このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

西陣織にしじんおりは どうして 京都きょうとで さかんに なったの?

西陣織はなぜ京都で栄えたのか ── 都の注文、町の名前、火事と機械の話

西陣織の成立と展開 ── 平安京の織物需要から応仁の乱後の「西陣」、1730年の大火、明治のジャカード導入まで

分野:歴史・文化

京都きょうとの 町では、ときどき「カシャン、カシャン」と、はたを おる 音が 聞こえると いいます。この 音の 先には、京都きょうとの 織物おりものづくりが、1500ねんほど 前まで さかのぼると いわれる 話が あります。

「西陣にしじん」という 名前は、どこから 来たのでしょう。火事に あった 町から、なぜ 新しい 産地さんちが 生まれたのでしょう。じゅんばんに 見て いきます。

京都の西陣という地域では、今も町家が並び、ときおり「カシャン、カシャン」と機織りの音が聞こえるといいます[6]。この地域の名は、高級な絹織物「西陣織」の名前としても知られています。

ところで「西陣」は、織物とは関係のなさそうな名前です。なぜ京都で織物が栄え、どうして「西の陣」なのか。大火のあとに職人が各地へ散ったことや、明治に3人の職人がフランスへ渡ったことも含めて、流れを追います。

西陣織は、京都の西陣地域で育った高級絹織物である[2]。京都での織物づくりは5世紀ごろに始まるとされ[1]、応仁の乱(1467〜1477年)の後に、職人が戻った地域が「西陣」と呼ばれるようになった[1][6]。

平安京の需要、江戸期の分業と1730年の大火、明治の京都府によるジャカード導入という3つの転機を、出典を突き合わせて整理する。「なぜ京都か」の説明は複数の資料が述べるものであり、単一の決定的な理由ではない点にも注意したい。

読み方を切り替えられます。画面の上にある「よみかた」のボタンで、小学校低学年むけ・小学校高学年むけ・中学生むけの3つの書き方に切り替わります。むずかしいと思ったら、いつでもやさしい方に戻ってください。選んだ読み方はブラウザが覚えているので、次に別の記事を開いたときも同じ読み方で始まります。

1. 「西陣にしじん」は なぜ ふしぎな 名前?

1. 「西陣」という名前の不思議

1. 西陣織とは何か ── 高級絹織物の定義

京都きょうとの 西陣にしじんという 地域ちいきで 作られる 高級な 絹きぬの 織物おりものを、西陣織にしじんおりと いいます。

ふしぎなのは、名前です。「西の 陣じん」と 書いて いますが、織物おりものとは 関係かんけいが なさそうです。この 名前の わけは、あとの 章で 分かります。

まず 考えたいのは、どうして 京都きょうとだったのか、です。

西陣織は、京都府の説明では「京都がはぐくんできた高級絹織物」で、少ない量をさまざまな種類で作ることを土台にした、先染めの紋織物とされています[2]。先染めとは、糸を先に染めてから織ることです。

「西陣」は、もともとは京都の一地域の呼び名です。「陣」という字は、戦のときの陣地を思わせますが、織物とは結びつきにくい名前です。この名前の由来は4章で見ます。

その前に、なぜ京都で高級な織物が育ったのかから見ていきます。

京都府は西陣織を、「京都がはぐくんできた高級絹織物で、多品種少量生産を基盤とした先染の紋織物」と説明している[2]。先染とは糸を染めてから織ることで、紋織物とは、織りで柄を表した織物のことである。

企画・図案、糸染、整経、綜絖など多くの工程を熟練者が分担し、国の指定品種は12種類ある[2]。

「西陣」は京都の一地域の呼び名でもある。なぜ京都で高級織物が発達し、その地域の呼び名がなぜ織物の名になったのか。この2点を軸に、時代順に整理する。

2. 京都きょうとに、どうして 職人しょくにんが あつまったの?

2. 都の注文が、職人を京都に呼んだ

2. 平安京と高級織物 ── 需要が職人を集めた

京都きょうとで 織物おりものづくりが はじまったのは、5せいきごろだと、西陣織にしじんおりの 組合は 説明せつめいして います[1]。都が できる 794ねんより 前です。

都が 京都きょうとに うつると、朝廷ちょうていは 織物おりものの しごとを 見る 役所を おき、きれいで 高級な 織物おりものを 作る ことを すすめました[3]。貴族きぞくたちは、うでの いい 職人しょくにんを 京都きょうとに あつめ、ざいりょうも わざも デザインも、いちばん いい ものを 作らせたと いわれます[5]。

おしろを 作る ことに なると、うでの いい 大工さんが 町に あつまって きますね。それと 少し 似にて います。ただし 京都きょうとの ばあいは、おしろではなく、朝廷ちょうていや 貴族きぞくの 注文でした。

組合の説明では、京都で織物づくりが始まったのは、平安京ができるより前の5世紀ごろとされます[1]。京都府は、平安時代以前に秦氏がもたらした織の技術が起源だと説明しています[2]。

794年に都が京都に移ると、宮廷の織物をあずかる役所「織部司」が置かれ、綾や錦のような高級な織物づくりが進められました[3]。観光庁の解説も、朝廷を中心とする貴族文化が花開いた平安時代から、高級織物が京都で作られてきたと述べています[4]。

貴族たちが優秀な職人を京都に集め、材料も技術もデザインも最高のものを作らせたので、西陣の織物は急に発展した、という説明もあります[5]。都に「買う人」がいたから、作る人も集まった、という筋道です。ただし、これは複数の資料が述べる説明で、これだけで決まった理由だとまでは言えません。

組合は、京都での織物づくりの始まりを、平安京の造営以前の5世紀ごろとする[1]。京都府は、平安時代以前に秦氏(はたし)がもたらした織技術が起源だと説明する[2]。

平安遷都(794年)とともに、宮廷の織物業を管轄する織部司(おりべのつかさ)が置かれ、綾・錦など高級織物の生産が奨励された[3]。観光庁の多言語解説も、貴族文化が花開いた平安時代から高級織物が京都で生産されてきたとする[4]。

貴族が優秀な職人を京都に集め、材料・技術・意匠のあらゆる面で最高級品を作らせたことが、急速な発展の背景だと説明される[5]。この説明は二次的な読み物によるもので、需要と職人の集積という複数の資料に共通する筋道として扱う。決定的な単一の原因と断定はしない。

3. 役所の そとで、どう なった?

3. 役所の手を離れて、町の織物へ

3. 官営工房の衰えと大舎人の綾

平安時代の 中ごろから、役所の 力が よわく なって いきました。すると 職人しょくにんたちは、役所の ひがしの あたりに あつまって 住み、じぶんたちで じゆうに 織物おりものを 作りはじめました[1]。

「おかみの ための しごと」から、「町の しごと」へ。西陣織にしじんおりの 土台が、このころ できはじめます。

平安時代の中ごろ以降に、役所が運営する工房が衰えると、職人たちは織部司の東の、大舎人町のあたりに集まって住むようになりました。そして、宮廷の管理から離れた自由な織物づくりを始めたと、組合は説明します[1]。「大舎人の綾」と呼ばれる織物も、このころのものです。

役所の注文だけを待つ職人から、町で自分の織物を作る職人へ。この変化が、あとで「西陣」と呼ばれる町の下地になりました。

平安中期以降に官営工房が衰えると、職人は織部司の東の大舎人(おおとねり)町のあたりに集住し、宮廷の管理下を離れて自由な織物づくりを始めた。「大舎人の綾」はその代表とされる[1]。

この段階で、織物の担い手は官の工人から町の職人へ移っている。次章の応仁の乱後の再集結は、この職人集団を前提とする。

4. 「西陣にしじん」の 名前は、どこから 来たの?

4. 応仁の乱のあとに生まれた「西陣」の名

4. 応仁の乱(1467〜1477年)と「西陣」の呼称

1467ねんから 10ねんほど、京都きょうとでは 応仁の乱おうにんのらんと いう 大きな あらそいが ありました。町は あれ、職人しょくにんたちも 京都きょうとから はなれました[1]。

あらそいが おわると、職人しょくにんたちは もどってきました。そして、あらそいの とき、西がわの 軍ぐんの 陣地じんちが あった あたりで、織物おりものづくりを やり直しました[1]。だから「西陣にしじん」と いいます。

京都きょうとの 観光かんこうの ホームページも、同じように 説明せつめいして います[6]。西陣にしじんは、もどってきた 人たちの 町の 名前でした。

応仁の乱は1467年から1477年まで続きました。組合の説明では、乱が終わると各地に散っていた職人が京都に戻り、乱のときに山名宗全の率いる西軍の陣地があったあたりで織物づくりを再開しました[1]。だから「西陣」と呼ばれます。

京都の観光公式サイトも、西軍の本営があった付近が「西陣」と呼ばれ、戻った職人が町衆の力も借りて、西陣織として大きく発展したと述べています[6]。2つの資料が、それぞれ別に、同じ説明をしています。

職人の避難先については、大阪の堺に逃れていた織り手が京都へ戻ったと書く資料もあります[3]。ただ、避難先まで書くものは限られるので、ここでは「そういう説明もある」にとどめます。

応仁の乱(1467〜1477年)が終わると、各地に離散していた織物職人が京都に戻り、山名宗全(やまなそうぜん)率いる西軍の陣地が置かれていたあたりで織物づくりを再開した。ここから「西陣」の名が生まれたと組合は説明する[1]。京都観光の公式サイトも、西軍本営付近を西陣と呼び、戻った職人が町衆の尽力もあって西陣織として発展したと、独立に同趣旨を述べる[6]。

あさぎ美術館は、乱の間に堺に逃れていた織手が戻ったと書く[3]。避難先まで記す資料は限られるため、ここでは一説として扱う。なお同館は乱の終結を1478年とするが、組合・京都府の1477年に本稿は合わせる。

大舎人座が1513年に綾織物の生産を独占し、1548年に「西陣」ブランドが確立したとする記述もある。ただし二次資料のみで原典を確認できなかったため、本稿では扱わない。

5. たくさんの 人が、1まいの 織物おりものを 作る?

5. 江戸時代の黄金期と、分かれた仕事

5. 江戸期の隆盛と工程分業

江戸えどの 時代に なると、西陣にしじんは とても さかえました。「千両ヶ辻せんりょうがつじ」と 呼よばれるほどだったと いいます[5]。

ひとつの 織物おりものは、1人では できません。ずを かく 人、糸を そめる 人、たて糸を そろえる 人。それぞれの 専門せんもんの 職人しょくにんが、じぶんの 店を もって、西陣にしじんの 町に まざって 住んで いました[5][2]。

たとえば、リレーで、走る 人ごとに とくいな きょりが ちがう ように、しごとを わけて います。西陣織にしじんおりは、たくさんの 手を へて できあがります。

江戸時代の西陣は黄金時代を迎え、「千両ヶ辻」と呼ばれるほど栄えたとされます[5]。江戸のはじめごろから、各工程の専門職がそれぞれ独立して仕事をする分業ができあがり、織屋と町の中で混ざり合っていました[5]。

京都府の説明でも、企画や図案、糸染め、糸をそろえる整経、綜絖など、多くの工程を熟練した人が分担しています[2]。ひとつの織物が、町じゅうの人の手を渡って作られる仕組みです。

リレーで、走る人ごとに得意な距離がちがうのと似ています。ただし、走る順番がある競技とちがい、西陣では同じ町の中で、行き来しながら仕事が進みました。

江戸期に西陣は黄金時代を迎え、「千両ヶ辻(せんりょうがつじ)」と呼ばれるほど栄えたとされる[5]。江戸初期から、各工程の専門職が独立して営む分業制が成立し、西陣の地域内で織屋と混然一体となっていた[5]。

現在の工程も、企画・図案、糸染、整経、綜絖など多岐にわたり、熟練者が分担する[2]。多品種少量の高級品を、工程ごとの専門性と、町の中の近さで支える構造といえる。

6. 火事で、京都きょうとの 織物おりものは どう なったの?

6. 大火のあと、職人が各地へ散った

6. 享保15年(1730年)の西陣焼けと技術の拡散

1730ねんの 6月、西陣にしじんで 大きな 火事が おきました。「西陣にしじん焼やけ」と 呼よばれます。7000あまりの はたの うち、3000あまりが なくなったと 記録きろくされて います[7]。4わりほどです。

しごとの 場所を なくした 職人しょくにんは、たくさん 地方へ 出ていきました。そして 行った さきに、西陣にしじんの 技術ぎじゅつを つたえたと いいます。それが、各地かくちの 織物おりものづくりを のばす きっかけの ひとつに なったと 記録きろくされて います[5]。

京都きょうとでは たいへんな ことでしたが、職人しょくにんが つたえた 技術ぎじゅつは、各地かくちの 織物おりものづくりにも つながりました。

1730年(享保15年)6月に、西陣で大火が起きました。「西陣焼け」です。約7000あった機のうち、3000あまりを失ったと記録されています[7]。割合にすると、4割ほどです。

職場を失った職人は大量に地方へ流れ出し、その人たちがもたらした西陣の技術が各地に伝わって、地方の織物業の発展につながったと伝えられています[5]。ただし、どの産地にどれだけ届いたのかまでは、この資料からは分かりません。

京都にとっては大きな損失でしたが、その技術は外へ広がりました。1つの町の出来事が、別の町の産業の芽になった、というのが記録の伝える流れです。

享保15年(1730年)6月の大火「西陣焼け」で、機7千余のうち3千余を失った[7]。「余」は概数なので、割合はおよそ4割にあたる。

職場を失った職人が大量に地方へ流出し、西陣の技術が各地に伝わって、地方の織物業の発展につながったと記録される[5]。ただし個別の産地への波及は単独の出典によるため、産地名は挙げない。

後年の江戸後期には、奢侈禁止令などの影響もあり、1788年の天明の大火で機業が一時中断、1841年には機屋約2,100軒・織機約3,100に減ったとされる[7]。

7. 明治めいじに、京都きょうとは 何を 海の 向こうから 持ちこんだ?

7. 3人の職人がフランスへ ── ジャカードを持ち帰る

7. 明治の勧業政策とジャカード導入(1872〜1877年)

明治めいじの はじめ、京都きょうとの 織物おりものは おとろえて いました。そこで 京都府きょうとふは、新しい 機械きかいを 学ぶ ために、3人の 職人しょくにんを フランスに おくりました。1872ねんの ことです[8]。

のこりの 2人は、ジャカードと いう 機械きかいなどを 持ち帰りました[8]。ジャカードは、あなを あけた 紙で、もようを きめる しくみです。1873ねんに フランスから 入れられました[8]。

3人の うち、吉田忠七よしだちゅうしちさんは、のちの 1874ねん、かえる とちゅうで なくなったと つたえられて います[8]。

1877ねんには、西陣にしじんの 職人しょくにんが、木で できた ジャカードを 日本で 作りました[7]。明治めいじの おわりごろ、はたは 約やく2万台に ふえました[7]。

明治のはじめ、京都の経済は衰えていました。京都府は立て直しの施策の一つとして、1872年11月に、織工の佐倉常七、染色工の井上伊兵衛、機械工の吉田忠七の3人をフランスへ送りました[8]。翌1873年には金属製のジャカードがフランスから導入されました[7][8]。

ジャカードは、穴をあけた紙で織りの柄を決める装置です。帰国した佐倉常七と井上伊兵衛によって、ジャカードなど数種の機械が無事に持ち帰られたとされます[8]。3人のうち吉田忠七は、その後、帰国の途中の1874年に遭難して亡くなったと伝えられています[8]。

1877年には、西陣の機大工の荒木小平が、木製のジャカード機を国産化しました[7]。明治40年代には、織機が約2万台、生産額が2000万円あまりにふえたと記録されています[7]。1841年に約3100だった織機と比べると、6倍あまりです。ただし、この金額は当時の円で、今の金額とはちがいます。

京都府は、衰えた京都の経済を立て直す勧業施策の一環として、1872年(明治5)11月に、織工・佐倉常七(さくらつねしち)、染色工・井上伊兵衛(いのうえいへえ)、器械工・吉田忠七(よしだちゅうしち)をフランスへ派遣した[8]。帰国した佐倉・井上の2人により、ジャカード、紋彫機など数種の機械が持ち帰られた[8]。吉田は、帰国途中の1874年に遭難死したと伝わる[8]。

ジャカードは、紋紙という穴あきの紙で柄を制御する装置である。金属製のものが1873年(明治6)にフランスから導入された[7][8]。派遣は1872年、導入は1873年で、年を混ぜないよう注意したい。

1877年(明治10)には、西陣の機大工・荒木小平(あらきこへい)が木製ジャカード機を完成させた[7]。明治40年代には織機約2万台、生産額2000万円余に拡大した[7]。1841年の約3,100台の6倍あまりで、金額は当時の円である。

自分でも しらべて みたく なったら

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら(資料案内)

今日できること:おうちに ある 布ぬのの ものを 見て みましょう。ネクタイや おびが なくても、ハンカチや 服の ふくろでも かまいません。もようが 「糸の 色」で できて いるか、後から 色を ぬった ものかを、うらがわから 見て くらべます。うらにも 同じ もようが 見えるか、おもてと くらべて みましょう。うらだけでは、糸を そめてから おったかは きめられません。

出かけて できること:京都きょうとに 行く ことが あれば、西陣にしじんの 町を 歩いて みましょう。町家が ならぶ 中で、はたを おる 音が 聞こえるかも しれません。

くわしい 情報じょうほう:西陣織にしじんおり工業組合の ホームページや、京都府きょうとふの 「西陣織にしじんおり」の ページで、しらべられます。

今日できること:家にある布の製品(ネクタイ、ハンカチ、洋服など)を、表と裏から見てみます。柄が「染めた糸」で作られているのか、織ったあとに色をのせたものなのか、裏の様子で見分けられることがあります。先染めの織物なら、裏にも同じ柄が見えることがあります。ただし裏だけでは、先染めかどうかは決められません。

出かけてできること:京都に行く機会があれば、西陣の町並みを歩いてみるのもよいでしょう。町家が並び、ときどき機織りの音が聞こえるそうです[6]。見学できる施設の開館情報は、出かける前に公式サイトで確認してください。

公式の情報:西陣織工業組合の「西陣の由来」、京都府の「西陣織」のページを読むと、この記事の土台になった説明が分かります。

この記事の説明のうち、なぜ京都で栄えたかは複数資料の共通の説明で、単一の決定的な理由ではない。堺への避難、地方産地への波及、1513年・1548年の年号は、単独または二次の出典に依っている。

はじめに読むなら、西陣織工業組合「西陣の由来」[1]と、京都府「西陣織」[2]。明治期の数字は共同研究会の資料[7]、派遣の経緯は京都観光の人物ページ[8]にある。

身近な確認としては、家の布製品の柄が先染めか後染め(後から色をのせる)かを、裏面から観察できる。現在の生産額や事業者数は、本稿では扱わない。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

この記事で使った資料です。読み仮名や、年号・数字のちがいは、記事の中で注記しています。

  1. 西陣織工業組合「西陣の由来」 https://nishijin.or.jp/whats-nishijin/origin/ (5世紀の起源、大舎人町、応仁の乱と「西陣」の由来)
  2. 京都府「西陣織」 https://www.pref.kyoto.jp/senshoku/nisijin.html (西陣織の定義、秦氏、工程、指定品種)
  3. 西陣織あさぎ美術館「西陣織の歴史」 https://asagi-museum.jp/about/history.html (織部司、堺への避難)
  4. 観光庁 多言語解説文データベース「西陣織」 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R2-01452.html (平安時代からの高級織物)
  5. 中川政七商店の読みもの「西陣織とは」 https://story.nakagawa-masashichi.jp/craft_post/117508 (職人の集まり、江戸の分業、大火後の技術の拡散)
  6. 京都観光Naviぷらす「応仁の乱から555年!「西陣」の今昔」 https://plus.kyoto.travel/entry/nishijin (「西陣」の名の由来の照合、今の町の様子)
  7. 京都・共同研究会「在来産業のイノベーション(その1)」 https://www.kyodoyukai.or.jp/rediscovery/rediscovery005.html (西陣焼け、明治の年表と数字)
  8. 京都観光「八重とハンサム京都 佐倉常七」 https://ja.kyoto.travel/yae/iphone/sangyo.html (フランス派遣とジャカード導入)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

  •  初版を公開。

このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。