ます。
その前に、なぜ京都で高級な織物が育ったのかから見ていきます。
2. 京都に、どうして 職人が あつまったの?
2. 都の注文が、職人を京都に呼んだ
2. 平安京と高級織物 ── 需要が職人を集めた
京都で 織物づくりが はじまったのは、5せいきごろだと、西陣織の 組合は 説明して います[1]。都が できる 794ねんより 前です。
都が 京都に うつると、朝廷は 織物の しごとを 見る 役所を おき、きれいで 高級な 織物を 作る ことを すすめました[3]。貴族たちは、うでの いい 職人を 京都に あつめ、ざいりょうも わざも デザインも、いちばん いい ものを 作らせたと いわれます[5]。
おしろを 作る ことに なると、うでの いい 大工さんが 町に あつまって きますね。それと 少し 似て います。ただし 京都の ばあいは、おしろではなく、朝廷や 貴族の 注文でした。
組合の説明では、京都で織物づくりが始まったのは、平安京ができるより前の5世紀ごろとされます[1]。京都府は、平安時代以前に秦氏がもたらした織の技術が起源だと説明しています[2]。
794年に都が京都に移ると、宮廷の織物をあずかる役所「織部司」が置かれ、綾や錦のような高級な織物づくりが進められました[3]。観光庁の解説も、朝廷を中心とする貴族文化が花開いた平安時代から、高級織物が京都で作られてきたと述べています[4]。
貴族たちが優秀な職人を京都に集め、材料も技術もデザインも最高のものを作らせたので、西陣の織物は急に発展した、という説明もあります[5]。都に「買う人」がいたから、作る人も集まった、という筋道です。ただし、これは複数の資料が述べる説明で、これだけで決まった理由だとまでは言えません。
組合は、京都での織物づくりの始まりを、平安京の造営以前の5世紀ごろとする[1]。京都府は、平安時代以前に秦氏(はたし)がもたらした織技術が起源だと説明する[2]。
平安遷都(794年)とともに、宮廷の織物業を管轄する織部司(おりべのつかさ)が置かれ、綾・錦など高級織物の生産が奨励された[3]。観光庁の多言語解説も、貴族文化が花開いた平安時代から高級織物が京都で生産されてきたとする[4]。
貴族が優秀な職人を京都に集め、材料・技術・意匠のあらゆる面で最高級品を作らせたことが、急速な発展の背景だと説明される[5]。この説明は二次的な読み物によるもので、需要と職人の集積という複数の資料に共通する筋道として扱う。決定的な単一の原因と断定はしない。
3. 役所の そとで、どう なった?
3. 役所の手を離れて、町の織物へ
3. 官営工房の衰えと大舎人の綾
平安時代の 中ごろから、役所の 力が よわく なって いきました。すると 職人たちは、役所の ひがしの あたりに あつまって 住み、じぶんたちで じゆうに 織物を 作りはじめました[1]。
「おかみの ための しごと」から、「町の しごと」へ。西陣織の 土台が、このころ できはじめます。
平安時代の中ごろ以降に、役所が運営する工房が衰えると、職人たちは織部司の東の、大舎人町のあたりに集まって住むようになりました。そして、宮廷の管理から離れた自由な織物づくりを始めたと、組合は説明します[1]。「大舎人の綾」と呼ばれる織物も、このころのものです。
役所の注文だけを待つ職人から、町で自分の織物を作る職人へ。この変化が、あとで「西陣」と呼ばれる町の下地になりました。
平安中期以降に官営工房が衰えると、職人は織部司の東の大舎人(おおとねり)町のあたりに集住し、宮廷の管理下を離れて自由な織物づくりを始めた。「大舎人の綾」はその代表とされる[1]。
この段階で、織物の担い手は官の工人から町の職人へ移っている。次章の応仁の乱後の再集結は、この職人集団を前提とする。
4. 「西陣」の 名前は、どこから 来たの?
4. 応仁の乱のあとに生まれた「西陣」の名
4. 応仁の乱(1467〜1477年)と「西陣」の呼称
1467ねんから 10ねんほど、京都では 応仁の乱と いう 大きな あらそいが ありました。町は あれ、職人たちも 京都から はなれました[1]。
あらそいが おわると、職人たちは もどってきました。そして、あらそいの とき、西がわの 軍の 陣地が あった あたりで、織物づくりを やり直しました[1]。だから「西陣」と いいます。
京都の 観光の ホームページも、同じように 説明して います[6]。西陣は、もどってきた 人たちの 町の 名前でした。
応仁の乱は1467年から1477年まで続きました。組合の説明では、乱が終わると各地に散っていた職人が京都に戻り、乱のときに山名宗全の率いる西軍の陣地があったあたりで織物づくりを再開しました[1]。だから「西陣」と呼ばれます。
京都の観光公式サイトも、西軍の本営があった付近が「西陣」と呼ばれ、戻った職人が町衆の力も借りて、西陣織として大きく発展したと述べています[6]。2つの資料が、それぞれ別に、同じ説明をしています。
職人の避難先については、大阪の堺に逃れていた織り手が京都へ戻ったと書く資料もあります[3]。ただ、避難先まで書くものは限られるので、ここでは「そういう説明もある」にとどめます。
応仁の乱(1467〜1477年)が終わると、各地に離散していた織物職人が京都に戻り、山名宗全(やまなそうぜん)率いる西軍の陣地が置かれていたあたりで織物づくりを再開した。ここから「西陣」の名が生まれたと組合は説明する[1]。京都観光の公式サイトも、西軍本営付近を西陣と呼び、戻った職人が町衆の尽力もあって西陣織として発展したと、独立に同趣旨を述べる[6]。
あさぎ美術館は、乱の間に堺に逃れていた織手が戻ったと書く[3]。避難先まで記す資料は限られるため、ここでは一説として扱う。なお同館は乱の終結を1478年とするが、組合・京都府の1477年に本稿は合わせる。
大舎人座が1513年に綾織物の生産を独占し、1548年に「西陣」ブランドが確立したとする記述もある。ただし二次資料のみで原典を確認できなかったため、本稿では扱わない。
5. たくさんの 人が、1まいの 織物を 作る?
5. 江戸時代の黄金期と、分かれた仕事
5. 江戸期の隆盛と工程分業
江戸の 時代に なると、西陣は とても さかえました。「千両ヶ辻」と 呼ばれるほどだったと いいます[5]。
ひとつの 織物は、1人では できません。ずを かく 人、糸を そめる 人、たて糸を そろえる 人。それぞれの 専門の 職人が、じぶんの 店を もって、西陣の 町に まざって 住んで いました[5][2]。
たとえば、リレーで、走る 人ごとに とくいな きょりが ちがう ように、しごとを わけて います。西陣織は、たくさんの 手を へて できあがります。
6. 火事で、京都の 織物は どう なったの?
6. 大火のあと、職人が各地へ散った
6. 享保15年(1730年)の西陣焼けと技術の拡散
1730ねんの 6月、西陣で 大きな 火事が おきました。「西陣焼け」と 呼ばれます。7000あまりの はたの うち、3000あまりが なくなったと 記録されて います[7]。4わりほどです。
しごとの 場所を なくした 職人は、たくさん 地方へ 出ていきました。そして 行った さきに、西陣の 技術を つたえたと いいます。それが、各地の 織物づくりを のばす きっかけの ひとつに なったと 記録されて います[5]。
京都では たいへんな ことでしたが、職人が つたえた 技術は、各地の 織物づくりにも つながりました。
7. 明治に、京都は 何を 海の 向こうから 持ちこんだ?
7. 3人の職人がフランスへ ── ジャカードを持ち帰る
7. 明治の勧業政策とジャカード導入(1872〜1877年)
明治の はじめ、京都の 織物は おとろえて いました。そこで 京都府は、新しい 機械を 学ぶ ために、3人の 職人を フランスに おくりました。1872ねんの ことです[8]。
のこりの 2人は、ジャカードと いう 機械などを 持ち帰りました[8]。ジャカードは、あなを あけた 紙で、もようを きめる しくみです。1873ねんに フランスから 入れられました[8]。
3人の うち、吉田忠七さんは、のちの 1874ねん、かえる とちゅうで なくなったと つたえられて います[8]。
1877ねんには、西陣の 職人が、木で できた ジャカードを 日本で 作りました[7]。明治の おわりごろ、はたは 約2万台に ふえました[7]。
明治のはじめ、京都の経済は衰えていました。京都府は立て直しの施策の一つとして、1872年11月に、織工の佐倉常七、染色工の井上伊兵衛、機械工の吉田忠七の3人をフランスへ送りました[8]。翌1873年には金属製のジャカードがフランスから導入されました[7][8]。
ジャカードは、穴をあけた紙で織りの柄を決める装置です。帰国した佐倉常七と井上伊兵衛によって、ジャカードなど数種の機械が無事に持ち帰られたとされます[8]。3人のうち吉田忠七は、その後、帰国の途中の1874年に遭難して亡くなったと伝えられています[8]。
1877年には、西陣の機大工の荒木小平が、木製のジャカード機を国産化しました[7]。明治40年代には、織機が約2万台、生産額が2000万円あまりにふえたと記録されています[7]。1841年に約3100だった織機と比べると、6倍あまりです。ただし、この金額は当時の円で、今の金額とはちがいます。
京都府は、衰えた京都の経済を立て直す勧業施策の一環として、1872年(明治5)11月に、織工・佐倉常七(さくらつねしち)、染色工・井上伊兵衛(いのうえいへえ)、器械工・吉田忠七(よしだちゅうしち)をフランスへ派遣した[8]。帰国した佐倉・井上の2人により、ジャカード、紋彫機など数種の機械が持ち帰られた[8]。吉田は、帰国途中の1874年に遭難死したと伝わる[8]。
ジャカードは、紋紙という穴あきの紙で柄を制御する装置である。金属製のものが1873年(明治6)にフランスから導入された[7][8]。派遣は1872年、導入は1873年で、年を混ぜないよう注意したい。
1877年(明治10)には、西陣の機大工・荒木小平(あらきこへい)が木製ジャカード機を完成させた[7]。明治40年代には織機約2万台、生産額2000万円余に拡大した[7]。1841年の約3,100台の6倍あまりで、金額は当時の円である。
自分でも しらべて みたく なったら
自分でも調べてみたくなったら
自分でも調べてみたくなったら(資料案内)
今日できること:おうちに ある 布の ものを 見て みましょう。ネクタイや おびが なくても、ハンカチや 服の ふくろでも かまいません。もようが 「糸の 色」で できて いるか、後から 色を ぬった ものかを、うらがわから 見て くらべます。うらにも 同じ もようが 見えるか、おもてと くらべて みましょう。うらだけでは、糸を そめてから おったかは きめられません。
出かけて できること:京都に 行く ことが あれば、西陣の 町を 歩いて みましょう。町家が ならぶ 中で、はたを おる 音が 聞こえるかも しれません。
くわしい 情報:西陣織工業組合の ホームページや、京都府の 「西陣織」の ページで、しらべられます。
今日できること:家にある布の製品(ネクタイ、ハンカチ、洋服など)を、表と裏から見てみます。柄が「染めた糸」で作られているのか、織ったあとに色をのせたものなのか、裏の様子で見分けられることがあります。先染めの織物なら、裏にも同じ柄が見えることがあります。ただし裏だけでは、先染めかどうかは決められません。
出かけてできること:京都に行く機会があれば、西陣の町並みを歩いてみるのもよいでしょう。町家が並び、ときどき機織りの音が聞こえるそうです[6]。見学できる施設の開館情報は、出かける前に公式サイトで確認してください。
公式の情報:西陣織工業組合の「西陣の由来」、京都府の「西陣織」のページを読むと、この記事の土台になった説明が分かります。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
この記事で使った資料です。読み仮名や、年号・数字のちがいは、記事の中で注記しています。
- 西陣織工業組合「西陣の由来」 https://nishijin.or.jp/whats-nishijin/origin/ (5世紀の起源、大舎人町、応仁の乱と「西陣」の由来)
- 京都府「西陣織」 https://www.pref.kyoto.jp/senshoku/nisijin.html (西陣織の定義、秦氏、工程、指定品種)
- 西陣織あさぎ美術館「西陣織の歴史」 https://asagi-museum.jp/about/history.html (織部司、堺への避難)
- 観光庁 多言語解説文データベース「西陣織」 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R2-01452.html (平安時代からの高級織物)
- 中川政七商店の読みもの「西陣織とは」 https://story.nakagawa-masashichi.jp/craft_post/117508 (職人の集まり、江戸の分業、大火後の技術の拡散)
- 京都観光Naviぷらす「応仁の乱から555年!「西陣」の今昔」 https://plus.kyoto.travel/entry/nishijin (「西陣」の名の由来の照合、今の町の様子)
- 京都・共同研究会「在来産業のイノベーション(その1)」 https://www.kyodoyukai.or.jp/rediscovery/rediscovery005.html (西陣焼け、明治の年表と数字)
- 京都観光「八重とハンサム京都 佐倉常七」 https://ja.kyoto.travel/yae/iphone/sangyo.html (フランス派遣とジャカード導入)
なおした ところ
更新履歴
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