1. 800ねんも つかった 暦が、日食を はずした
1. 800年使った暦が、日食の予報を外した
1. 宣明暦のずれ ── 1616年の日食予報が外れた場面
むかし、日食が いつ おこるかを あてて しらせるのは、えらい 人の しごとでした。ぴたりと あたると、その 人の 力が みとめられたと いわれます[8]。
ところが 日本では、862ねんごろから、中国の「せんみょうれき」という 暦を、800ねん いじょうも つかって いました[1]。むかしの 暦は、空の うごきと だんだん ずれて いきます。
1616ねんの 8月、せんみょうれきは「日食が おこる」と しらせました。でも きろくを みると、その 日に 日食は ありませんでした[3]。
春海の ころには、空の うごきと 2日ほど ずれて いたと いわれます[5]。2日を 800ねんで わると、1ねんに 3〜4分ほどです。ほんの すこしでも、つもりつもると、日食が あたらなく なる ほどに なりました。
日食を言い当てる暦
当時の暦は、日付を知るための表というだけではなく、政治の一部でもあったとされます。為政者が日食や月食の起こる時刻を言い当てて知らせることは、その人の地位を権威づけることにつながったからです[8]。
800年以上、同じ暦
日本では862年ごろから、中国の宣明暦を使い続けました。800年以上たつうちに、実際の日食や月食などの天の動きと合わなくなっていました[1]。春海の時代には、季節や天体の動きと2日ほどのずれが出ていたと伝えられます[5]。
2日というと小さく聞こえます。仮に800年余りで2日として、ならして1年あたりに直すと、3〜4分ほどです(2日は2880分)。毎年はほんのわずかでも、積み重なって空の動きとの差になりました。ただし、毎年一定にずれたという資料はなく、これは大づかみの計算です。
1616年、予報は外れた
国立天文台の資料は、1616年8月の日食の例を挙げます。宣明暦は7分(太陽の直径の約7割にあたる欠け方)の日食を予報しましたが、記録では日食は起こっていませんでした[3]。暦が「ある」と言った日食が、空では起きなかったのです。
当時の暦が重んじられた理由の1つは、政治との結びつきだ。為政者は日食・月食の時刻を言い当てて周知することで、地位を権威づけたとされる。ただしこれは科学博物館の展示紹介にもとづく一般的な説明で、個々の改暦の動機を直接示すものではない[8]。
日本は862年ごろ(資料により貞観3年とする例もある)から中国の宣明暦を使い続け、800年以上のあいだに実態と合わなくなっていた[1]。春海の時代で季節・天象との差は2日ほどとされる[5]。この「2日」は、毎年2日ずれるのではなく800年余りの累積だ。仮に単純に割ると1年あたり約3.5分(2日=2880分、約820年で割った概算)で、一定の速さでずれたという資料はなく、あくまで大きさの感覚をつかむための計算である。
ずれは日食の予報に表れた。国立天文台の貴重資料展示によれば、元和2年(1616)8月の日食について、宣明暦は7分(太陽の直径の約7割にあたる欠け方)の日食を予報したが、記録では日食は起こらなかった。春海は、のちに自作の貞享暦法の計算が「日食なし」で記録に合うことを、宣明暦と比べて示している[3]。暦の信頼は、こうした目に見える予報の当たり外れに左右された面がある。では、この暦を直そうとしたのは誰か。
2. 暦を なおした 人は、碁盤の 前から きた
2. 暦を直そうとした人は、碁盤の前から現れた
2. 安井算哲 ── 碁所の家に生まれ、21歳で緯度を測った人
この 暦を なおした 人は、渋川春海です。春海は 京都で 生まれ、ばくふの 「碁を あつかう 家」の ひとつ、やすい家の 子でした[5]。
14さいで お父さんの あとを つぎ、やすい 算哲と なのって、碁の おつとめを しました[5]。
でも 春海は、空にも むちゅうでした。21さいの ころには、西の 国ぐにを まわって、土地の 北から 南への いち(緯度)を はかったと いわれます[8]。
夜は、自分で 作った 星を はかる 道ぐで、星の いちを しらべました。中国から つたわった 星ざの 星を ひとつずつ たしかめ、あたらしい 星や 星ざも 書きくわえました[8]。
碁の家に生まれた少年
渋川春海は、京都で生まれました。幕府が囲碁を扱う役目を任せた4つの家の1つ、安井家の子です。14歳のとき、父の跡を継いで安井算哲を名のり、碁所に勤めました[5]。
囲碁の素養は、会津の保科正之や水戸光圀のような有力者に知られる助けになったといわれます[5]。ただし、碁が強かったから改暦ができたわけではありません。助けになったのは、碁を通じて広がった人脈のほうです。
実際に空を測る
春海は21歳のとき、西国の各地で緯度を測りました。星の位置も、自分で作った渾天儀(天球の動きを示す道具)で実際に測っています[8]。中国から伝わった星の位置を観測で照らし合わせ、新たに308個の星と61個の星座を書き加えたと伝えられます[8]。
書物の知識を、実際の空と見比べる。春海の強みは、この態度にありました。暦のずれを直すには、まず「いまの空はどうなっているか」を自分の目で測る必要があったからです。
春海(安井算哲)は京都の生まれで、将軍家碁所4家の1つ、安井家の子だった。14歳で父の跡を継ぎ、安井算哲を名のって碁所に勤めた[5]。ここで注意したいのは、囲碁の腕前が改暦の技術に直結したわけではない点だ。資料が述べるのは、囲碁の素養が会津の保科正之や水戸光圀らに知られる助けになった、という人脈の面である[5]。
では、改暦の根拠はどこにあったのか。春海は21歳で西国諸州の緯度を測り、星の位置も自作の渾天儀で実測した。中国伝来の星々を観測して照合し、新たに星308個・星座61個を追加したとされる。星・星座の数は、展示紹介と百科事典で一致する範囲を使った[8]。暦の計算は、自分が立つ土地の緯度と、実際の星の位置を確かめることから始まる。春海は、書物の数値をそのまま信じるのではなく、観測で検証する姿勢を取った。
観測を重ねたとき、春海はどの暦なら宣明暦を置きかえられると考えたのか。
3. 一ど しっぱいして、日本の 空に 合う 暦へ
3. 一度の失敗を経て、日本の空に合う暦へ
3. 授時暦の日食予報の失敗と、貞享暦の採用(1684年)
春海は はじめ、中国の 元の 国の 「じゅじれき」を つかおうと すすめました。ところが、その 暦で した 日食の よほうが はずれて、暦を かえる 話は とまりました[5]。
そこで 春海は、もう 一ど かんがえました。中国の 空と 日本の 空は、ちがいます。その ちがいを ふまえて、日本の 土地に 合う ように なおしました[5]。
こうして できた あたらしい 暦が、「貞享暦」です。1684ねんに ばくふに えらばれ、つぎの 年から つかわれました[1]。日本人の 手で はじめて 作られた 暦でした。
春海の あたらしい 計算では、1616ねんの 日食は「なし」に なり、きろくと 合って いました[3]。
最初の計画は、日食の予報で止まった
春海はまず、元の授時暦で宣明暦を置きかえようと進言しました。ところが授時暦による日食の予報が失敗し、改暦は中止になりました[5]。資料は、その年や日付を示していません。
春海は研究を重ね、授時暦を日本の土地に合うように改良し、大和暦と名づけて採用を願い出たと伝えられます[5]。中国で作られた暦をそのまま使うのではなく、日本の場所に合わせて直す。それが、このとき春海がたどりついた考え方でした。
日食で勝負した
採用に向けて、春海は日食の予報で暦を比べて示しました。1616年8月の日食について、宣明暦は7分の日食を予報しましたが、実際には起きていません。春海の貞享暦法の計算は「日食なし」で、記録と合っていました[3]。
貞享暦は1684年に幕府に採用され、翌1685年から施行されました。日本人の手で作られた最初の暦法です[1]。採用の月日は、資料によって10月とも11月とも書かれ、分かれています[5]。
春海は当初、元の授時暦で宣明暦を置きかえるよう進言した。しかし授時暦による日食予報が失敗し、改暦は中止になった。この失敗の年・日付は、使った資料では示されていない[5]。そのため春海は、授時暦を日本の土地に合うよう改良し、大和暦法と名づけて採用を願い出た[5]。
国立天文台の展示には、決め手になった比べ方が示されている。元和2年(1616)8月の日食で、宣明暦は7分の日食を予報したが、記録には日食がない。春海は、貞享暦法の計算が「日食なし」になり記録と合うことを示した[3]。同じ過去の日食を、新旧2つの暦で計算し直せば、どちらが空に合うかが目に見える。説得力はそこにあった。なお「7分」は欠け具合の単位で、太陽の直径の約7割にあたる欠け方をさす(面積の7割ではない)。
貞享暦は1684年に幕府に採用され、翌1685年から施行された。日本人の手で作られた最初の暦法である[1]。採択の月日は、日本大百科全書が10月29日、世界大百科が11月と分かれるため、ここでは年までにとどめる[5][6]。
4. 碁を うつ 人が、てんもんかたに なった
4. 碁打ちから、幕府で最初の天文方へ
4. 幕府で最初の天文方 ── 観測・編暦・測量と、暦が人びとに届くまで
この はたらきで、春海は 碁を うつ 家の おつとめを やめました。そして 幕府で はじめての「てんもんかた」に なりました[6]。
てんもんかたは、空を はかり、暦を けいさんし、土地を はかる 仕事を する ところです[6]。
てんもんかたが けいさんした 暦は、朝廷に 近い 家で 日の えんぎなどを つけくわえられ、あちこちの 本屋さんから 出されました[1]。みんなが 手に する 暦は、そうして 作られたのです。
天文方の仕事
改暦の功により、春海は碁所をやめ、幕府の天文方に任じられました(1684年)。天文方に任じられたのは、春海が最初です[6]。仕事は、天文観測、暦の計算、改暦、測量、地誌の編纂など。空と土地を測る役所でした。
計算した暦が、人の手に届くまで
暦が人びとの手に届くまでには、いくつかの段階がありました。まず天文方が暦の計算をします。それに朝廷側の家が、日の吉凶などを書く暦注を付け加えます。そのうえで、各地の出版元から暦が刊行されました[1]。
のちの1811年には、天文台に蛮書和解御用という役目も置かれ、洋書の翻訳も天文方が担うようになります[6]。天文方は、空を測る役所であると同時に、外の世界の知識を日本に入れる窓口にもなっていきました。
改暦の功で、春海は碁所をやめ、1684年に幕府の天文方に任じられた。天文方という役職に就いたのは春海が最初である。碁所の家禄30石に代わって100俵を受け、のち250俵まで加増されたとされる[5]。天文方の主な務めは、天文観測・編暦・改暦・測量・地誌編纂である[6]。
では、天文方が計算した暦は、どうやって人びとの手に届いたのか。国立国会図書館の解説では、暦の計算は幕府の天文方が行い、賀茂氏の系統を受け継ぐ幸徳井家が暦注を付け加え、各地の出版元から刊行された[1]。暦注を付けた家は、百科事典では土御門家と書かれる例もあり、資料で分かれる[6]。ここでは「朝廷側の家」としておく。計算の部分だけが幕府の天文方の仕事で、日の吉凶を添える部分は別の家が担う、という分業があった。
1811年には天文台に蛮書和解御用が置かれ、洋書の翻訳も天文方が担った[6]。観測と計算の役所が、西洋の天文学を読む場所にもなった。これが、次の章で見る改暦につながる。
5. こよみに のって いない 日食を、ふつうの 人が あてた
5. 暦に載っていない日食を、アマチュアが言い当てた
5. 宝暦暦の失敗と、アマチュアの予報 ── 3分以下の日食の扱い
暦づくりは、そこで おわりでは ありませんでした。江戸の 中ごろ、1763ねんの 9月に、暦に のって いない 日食が 見られました[3]。
その とき、何人かの ふつうの 人が、「4分いじょう かける 日食が くる」と、前もって よそうして いたのです[3]。空を よく 見て いた 人が、あてて いたのです。
のちの 暦には、いいわけのような 文が のりました。これまでは 小さな 日食は のせて いなかったが、これからは ぜんぶ のせる、という 内ようでした[3]。
暦にない日食が起きた
貞享暦のあと、江戸時代には宝暦、寛政、天保と、合計4回の改暦が行われました(4回は貞享を含む数)[1]。新しい暦は、科学博物館の解説では、およそ数十年ごとに作り直されたと説明されます[8]。
その背景には、暦が空に追いつかなくなる場面がありました。宝暦13年(1763)9月、暦に載っていない日食が見られたのです。このとき、何人かのアマチュアが、4分以上の部分日食を前もって予報していたことが記録されています[3]。
暦に載った、ちょっと言い訳めいた一文
のちの『明和四年暦』には、従来は3分以下の日食・月食は載せていなかったが、すべて載せることにした、という趣旨の文が付きました[3]。資料はこれを「言い訳めいた」文と紹介しています。暦のほうが、空の出来事に追いつこうとしていた様子がうかがえます。
貞享暦のあと、江戸時代の改暦は、宝暦(1755)・寛政(1798)・天保(1844)と続き、貞享を含めて全部で4回だった[1]。西洋天文学を取り入れて精度を上げ、およそ数十年ごとに新しい暦が作られたと科学博物館の解説は述べる。間隔は一定ではなく、あくまで大づかみの説明である[8]。
改暦が繰り返された背景を、国立天文台の展示は1つの場面で示す。宝暦13年(1763)9月、暦に載っていない日食が見られた。しかも何人かのアマチュアが、4分以上の部分日食を事前に予報していた[3]。暦に載らなかった日食を、民間の観測者が予報していたことになる。
そののち刊行された『明和四年暦』には、これまで3分以下の日月食は載せなかったが、今後はすべて載せる、という断り書きが付いた。展示の解説はこれを「言い訳めいた」文と呼ぶ[3]。この文が、日食の見落としへの直接の応答だと断言できる資料は使っていないが、記載の方針が改まったことは確かだ。精度の要求が、暦をつくる役所の外から高まっていた。
6. 西の 星の 学問を 学んだ、ふたりの 男
6. 寛政の改暦 ── 西洋の天文学を読んだ2人
6. 寛政暦 ── 楕円運動と、高橋至時の「広大無辺」
1795ねん、ふたりの 男が 江戸に よばれました。高橋至時と、商人の 間重富です。2人は あさくさの 天文台で、新しい 暦づくりに とりくみました[4]。
この 暦は、1798ねんから つかわれました。太陽と 月が まるい わではなく、ながい まるの みちを うごく ことを つかった、めずらしい 暦でした[4]。
至時は、新しい 暦が できても、まだ 学ぶ ことを やめませんでした。オランダ語の 天文の 本を、ひっしに よみました。そして、星は 数十まんの 太陽が あつまった ものだ、と おどろいて 書きのこしました[4]。
武士と商人が組んだ改暦
寛政7年(1795)、高橋至時と間重富が江戸に呼ばれ、浅草天文台で改暦の作業に当たりました。至時は大坂の下級武士の家の生まれ、重富は商人です。2人は同じ師の門下で、一緒に天文暦学を研究した仲間でした[4]。
寛政暦は1798年から施行されました。太陽と月の動きに楕円運動を使った、画期的な暦法です。西洋天文学を取り入れた中国の暦書『暦象考成』をもとにしていました[4]。
満足せず、さらに先へ
寛政暦は、約45年ほど使われました[7]。至時の次男の渋川景佑は、のちに、吉宗が夢みた西洋天文学を取り入れる改暦が、吉宗の死後約50年で実現した、と序文に書いたと伝えられます[7]。
至時自身は、寛政暦に満足しませんでした。亡くなる前のおよそ半年、オランダ語の天文書『ラランデ暦書』の解読に励み、恒星が数十万もの太陽からなる宇宙を「広大無辺成る事ニ御座候」と驚きとともに書き残しています[4]。至時は41歳で亡くなりました[4]。
宝暦暦の失敗のあと、改暦の担い手になったのが高橋至時と間重富だ。至時は大坂の下級武士の家に生まれ、麻田剛立の門下で学び、同門の商人・重富とともに天文暦学を研究した。寛政7年(1795)、至時は天文方、重富は頒暦所御用として、浅草天文台で改暦作業に当たった[4]。身分のちがう2人が組んで進めた改暦だった。
寛政暦は1798年から施行され、太陽と月に楕円運動を用いた画期的な暦法だった。西洋天文学を採り入れた中国の暦書『暦象考成』が土台である[4]。使用期間は1842〜43年ごろまでと資料で揺れ、約45年と書くのが無難だ[7]。至時の次男・渋川景佑は『寛政暦書』の序文で、吉宗の遺志(西洋天文学を取り入れた改暦)が、死後50年で果たされたと述べたという[7]。
至時は寛政暦に満足せず、亡くなる前の約半年(1803〜1804年)、オランダ語の天文書『ラランデ暦書』の解読に励み、41歳で亡くなった。恒星が数十万もの太陽からなる宇宙は「広大無辺成る事ニ御座候」と、驚きの言葉を記している[4]。暦を完成させた人が、さらに広い宇宙に驚く。この感覚は、暦という実用の道具が、天文学という学問を引っぱっていたことを物語る。
7. 暦の 「大」と「小」を、えに して あそんだ
7. 暦の大小を絵なぞなぞにして遊んだ庶民
7. 大小暦 ── 月の日数を絵に織り込んだ庶民の遊びと、太陰太陽暦のしくみ
ところで、江戸の 人たちは、暦を どう つかって いたのでしょう。ひとつの かぎは、月の 日数です。むかしの 暦では、1か月が 30日の「大の月」と、29日の「小の月」が ありました[2]。
月の みちかけは、およそ 29.5日で ひとまわりします。だから 30日の 月と 29日の 月を、組み合わせて つかいました。どちらが 来るかは 毎年 かわったので、人びとは 暦で たしかめました[2]。
月の おわりに お金を はらう お店は、まちがえないように「大」「小」の かんばんを 店先に かけました[2]。
やがて、大と 小を えや 文の 中に かくした「大小暦」が はやりました。お正月に、友だちと こうかんして たのしんだ そうです[2]。
月の大小は、毎年ちがった
江戸の暦は月の満ち欠けにもとづく太陰太陽暦で、月の満ち欠けの周期は約29.5日です。そこで30日の大の月と29日の小の月が作られました[2]。29.5日の2か月分は59日で、30日+29日と同じ。この組み合わせで、月の満ち欠けとほぼ合います。
ところが季節(約365.24日)とはずれるので、2〜3年に1度は閏月を入れて13か月の年が作られました。大小の並びは毎年、次の年の分を計算して決められ、年によって変わりました[2]。
看板と、絵なぞなぞ
月末に支払いや代金の取り立てをする商店は、間違えないよう「大」「小」の看板を作り、月に合わせて店頭に掛けました[2]。
やがて、絵や文章の中に大小を織り込んだ大小暦(絵暦)が流行します。年の初めの「大小会」で交換されました。貞享のころに始まり、明和から寛政の年間に最も流行したといいます[2]。天文方が計算した大小の並びが、庶民の手では遊びの材料になっていたわけです。
江戸の暦は太陰太陽暦で、月の満ち欠けの周期(約29.5日)に合わせ、大の月30日と小の月29日を置いた。2か月で59日で、29.5×2と一致する。一方、季節の周期(約365.24日)とはずれるため、2〜3年に1度は閏月を入れて13か月の年を作り、季節と暦を調節した。大小の並びは毎年、翌年の暦を計算して決めるので、年ごとに替わった[2]。
では、庶民はその大小をどう扱ったか。月末に支払いや代金の取り立てをする商店は、間違えないように「大」「小」の看板を作り、月に合わせて店頭に掛けた。絵や文章に大小を織り込む大小暦(絵暦)が生まれ、年初の「大小会」で交換された。貞享のころに始まり、明和〜寛政年間に最も流行したとされる[2]。
ここで注目したいのは時期の重なりだ。大小暦の流行期は、アマチュアが日食を予報した宝暦13年(1763)を含み、至時が寛政暦を作った寛政年間にまで及ぶ。暦の精度を上げる役所と、暦を絵なぞなぞにして遊ぶ庶民が、同じ時代に並んでいた。さらに江戸後期には、望遠鏡が手に入りやすくなり、入門書も出て、民衆も月や木星を観察して楽しむようになったと、科学博物館の展示紹介は述べる。ただしこれは1つの紹介記事の説明である[8]。
8. 月を 見て、29.5日を たしかめて みよう
8. 月を見て、約29.5日を自分で確かめる
8. 月の満ち欠けで検算する ── 大の月・小の月の根拠を自分の目で
29.5日が ほんとうか、自分の 目で たしかめて みましょう。やりかたは かんたんです。
まず、まんまるの 月が 見えた 夜を、カレンダーに しるします。つぎに、ほぼ 1か月 あとの、また まんまるの 月の 夜を しるします。月の みちかけが、29日か 30日ほどで ひとまわりする ことを たしかめられます。くもりの 日は、前後の 日を つかって 考えましょう。
夜に 外に 出る ときは、おうちの 人と いっしょに 行きましょう。まどから 見るだけでも、だいじょうぶです。
もっと 知りたい ときは、国立国会図書館の「日本の 暦」や、国立天文台の 貴重資料の 部屋を、おうちの 人と 見て みましょう。むかしの 暦の ようすが わかります。
今日できること
満月の夜を、カレンダーに印をつけて記録します。次の満月の夜まで、日数を数えます。30日か29日ほどになれば、月の満ち欠けの周期が約29.5日だと、自分の目で確かめる手がかりになります。曇りの日は、前後の夜の月の形から、満月の日を見当づけてください。夜に外へ出るときは、家の人と一緒に、安全な場所で見ましょう。
次に読む手がかり
国立国会図書館の「日本の暦」には、改暦と大小暦の資料が載っています。国立天文台の暦計算室の貴重資料展示室には、日食の予報や高橋至時の資料があります。春海が示した日食の比べ方や、至時の「広大無辺」の言葉は、原典に近い形で読めます。
暦をつくる人と、暦で遊ぶ人。どちらも空を見上げていたと分かると、今夜の月の見え方も少し変わってきます。
大の月・小の月の根拠は、自分でも検算できる。満月の夜を1つ記録し、次の満月までの日数を数える。平均は約29.5日で、30日になる月も29日になる月もあるはずだ。2か月続けて記録すれば、合計が59日前後になることから、大と小を交互に近い形で置く理由が納得できる。曇りで満月を特定できない日は、前後の夜の月の形から推定するしかなく、日数の誤差は1日程度見ておく必要がある。夜間に外へ出るときは、家の人と一緒に安全な場所で観察する。
資料としては、国立国会図書館「日本の暦」(改暦・大小暦)と、国立天文台暦計算室の貴重資料展示室(日食・高橋至時)が、いずれも日本語で読める。春海の日食の比較、宝暦13年のアマチュアの予報、至時の「広大無辺」の言葉は、展示ページの記述にもとづく。ここから先、4回の改暦の差を調べるなら、各暦法が何の観測にもとづくかを比べると面白い。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文の出典と、それぞれの使い方です。
- 国立国会図書館「日本の暦」第1章 江戸から明治の改暦 https://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter1/s2.html (宣明暦の使用期間、貞享暦の施行、改暦4回、暦の出版の流れ)
- 国立国会図書館「日本の暦」第2章 大小暦 https://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter2/s1.html (大の月・小の月、閏月、看板、大小暦)
- 国立天文台暦計算室 貴重資料展示室021 日食 https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/exhibition/021/ (1616年の日食予報、1763年のアマチュアの予報、明和四年暦の文)
- 国立天文台暦計算室 貴重資料展示室031 高橋至時 https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/exhibition/031/ (寛政暦の改暦作業、至時の言葉)
- 日本大百科全書・世界大百科事典「渋川春海」(コトバンク) https://kotobank.jp/word/%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E6%98%A5%E6%B5%B7 (春海の生い立ち、2日のずれ、授時暦の失敗、天文方就任)
- 日本大百科全書・世界大百科事典「天文方」(コトバンク) https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E6%96%87%E6%96%B9 (天文方の任務、蛮書和解御用)
- 世界大百科事典・デジタル大辞泉「寛政暦」(コトバンク) https://kotobank.jp/word/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E6%9A%A6 (寛政暦の使用期間、渋川景佑の序文)
- サイエンスポータル(国立科学博物館の展示紹介) https://scienceportal.jst.go.jp/stories/20160129_g01/ (星の観測、暦と権威、改暦の周期、庶民の望遠鏡)
なおした ところ
更新履歴
更新履歴(改版の記録)
- 初版を公開。
このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。