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「理科」って、いつ できた 名前なの?

「理科」という教科名は、明治のいつ、どうやって生まれたのか

明治19年、四つの学習をまとめた「理科」が高等小学校に置かれた

分野:歴史・文化

いま、小学校で ならう 理科。でも 明治めいじの はじめの ころ、小学校の 前半の 4年間には、理科という 勉強は ありませんでした。

「理科」という 名前は、1886年に、国の きまりの 中に はじめて でて きます。どうして、その 名前が うまれたのでしょう。この 記事で、そのわけと、できた ころの 理科の すがたが わかります。

「理科」という名前が法令に初めて現れたのは、1886年(明治19年)です。でも、その理科を習えたのは、小学校の後半にあたる高等小学校の子どもたちだけでした。

それまで別々に教えられていた教科を、なぜ一つにまとめたのでしょうか。「理科」という名前は、どんな場面で決まったのでしょうか。この記事で、その経緯と、生まれたばかりの理科の姿が分かります。

「理科」という学科名が法令に初めて現れたのは、1886年(明治19年)5月25日の文部省令「小学校ノ学科及其程度」である。ところが、その学科が置かれたのは高等小学校だけで、尋常小学校には置かれていない[1]。

では、なぜこの年に、博物・物理・化学・生理を一つにまとめた教科が必要とされたのか。名前は突然現れたのか、現場はどう受けとめたのか。文部科学省の資料などから、その経緯と、設置当初の理科の位置づけが分かる。

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1. 「理科」は、いつ、どうやって うまれたの?

1. 1886年、バラバラだった四つの教科が「理科」になった

1. 1886年5月25日の文部省令 ── 四つの学科が「理科」にまとまる

1886年の 5月25日、国の 文部省もんぶしょうが 「小学校の 勉強は、こう しましょう」と いう きまりを 出しました[1]。その 中に、「理科」という 名前が はじめて 書かれて いました。

それまで、しぜんの ことを 学ぶ 勉強は、いくつにも わかれて いました。はくぶつ、物理、化学、生理です。はくぶつは 動物や 植物や 石の こと、物理は ものの うごきや 力の こと、化学は ものが かわる こと、生理は 人の からだの はたらきの ことです。

これを ひとまとめに して、あたらしく 作った 教科が 「理科」でした[2]。

このとき、国の 学校の しごとを して いたのが、森有礼という 人でした。森有礼もりありのりは、学校の しくみ ぜんたいを 作りなおそうと した 人です[4]。理科は、その 作りなおしの 中で うまれました。

1886年(明治19年)5月25日、文部省は「小学校ノ学科及其程度」という省令を定めました。小学校でどんな教科を、どの程度まで教えるかを決めたものです。この中に、「理科」という学科名が法令として初めて登場します[1]。

新しい教科には、それまで別々に扱われていた自然に関する学習がまとめられました。それまで、自然に関する学習は博物、物理、化学、生理といった形で別々に扱われていました。文部科学省の「学制百年史」は、この四つを統合して理科を新しく設けたことを、このときの改正で注目すべき点としています[2]。

背景には、この年に出た小学校令があります。初代の文部大臣として教育制度全般の改革に着手した森有礼が、その基礎を築いたと説明されています[4]。理科の誕生は、学校の仕組み全体を整える大きな動きの一部でした。

では、理科が生まれる前は、自然のことをどう教えていたのでしょうか。

1886年5月25日の文部省令第八号「小学校ノ学科及其程度」で、高等小学校の学科として「理科」が挙げられた[1]。学制百年史は、このとき博物・物理・化学・生理を統合して理科を新しく設けたことを、学科課程の整備のなかで特に注目すべき点とする[2]。つまり「理科」は、内容を一から作った教科というより、すでに別々に教えられていた学習を、一つの教科にまとめたものだ。

この改正は単独の出来事ではない。同年4月10日に公布された小学校令は、森有礼が計画した教育制度全般の改革に対して基礎を築いたものとされる。森は明治18年に文部大臣となると、就任後ただちに改革に着手している[4]。小学校の学科を定める省令は、この小学校令と対になって出された。理科の設置は、制度の基礎固めの一部として読むのが適切だろう。

ただし、森個人のどの考えが「統合」の決定にもっとも強く働いたのかは、ここで使える資料からは言い切れない。ここでは、制度改革の流れの中に位置づけるところまでを確かな範囲とする。では、統合される前、四つの学習はどのように並んでいたのか。

2. 理科の まえは、どんな 勉強を して いたの?

2. 理科が生まれる前、自然のことはどう教えられていたのか

2. 統合の前、自然の学習は1881年の教則綱領では別々の科目で、イギリスの影響を受けていた

1886年より 5年まえ、1881年にも、小学校の 勉強の きまりが ありました。そこには、地理、れきし、図画、はくぶつ、物理などが、ならんで います[3]。「理科」という 名前は、まだ ありません。

じゃあ、その ころの 人は、しぜんの ことを 何も 学ばなかったのかと いうと、そうでは ありません。はくぶつや 物理と いう 名前で、それぞれ べつに 学んで いました。

もっと まえの 1872年から、日本の 学校の 理科の 勉強は、イギリスの 学校の やりかたを 見ならって いたと いわれます[6]。それで、いろいろな 名前の 勉強が ならんで いたのです。

1886年より前、1881年(明治14年)に定められた「小学校教則綱領」を見ると、小学中等科の学科として、地理、歴史、図画、博物、物理の初歩などが並んでいます[3]。「理科」という科目名は、ここにはありません。自然に関することは、博物や物理などの名前で、それぞれ別に扱われていました。

この時期の初等理科教育は、イギリスから強い影響を受けていたと、学術論文は説明します。1872年(明治5年)の学制の実施以来、イギリスの理科教育が手本とされていました[6]。そのため、イギリス流に科目ごとに分けて教える形が、日本の小学校にも広がっていたと考えられます。

その名前を「理科」にまとめたことは、学ぶ側にとってどんな変化だったのでしょうか。そして、どの学年の子が理科を習ったのでしょうか。

統合以前の状況は、1881年(明治14年)5月4日の文部省達「小学校教則綱領」で確かめられる。小学中等科は、初等科の修身・読書・習字・算術の初歩に、地理・歴史・図画・博物・物理の初歩などを加える構成で、「理科」という科目名は現れない[3]。自然に関する学習は、博物や物理などの個別の科目として扱われていたということだ。

この背景として、国立国会図書館の検索で閲覧できる論文は、1872年(明治5年)の学制の実施以来、日本の初等理科教育がイギリスの理科教育から強い影響を受けていた、と述べる。ハクスリーらのサイエンス・プライマーなど、イギリスの教材の影響も挙げられている[6]。ところが、同じ論文によれば、明治20年代に入るとドイツの教育学からの影響が増し、イギリスからの影響はあまり見られなくなった[6]。理科の設置は、ちょうどこの外国の影響が入れかわる境目の時期にあたる。

ただし、設置が外国の制度の直輸入ではなかったことは、別の研究も指摘する。広島大学の研究紹介は、日本の自然に対する伝統的な考え方なども考慮して、日本の教育の文脈に合わせて日本の教科として成立した、と説明している[7]。四つの学習が一つにまとまった形は、外国の制度をそのまま写したものではなく、日本の側で組み立て直されたものだと読める。

では、この新しい教科は、どの学年に置かれたのか。次の節で、条文そのものを見る。

3. 理科は、小学校の はじめの 4年間には なかったの?

3. 最初の理科は、小学校の後半の学校だけにあった

3. 設置の範囲 ── 高等小学校に週2時間、尋常小学校には置かれず

この 1886年の きまりでは、小学校は 2つに わかれて いました。はじめの 4年間の「じんじょう小学校」と、そのあとの 4年間の「高等小学校」です[4]。

「理科」は、あとの 高等小学校の 勉強に だけ 入って いました。はじめの 4年間の 勉強には、入って いませんでした[1]。

時間は、1週間に 2時間 でした[1]。いまより ずっと すくない ですね。

理科が はじめの 4年間にも 入るのは、それから 20年あまり あとの 1907年(明治めいじ40年)です。小学校の 年数が のびて、高等小学校の 1年と 2年が、はじめの 小学校の 5年と 6年に なった ためです[2]。

1886年の小学校令は、小学校を尋常小学校と高等小学校の2段階に分け、それぞれの修業年限を4年としました。6歳から14歳までの8年間を学齢とし、保護者に子どもへ普通教育を受けさせる義務を課しています[4]。

ところが、「小学校ノ学科及其程度」で理科が挙がっているのは、高等小学校の学科の列だけです。高等小学校の学科は、修身、読書、作文、習字、算術、地理、歴史、理科、図画、唱歌、体操などで、女子には裁縫が加わります。理科の授業時間は週2時間と定められていました[1]。一方、尋常小学校の学科には理科は置かれませんでした。

理科が尋常小学校の教科に加わるのは、1907年(明治40年)の小学校令改正のときです。年限が延びて、高等小学校の第一・二学年が尋常小学校の第五・六学年に移されたため、尋常小学校の教科目に理科が入りました[2]。

設置から約20年のあいだ、尋常小学校の4年間には理科がありませんでした。では、突然置かれたこの教科を、学校の先生たちはどう受けとめたのでしょうか。

設置の範囲は、省令の条文から確かめられる。第三条は「高等小学校ノ学科ハ修身読書作文習字算術地理歴史理科図画唱歌体操裁縫女児トス」と定め、理科は高等小学校の学科の中に挙がる。尋常小学校の学科は修身・読書・作文・習字・算術・体操などで、理科は含まれない[1]。授業時間は、高等小学校の理科が週2時間と明記されている[1]。

この二段階の制度は、同年の小学校令にもとづく。小学校は尋常と高等に分かれ、修業年限はいずれも4年、児童6歳から14歳までの8年間を学齢として、父母・後見人にその児童に普通教育を受けさせる義務を課した[4]。つまり、義務として定められた学齢の前半4年間に、理科は含まれなかった。

尋常小学校の教科に理科が入るのは、1907年(明治40年)である。学制百年史によると、年限延長にともない高等小学校の第一・二学年が尋常小学校の第五・六学年に移され、尋常小学校の教科目に理科が入った[2]。理科が尋常小学校に置かれた理由として確かめられるのは、この年限の再編までで、それ以前に尋常小学校の子がどんな形で自然を学んでいたのかは、ここで使える資料には具体的に書かれていない。

このような設置の形は、現場にどんな影響を与えたのか。次の節で、教える側に目を向ける。

4. 先生たちは、「理科」と いう 名前に こまらなかったの?

4. 突然現れた教科名に、先生たちは戸惑ったと伝えられている

4. 現場の反応と教科書 ── 戸惑いと、学校ごとの教授細目

それまで はくぶつや 物理と いう 名前で 教えて いた 先生たちに とっては、「理科」と いう 名前は、きゅうに 出て きた ものでした。先生たちは とても こまった、と つたえられて います[5]。

教科書は、国が 見て ゆるした ものだけを つかう ことに なりました。1886年の 小学校の きまりで、そう 決まった のです[8]。

この ころの 学校では、校長先生や 先生が、どの 勉強を いつ どこまで 教えるかを、学校ごとに 細かく 決めて いました[2]。同じ 「理科」でも、学校によって 中身は ちがって いたかも しれません。

東書文庫のコラムは、「理科」という教科名は法令の中に突然現れたので、現場の先生たちは戸惑った、と伝えています[5]。博物や物理など、別々の名前で教えてきた先生にとっては、新しい名前の教科が急に出てきたことになります。

制度の面では、二つの決まりがありました。1886年の小学校令では、小学校の教科書は文部大臣の検定したものに限られると定められました[8]。また、各学校の校長や首席教員は、小学校教則に従って、その学校で教える各教科の教授細目を定めることとされていました[2]。

つまり、国が教科の名前と大枠を決め、その中身の細かな組み立ては、学校ごとに考えられる仕組みでした。ただし、そのときの各校の具体的な授業の様子までは、ここで使える資料からは分かりません。

教科の名前と大枠が決まったあと、国は「理科で何をめざすのか」をどう書いたのでしょうか。

東書文庫の解説は、「理科」という教科名は法令の中に突然現れたため、現場の教員は非常に戸惑った、と伝える[5]。同じ教員が、これまで博物・物理・化学・生理を別々に扱ってきたのだから、一つの名前にまとめられても、授業の進め方がすぐに決まるとは限らなかっただろう。この点は、伝聞として読むべきで、戸惑いの程度を数字で示す資料はここでは使えない。

制度面の支えは二つあった。一つは教科書である。1886年の小学校令は、小学校の教科書を文部大臣の検定したものに限ると定めた[8]。もう一つは教授細目で、学制百年史は、小学校長もしくは首席教員が小学校教則にしたがい、その学校で教える各教科目の教授細目を定めるとする[2]。教科の大枠は国が決め、その中身の細部は学校ごとに決まる、という分担である。

この分担のもとでは、同じ「理科」でも学校ごとに中身が異なった可能性がある。ただし、それを裏づける各校の実例は、ここで使える資料に含まれていない。

設置の5年後には、理科が何を目的とするのかが、はじめて明確に書かれた。

5. 理科は、何の ために 勉強するの?

5. 5年後の1891年、国は理科の目的を書きあらわした

5. 1891年の小学校教則大綱は、観察を精密にし、天然物を愛する心を養うことを理科の要旨とした

理科が できて 5年あと、1891年(明治めいじ24年)の 国の きまりに、こんな ことが 書かれました。

「ふつうに ある、しぜんの ものや できごとを、よく 見る。そして、それが、おたがいや 人の くらしと どう かかわって いるかを、だいたい わかる。あわせて、しぜんの ものを すきに なる 心を そだてる」[5]。

ここで だいじなのは、「よく 見る」と いう ことと、「すきに なる」と いう ことです。

むずかしい 言葉を おぼえる ことより、まず しぜんを じっくり 見て、すきに なって ほしい。1891年の きまりには、そう いう 心を そだてる ことが 書かれました。

理科の目的と内容が明確に規定されたのは、設置から5年後、1891年(明治24年)の「小学校教則大綱」でした。東書文庫の解説によると、理科の要旨は、ふつうの天然物と現象の観察を精密にし、その相互の関係と人の生活とのつながりの大要を理解させること、あわせて天然物を愛する心を養うこと、とされています[5]。

ここで目を引くのは、「観察を精密にする」ことと「天然物を愛する心を養う」ことが並んで書かれている点です。知識を覚えさせる前に、まず自然をよく見ることが、最初に置かれていました。

5年前の1886年に生まれたばかりの教科は、名前と時間の枠だけで出発し、何のために学ぶのかは、その後に言葉にされていったことになります。

理科の目的と内容が明確に規定されたのは、1891年(明治24年)の小学校教則大綱においてである。東書文庫の解説が引く要旨は、「通常ノ天然物及現象ノ観察ヲ精密ニシ其相互及人生ニ対スル関係ノ大要ヲ理会セシメ兼ネテ天然物ヲ愛スルノ心ヲ養ウ」というものだ[5]。観察の精密さ、事物と人生との関係の大要の理解、天然物を愛する心の三つが並んでいる。

注目したいのは、設置時の1886年には、学科名と授業時間が条文に書かれたにとどまり、「何のための教科か」はこの5年後になってようやく言葉にされた、という順序である。つまり、名前が先に置かれ、目的はあとから定められた。現場が戸惑ったのは、この順序とも無関係ではなかったのかもしれない。ただし、この因果を直接述べる資料は、ここでは使えない。

同じ時期、外国の影響も変わっていた。先に見た論文によれば、1887年以降、ドイツの教育学からの影響が増し、イギリスの影響はあまり見られなくなった[6]。要旨にある「観察」や「愛する心」という言葉が、どの国のどの考えと結びつくのかは、ここで使える資料からは断定できない。

ここで使える資料から確かに言えるのは、1886年の名前の誕生と、1891年の最初の目的の文章までである。その後の変遷は、別の資料で追う必要がある。

6. 自分の 理科の 教科書で、たしかめて みよう

6. 理科の教科書の目次に、四つの教科の名残を探す

6. 手元の教科書と原典で確かめられること

自分の 理科の 教科書を 開いて、目次を 見て みましょう。動物や 植物の 話は、むかしの「はくぶつ」に にて いませんか。ものの うごきや、ひかりの 話は、「物理」に にて います。

人の からだの 話は 「生理」、ものが かわる 話は 「化学」に にて います。

むかしの 四つの 勉強に にた 話を、いまの 理科の 中から さがして みると おもしろいですよ。にて いても、むかしと 同じ 中身とは かぎりません。

家の 人や 先生に、むかしの 理科の 時間の ことを 聞いて みるのも いい ですね。

自分の理科の教科書を開いて、目次を見てみましょう。動物や植物の話は博物、ものの動きや光や音の話は物理、物質の変化の話は化学、人の体のはたらきの話は生理に近い内容として、見当をつけてみます。近い内容を探す遊びのようなものです。似ていても昔と同じ中身とは限らないので、実際にどう変わったかは、原典と比べて確かめられます。

もう一つ、家の人や学校の先生に、昔の理科の授業で覚えていることを聞いてみるのも手です。理科の時間の過ごし方は、世代によって違うことがあります。

原典に当たりたいときは、文部科学省のサイトで「小学校ノ学科及其程度」の条文や、学制百年史の学科課程の章を読めます。「高等小学校ノ学科ハ…」という条文が、どんな言葉で並んでいるかを自分の目で確かめられます[1][2]。

確かめられる観点を三つ挙げる。第一に、手元の理科教科書の目次を、博物・物理・化学・生理に近い内容で分けてみること。これは似た内容を探す作業で、似ていても当時と同じ中身とは限らない。実際の変化は、原典と比べて初めて分かる。第二に、設置当初の理科が週2時間で、高等小学校にだけ置かれていた事実[1]と、今の授業時間・学年を比べること。

第三に、原典を読むこと。「小学校ノ学科及其程度」と「小学校教則綱領」は、文部科学省の学制百年史の資料編で条文を読める[1][3]。統合前の1881年と統合後の1886年の学科の並びを、自分の目で比べると、どの名前が消え、どの名前が現れたかが分かる。

設置の理由として、森有礼個人の考えや、尋常小学校の子が理科以前にどのように自然を学んでいたかは、ここで使えた資料には書かれていない。そこを調べたくなったら、学制百年史や関連の論文が出発点になる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

条文・制度の説明は文部科学省の資料、設置後の様子と外国の影響は東書文庫のコラムや論文などによる。

  1. 文部科学省「小学校ノ学科及其程度(抄)(明治十九年五月二十五日文部省令第八号)」 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318012.htm (理科の登場・高等小学校の学科・週2時間)
  2. 文部科学省「学制百年史 四 学科課程の整備」 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317623.htm (四科の統合・1907年の尋常小学校への理科・教授細目)
  3. 文部科学省「小学校教則綱領(抄)(明治十四年五月四日文部省達第十二号)」 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318010.htm (統合前の科目の並び)
  4. 文部科学省「学制百年史 一 小学校令の制定」 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317616.htm (森有礼・小学校令・尋常と高等の二段階・学齢)
  5. 東書文庫「明治時代小学校理科教科書~ITの夜明け」 https://www.tosho-bunko.jp/column/history/column02.html (現場の戸惑い・1890年の理科の要旨)
  6. 「明治19年の「理科」設置までの初等理科教育と理化生徒実験振興に特徴づけられる大正前期の理科教育との関連について」 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000136-I1390023007561243904 (イギリス・ドイツの影響)
  7. 広島大学「理科とは何か、なぜそれを学ぶのか? ― 比較教育史的アプローチからの解明 ―」 https://www.hiroshima-u.ac.jp/HU_research/isozaki (日本の文脈に合わせた教科としての成立)

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