このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

えどの 人は 名字を もって いたのに、どうして みんなの まえで なのれなかったの?

江戸の庶民は、なぜ名字を公に名乗れなかったのか ── 苗字帯刀と、明治のとまどい

苗字帯刀とは何だったのか ── 公称の制限、例外の許可、明治3年・8年の太政官布告

分野:歴史・文化

えどじだいの ひゃくしょうや 町人は、名字を もって いたのに、みんなの まえでは なのれなかった と いわれます。

どうして なのれなかったのでしょう。名字と 長い 刀が ぶしの しるしに なった わけと、明治めいじに なって 名字を なのる ように なった ようすが わかります。

江戸時代の百姓や町人は、名字を持っていたのに、公の場で名乗ることは制限されていた。国立公文書館の解説は、そう説明しています。

では、名字を名乗ることも、長い刀を差すことも、武士の目印だったのはなぜでしょう。武士でない人が許された例と、明治に名字が許され、やがて義務になるまでの流れが分かります。

江戸時代の百姓・町人に名字がなかったわけではない。国立公文書館の解説によれば、江戸時代に制限されたのは名字を持つことではなく、公に名乗ることだった[4]。

ではなぜ、名字と刀が武士の目印になり、明治にはそれが許されたうえで義務にまでなったのか。刀狩令、例外の許可、明治3年と8年の太政官布告を、複数の資料で突き合わせて、理由と条件が分かるところまで書く。

読み方を切り替えられます。画面の上にある「よみかた」のボタンで、小学校低学年むけ・小学校高学年むけ・中学生むけの3つの書き方に切り替わります。むずかしいと思ったら、いつでもやさしい方に戻ってください。選んだ読み方はブラウザが覚えているので、次に別の記事を開いたときも同じ読み方で始まります。

1. えどの 人に、名字は なかったの?

1. 「江戸の百姓に名字はなかった」は本当か

1. 江戸時代の庶民と名字 ── 禁じられたのは「持つこと」か「名乗ること」か

「むかしの ひゃくしょうには、名字が なかった」と 聞いた ことが あるかも しれません。

でも、国立公文書館の せつめいでは、ちがいます。ひゃくしょうや 町人も、むかしから 名字を もって いた きろくが あるそうです[4]。えどじだいに きびしく なったのは、みんなの まえで なのる ことでした。

名字は、おなじ 一ぞくが あちこちに ひろがった とき、土地の 名まえなどで 見わける ひつようが でて、うまれた と せつめいされます[9]。

それなら、名字を なのれる 人は、だれだったのでしょう。

「江戸時代の百姓には、名字がなかった」と習った覚えがある人もいるかもしれません。ところが国立公文書館の解説では、江戸時代に制限されたのは名字を持つことではなく、公に名乗ることだったとされています[4]。百姓や町人も、室町時代から名字を持っていた記録があるそうです。

庶民は先祖から伝わる名字を私的に持ち、公の場で使うことを禁じられることで、武士と区別されたという説明もあります[7]。

そもそも名字は、同じ一族が各地に広がったとき、地名などで見分ける必要が出て生まれたといわれます[9]。便利な呼び名だったものが、江戸時代には「だれが名乗れるか」を分ける印になったことになります。

名乗れる人と名乗れない人は、どう分けられたのでしょう。

江戸時代の庶民に名字がなかった、という説明は正確ではない。国立公文書館の解説は、非武士身分も室町時代から名字を持っていた記録があり、江戸時代に制限されたのは「公称」であって「保有」ではない、と整理している[4]。

では、なぜ公称だけを禁じたのか。百姓・町人は先祖伝来の名字を私的には持ち続けたが、公の場で使うことを禁じられた。それによって武士との区別がつけられた、と説明される[7]。持つことまで取り上げなくても、名乗りを公に出さなければ、身分の区別は保てたわけである。

もとをたどれば、名字は同じ氏族が各地に広がり、地域による区別が必要になって生まれた[9]。便利さから生まれた呼び名が、江戸時代には身分の目印に変わったのである。

2. 長い 刀は、どうして ぶしの しるしに なったの?

2. 刀を差せる人と差せない人は、どう分けられたのか

2. 刀狩令から町人帯刀の禁止まで ── 武士の目印が「長い刀」に絞られた経緯

むかしの 道で、こしに 長い 刀を さして いたら、ぶしだと すぐ わかった と いわれます。

きっかけの ひとつは、とよとみひでよしが 1588ねんに 出した 刀がりれいです。ひゃくしょうが 刀や わきざし、やり、てっぽうなどの ぶきを もつ ことを きんじました[6]。ひゃくしょうと ぶしを わける ねらいも あった と いわれます。

そのあと、えどでは 1668ねんの きまりで、町人が 長い 刀を さす ことが きんじられた と されます。みじかい わきざしは、ぶし いがいにも ひろく みとめられて いた と される ので、長い 刀が ぶしの しるしに なって いった ようです[8][7]。

名字を なのる ことと、刀を さす こと。この ふたつを あわせて、「みょうじたいとう」と よびます。ぶしの みぶんの、もとに なる しるしでした[1]。

では、ぶしでない 人が ゆるされた ことは、なかったのでしょうか。

江戸の道で、腰に長い刀を差した人は、武士と見分けられやすかったといわれます。長い刀は、それほど武士の目印になっていました。

流れをさかのぼると、豊臣秀吉が天正16年(1588)に出した刀狩令に行きあたります。百姓が刀・脇差・弓・槍・鉄砲などの武具を持つことを禁じる内容で、表向きは大仏殿の釘やかすがいに使うためとされました。武士と百姓を分ける身分政策でもあったと説明されます[6]。

ところが、その後の扱いは、刀の種類で分かれていきます。脇差は正式な武器とはされず、武士以外にも携帯が広く認められていたとされます。いっぽう長い刀は、江戸では寛文8年(1668)の令で町人の帯刀が禁じられたとされます[8][7]。長い刀だけが、見分けやすい目印として残ったわけです。

名字を名乗ることと、刀を差すこと。この二つがそろった資格が苗字帯刀で、中世から近世を通じて武士身分の基本的な属性とされます[1]。

この目印が、武士以外にも与えられることはあったのでしょうか。

名字の公称が制限された一方で、刀の側はどう整理されたのか。出発点は、天正16年(1588)の刀狩令である。百姓が刀・脇差・弓・槍・鉄砲その他の武具を持つことを禁じ、表向きの理由は大仏殿の釘やかすがいに使うことだった。ただし実際には兵農分離を進める身分政策でもあった[6]。

ところが、刀狩令の時点で禁じられた脇差は、のちには扱いが変わる。脇差は正式な武器とされず、百姓・町人も携帯が広く認められていたとされる。他方、長い刀は、江戸では寛文8年(1668)3月の令で町人の帯刀が禁じられたとされる[8][7]。時代によって扱いが違うため、「庶民は刀を一切持てなかった」とひとくくりにはできない。

その結果、名字の公称と長い刀の帯刀という二つが、武士身分を外から見分ける目印になった。これが苗字帯刀で、中世以来、近世を通じて武士身分の基本的属性とされる[1]。

では、この資格は武士だけのものだったのか。実際には、例外的に与えられる仕組みがあった。

3. ぶしでなくても、名字と 刀を ゆるされた 人が いたの?

3. 武士でなくても、名字と刀を許された人がいた

3. 例外の許可 ── 伊能忠敬の例と、期限つきの許可証から分かること

いました。たとえば、伊能忠敬いのうただたかです。むらの なぬしで、1783ねんの ころ、たいへんな ききんの なか、堤防ていぼうを なおす ために はしりまわりました。その土地の りょうしゅの つださんから、名字と 刀を ゆるされた と、年ひょうに あります[3]。

ほかにも、てがらの あった 人や、むらの おやくにん、たくさんの おかねを さしだした 人などが、ゆるされる ことが ありました[1]。

ゆるされ かたも いろいろです。名字だけ、刀だけ。その人 いちだいだけ、ずっと つづく もの。えどの なぬしの 家に のこる 文書には、1868ねんの ほうびの しょうしょが あります。「まごの だいまで 名字、本人 いちだいだけ たいとう」と いう ことが、だいに 書かれています[2]。

名字と 刀の りょうほうが ゆるされるのは、めずらしかった とも いわれます[1]。

この 決まりは、いつまで つづいたのでしょう。

伊能忠敬は、佐原村の名主でした。年表には、天明3年(1783)の天明の大飢饉のころ、堤防の修築に奔走し、領主の津田氏から苗字帯刀を許されたとあります[3]。

許された人は、ほかにもいました。功績のあった人、大庄屋や町年寄などの村役人、多額の献金をした人、郷士や由緒ある庄屋、御用商人などです[1]。

許しの形はさまざまでした。苗字だけ、帯刀だけ、一代限り、永代。両方がそろって許されるのは、まれだったともいわれます[1]。

江戸東京博物館のアーカイブには、江戸の名主の家に伝わる慶応4年(1868)4月10日付の証書が載っています。題には、孫の代まで苗字、本人一代限りの帯刀を許す、という内容が記されています[2]。期限つきの許可が、実際に出されていた証拠です。

こうした例外が積み重なる中で、名字と刀の特権は、江戸の終わりまで続きました。それが動いたのは、いつでしょうか。

苗字帯刀が武士だけの資格だったなら、例外はなぜ、どのように認められたのか。幕府や藩は、功績のあった者、大庄屋・町年寄などの村役人、多額の献金をした者、郷士や由緒ある庄屋(名主)・御用商人などに、武士以外でも苗字帯刀を許すことがあった[1]。これらは、働きや貢献に報いる形の許可だったと読める。

例として伊能忠敬がいる。日本地理学会の年表によれば、佐原村の名主だった伊能は、天明3年(1783)に天明の大飢饉が始まると堤防修築に奔走し、領主の津田氏から苗字帯刀を許された[3]。この件には「幕府から許された」とする別の説明もあるが、ここでは年表の記述にしたがっている。

許可の中身は一様ではない。苗字だけ、帯刀だけ、一代限り、永代など、さまざまだった。そのため両方がそろって許される例は多くなかったとされる[1]。実例が江戸東京博物館のアーカイブにある。慶応4年(1868)4月10日付、大伝馬町名主の馬込家文書の証書で、題から、孫の代まで苗字、本人一代限りの帯刀という期限つきの許可だったことが読み取れる[2]。

だとすれば、苗字帯刀は、身分制度のなかで調整しながら与えられる「褒賞」の側面をもっていた。この仕組みの終わりは、明治の太政官布告にある。

4. 名字が ゆるされたのに、どうして ひろまらなかったの?

4. 名字が許されても、すぐには広まらなかった

4. 明治3年の太政官布告 ── 許可だけで名字が広まらなかった理由

1870ねん9月19日、明治めいじの 政府せいふは、ふつうの 人も 名字を なのって よいと きめました。「だじょうかんふこく」という きまりです[4]。この日は、いま「みょうじの日」と されて います[4]。

ところが、すぐには ひろがりませんでした。りゆうの ひとつに、名字を つけると ぜいきんが ふえるのでは、という しんぱいが あった と いわれます[5]。

そこで 政府せいふは、5ねんあとに、あらたな きまりを 出します。

明治3年9月19日(1870年)、太政官布告第608号で、平民が苗字を公に名乗ることが許されました。この日は、いまでは「苗字の日」とされています[4]。

これで名字を名乗る人が一気に増えたかというと、そうではありませんでした。理由の一つとして、名字をつけると税を多く取られるのではないかという警戒感があった、と財務省のメールマガジンは紹介しています[5]。

許すだけでは足りないと考えた政府は、5年後に、より強い決まりを出しました。

江戸時代が終わると、名字はどう扱われたのか。明治3年9月19日(1870年)、太政官布告第608号で、平民が苗字を公称することが許された。この日が今日の「苗字の日」である[4]。

ところが、許可が出ても名乗る人は思うように増えなかった。財務省のメールマガジンは、その理由の一つとして、名字をつけると税を多く取られるようになるのではないかという警戒感があったことを挙げている[5]。

そのため政府は、許可から義務へと進めることになる。

5. 「かならず 名字を なのりなさい」と いわれたら、どうしたの?

5. 「必ず名字を名乗れ」となった村で、何が起きたか

5. 明治8年の太政官布告 ── 義務化の理由と、名字を決める現場の混乱

1875ねん2月13日の ふこくで、名字を なのる ことが ぎむに なりました。先ぞからの 名字が わからない 人は、あたらしく つくる ことと されました[4]。

じっさいの わけは、へいしの 名ぼを しらべるのに こまる、と りくぐんしょうが 1月に つたえて いた ことでした[5]。

こまった 人も 多かった ようです。おてらに 名字の あんを たのんだり、むらの やくばが まとめて 名字を きめたり した れいが あった とされます[4]。

あなたの 家の 名字は、どの みちを とおって きたのでしょう。

明治8年(1875)2月13日、太政官布告で、苗字を名乗ることが義務になりました。先祖以来の苗字が分からない人は、新たに苗字を設けるよう定められました[4]。

実務上の理由は、陸軍省が明治8年1月に出した伺いにあります。兵籍の取り調べをするうえで支障がある、というものでした[5]。名簿をつくるために、名前をはっきりさせる必要があったのです。

義務になると、現場は困りました。寺に名字の案を相談したり、役場がまとめて名字を決めたりした例があったとされます[4]。

江戸のあいだ、公には名乗れなかった名字が、明治のはじめには、決めなければならないものに変わっていたのでした。

許可だけで広まらなかった名字は、どう義務に変わったのか。明治8年(1875)2月13日の太政官布告は、苗字を必ず名乗ることを定め、祖先以来の苗字が不分明な者は新たに設けよとした[4]。

この義務化には実務上の理由があった。陸軍省が明治8年1月に出した伺いに、兵籍の取り調べ上支障がある、という点が挙がっていた[5]。兵籍の取り調べに必要な、個人を識別できる名前が求められたのである。

名字を設けるよう求められ、寺に苗字の案を相談したり、役場が一括して苗字を決めたりした例があったとされる[4]。

こうして名字は、江戸のあいだ「持っていても公には名乗れない」ものだったのが、明治には「名乗らなければならない」ものへ反転した。禁止から許可、許可から義務へと、制度が二段階で動いたことになる。

6. 自分の 名字に ついて、聞いて みよう

6. 自分の名字の道すじを、たずねてみる

6. 出口 ── 名字の来歴を調べる入口と、資料の読みどころ

おうちの 人に、「うちの 名字は、どこから きたの?」と 聞いて みましょう。わからなくても だいじょうぶです。

おはかの 名まえや、ふるい 手がみ、おじいさんや おばあさんの はなしが、ヒントに なる ことが あります。

町の としょかんや はくぶつかんでは、むかしの 文書が かざられて いる ことも あります。「えどの なぬし」「ゆるし」などの ことばで、さがして みてください。

家の人に「うちの名字は、どこから来たのか」を聞いてみてください。分からなくても、お墓に刻まれた名前や古い手紙、祖父母の話が、手がかりになることがあります。聞ける人がいなければ、地図で同じ名字の地名を探してみるのも一つの方法です。ただ、同じ名字の地名が見つかっても家の由来が分かるわけではなく、あくまで候補を探す手がかりです。

地元の図書館や博物館では、昔の文書が展示されていることもあります。「名主」「帯刀」「証書」といった言葉で探すと、今回の話と出会えるかもしれません。

もっと読みたくなったら、国立公文書館の「あの日の公文書 苗字の日」[4]や、江戸東京博物館アーカイブ[2]を開いてみてください。

家庭で名字の由来を話題にするのは、手軽な入口になる。ただし、名字や家のことは事情が家庭ごとに違うので、話せる範囲で聞くのが前提だ。お墓の名前、古い書類、地図上の同じ名字の地名なども手がかりになる。ただし地名が見つかっても家の由来が決まるわけではなく、候補を探す手がかりにとどまる。

資料としては、国立公文書館「あの日の公文書 苗字の日」[4]が、明治3年・8年の布告と義務化後の混乱をまとめている。江戸東京博物館のアーカイブ[2]では、期限つきの許可を記した実際の証書の題が読める。

読むときは、解説の言い回しと原文の布告・証書の題を見比べて、解説がどこまで原文に基づくのかを意識するとよい。許可の形は「苗字だけ」「帯刀だけ」「一代限り」など多様で、一つの例を全体に広げすぎない注意も要る。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:国立公文書館、江戸東京博物館、日本地理学会、財務省の公的な資料を中心に、辞典・百科事典・名字の解説サイトで補った。用途は各項目の最後に書いている。

  1. コトバンク「苗字帯刀」。https://kotobank.jp/word/%E8%8B%97%E5%AD%97%E5%B8%AF%E5%88%80-139772 (苗字帯刀の意味、許された人、許可の形について)
  2. 江戸東京博物館 アーカイブ「大伝馬町名主馬込家文書」。https://www.edohakuarchives.jp/detail-305350.html (慶応4年の期限つき許可の証書の題について)
  3. 日本地理学会「伊能忠敬年表」。https://www.geog.or.jp/files/club282.pdf (伊能忠敬が苗字帯刀を許された経緯について)
  4. 国立公文書館「あの日の公文書 苗字の日」。https://www.archives.go.jp/naj_news/11/anohi.html (庶民の名字、明治3年・8年の布告、義務化後の混乱について)
  5. 財務省メールマガジン 2024年9月13日号。https://www.mof.go.jp/tax_policy/publication/mail_magazine/20240913.html (名字が広まらなかった理由と、義務化の実務上の理由について)
  6. コトバンク「刀狩」。https://kotobank.jp/word/%E5%88%80%E7%8B%A9-117329 (天正16年の刀狩令の内容について)
  7. ウィキペディア「苗字帯刀」。https://ja.wikipedia.org/wiki/苗字帯刀 (庶民の名字の扱いと町人帯刀の禁止について。補助として使用)
  8. ウィキペディア「脇差」。https://ja.wikipedia.org/wiki/脇差 (脇差の携帯の扱いについて。補助として使用)
  9. 名字由来net「基礎知識」。https://myoji-yurai.net/basicKnowledge.htm (名字が生まれたわけについて)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

  •  初版を公開。

このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。