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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

ジャガイモは、どこから きたの? ── 山の 上から せかいへ

ジャガイモの長い旅 ── アンデスの高地から、疑われたヨーロッパを経て日本へ

ジャガイモの伝播史 ── アンデスでの栽培化、16世紀のヨーロッパ伝来、普及の過程、ジャガタラ経由の日本伝来

分野:歴史・文化

さむい 夜の アンデスの 山です。ジャガイモが 地めんに ずらりと ならべて あります。あさに なると、お日さまが あたって、とけて いきます。

どうして わざわざ こおらせて とかすのでしょう。この ジャガイモが、どんな 道を とおって みなさんの 家まで きたのか、たどって みましょう。

夜の冷え込みで凍ったジャガイモを、朝の太陽で解かす。アンデスの人たちは、それをくり返して、長くとっておける食べ物をつくってきました。

この芋はやがて海を渡り、ヨーロッパでは長いあいだ疑われ、それでも広がって、日本には長崎から入ってきたといわれています。南米の山から日本の食卓まで、その道のりを資料でたどります。

ジャガイモ(Solanum tuberosum)はナス科の作物で、南米アンデス山脈で最初に栽培化された[1]。夜に凍らせ昼に解かす作業をくり返してつくる保存食チューニョは、その利用の仕方の一つだ[3]。

このメモでは、アンデスでの栽培化、16世紀のヨーロッパへの伝来、18世紀の疑いと普及、日本への伝来と名前の由来、アイルランドの不作までを、複数の資料を突き合わせて追う。年号は資料によって食い違うものが多いので、幅があるものは幅のまま書く。

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1. ジャガイモの ふるさとは どこ?

1. ふるさとはアンデスの高地 ── 在来種は4,000種類以上

1. 栽培化の地 ── アンデス山脈と、在来種4,000種類以上

ジャガイモは、南米の アンデスという 高い 山脈さんみゃくで うまれました。さいしょに 栽培さいばいされたのも、そこです[1]。

はじまりは、いまから 数千年前の ころと かんがえられて います。ただ、何年前かは、しらべた 本に よって ちがいます[2]。

アンデスには、むかしから ある ジャガイモが 種類しゅるいで 4000より 多く あります。山に 生えて いる 野生の ものも、180種類しゅるいより 多いそうです[1]。

お店で 見る ジャガイモは、その ほんの 一部の なかまです。

ナス科の芋が生まれた場所

ジャガイモはナス科の植物で、南米のアンデス山脈で生まれ、最初に栽培されるようになりました[1]。トマトやナスの親戚にあたります。

栽培が始まった時期は、資料によって幅があります。世界史の用語集は紀元前5000年ごろとしていますが、もっと古い年を挙げる資料もあり、はっきりしません[2]。ここでは「数千年前」とだけ書いておきます。

アンデスの在来ジャガイモは4,000種類以上

国際ポテトセンター(CIP)によると、在来のジャガイモは4,000種類以上あり、その多くがアンデスにあります。野生の種も180種以上あります[1]。ただし4,000は、在来種の数です。世界にあるジャガイモの全品種の数ではありません。

ジャガイモはナス科に属し、南米アンデス山脈で生まれ、最初に栽培化された[1]。国際ポテトセンター(CIP)は、在来種は4,000種類以上あり、その多くがアンデスにあると紹介している。野生種は180種以上とされる[1]。4,000は在来種の数で、世界の全品種の数ではない。

栽培化の時期は資料により幅がある。世界史の用語集(世界史の窓)は紀元前5000年ごろとする[2]。これより古い年を挙げる二次資料もあるため、このメモでは「数千年前」とする。

2. なぜ、よるに こおらせるの?

2. 夜に凍らせ、昼に解かす ── チューニョという保存食

2. チューニョ ── 凍結と解凍をくり返す保存法

はじめの 話の 答えです。アンデスの 人たちは、ジャガイモを 夜の 外に ならべて こおらせ、あさの お日さまで とかしました[3]。

これを なんども くりかえして、チューニョと いう たべものに します。とって おける たべものです[3]。

夜の 山は、大きな れいぞうこの ようです。お日さまは、ひるまの ヒーターです。ただし ほんとうは、きかいでは ありません。山の 空気と 太陽が、その やくを して います。

山の夜と昼を道具にする

アンデスの人たちは、ジャガイモを外に広げて、寒い夜に凍らせます。朝になると、太陽の光で解かします。これをくり返してできるのが、チューニョと呼ばれる保存食です[3]。

夜が冷え込み、昼は日ざしが強い高地だからできる方法です。機械のない時代に、山の気候そのものを使って、収穫した芋を長くとっておく工夫だったと考えられます。

アンデスの人々は、ジャガイモを屋外に広げて冷え込む夜に凍らせ、朝の日ざしで解かす。これをくり返してチューニョ(chuño)と呼ばれる保存食にする[3]。

この方法は、夜と昼の寒暖差が大きい高地の気候に依存する。産地の条件を利用した加工で、収穫した芋を長期にとっておく手段になっていたとみられる。

3. うみを わたって、ヨーロッパへ

3. 海を渡ってヨーロッパへ ── 荷物の受領書に残った最古級の記録

3. ヨーロッパ伝来 ── カナリア諸島と、1567年の受領書

ジャガイモは、もう1つの 大りくの ヨーロッパへ、ふねで わたりました。いつ 来たかは、本に よって ずいぶん ちがいます。16世紀せいきの おわりごろと する ものも あります[5]。

ふるい きろくの ひとつは、1567年の 手がみの ような 紙です。カナリアという 島じまから アントワープと いう まちへ、にもつを おくった ときの うけとりの 紙と いわれます[4]。

カナリアの 島じまは、スペインの 近くに あります。ここは アメリカから 来た 作物を、ほかより はやく 入れられた ところでした。火山の 土や 気こうも、そだつのに 合って いたと されます[4]。

年がはっきりしない到着

ジャガイモがヨーロッパに着いた年は、はっきりしていません。日本語の資料だけでも、「16世紀末」「1570年ごろ」「インカ帝国の征服後」と幅があります[5]。

記録として残るいちばん古いものの一つは、1567年11月28日付の受領書だとされます。カナリア諸島のラスパルマスから、ベルギーのアントワープへ荷物を送ったときのものです[4]。スペイン本土(セビリア)の病院の記録は1573年です[4]。伝わった年と、記録が残る最も古い年は分けて考える必要があり、資料によって年も異なるので、断定はできません。

カナリア諸島という入り口

カナリア諸島は、スペインが貿易を独占していた時代の例外で、アメリカの作物が早く入る場所になりました。火山性の土や気候が、新しい作物になじむのを助けたと説明されています[4]。

一つの資料には、最初は食べ物ではなく花として、フランスの宮殿で育てられていたという記述もあります[5]。ただしこれは一つの資料の話で、ヨーロッパ全体がそうだったとは言えません。

ヨーロッパへの伝来年は資料で割れる。日本いも類研究会の資料は「16世紀末」とし、ほかに「1570年ごろ」「インカ帝国征服(1533年)後」とする記述もある[5]。同資料には、当初は食料でなく花としてフランスの宮殿で栽培されたという記述があるが、一資料の説明なので一般化しない。

記録として残る最古級の例は、1567年11月28日付の受領書とされる。カナリア諸島のラスパルマスからアントワープへの発送に関するものだ[4]。スペイン本土(セビリア)の病院の記録は1573年[4]。伝来年と最古級の記録年は分けて考える必要があり、資料により年も異なるため、最古の年は断定を避ける。

カナリア諸島はスペインの貿易独占の例外で、アメリカ作物の早い導入口になった。火山性の土壌、気候、中間的な日長条件が順応を助けたと論じられている[4]。1596年にスイスの博物学者ガスパール・ボーアン(Gaspard Bauhin)が Solanum tuberosum esculentum の名を与えたのが、最初の科学的な記述とされる[3]。

4. たべものと おもわれなかった ころ

4. 「土から掘るものは農民と豚のもの」── 疑われたジャガイモ

4. 18世紀フランスの忌避 ── 出自・見た目・毒草との類似

ヨーロッパに 来ても、すぐには 人気に なりませんでした。18世紀せいきの フランスでは、うたがう 人が 多かったと いいます[6]。

ひとつは、土の 中から ほり出す ものは、はたけで はたらく 人と ぶたの たべものだ、と いう 考えです[6]。

もうひとつは、見た目です。かわの ぶつぶつが びょうきに にて 見える、毒どくの ある ナスの なかまに にて いる、と 心配する 人も いたそうです[6]。

パリで 1748年に 食べては いけないと きまり、1772年に 「食べても だいじょうぶ」と 言われた、と いう 話も あります。ただし、ぜんぶの 国で きまりが あった わけでは ありません[6]。

疑われた理由

18世紀のフランスでは、ジャガイモは疑いの目で見られました。ナショナルジオグラフィックの記事によると、玉ねぎやにんじんもふくめ、土から掘り出すものは農民と豚にふさわしい、という見方がありました[6]。

見た目も嫌われる一因でした。皮の斑点がハンセン病を思わせる、毒のあるナス科の草に似ている、といった不安です[6]。ジャガイモはナス科ですから、毒草と似ている、という心配は的外れではなかったのかもしれません。

禁止と「安全」宣言

1748年にパリ高等法院が人間の食用を禁じ、1772年にパリ大学医学部が食べても安全だと宣言した、という説明があります[6]。フランス全土が法律で禁止していたと言い切るのは避けます。

18世紀のフランスでジャガイモが疑われた背景として、ナショナルジオグラフィックの記事は複数の理由を挙げる。玉ねぎやにんじんも含め、土から掘り出すものは農民と豚にふさわしいという見方。皮の斑点をハンセン病と結びつける見方。ナス科の毒草に似ることへの恐れ、である[6]。

1748年にパリ高等法院が人間の食用を禁じ、1772年にパリ大学医学部が食用として安全だと宣言した、という説明がある[6]。「フランス全土で法律により禁止」と一般化はしない。

5. うたがいが、ひろまりに かわった わけ

5. 疑いから広まりへ ── 「盗ませた」パルマンティエと、命じた大王

5. 普及の契機 ── パルマンティエの逸話、プロイセンの奨励、地中で育つ利点

それでも、ジャガイモは ひろがりました。フランスの パルマンティエと いう 人が、パリの ちかくの はたけに 植えたと つたえられます。夜は 見はりを おかず、ちかくの 人が 「ぬすむ」のを 待った そうです[6]。

ぬすまれる ほど 大事な ものなら、食べて みよう、と 思わせる ねらいだと いわれます。ほんとうかは、わかって いない ところも あります。

ドイツの ちかくの プロイセンでは、1744年に ききんが おきました。王の フリードリヒ大王が、はたけの 人たちに 食べる ことを めいじたと いいます[3]。べつの 本では 1756年と しています。

ジャガイモは、土の 中に できるので、はたけを あらされても、下に のこって いる ことが あります[2]。

畑に見張りを置かなかった薬剤師

フランスの薬剤師で農学者のパルマンティエは、パリ近郊の畑にジャガイモを植え、夜は見張りを置かずに、近所の人がこっそり「盗む」のを待った、と伝えられています[6]。盗みたくなるほど価値がある作物だと思わせる作戦です。逸話としては面白いのですが、細部まで本当かどうかは、ほかの資料とも見比べたいところです。

大王が食べるよう命じた

プロイセンでは、1744年の飢饉のとき、国王フリードリヒ大王がジャガイモ好きで、農民に食べるよう命じた、とスミソニアン誌は書いています[3]。別の資料は1756年の命令とし、年は食い違っています。

地中にあるから強い

普及の理由の一つとして、世界史用語集は、畑が荒らされても地中の芋が残り、収穫できたことを挙げています[2]。実が地面の上にある作物とちがい、芋は地下にあるので、ひとまとめに失いにくかった、ということです。

普及の契機としてよく引かれる人物が、フランスの薬剤師・農学者パルマンティエ(Parmentier)だ。パリ近郊の畑にジャガイモを植え、夜は見張りを置かずに近所の人が「盗む」のを待つなどして広めたと伝えられる[6]。逸話性の強い話で、ここでは伝承として扱う。

プロイセンでは、1744年の飢饉のとき、ジャガイモ愛好家のフリードリヒ大王が農民に食べるよう命じたとスミソニアン誌は述べる[3]。別の資料は1756年の命令とし、年は割れる。年を断定しない。

世界史の窓は、畑を荒らされても地中の芋が残り収穫できる点を、ドイツで栽培が広がった要因の一つに挙げる[2]。地上部が被害を受けても収穫が残る、という作物の性質に注目した説明だ。

6. 日本には、どこから きたの?

6. 日本へ ── ジャカルタから長崎に来た「ジャガタライモ」

6. 日本伝来 ── ジャガタラ経由の伝来と、名前の由来

日本には、いまから 400年ほど 前に 来たと いわれます。はこんだのは、オランダの 人たちだと つたえられて います[5]。

その 人たちは、インドネシアの ジャカルタを きょてんに して いました。むかしは ジャカルタを 「ジャガタラ」と よびました。そこから 長崎ながさきへ 入った と いいます[5]。

何年に 来たのかは、はっきりしません。1598年ごろと いう 本も、1600年ごろと いう 本も あります[5]。

名前の 「ジャガイモ」は、「ジャガタライモ」が みじかく なった もの、と いわれます[8]。

オランダ船と長崎

日本にジャガイモを伝えたのは、ジャワ島のジャカルタ(当時はジャガタラと呼びました)を拠点にしていたオランダ人で、長崎に入ったといわれています[5]。約400年前、慶長年間(1600年前後)のことです。

年は1598年(慶長3年)とする資料と、慶長年間とだけする資料があり、定説はありません。「1598年」と書くときは「1598年ごろとする説」と受けとめてください[5]。

名前の由来と救荒作物

「ジャガイモ」という名は、「ジャガタライモ」が縮まったものと説明されます。また、冷涼な気候でも育ち、江戸時代の大きな飢饉のとき、飢えをしのぐ作物として各地に広がったとされます[8]。

日本への伝来は、約400年前の慶長年間(1600年前後)に、ジャカルタ(ジャガタラ)を拠点とするオランダ人が長崎に入れたと言われる[5]。年は1598年(慶長3年)とする資料と慶長年間とする資料があり、定説はない。1598年は「1598年ごろとする説」として扱う。

「ジャガイモ」は「ジャガタライモ」が縮まった名で、馬鈴薯(ばれいしょ)という呼び名もある。冷涼な気候でも育ち、近世の大飢饉で救荒作物として各地へ広がったとされる[8]。

7. ひとつに たよりすぎると

7. 頼りすぎた国の不作 ── アイルランドの飢饉が残した宿題

7. アイルランドの不作 ── ジャガイモへの依存とその影響

ジャガイモは ひえた 土地でも そだつので、たすけに なりました。アイルランドの まずしい 人たちも、ジャガイモに たよって いました[7]。

1845年、ジャガイモの びょうきが ひろがって、とれなく なりました。1852年までに、100万人ほどが なくなり、同じ ぐらいの 人が くにを はなれた、と いわれます[7]。とても かなしい できごとでした。

ジャガイモに たよって くらして いた ことも、ひがいが 大きく なった わけの 一つだと されて います[7]。

冷涼な国と一つの作物

アイルランドは冷涼な気候で、貧しい農民がジャガイモに頼って暮らしていました。1845年に疫病菌(Phytophthora infestans)が広がり、ジャガイモが大きな不作になりました。1845〜1852年に約100万人が飢えなどで亡くなり、さらに約100万人が国を離れたと伝えられています[7]。

ジャガイモへの依存と不作の影響

被害が大きくなった理由の一つは、ジャガイモにあまりにも頼っていたことだとされます[7]。ただし、これは原因の一つで、すべてではありません。

アイルランドでは、冷涼な気候で育つジャガイモに貧しい農民が頼っていた。1845年に疫病菌(Phytophthora infestans)が広がって不作となり、1845〜1852年に約100万人が死亡、さらに約100万人が国を離れたとされる[7]。

被害が大きくなった一因として、ジャガイモへの依存の大きさが挙げられる[7]。ただし複数の要因の一つとして読む。

8. おみせで ジャガイモを、見くらべて みよう

8. 袋のラベルを読んで、ジャガイモの「今」を見てみる

8. 出口 ── ラベルの観察と、資料の読みどころ

おみせや 家に ある ジャガイモの ふくろを 見て みましょう。名前や、そだった ところが 書いて あるでしょうか。

中に、いろいろな 形や 大きさの ものが まざって いたら、ならべて、ちがいを 見つけて みます。ジャガイモは、たべずに 見るだけで だいじょうぶです。

アンデスには 4000種類しゅるいより 多い ジャガイモが あると 言われます。おうちの ジャガイモの ふくろや ラベルに、品種ひんしゅの 名前や とれた ところは 書いて あるかな?

家やお店にあるジャガイモの袋やラベルを見て、品種の名前と産地が書いてあるか確かめてみましょう。2〜3種類を見比べて、形、大きさ、皮の色の違いを言葉にしてみます。見るだけで、食べる必要はありません。

アンデスには在来種が4,000種類以上あるといわれます。お店で見かける数種類は、その中のごく一部の、長い旅を経た子孫のどれかにあたります。

もっと知りたくなったら、日本いも類研究会の「じゃがいもMiNi白書」[5]で、日本での歴史を日本語で読めます。

スーパーや家庭のジャガイモの袋のラベルで、品種名と産地を確認し、2〜3種類を並べて形・大きさ・皮の色を言葉にしてみる。食べずに観察するだけでよい。アンデスの在来種の多様さ[1]と対照すると、店頭で見かける品種数の少なさに気づく。

資料を読むなら、日本いも類研究会「じゃがいもMiNi白書」の歴史の項[5]が日本語で読みやすい。国際ポテトセンター(CIP)の「Potato facts」[1]は、アンデスの在来種の数などを英語で確認できる。カナリア諸島の古い品種を扱った論文[4]は、ヨーロッパ伝来の記録の年を自分の目で確かめる手がかりになる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:国際ポテトセンター(CIP)、日本いも類研究会、農林水産省などの資料と、歴史の用語集、雑誌の記事、論文(Zenodo)を突き合わせた。年号や数字が資料で食い違う箇所は、幅を残して書いた。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。

  1. 国際ポテトセンター(CIP)「Potato facts」。https://cipotato.org/potato/potato-facts/ (アンデス原産、在来種と野生種の数について)
  2. 世界史の窓「ジャガイモ」。https://www.y-history.net/appendix/wh0204-002_2.html (栽培化の時期の一説と、地中で育つ利点について。二次資料)
  3. Smithsonian Magazine「How the Potato Changed the World」。https://www.smithsonianmag.com/history/how-the-potato-changed-the-world-108470605/ (チューニョ、1596年の学名、プロイセンの奨励について。二次資料)
  4. Ancient Potato Varieties of the Canary Islands(Zenodo、2023年)。https://zenodo.org/records/10470504 (カナリア諸島の役割と、1567年の受領書について)
  5. 日本いも類研究会「じゃがいもMiNi白書」。https://www.jrt.gr.jp/potatomini/potatomini_rekishi/ (ヨーロッパ伝来年の幅と、日本伝来について。二次資料)
  6. National Geographic「How the potato went from banned to beloved」。https://www.nationalgeographic.com/history/article/potato-history-france-western-europe (フランスでの疑いとパルマンティエの逸話について。二次資料)
  7. HISTORY「Irish Potato Famine」。https://www.history.com/articles/irish-potato-famine (1845年以降のアイルランドの不作の規模について。二次資料)
  8. 農林水産省 こども相談室。https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0106/05_.html (名前の由来と救荒作物としての広まりについて。原文は取得できておらず、検索結果の抜粋による)

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