このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

おぼんは どうして、ごせんぞを むかえる 行事に なったの?

お盆は、どうして先祖を迎える行事になったのか

お盆は、どうして先祖を迎える行事になったのか

分野:歴史・文化

おぼんの 日づけは、まちに よって 7月の ところと 8月の ところが あります。おなじ おぼんなのに、1か月も ずれているのです。

そもそも、おぼんは どうして ごせんぞを むかえる 日に なったのでしょう。もとは、おかあさんを たすけたい 子の おはなしから うまれた、おてらや 宮中の 行事でした。それが まちや むらに ひろがる うちに、むかしから あった、せんぞを むかえる 気もちと かさなったと いわれます。どう かさなったのか、日づけが ずれた わけは なにかは、あとの しょうで しょうかいします。

お盆は、日本のなかで、新暦の7月に行う地域と、8月に行う地域に分かれています。同じ行事が、1か月ずれているのです。

そもそもお盆は、どこから来て、なぜ先祖を迎える行事になったのでしょうか。もとは「母を助けたい」という弟子の話にもとづく仏教の行事で、日本では宮中の恒例の仏事でした。それが民間に広がるうちに、農耕の儀礼や、先祖の霊を迎える古くからの信仰と重なって、いまのお盆の形になったとされます。657年に飛鳥寺の西で盂蘭盆会を開いた日本書紀の記録や、明治の改暦による日づけの分かれ道は、後の章でたどります。

お盆は、新暦7月(13〜16日)に行う地域、月遅れの8月に行う地域、旧暦で行う地域の三通りに分かれている[6]。同じ行事の日づけが、1か月ずれて続いているのである。

お盆の元は、目連が母を救う説話にもとづく仏教の盂蘭盆会で、日本ではまず宮中の恒例の仏事となった。それが民間へ広がる過程で、農耕儀礼や祖霊信仰と習合し、盆棚を作って祖霊を迎える行事として定着したとされる。つまり先祖を迎える部分は、説話そのものより、日本で重なった民間の信仰に由来すると読める。このメモでは、盂蘭盆の語源、日本書紀の二つの記録、祖霊信仰との重なり、1872年(明治5)の改暦と農作業の事情がどうつながっているかを、後の章で順に見る。

読み方を切り替えられます。画面の上にある「よみかた」のボタンで、小学校低学年むけ・小学校高学年むけ・中学生むけの3つの書き方に切り替わります。むずかしいと思ったら、いつでもやさしい方に戻ってください。選んだ読み方はブラウザが覚えているので、次に別の記事を開いたときも同じ読み方で始まります。

1. おかあさんを たすけたい 子の おはなし

1. 「母を助けたい」という弟子の話が、名前のもとになった

1. 盂蘭盆の語源と目連説話:逆さづりの意味と、母を救う話

おぼんの ことばの もとに なった おはなしが あります。むかしの インドの おはなしです。

おシャカさまという えらい 人に、もくれんと いう でしが いました。もくれんは、なくなった おかあさんが くるしい ところに いると しって、なんとか たすけたいと おもいました[1]。

そこで、おぼうさんたちに 食べものを ささげて、おかあさんの ために いのって もらった、と いう おはなしです。

この おはなしの もとの ことばは「ウランバナ」。「さかさに つるされる くるしみ」と いう いみだと いわれます。これが「うらぼん」と いう ことばに なりました[1]。

おぼんの はじまりには、「おかあさんを たすけたい」と いう 子の きもちが あったのです。では、この おはなしは、日本で いつごろ 行事に なったのでしょう。

お盆という言葉のもとには、古い物語があります。釈迦の弟子の目連が、餓鬼道という苦しい世界に落ちた母を知り、なんとか救いたいと願いました。そこで僧たちに食事を供えて供養した、という話です[1]。

この物語を伝える「盂蘭盆経」から、行事の名前が来ています。盂蘭盆は、古代インドの言葉ウランバナ(ullambana)を音で写した語で、もとの意味は「逆さづり」。漢字では「倒懸」とも訳されます[1]。

つまりお盆の入り口には、先祖の行事というより、母を助けたい子の気持ちがありました。仏教の教えそのものには深入りせず、ここでは「行事の名前の出どころ」として読んでおきます。では、この話が日本の行事になったのは、いつなのでしょうか。

盂蘭盆は、古代インドの言葉ullambana(逆さづり、漢訳で倒懸)の音写である[1]。盂蘭盆という名前は、先祖を迎える意味ではなく「逆さづり」という意味に由来する。名前の背景にあるのは「盂蘭盆経」の説話で、釈迦の弟子の目連が、餓鬼道に落ちた母を救おうとして、僧たちに供養を行うという筋である[1]。

さらに、この説話に由来する行事は、7月15日を中心に行う祖先供養の仏教行事とされる[2]。つまり「7月15日」という日づけは、日本で後から決まったのではなく、行事の由来にすでに含まれていたことになる。ただし、説話の教義そのものには立ち入らず、本稿は行事の成立を読む範囲にとどめる。

では、インドの説話に由来する行事は、日本ではどの時点で確かに記録されるのか。

2. 日本で さいしょに のこっている きろく

2. 日本書紀に、お盆に関わる記録が二つある

2. 606年と657年:二つの記録は同じ行事ではない

日本で いちばん ふるい れきしの 本の ひとつに、日本書紀にほんしょきが あります。ここに、おぼんに かかわる きろくが ふたつ あります[1]。

ひとつめは、いまから 1400ねん いじょう まえの 606ねん。この ねんから、おてらごとに 4月8日と 7月15日に、食べものを そなえる 行事を ひらいた、と かいて あります。ただ、この ときの きろくには「うらぼん」とは かいて ありません。

ふたつめは 657ねん。あすかでらの にしに、しゅみせんと いう 山の かたちの ぞうを つくり、うらぼんの 会を ひらいた、と あります[3]。

その 日は、日づけが 7月と かいて あるだけです。でも、むかしの 日づけの かぞえかたで けいさんして みると、7月15日に なります。いまの おぼんの まんなかの 日と、ほとんど おなじです。

この ひの ゆうがたには、とおくから きた トカラの 人たちを もてなした、とも あります。ふしぎな ことに、おまつりの あとに、お客さんを むかえる ごちそうの 場面が あるのです。

606年の記録:まだ「盂蘭盆会」とは書かれていない

日本書紀の推古14年(606)の条には、この年から寺ごとに4月8日と7月15日に斎、つまり食事の供養を設けた、という内容があります[1]。ただし、ここには「盂蘭盆会」の語は出てきません。7月15日という日づけは、のちの盂蘭盆会と重なって見えますが、同じ行事だと言い切れる記事ではありません。

657年の記録:須弥山の像と盂蘭盆会

斉明3年(657)の7月の条には、飛鳥寺の西に須弥山の像を作り、盂蘭盆会を設けた、と書かれています。「盂蘭盆会」の語が日本書紀にはっきり出てくるのは、こちらです[1]。

原文には「辛丑(かのとのうし)」の日と書かれていて、「15日」とは書かれていません。ところが、この月の朔(ついたち)が丁亥にあたるので、干支を数えると辛丑は15日になります。これは私が干支から計算した値です[3]。

原文には続きがあります。その日の暮れには、来日していた覩貨邏(トカラ)の人々をもてなした、とあります[3]。お盆の元の姿には、遠くからのお客さんを迎える場面が、いっしょに記されていました。

ここまでは、寺と朝廷の話です。では、家ごとの「先祖を迎える」習わしは、どこから来たのでしょうか。

日本書紀には、お盆に関わる記録が二つあり、性格が違う。推古14年(606)の条は、寺ごとに4月8日と7月15日に斎(食事の供養)を設けたとするだけで、「盂蘭盆会」の語は使っていない[1]。したがって、この記事を盂蘭盆会の初見と読むのは強すぎる。

盂蘭盆会の語が明記されるのは、斉明3年(657)である。7月の条に「辛丑,作須彌山像於飛鳥寺西,且設盂蘭瓮會。暮,饗覩貨邏人」とある[3]。原文は日付を「辛丑」と干支で示し、「15日」とは書かない。ただし、この月の朔が丁亥であるため、六十干支で数えると辛丑は15日にあたる。丁亥から辛丑までは14日後なので、1日に14を足して15日となる。この「15日」は、原文の記述ではなく、干支から私が計算した値である。

この計算が正しければ、657年の盂蘭盆会は、由来とされる7月15日[2]と、今のお盆の中日に近い日に行われたことになる。ただし、その日の暮れには来日していた覩貨邏人を饗応したとあり[3]、行事は宮廷が客を迎える場面と結びついていた。この段階のお盆は、まだ家々の先祖祭りではない。

では、寺と朝廷の行事は、どのようにして家庭の先祖を迎える習わしになったのか。

3. なつの せんぞむかえと、どうして かさなったの?

3. 宮中の仏事が、先祖を迎える習わしと重なった

3. 宮中から民間へ:祖霊信仰・農耕儀礼との習合

はじめ、うらぼんの 会は、おてらや 宮中の 行事でした[2]。それが、だんだん まちや むらの 人たちにも ひろがりました。

むかしの 日本には、田んぼや はたけの しごとを いのる 行事と いっしょに、せんぞを むかえる 気もちが ありました。これと、うらぼんの 行事が、かさなったと いわれます[2]。

こうして、おうちに たなを つくって せんぞを むかえ、おぼうさんに おきょうを あげて もらい、おはかまいりを して、おどる 行事が できあがりました[2]。

むかしの 人たちが、とおい 日を 大切に して いるうちに、おぼんは「おうちの 行事」に なって いったのです。

最初の盂蘭盆会は、宮中の恒例の仏事でした。それがやがて民間にも広がり、農耕の儀礼や祖霊信仰と重なって、いまのお盆の形になっていきました[2]。

その形とは、盆棚を作って祖先の霊を迎え、僧に棚経をあげてもらい、墓参りをして、盆踊りをする、というものです[2]。母を救う話と、先祖を迎える気持ちは、別々の出どころから来て、時間をかけて一つになりました。

古代の人々は、先祖が年に2回戻ると考えた?

nippon.comの解説には、古代に中国から暦が伝わると、人々は正月と7月の年2回、先祖の魂がこの世に戻ると考えた、という説明があります。そのうちの7月が、仏教の盂蘭盆会と結びついて今のお盆になった、とされます[4]。

では、先祖を迎えるとき、人々は具体的に何をしてきたのでしょうか。

盂蘭盆会は、まず宮中の恒例の仏事となり、のちに民間へ広がった。その過程で、農耕儀礼や祖霊信仰と習合し、盆棚を作って祖霊を迎え、棚経をあげてもらい、墓参や盆踊りを行う盆行事として定着したとされる[2]。習合とは、別々の信仰が混ざって一つの習わしになることである。

この混ざり方については、別の説明もある。nippon.comの解説は、古代に中国から暦が伝わり、正月と7月の年2回、先祖の魂がこの世に戻ると考えられていたとし、そのうち7月の行事が盂蘭盆会と結びついたという[4]。

お盆は、インド由来の説話、日本書紀に記録される寺の行事、先祖を迎える民間の信仰が、時代をかけて重なってできた行事と読める。

では、この重なりは、家庭の中ではどんな形で見えるのか。

4. むかえびと、キュウリの うま

4. 迎え火とキュウリの馬は、「会いたい」気持ちの形といわれる

4. 迎え火・精霊馬・盆踊り:意味づけは「とされる」の範囲で読む

おぼんに なると、かどぐちで ひを たく おうちが あります。これを「むかえび」と いいます。13日の ゆうがたに たいて、せんぞが まよわずに かえって こられる ように、めじるしに する、と いわれます[5]。

16日には「おくりび」を たいて、おくりだします。

キュウリと ナスに あしを つけた、「しょうりょううま」も あります。キュウリの うまは、はやく かえって きてほしい、ナスの うしは、すこしでも ながく いてほしい、と いう いみだと いわれます[5]。ただし、ぎゃくに、いきが ナスの うしで、かえりが キュウリの うまだと いう せつも あります。

どちらも、「会いたい」「もっと いっしょに いたい」と いう きもちが かたちに なった ものです。ただ、この いみづけが いつ はじまったのかは、わかっていません。

お盆の習わしには、迎え火と送り火があります。13日の夕方に迎え火をたいて、先祖の霊が迷わず帰ってこられるように道しるべにし、16日に送り火で送り出す、と説明されます[5]。

キュウリとナスに足をつけた精霊馬も、よく見かけます。キュウリの馬は、足が速いので早く帰ってきてほしい、ナスの牛は、足が遅いので少しでも長くいてほしい、という意味だと広く説明されています[5]。ただし、行きがナスの牛、帰りがキュウリの馬だという逆の説もあります。

どちらも、「会いたい」と「まだ別れたくない」という気持ちを、目に見える形にしたものといえます。ただし、精霊馬がいつ始まったのかは、今回の資料からは分かっていません。ここで紹介したのも、一般向けの解説で広く言われる意味づけです。

盆踊りの起源は、通説どまり

盆踊りは、念仏を唱えながら踊る念仏踊りが、のちに盆の行事と結びついて先祖供養の踊りになった、と説明されることが多い[8]。ただし、これは通説であり、定説とまでは言えません。

お盆の行事は、こうして大きな流れのなかで形が整いました。では、日づけが7月と8月に分かれたのは、なぜなのでしょうか。

家庭のお盆の習わしは、一般向けの解説で次のように説明される。13日の夕方に迎え火をたいて、先祖の霊が迷わず帰れるように道しるべにし、16日に送り火で送る[5]。精霊馬では、キュウリの馬は足が速いので早く帰ってきてほしい、ナスの牛は足が遅いので少しでも長くいてほしい、という意味づけが広く説明される。ただし、行きがナスの牛、帰りがキュウリの馬だという逆の説もある[5]。

これらは公的機関や博物館の資料ではなく、一般向けの解説に基づく。精霊馬が始まった時期もわからない。そのため、本稿は「〜とされる」の範囲で紹介し、この章を事実の核にはしない。

盆踊りも同じである。念仏踊り(空也の踊念仏、鎌倉時代の一遍の踊り念仏)が、のちに盆の行事と結びついて先祖供養の踊りになった、という説明が一般的だが[8]、これは通説であって定説ではない。

それでも、どの習わしにも共通するのは、先祖を迎えたい、送りたくない、という気持ちが、火や野菜や踊りの形になっていることだ。では、この全国共通の習わしが、日づけだけは7月と8月に割れたのはなぜか。

5. おぼんが 7月の ところと 8月の ところが ある わけ

5. 同じお盆が、7月と8月に分かれた理由

5. 改暦と農繁期:新暦7月・月遅れ8月・旧暦の三通り

おぼんの 日には、3つの やりかたが あります。いまの こよみの 7月に する ところ、1か月 おくらせた 8月に する ところ、むかしの こよみで する ところです[6]。

8月に する ところが ある わけは、7月は のうさぎょうが いそがしい 時期に あたるので、1か月 おくらせた、と いわれて います[6]。

むかしの 日本は、いまと ちがう こよみを つかって いました。1872ねん、明治めいじ5ねんに、いまの こよみに かわりました。

1872ねんは、12月3日の つぎの日が、1月1日に なりました[7]。つまり、その としの 12月は、2日で おわったのです。くにじゅうが こんらんした、と いわれています。

こよみが かわった ために、おぼんの 日づけも、ゆれて しまったのです。

お盆の時期は、地域によって三通りあります。新暦7月(13〜16日)、1か月遅らせた月遅れの8月、そして旧暦です[6]。

月遅れの8月がある理由は、新暦の7月が農作業の忙しい時期にあたるため、1か月遅らせたからだ、と説明されます[6]。暮らしの忙しさに合わせて、行事の日を動かした、という説明です。

12月が2日で終わった年

日本は1872年(明治5)に、月の満ち欠けを基準にする太陰暦から、太陽暦へと暦を変えました。国立国会図書館の解説では、明治5年12月3日が、新しい暦の明治6年1月1日になったと書かれています[7]。つまり明治5年の12月は、2日で終わりました。国内はたいへん混乱した、とも書かれています[7]。

改暦で日づけが変わると、旧暦の7月15日に行っていたお盆を、新暦のどの日に置くかが問題になります。各地は、新暦の7月に合わせる、旧暦のまま続ける、1か月遅らせる、という三つの道に分かれたと考えられます。

お盆の中身は同じなのに、日づけだけが分かれて続いている。その分かれ目に、暮らしの事情と暦の大きな変化があった、というのがここまでの見方です。

お盆の時期は三通りに分かれる。新暦7月(13〜16日)、月遅れの8月、旧暦である[6]。このうち月遅れの8月は、新暦7月が農作業の忙しい時期にあたるため、1か月遅らせたとされる[6]。行事の日づけが、人々の働く季節に合わせて動いたことになる。

その前提となるのが、明治の改暦である。日本は1872年(明治5)に、太陰暦から太陽暦へ改暦した。国立国会図書館の資料によれば、新暦では明治5年12月3日が明治6年1月1日となったため、国内は混乱した[7]。この記述から数えると、明治5年の12月は2日で終わる計算になる。

改暦の結果、旧暦7月15日を中心としていた盂蘭盆会は、新暦のどこに置くかを決める必要が出た。そのため、地域ごとに新暦7月に合わせる、旧暦を保つ、1か月遅らせる、の三つの選び方が生じた、というのが自然な読みである。ただし、これは資料の記述から読み取った推論である。各地で誰がどの時点で選んだのかを示す資料までは、この調査では取っていない。

お盆の時期の分かれ方は、盂蘭盆会の由来、日本の暦、農作業の事情が重なった結果といえる。ここまで読んでくると、自分の家のお盆がいつなのかにも、理由が見えてくる。

6. うちの おぼんは、なん月なんだろう

6. うちのお盆は、何月だろう

6. 自分の地域の日づけと理由を、家の人に聞く

おうちの 人に、きいて みましょう。「うちの おぼんは、7月かな、8月かな。むかえびは するの? どうして その 日なの?」と。

おばあちゃんや おじいちゃんが いたら、むかしの おぼんの はなしも きけるかも しれません。地いきによって、ことなる こたえが かえって くる ことも あります。

きいた 日づけが、いまの こよみの 7月、1か月 おくらせた 8月、むかしの こよみの どれに あたるか、この ページの 5ばんめの おはなしと くらべて みましょう。わけを おうちの 人が しっていたら、それも きいて みてください。

家の人に、「うちのお盆は、何月だろう」と聞いてみましょう。7月か、8月か、旧暦か。迎え火や精霊馬はするのか。どうしてその日なのか。答えは家によって違うかもしれません。

聞いた日づけが、新暦の7月、月遅れの8月、旧暦のどれに当たるか、5章と見比べてみてください。その日になった理由を家の人が知っていれば、それも聞いてみましょう。祖父母の話が聞けるなら、昔のお盆の様子も一緒に聞けます。

さらに調べたくなったら、国立国会図書館の「日本の暦」のページで、改暦の混乱を読めます。日づけがどう動いたかが、くわしく書かれています。

自分の地域のお盆の日づけを家の人に聞き、新暦7月・月遅れ8月・旧暦のどれに当たるかを確かめると、この記事の三通りが、自分の暮らしの中でどう見えるかが分かる。日づけの理由は、家の人が知っていれば聞く程度でよい。

改暦の説明には国立国会図書館の「日本の暦」を使った[7]。迎え火や精霊馬は一般向けの解説に基づくので、盆行事の地域差は、大人といっしょに博物館などの公開記録を読むと広げられる。

日本書紀の原文は漢文で、ここで確認に使ったのは中国語版ウィキソースの転載である[3]。干支から15日を計算した部分は、国立国会図書館デジタルコレクションなどの版本で照合するのが望ましい。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文は、ここにある資料の内容を、自分の言葉で言いかえたものです。年・人名・名称は、資料によって細部が異なることがあります。

  1. コトバンク「盂蘭盆」(日本大百科全書ほか) https://kotobank.jp/word/%E7%9B%82%E8%98%AD%E7%9B%86 (語源、目連の話、日本書紀の二つの記録)
  2. コトバンク「盂蘭盆会」 https://kotobank.jp/word/%E7%9B%82%E8%98%AD%E7%9B%86%E4%BC%9A (7月15日、宮中から民間への広がり、習合)
  3. 『日本書紀』巻第二十六(中国語版ウィキソース転載) https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E5%85%AD (斉明3年の原文)
  4. nippon.com「盆踊り」(Guide to Japan) https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu019003/ (先祖の魂が戻るという考え方)
  5. hugkum「お盆」の一般解説 https://hugkum.sho.jp/151338 (迎え火・送り火・精霊馬の意味づけ)
  6. imidas「暦と行事」 https://imidas.jp/rekigyoji/detail/L-55-007-07-08-G222.html (お盆の三通りの時期、農作業の事情)
  7. 国立国会図書館「日本の暦」 https://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter1/s2.html (1872年の改暦)
  8. hugkum「盆踊り」の一般解説 https://hugkum.sho.jp/147345 (盆踊りの起源の通説)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。