1. せびろは、どうろの なまえ?
1. 「背広」はロンドンの通りの名から来たのか
1. 「背広」の語源とサヴィル・ロウ ── 辞典が示す三つの説
おとうさんや せんせいが きている 背広。この ことばの もとには、いくつかの せつが あります。
ひとつは、ロンドンの サヴィル・ロウという どうろの なまえから、という せつ。ほかに、「しみんの ふく」という いみの えいごから、という せつや、せなかの はばが ひろいから、という せつも あります[4]。どれと きまっては いません。
この きじでは、サヴィル・ロウに ちゅうもくします。ふくやさんの どうろだと よく いわれますが、できた ころは ちがいました。
お父さんのスーツや、入学式で先生が着ている服。日本語ではこれを「背広」と呼びます。この言葉のもとには、いくつかの説があります。
辞典には、背中の幅が広いから、市民服を意味する英語のcivil clothesから、ロンドンの洋服屋街の名サヴィル・ロウから、という3つが並んでいて、どれと決まってはいません[4]。日本で「セビロ」とカタカナで書かれるようになったのは幕末から明治の初めで、広く使われたのは明治20年(1887年)ごろからとされます[5]。
この記事は、そのうちサヴィル・ロウ説の通りを調べます。「洋服屋街」というと昔から店が並んでいたように思えますが、できたばかりの通りには、仕立て屋が1軒もありませんでした。
「背広」の語源をめぐって、辞典類は一つに決めていない。背幅が広いことから、市民服の意のcivil clothesから、ロンドンの洋服屋街の名Savile Row(日本ではセビルロー、サビル・ローとも書かれる)から、など複数の説が並ぶ[4]。日本語としては、幕末から明治初期にカタカナの「セビロ」が現れ、一般には明治20年(1887年)ごろから用いられたとされる[5]。
したがって、サヴィル・ロウ説は有力な候補の一つにとどまり、証明された事実ではない。ただ、この説が成り立つとすれば、日本の服の名が、ロンドンの一本の通りの評判に結びついていたことになる。その通りは、もとから仕立て屋の街だったのだろうか。出典を見ると、そうではない。
2. できた ころの どうろには、だれが すんでいたの?
2. できたばかりの通りに、仕立て屋はいなかった
2. 1730年代の通り ── 貴族の開発地に生まれた住宅街として始まる
サヴィル・ロウが できたのは、1730ねんだいの はじめです。バーリントンはくしゃくという きぞくが、ひろい とちを まちに かえる しごとの ひとつでした[6]。
ここに すんだのは、ぐんじんや せいじかです。ふくやさんの どうろでは なく、きれいな いえが ならぶ、じゅうたくがいでした[1]。
では、ふくやさんは いつ、どこに あらわれたのでしょう。
3. ふくやさんは どうして、まわりの みちに あつまったの?
3. 仕立て屋は、客を追って通りの「周り」に集まった
3. 周辺の通りへの集積 ── 1806年の記録は通り内に仕立て屋を載せない
1800ねんごろ、ふくやさんは サヴィル・ロウの まわりの みちに ふえて いきました。ロンドンの メイフェアという ちいきの、おかねもちで えいきょうりょくの ある ひとたちに ひかれた から、と せつめいされます[1]。
おきゃくさんの そばに おみせを だす、という わけです。そのころの きろくでは、サヴィル・ロウの なかには ふくやさんは いません。コーク・ストリートなど、まわりの みちに おみせが ありました[2]。
では、どの おみせが さいしょに、サヴィル・ロウに むかって とびらを あけたのでしょう。
1800年ごろ、仕立て屋が増えたのは通りの周りでした。ロンドン博物館は、ロンドンのメイフェア地区に住む裕福で影響力のある人たちに引かれて、仕立て屋が移ってきたと説明しています[1]。客のそばに店を出す、という考え方です。
業界団体サヴィル・ロウ・ビスポーク協会(SRBA)の歴史ページには、1806年の項に、この通りに仕立て屋の記録はないが、同じ頃の仕立て屋は周りの通りに店を構えていた、とあります[2]。コーク・ストリートなど、通りの裏手にあたる道でした。
ひとつ注意があります。この年代にはほかの説明もあり、ウィキペディアは1803年までに通りに移った店もあると書きます[6]。通りの中で最初の1軒がいつかは、資料によって少しずれます。そのため、次の「通りに向けて入口を開いた」という話も、「とされる」と言うのが正確です。
1800年前後、仕立て屋は通りの内側ではなく、周辺の通りに集まった。理由についてロンドン博物館は、メイフェアに住む裕福で影響力のある住人に引かれたためと説明する[1]。客の住まいの近くに構えるのは、注文して仕立てる商売では自然な動きである。ただし、これは博物館による説明であり、SRBA側が移転の理由を明示しているわけではない。
SRBAの歴史ページの1806年の項は、この時期、通りに仕立て屋は記録されていないが、同時代の店は周辺の複数の通りに進出していた、と書く[2]。コーク・ストリートなどがその例である。
ところが資料は一枚岩ではない。ウィキペディアは、1803年までに通りの上に移った店の例を挙げる[6]。最初の1軒の年は、出典によって揺れる。そこで本稿は、通りに面して店を構えた最初の大店は1846年のプール商会とされる、という言い方にとどめる。では、そのプールは何をしたのか。
4. うらぐちが、せいめんの いりぐちに かわった ひ
4. 1846年、作業場の裏口が通りに向かう正面玄関になった
4. ヘンリー・プールと「正面玄関」── 「通りの創始者」と呼ばれた理由
1846ねん、ヘンリー・プールという してたてやさんが、32ばんちの さぎょうばの うらぐちを、サヴィル・ロウに むかう りっぱな いりぐちに かえました[2]。
それまで、おみせの かおは べつの みちに むいて いました。この とびらが ひらいた ことで、プールは「サヴィル・ロウの そうしゃ」と よばれます。ただし、いちばん さいしょの おみせだと きめつけない ほうが いいと いわれます。
プールの おきゃくさんには、のちの イギリスの おうさまに なる、エドワードおうたいしも いました。
1846年、ヘンリー・プールは、32番地にあった作業場のうち、サヴィル・ロウ側の裏口を、堂々とした正面の入口に作りかえました。SRBAはこの出来事によって、プールを「サヴィル・ロウの創始者」と呼ぶと説明しています[2]。
裏口だった扉が、通りの顔になる。小さな工事のようですが、店の向きが変わることで、通りを歩く人に「ここは仕立ての店が並ぶ通りだ」と見えるようになります。もちろん、通りの評判がこの1軒だけで決まったわけではなく、周りの店も同じころ客を集めていました。
プールの客には、のちのエドワード7世になる皇太子バーティがいました。1860年、皇太子の注文で短い喫煙用のジャケットを仕立てたもので、記録に残る最初のディナー・ジャケットとされます[2]。「発明した」と言い切らず、「記録に残る最初」というところが大切です。
では、そんな評判の店でつくる服は、ふつうの服と何がちがったのでしょうか。
決定的な年とされるのが1846年である。SRBAは、ヘンリー・プールが32番地の作業場のうち通り側を、パラディオ様式の大きな入口に作りかえ、そのため「サヴィル・ロウの創始者」と呼ばれる、と述べる[2]。裏口だった側を通りへ向けた、つまり通りの住人にではなく通りそのものに店の顔を見せた、という意味である。
ただし、前章のとおり1803年の例もあるので、「最初の仕立て屋」と断定せず、「通りに正面を向けた最初の大店とされる」が適切だ。
プールは王室の客も得た。1860年、のちのエドワード7世となる皇太子の注文で短い喫煙用ジャケットを仕立て、これは記録に残る最初のディナー・ジャケットとされる[2]。「記録に残る最初」であって、発明者という意味ではない。この種の逸話は、店の格を示す物語としても読めるので、出典が自社の歴史である点には注意したい。
では、こうした店が売っていた「注文服」は、どう作られるのか。
5. 「ビスポーク」って、なんの ことば?
5. 「ビスポーク」は、生地を「取りおく」ことから来た言葉
5. ビスポークの意味と基準 ── 平均50人時の手仕事と、91メートルの決まり
サヴィル・ロウの ふくは「ビスポーク」と よばれます。これは、おきゃくさんが ぬのを「とりおいて」もらい、ちゅうもんした、という ところから きた ことばだと されます[3]。
ひとり ひとりの からだを はかり、その ひと だけの かたがみを つくります。その かみから、えらんだ ぬのを きります。
つくるのには、ぜんぶで 50じかんぶん(へいきん)の てしごとが かかります。かりぬいを 3かい ほど して、ちゅうもんから できあがるまで、3かげつ ぐらいです[3]。
50じかんを、1にち 8じかん はたらく ことに すると、6にち ちょっと。ただし この かずは、きょうかいの せつめいです。
「ビスポーク」は、客が生地を「取りおいて(be spoken for)」もらい、注文したことに由来する言葉だ、とSRBAは説明します[3]。いまの辞書を引く前に、「話し済みの布」という意味だと思うと覚えやすくなります。
この協会によると、ビスポークの服は客の寸法に合わせて1着ごとに紙の型を起こし、その型から選んだ生地を裁ちます。標準的な工程は、平均50人時の手作業、仮縫い3回、注文から完成まで約3か月です[3]。1日8時間として、50時間は6日ちょっと。それが、3か月に分かれて進みます。
なお、協会の基準では、縫製は通りから100ヤード(約91m)以内で行うことになっています。これも協会自身の説明で、通り全体の決まりではありません。
2004年には、サヴィル・ロウの老舗5社がこの協会をつくり、会員の服には保証の印としてラベルが付きます[7]。では、100年以上続いた古い街に、新しい風は吹いたのでしょうか。
「ビスポーク」はbespoken、すなわち客が生地を取りおいて注文する、という語感を持つとSRBAは説明する[3]。辞典での語源の裏づけは別に確認したほうがよい。実際の工程は、客の寸法に合わせた1着ごとの紙型を起こし、そこから選ばれた生地を裁つ、というものだ。
SRBAは標準的な工程を、平均50人時の手作業、仮縫い3回、注文から完成まで約3か月と述べる[3]。1日8時間とすれば6日余りの作業が、数回の仮縫いを挟んで3か月に広がる。
さらに、SRBAの基準では、縫製は通りから100ヤード以内(0.9144×100で約91m)で行い、各社のマスターカッターがすべての職人の仕事に目を通す[3]。
こうした基準を守る団体として、2004年にアンダーソン&シェパード、デゲ&スキナー、ギーブス&ホークス、H.ハンツマン、ヘンリー・プールの5社がSRBAを設立し、会員のビスポークの服には保証のラベルを付けることにした[7]。これは自主基準であり、法的な資格ではない。では、これほど定まった世界に、変化はどう入ってきたか。
6. たんけんかの ふくの おみせと、1969ねんの あたらしい おみせ
6. 1番地の探検家向けの店と、1969年の新しい仕立て屋
6. 1番地の探検家向けの店と、1969年の新しい仕立て屋 ── 伝統の通りに入った若い店
サヴィル・ロウの 1ばんちには、ふるい れきしが あります。ここは 1870ねんから、むかしの たんけんかが あつまる ちりの きょうかいの たてものでした[8]。
1912ねんから 13ねんに かけて、ホークスという ふくやさんが、この たてものを かいました[9]。たくさんの たんけんかの ふくを つくって いた ことも、りゆうの ひとつだと、ウィキペディアは かいています[8]。
そして 1969ねん。ふるい まちに、わかい してたてやさんが おみせを ひらきました。ちかくには、ビートルズの かいしゃも ありました[6]。
1番地は、もとは王立地理学協会の建物で、1870年から協会の本部でした。ホークス社は1912〜13年にこの建物を買います[9]。ウィキペディアは、多くの探検家の服を仕立てていたことも理由のひとつだと書いています[8]。1974年には、1785年創業のギーブスがホークスを買い、社名がギーブス&ホークスになりました[9]。
探検家の服の店が、探検家の協会の建物に入る。通りの歴史は、人のつながりでもあったことが分かります。
時代が下って1968年7月、ビートルズのアップル社が3番地に入りました。1969年1月30日には、その屋上で最後の公開演奏をしたことで知られます[6]。その1969年、トミー・ナッターが35a番地に店を開きます。ロンドン博物館は、これを伝統的な仕立てに同時代の大胆さを持ちこんだ転機だと紹介しています[1]。
変わらない基準で、新しい服を作る。この組み合わせが、サヴィル・ロウが生きのびてきた理由のひとつかもしれません。
1番地は1870年から王立地理学協会の本部だった。ホークス社がこの建物を買った時期は、公式の年譜が1913年、ウィキペディアが1912年12月23日と書くので、「1912〜13年」とするのが無難である[9]。ウィキペディアは、多くの探検家の服を仕立てていたことも理由の一つとして挙げる[8]。1771年創業のホークスと1785年創業のギーブスは、1974年にギーブスがホークスを買収して一つの社名になった。
通りの性格が変わった例も大きい。1968年7月、ビートルズのアップル社が3番地に入り、1969年1月30日には屋上で最後の公開演奏をした[6]。その1969年に、トミー・ナッターが35a番地に店を開く。ロンドン博物館は、これを古典的なビスポークに同時代の斬新さを注ぎこんだ転換点と位置づける[1]。日付や後援者の名は要約情報のため、本稿は「1969年」の記述にとどめる。
1846年のプールの入口から1969年のナッターの店まで、通りの顔は、基準を守る店と新しく入ってくる店の両方でつくられてきたことになる。
7. うちの うわぎの うちがわを みてみよう
7. 家の上着の内側で、「仕立て」の手がかりを探す
7. 上着を一着、内側から観察する ── 原典に当たる前の下調べ
おうちに うわぎや ジャケットが あったら、ひっくりかえして うちがわを みましょう。ぬい目、えりの うら、かたの ふくらみ。ラベルには、つくった ところが かいてあります。
サヴィル・ロウの ビスポークの ふくは、ひとり ひとりの からだに あわせて、3かい ほど かりぬいを して つくられる、と きょうかいは せつめいします[3]。くらべて みると、ふくの つくりが ちがって みえて くるかも しれません。
この記事で分かったのは、サヴィル・ロウが最初から仕立て屋の街ではなかったことです。住宅街ができ、客を追って周りに店が集まり、1846年に通りへ入口を向ける店が出て、基準と新しい風が加わりました。
家に上着かジャケットがあれば、内側を見てみましょう。ラベルの表示、肩のあたりの縫い目、えりの裏のつくりなど、気づいたことを書き出すだけで構いません。SRBAは、ビスポークでは1着ごとに型を起こし、仮縫いを3回ほど重ねると説明しています[3]。見つけた特徴をメモにして、家族の上着とも見比べてみましょう。
もっと調べたい人は、ロンドン博物館のページ[1]とSRBAの歴史ページ[2]で、年号や店の名前を自分の目で確かめられます。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文の[数字]は、この一覧の番号に対応します。
- London Museum「Savile Row: the heart of London tailoring」 https://londonmuseum.org.uk/collections/london-stories/savile-row-the-heart-of-london-tailoring (住宅街の始まり・仕立て屋が周辺に集まった理由・1969年の転機)
- Savile Row Bespoke「19th century history」 https://www.savilerowbespoke.com/about-us/history/19th-century-history/ (1806年の記録・1846年のプール・1860年のジャケット)
- Savile Row Bespoke「About」 https://www.savilerowbespoke.com/about/ (ビスポークの意味・工程・基準)
- コトバンク「背広」 https://kotobank.jp/word/%E8%83%8C%E5%BA%83 (背広の語源の諸説)
- Weblio辞書「背広」(日本国語大辞典) https://www.weblio.jp/content/%E8%83%8C%E5%BA%83 (日本での使われ始め)
- Wikipedia「Savile Row」 https://en.wikipedia.org/wiki/Savile_Row (通りの建設・アップル社・2016年の政策。補助的に使用)
- Savile Row Bespoke「21st century history of Savile Row」 https://www.savilerowbespoke.com/about-us/history/21st-century-history-of-savile-row/ (協会の設立とラベル)
- Wikipedia「Gieves & Hawkes」 https://en.wikipedia.org/wiki/Gieves_%26_Hawkes (1番地と探検家。補助的に使用)
- Gieves & Hawkes「History」 https://www.gievesandhawkes.com/pages/history (1番地の購入・社名の統合)
なおした ところ
更新履歴
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