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ここに書いてあることは、誰かが実際に手を動かして調べ、考え、作り上げてきたものを拾い集めています。専門の本や論文、作品、そしてそれを生み出した人たち。気になったことがあれば、ぜひそのおおもとに直接ふれてみてください。このメモには書ききれない熱を、感じてもらえると思います。

みちに ならぶ 木は、だれの ために うえられたの?

道ばたの並木は、だれのために植えられたのか ── 銀座の柳から奈良時代の果樹まで

街路樹はなぜ植えられたのか ── 銀座の柳、奈良時代の果樹並木、東京の100万本まで

分野:歴史・文化

まちの みちに、木が ずらっと ならんで いる ところが あるよね。あの 木は、どうして うえられたのだろう。

東京の 銀座ぎんざの みちに、さいしょに うえた 木は、うまく そだたなかった。そこから、奈良ならの じだいの 旅人の 木、江戸えどの 松まつと 杉すぎ、いまの まちの 木まで、木の しごとが どう かわって きたのかを、たどって みよう。

1874年、東京の銀座通りに、クロマツとサクラが並べて植えられた。東京で最初の、近代的な街路樹だ[1]。ところが、この木はうまく育たず、のちに柳へ植えかえられた。

道に木を並べるのは、そもそも何のためなのか。旅人のためか、街の見た目のためか。調べていくと、奈良時代の果樹、江戸の松や杉、日光の杉並木、東京の苗木づくり、車の時代と、木に頼まれる仕事が時代ごとに変わっていた。その移り変わりをたどる。

1874年(明治7年)、東京の銀座通りに、クロマツとサクラが並べて植えられた。東京都建設局の年表は、これを東京で初めての近代的な街路樹としている[1]。ところが、この木は思うように育たず、のちに柳(シダレヤナギ)へ植えかえられた[1][5]。

では、道に木を並べるのは、そもそも何のためだったのか。旅人のためか、街の見た目のためか。奈良時代の果樹並木、江戸の街道の松や杉、日光杉並木、東京市の苗木づくり、車の時代まで、木に頼まれる仕事は時代ごとに変わってきた。その変化を、国や自治体の資料でたどる。

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1. 銀座ぎんざの 木は、どうして かれたの?

1. 銀座の最初の並木は、うまく育たなかった

1. 銀座の最初の並木 ── クロマツとサクラは育たなかった

いまから 150ねんほど まえ、東京の 銀座ぎんざに、はば 27メートルほどの 大きな 道が できた。あるく 人の 道と、くるまの 道を わけて、道の りょうがわに 木を うえる。外国の まちを まねた けいかく だった[2]。

うえられたのは、松まつや 桜さくらの 木。ところが、あまり そだたなかった。かわりに うえた 柳やなぎは、よく そだった[3]。なぜ 松まつや 桜さくらは だめだったのかは、しりょうに よって、「土が しめって いる」「風と ほこりが ひどい」と、せつめいが ちがって いる。

それなら、みちに 木を ならべるのは、もともと なんの ためだったのだろう。

1872年(明治5年)、銀座一帯が大火で焼けると、政府は街を煉瓦造に建てなおす計画を立てた。大通りの幅は当時としては画期的な15間(約27メートル)。歩道と車道を分け、街路樹を植える。西洋の街を手本にした計画だった[2]。

1874年に植えられたのは、東京都の年表ではクロマツとサクラだ[1]。根づいたのは柳だけだった、と中央区観光協会は紹介している。松や桜、楓なども植えられたが、風とほこりの多い環境に合わなかったという[3]。別の紹介は、銀座が埋立地で水分の多い地盤だったことをあげ、湿った土に強い柳に植えかえたと書いている[4]。理由の説明も、植えかえの年(東京都は明治13年ごろ、別の資料は1884年)も、資料によって少しちがう。

西洋風の街をつくるために置いた木を、土地のほうが選びなおした。では、道に木を並べる習慣は、いつからあったのか。

1872年(明治5年)の大火のあと、政府は銀座一帯を煉瓦造の街に建てなおす計画を立てた。大通りの幅は、当時としては画期的な15間(約27メートル)。歩道と車道を分け、街路樹を植える。御雇外国人フロランの意見を採り入れた計画だった[2]。日本の街に、西洋式の「歩道つきの並木道」をつくろうとしたわけだ。

1874年に植えられたのは、東京都建設局の年表ではクロマツとサクラである[1]。中央区観光協会は、根づいたのは柳だけだったと紹介している。松や桜、楓なども植えられたが、風とほこりの多い環境の中ですぐに枯れたという[3]。銀座六丁目すずらん通りのコラムは、銀座が埋立地で水分の多い地盤だったことをあげ、湿った土にも強い柳に植えかえたと書く[4]。枯れた理由の説明も、植えかえの年(東京都の年表は明治13年ごろ[1]、Wikipedia は1884年[5])も、資料によって食いちがう。

西洋風の街をつくるために置いた並木を、土地のほうが選びなおしたように見える。ただし、道に木を並べること自体は、日本では銀座が最初ではない。

2. ならの じだいの 木は、くだものの 木だった

2. 奈良時代の並木は、実を食べられる木だった

2. 奈良時代の街道並木 ── 759年の太政官符と、旅人の飢え

いまから 1200ねん いじょう まえ、奈良ならの じだい。おかみは、みやこと 地方を つなぐ 大きな 道の りょうがわに、くだものの なる 木を うえる ことを きめた[6]。

この 木を うえたら いい、と いった のは、普照ふしょうと いう おぼうさん。道は 人が いつも とおる。木が あれば、木の そばで やすめる。夏は あつさを さけられる。おなかが すいたら、木の みを とって たべられる。そう つたえたと いわれる[5]。

さいしょの 並木なみきは、日かげと おやつを くれる 木だった。

759年(天平宝字3年)、朝廷は、都と地方を結ぶ官道の両側に果樹を植えることを、太政官符(太政官の出す命令書)で決めた。街道の並木のはじまりとされる[1][6]。

きっかけは、東大寺の僧・普照の申し出だったという[6]。普照は、遣唐使とともに唐へ渡り、754年に帰国した僧で、唐の並木のようすも伝えた。人が絶えず通る道に木があれば、木のそばで休めて夏の暑さをしのげるうえ、腹がへったときは果樹の実で飢えをしのげる、という趣旨だ[5]。東京都は、旅人の安全と快適な交通を確保するための並木だったと説明する[1]。

並木そのものは、もっと古い。『日本書紀』には、敏達天皇のころ(6世紀後半)に難波の街路にクワが植えられたとある。滋賀県大津市の穴太遺跡では、6世紀末から7世紀初めと推定されるモモの木の列の跡が見つかった[7]。

759年(天平宝字3年)、朝廷は、都と地方を結ぶ官道(駅路)の両側に果樹を植えることを、太政官符(太政官が出す公式の命令書)で決めた。街道の並木のはじまりとされる[1][6][7]。

きっかけは、東大寺の僧・普照ふしょうの申し出だという[6]。Wikipedia によると、普照は遣唐使に同行して唐へ渡り、754年に帰国した僧で、唐の並木のようすも報告した。その趣旨は、人が絶えず往き来する道に木があれば、木のそばで休んで夏の暑さをしのげ、飢えたときには果樹の実で腹を満たせる、というものだ[5]。東京都は、旅人の安全と快適な交通の確保が目的だったと整理している[1]。

並木そのものは、もっと古い。国立国会図書館のレファレンス協同データベースに載った福岡市総合図書館の回答によると、『日本書紀』には敏達天皇(在位572〜585年)のころ、難波の街路にクワが植えられたとある。滋賀県大津市の穴太遺跡では、6世紀末から7世紀初めと推定されるモモの木の列の跡が見つかっている。都の中では、藤原京から平安京にかけて、タチバナ、ヤナギ、サクラ、エンジュなどが植えられていたようだ[7]。

3. 江戸えどの 道の 木は、どんな しごとを した?

3. 江戸の街道の松と杉 ── 木には4つの仕事があった

3. 江戸の街道並木 ── 松・杉・榎と、並木の4つの役目

江戸えどの じだいに なると、おかみは、東海道などの 道の りょうがわに、松まつや 杉すぎを うえさせた[6]。

木の しごとは いくつも あった。夏は 日かげを つくる。冬は 風や 雪から 旅人を まもる。道が 雨や 日ざしで いたむのを ふせぐ。雪で 道が わからなく なった ときは、並木なみきに そって あるけば まよわない[6]。雪の 日の 手すりみたいな もの。ただし ほんとうの 手すりと ちがって、つかまる ことは できない。

木は、土地に あう ものが えらばれた。神奈川県かながわけんの 東海道では、海ぞいは 松まつ、箱根は 杉すぎだった[6]。

江戸幕府も、街道に並木を植えさせた。幕府が開かれた翌年の1604年(慶長9年)に、街道の両脇へ松や杉を植えたという記録がある。東海道をはじめ、諸国の街道が対象だった[6]。国土交通省の道の歴史の資料は、1605年に徳川秀忠の命で一里塚と並木を整えたとしている[9]。年は1年ずれるが、江戸のはじめに街道を整えるなかで並木が植えられた点は同じだ。

並木には4つの仕事があった。夏は旅人が休める木陰になり、冬は風や雪をやわらげる。雨や日ざしで道がいたむのを防ぎ、道しるべにもなった。民俗学者の柳田国男は、雪で道が見えなくなっても、並木をたどれば迷わないと指摘したという[6]。

日本橋から一里ごとに道の両側につくられた一里塚には、主に榎えのきが植えられた。榎が選ばれた理由は諸説あるが、成長が早く、枝葉がよく茂り、根が深く広がって塚を崩さないからと考えられている[8]。

木は土地に合わせて選ばれた。神奈川県内の東海道では、川崎宿から箱根宿までの約60%の区間に並木があり、海沿いの道には松、箱根には杉が植えられた[6]。銀座で最初の木が育たなかった話と並べると、土地に合う木を選ぶことが、並木の前提だったように見える。

江戸幕府も、街道に並木を植えさせた。幕府が開かれた翌年の1604年(慶長9年)に、街道の両脇へ松や杉を植えたという記録がある。東海道をはじめ、諸国の街道が対象だった[6][8]。国土交通省の「道の歴史」は、1605年(慶長10年)に徳川秀忠の命で一里塚を築き並木を植えたとする[9]。年は1年ずれるが、江戸のはじめに街道を整える事業のなかで並木が植えられた点は共通する。

国土交通省の関東地方整備局は、並木の役目を4つ挙げる。夏は旅人の休む木陰になり、冬は風や雪をやわらげる。雨や日ざしから道そのものを守り、道の目印にもなる。目印の点は民俗学者の柳田国男の指摘によるもので、雪で道が見えなくなっても、並木に沿って歩けば迷うことがなかったという[6]。奈良時代の「日かげと食べ物」に、道を守る仕事と道しるべの仕事が加わっている。

日本橋を起点に約1里(約4キロメートル)ごとに、街道の両側に一対で築かれた一里塚には、主に榎えのきが植えられた。榎が選ばれた理由には諸説あるが、成長が早く、枝葉がよく茂り、根が深く広がって塚を崩さないためと考えられている[8]。

木は、土地に合わせて選ばれた。神奈川県内の東海道では、川崎宿から箱根宿までの約60%の区間に並木があり、海沿いの道には松、箱根には杉が植えられた[6]。銀座の煉瓦街で最初の木が育たなかった話と並べると、土地に合う木を選ぶことが、並木の前提だったように見える。

4. 20ねんかけて うえた 杉すぎ、なぜ?

4. 日光杉並木 ── 理由がわからない並木

4. 日光杉並木 ── 20年あまりかけて植え、なぜ植えたかが分かっていない並木

日光にっこうの 道には、杉すぎの 並木なみきが 35キロメートル いじょう つづいて いる。うえたのは、松平正綱まつだいらまさつなと いう 人。20ねん いじょう かけて、1648ねんに、東照宮とうしょうぐうに おくった[10]。

でも、どうして 杉すぎを おくったのか、どうして 杉すぎだったのかは、のこった しりょうでは わからない。「家康いえやすに おんを かえす ため」「ご神木が 杉すぎだから」と いった せつが あるだけ[11]。

そのころ 1万6千本 ほど あった 杉すぎは、いまは 1万2千5百本 ほど。台風や 病気や 寿命じゅみょうで、へって いった[10]。

街道の並木のなかには、道を使う人のためだけではない目的で植えられたものもある。栃木県の日光杉並木だ。徳川家康に仕えた松平正綱まつだいらまさつなが、20年あまりかけて杉の苗木を植え、家康の33回忌にあたる1648年(慶安元年)に日光東照宮へ寄進した[10]。植えはじめは1620年代なかばと推定されている[11]。

正綱は完成を見ずに、同じ年の6月に73歳で亡くなり、子の正信が跡を継いで寄進碑を建てた[11]。

なぜ寄進したのか、なぜ杉を選んだのかは、資料が残っておらず、はっきりしない。家康への恩返しとする説、幕府の直轄地だった日光の範囲を示すためとする説、もともと日光に杉が多く、ご神木だったからとする説などがある[11]。

当時は1万6千本あまりあった杉は、台風などの災害、立ち枯れ、寿命で、いまは約1万2千5百本になった。並木の長さは、国の指定では37キロメートル、ギネスブックに認定されている長さは35.4キロメートルだ[10]。

街道の並木のなかには、道を使う人のためだけではない目的で植えられたものもある。栃木県の日光杉並木だ。栃木県によると、徳川家康に仕えた松平正綱まつだいらまさつなが、20年あまりの年月をかけて杉の苗木を植え、家康の33回忌にあたる1648年(慶安元年)に東照宮へ寄進きしんした[10]。植えはじめの時期は、1620年代なかばと推定されている。手がかりは2つある。幕府の記録『大猷院実記』の、正綱が加増を受けた1624年ごろの条に、日光の駅路に今年杉を植えたという趣旨の記述があること。そして、1648年の寄進碑に「歴二十余年」と刻まれていることだ[11]。文化庁の「文化遺産オンライン」は、日光東照宮への参詣道として江戸時代初期に整備された街道で、以後、幕府の手で厚く保護されたと解説する[12]。

正綱は完成を見ずに、1648年6月に73歳で亡くなった。子の正信が跡を継いで、寄進碑を建てている[11]。

なぜ寄進したのか、なぜ杉を選んだのかは、資料が残っておらず、はっきりしない。寄進の理由としては、家康への恩返しとする説や、幕府の直轄地だった日光の範囲を示すためとする説が、杉を選んだ理由としては、杉への信仰などを考慮したとする説や、もともと東照宮のあたりに杉が多かったからとする説が唱えられている[11]。少なくともこの並木には、道を使う人の役に立つ木という面のほかに、人に贈る木という面があった。

400年近くたって、当時は1万6千本あまりあったといわれる杉は、台風などの災害、立ち枯れ、寿命で約1万2千5百本になった。長さは、国の指定では37キロメートル(途切れている寄進碑の区間も含む)、ギネスブックに認定された長さは並木だけを測った35.4キロメートルである[10]。

5. 東京は、木を 「そだてて」から うえた

5. 東京市は、街路樹用の苗木を育てはじめた

5. 東京市の苗木づくり ── 1907年の10種類と、関東大震災

明治めいじの 終わりごろ、東京の 市は、道に うえる ための 木の なえを、じぶんで そだてはじめた。イチョウや スズカケノキ など、10しゅるい[1]。

木は、だんだん ふえた。でも 1923ねんの 関東大震災かんとうだいしんさいの 火事で、半分より おおくが やけて しまった。そのあと、木が 火を ふせぐ はたらきを する ことも みとめられて、また うえられて いった[1]。イチョウの くわしい はなしは、イチョウの メモに ある。

銀座ぎんざの 柳やなぎは、その あと どう なったのだろう。1921ねんに、くるまの 道を かためる ためなどで、イチョウに かえられた。でも 柳やなぎを なつかしむ 声が 大きくて、歌にも なった。いまの 柳やなぎは、まちの 人が そだてた 「二せい」だ[3]。

1907年(明治40年)、東京市は街路樹用の苗木を育てはじめた。イチョウやスズカケノキなど10種類だ。1910年には、下谷の御徒町通りを皮切りに、育てた木を毎年3,000本ずつ植える計画がはじまり、1919年ごろには市内の主な道路のほとんどに街路樹が植えられて、関東大震災の前には約25,000本になった[1]。

1923年の関東大震災で、その過半数が焼けて約10,000本になった。1927年(昭和2年)、街路樹の防災上の働きが認められ、帝都復興事業で植栽が再開された[1]。イチョウが火に強いといわれる話は イチョウのメモで扱っている。

銀座の柳はどうなったか。大正10年(1921年)、東京市が車道の舗装などを理由にイチョウへ植えかえた[4]。ところが柳を惜しむ声は強く、銀座の柳を懐かしむ歌詞の『東京行進曲』が流行して、柳並木はいったん復活した。その後、道路の拡張や大火で姿を消したが、いまの柳は地元の人たちが育てた「柳二世」で、西銀座通りなどに植えられている[3]。

1907年(明治40年)、東京市は街路樹用の苗木の育成に着手した。イチョウ、スズカケノキなど10種類である[1]。Wikipedia は、この10種をスズカケノキ、イチョウ、ユリノキ、アオギリ、トチノキ、トウカエデ、エンジュ、ミズキ、トネリコ、アカメガシワとしている[5]。1910年(明治43年)には、下谷の御徒町通りを皮切りに、育てた木を毎年3,000本ずつ植える計画がはじまり、1919年(大正8年)ごろには市内の主な道路のほとんどに街路樹が植えられて、震災前には約25,000本になった[1]。この時期から、苗を育てて計画的に植えていく取り組みが始まった。

1923年(大正12年)の関東大震災で、その過半数が焼失し、約10,000本になった。1927年(昭和2年)、街路樹の防災上の働きが認められ、帝都復興事業で植栽が再開された[1]。イチョウが火に強いといわれる話は イチョウのメモで扱っている。

銀座の柳は、その後どうなったのか。すずらん通りのコラムによると、1921年(大正10年)に東京市が車道の舗装などを理由にイチョウへ植えかえた[4]。中央区観光協会の説明では、柳を惜しむ声が強く、銀座の柳を懐かしむ歌詞の『東京行進曲』が流行して柳並木は復活したが、その後の道路拡張や大火で姿を消した。現在の柳は、街の人たちの尽力で育てられた「柳二世」で、西銀座通りなどに植えられている[3]。1984年(昭和59年)に銀座へ柳が戻ったと紹介する資料もある[4]。

役に立つかどうかとは別に、ある木が街の顔として惜しまれることがある。

6. 車が ふえて、木の しごとも ふえた

6. 車の時代に、街路樹の仕事は増えた

6. 車の時代の街路樹 ── 公害対策から二酸化炭素の吸収まで

1964ねんの 東京オリンピックの ころ、東京では 道の 木が ぐんと ふえた。そのあと、くるまの 音や 排気はいきガスや ほこりが もんだいに なった。木は、それを やわらげる ことも たのまれた[1]。

いまの 木の しごとは、日かげ、きれいな けしき、あんぜんな 交通、さいがいの ときの ひなん道、鳥や 虫の すみか、と たくさん ある[14]。

日本ぜんたいの 道には、高さ 3メートル いじょうの 木が、およそ 629万本 ある。いちばん おおい 木は イチョウと サクラで、どちらも およそ 52万本[15]。

1964年の東京オリンピックをきっかけに、東京の街路樹は飛躍的に増え、1965年には約11万2千本になった。昭和40年代には、自動車の騒音、排気ガス、粉じんなどの公害対策の一つとして、道路の緑の必要性が叫ばれるようになった[1]。

東京都は、街路樹の役割として、夏の日ざしをさえぎり排気ガスや騒音をやわらげること、避難する道の安全を守ること、ドライバーの視線を導き街の目印になること、季節の移り変わりを見せること、野鳥や昆虫を呼ぶことをあげる[14]。国の研究所は、緑陰、景観、環境の保全、交通安全、防災、地域の活性化をあげる[15]。奈良時代の「日かげと食べ物」から、ずいぶん増えた。

2022年3月末の調査では、国、都道府県、市町村などが管理する道路の街路樹(高さ約3メートル以上)は、全国で約629万本。1987年の約371万本から、2002年の約679万本まで1.8倍に増えたが、その後は横ばいから減少に転じた[15]。

多い木は、イチョウとサクラ類がともに約52万本、ケヤキが約45万本、ハナミズキが約35万本、トウカエデが約30万本の順だった。地域ごとに特色があり、北海道はナナカマド、関東はハナミズキ、近畿はクスノキ、九州はクロガネモチ、沖縄はフクギが目立つ[15]。江戸の街道と同じで、いまも木は土地に合わせて選ばれている。

1964年の東京オリンピックを契機に、東京の街路樹は飛躍的に増え、1965年(昭和40年)には約11万2千本になった。昭和40年代には、自動車の騒音、排気ガス、粉じんなどの公害対策の一つとして、道路の緑の必要性が叫ばれるようになる。1972年(昭和47年)には学識経験者による「街路樹等調査委員会」が設置され、道路緑化の基準が制定されて、植栽可能な道路の96%が緑化された、と東京都の年表にある[1]。

東京都建設局は、街路樹の役割として、夏の日ざしをさえぎり排気ガスや騒音をやわらげること、避難する道の安全を守ること、ドライバーの視線を導き街の目印になること、季節の移り変わりを伝えること、野鳥や昆虫を呼び心にやすらぎを与えることをあげる[14]。国土技術政策総合研究所の資料は、道路緑化の目的を、緑陰や良好な景観の形成、生活環境と自然環境の保全、交通安全、防災、地域の活性化など多岐にわたるとし、2008年からは、京都議定書の「植生回復」活動に街路樹植栽などの都市緑化が位置づけられたことから、街路樹による二酸化炭素の吸収量を条約事務局へ報告する算出根拠にも使われていると述べる[15]。奈良時代の「日かげと食べ物」から、役目は大きく増えている。

東京都は、2007年(平成19年)に街路樹を約48万本から100万本に倍増する目標を示し、2008年から事業を進めた[1]。日本森林学会大会の発表要旨によると、2016年末に100万本に達した[13]。

全国の数字も見ておく。国総研がまとめた全国調査(2022年3月末)で、国・都道府県・市町村・地方道路公社が管理する道路の高木(主として樹高3メートル以上)は約629万本。1987年の約371万本から2002年の約679万本まで約1.8倍に増えたあと、2012年までは横ばい、2022年までの10年間は減少に転じ、ピーク時から約50万本減った。多い樹種は、イチョウとサクラ類がともに約52万本、ケヤキ約45万本、ハナミズキ約35万本、トウカエデ約30万本の順で、地域ごとに、北海道のナナカマド、関東のハナミズキ、近畿のクスノキ、九州のクロガネモチ、沖縄のフクギなどの特色がある[15]。街道の松と杉が箱根と海沿いで使い分けられたのと同じ形で、いまも木は土地に合わせて選ばれている。

7. 木は 大きく なると、こまる ことも ある

7. 植えたあとの宿題 ── 木は大きくなり、年をとる

7. 植えたあとの宿題 ── 倒木と点検、大きくなった木をどうするか

木は、うえて おわりでは ない。大きく なった 木は、台風で たおれる ことが ある。2018ねんから 2022ねんの しらべでは、国や 県や 市が 見て いる 道で、1年に 5000本 ほどの 木が たおれて いた[16]。

だから 東京では、木の 「けんこう しんだん」を している。こまった 木は、はやめに みつけて、なおしたり、きったり する[1]。

日光の 杉すぎも おなじ。台風や 寿命じゅみょうで、5分の 1ほど へって いる[10]。

日かげを つくるのは、大きな 木の ほうが とくい。でも 大きな 木は、たおれた ときの こまりごとも 大きい。

街路樹は、植えて終わりではない。国土交通省が2018年から2022年の5年間を調べたところ、国・都道府県・自治体が管理する道路で、倒れた街路樹は年平均約5,200本。うち台風などの災害によるものが約3,700本、それ以外が約1,500本だった。点検の結果、切った木は年平均約26,700本。倒木による被害として、国が管理する直轄国道では、人が被害を受けた例が1件、物が壊れた例が34件確認されている[16]。

東京都は1998年(平成10年)に、木の健康診断にあたる「街路樹診断」の事業を始めた。事故を未然に防ぐのがねらいだ[1]。2008年以降は、本数をふやす事業のほかに、大きく育った木を再生する「大径木再生大作戦」も進めている[13]。

400年前の日光杉並木も同じ宿題をかかえている。約1万6千本あった杉は、台風などの災害、立ち枯れ、寿命で、約1万2千5百本になった[10]。

日かげは、大きな木のほうがよくつくれる。いっぽう、大きな木は倒れたときの影響も大きい。

街路樹は、植えて終わりではない。育った木は、倒れたり、枝が折れたりする。国土交通省は、国・都道府県・自治体が管理する道路の街路樹(高木)について、2018年から2022年の5年間の倒木を調べた。倒れた木は年平均約5,200本で、うち台風などの災害によるものが約3,700本、それ以外が約1,500本。点検の結果にもとづいて切った木は、年平均約26,700本だった。倒木による被害として、国が管理する直轄国道では、人が被害を受けた例が1件、物が壊れた例が34件確認されている[16]。

東京都は1998年(平成10年)に、木の健康診断にあたる「街路樹診断」の事業を始めた。事故などを未然に防ぐ効果があるという[1]。2008年以降は、本数をふやす「街路樹の充実」事業と、大きく育った木を再生する「大径木再生大作戦」事業を進めている[13]。

400年前の日光杉並木も、同じ宿題をかかえている。当時は1万6千本あまりあったといわれる杉が、台風などの災害、立ち枯れ、寿命で約1万2千5百本になった[10]。

日かげは、大きな木のほうがよくつくれる。いっぽう、大きな木は倒れたときの影響も大きい。

8. あなたの まちの 木は、だれの ための もの?

8. 自分の町の並木は、だれのために植えられたのか

8. 自分の町の並木は、どの困りごとに答えて植えられたのか

ここまでの 木は、いろいろな 「こまりごと」に こたえて うえられて きた。おなかが すいた 旅人。雪の 日の 道。火事から まちを まもる こと。くるまの 音や ほこり。

あなたの まちの 並木なみきは、どの こまりごとに 近いかな。おうちの 人と あるいて、手がかりを さがして みよう。

  • ふるい 道に そって、太くて ふるそうな 松まつや 杉すぎが ずっと つづいて いたら、むかしの 大きな 道の なごりかも しれない。
  • ひろい 大どおりに、おなじ 木が ながく ならんで いたら、まちを つくる ときに、まとめて うえたのかも しれない。
  • とおりごとに 木の しゅるいが ちがったら、うえた ときや わけが、とおりごとに ちがうのかも しれない。

木の 名前は、はっぱの かたちや 実から しらべられる。名前が わかったら、まちの ホームページで、なにが うえて あるか さがして みよう。うえた わけまで 書いて ない ことも あるので、そのときは、その 道が いつごろ できたのか、ちずから かんがえて みよう。

安全のために

見るのは 歩道ほどうの 上から。くるまの 道には 出ない。あるきながら スマホを 見ない。風の 強い 日や、台風の あとは、木の 下に 立ちどまらない。

ここまでの並木は、飢えた旅人、雪の日の道しるべ、西洋風の道づくり、震災後の防災、車の排気ガスと、時代ごとの困りごとに答えて植えられてきた。自分の町の並木は、どれに近いだろうか。歩道から見える手がかりで、まず予想を立ててみよう。

  • 古い道に沿って、太い松や杉が続いている。江戸の街道並木の名残かもしれない。
  • 広い大通りに、同じ種類の木が長くそろっている。街を整えるとき、まとめて植えたのかもしれない。
  • 通りごとに木の種類がちがう。植えた時期や目的が、通りごとにちがうのかもしれない。

予想は、資料と見比べて確かめる。自治体の道路や公園緑地の担当課のページには、木の種類や本数が載っていることがある。植えた理由までは書かれていないこともあるので、そのときは、その道がいつごろできたのかを地図から考えてみよう。東京都なら建設局の「東京の街路樹」に年表がある[1]。銀座に行けたら、銀座一丁目交差点の近くに、柳の面影を伝える石碑がある[4]。

安全のために

見るのは歩道の上から。車道には出ない。歩きながらスマホや地図を見ない。風の強い日や台風のあとは、木の下で立ち止まらない。

ここまでの並木は、飢えた旅人(奈良時代)、雪の日の道しるべ(江戸)、西洋風の道づくり(銀座)、震災後の防災、車の排気ガスというように、時代ごとの困りごとに答える形で植えられてきた。自分の町の並木は、どの困りごとに近いのか。歩道から見える手がかりで、まず予想を立てる。

  • 古い道に沿って、太い松や杉、榎が続いている。江戸の街道並木の名残かもしれない。
  • 幅の広い大通りに、同じ種類の木が長くそろっている。街を整えるときに、まとめて植えられたのかもしれない。
  • 通りごとに木の種類がちがう。植えた時期や目的が、通りごとにちがう可能性がある。

予想は、資料と見比べて確かめる。自治体の道路や公園緑地の担当課のページに、樹種や本数、管理の方針が載っていることがある。ただ、植えた理由まで書かれていないこともあるので、そのときは、その道がいつごろできたのかを地図から考える。国総研がまとめた全国調査では、地域ごとに多い木がちがい(北海道のナナカマド、関東のハナミズキ、近畿のクスノキなど)[15]、自分の町の木がその地域の特色に合っているかも見られる。東京都なら、建設局の「東京の街路樹」に年表があり、本文で使った出来事の日付を確かめられる[1]。全国の様子は、国総研「わが国の街路樹Ⅸ」の概要のグラフで見られる[15]。銀座に行けるなら、銀座一丁目交差点や八丁目交差点の近くに、柳の面影を伝える石碑や柳並木がある[4]。

安全のために

見るのは歩道の上から。車道には出ない。歩きながらスマホや地図を見ない。風の強い日や台風のあとは、倒木や枝の落下があるので、木の下で立ち止まらない。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

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  1. 東京都建設局「4.街路樹の歴史」(東京の街路樹)。 https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jigyo/park/ryokuka/hyoushi/hyoushi4/index.html (759年の太政官符から2008年の倍増事業までの年表。銀座のクロマツとサクラ、1907年の苗木育成、関東大震災の本数、公害対策、街路樹診断)
  2. 東京都公文書館「銀座煉瓦街関係書類」(web版公文書館の書庫から)。 https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu-archives/07edo_tokyo/0701syoko_kara02 (煉瓦街の計画が、幅15間の大通り、歩道と車道の区別、街路樹の植栽を含み、御雇外国人フロランの意見を採用したものだったこと)
  3. 一般社団法人中央区観光協会「銀座の象徴 柳並木の碑」。 https://www.chuo-kanko.or.jp/pages/other_details/119459 (松・桜・楓などが風塵で育たず柳だけが根づいたこと、大正10年のイチョウへの植えかえ、東京行進曲、柳二世の復活)
  4. 銀座六丁目すずらん通り「銀座コラム vol.5 ご存じですか? 銀座のシンボル「柳の木」」。 https://gin-suzu6.jp/column/vol05/ (埋立地で水分の多い地盤に合う柳への植えかえ、1921年のイチョウへの植えかえ、1984年に柳が戻ったこと、銀座一丁目・八丁目交差点の石碑や柳並木)
  5. Wikipedia「街路樹」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/街路樹 (普照の奏状の内容、1884年のシダレヤナギへの植えかえ、1907年に選ばれた10樹種)
  6. 国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所「街道の並木は、なんのために植えられたの?」(東海道Q&A)。 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index3/answer3.htm (759年の果樹並木と普照、1604年の松・杉、並木の4つの役目、柳田国男の指摘、神奈川県内の東海道の並木)
  7. レファレンス協同データベース「日本で街路樹はいつ頃から植えられるようになったのか。その移り変わりも知りたい」(福岡市総合図書館の回答)。 https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000164636 (『日本書紀』のクワ、穴太遺跡のモモの列植、藤原京から平安京の街路樹、759年の果樹の植栽を、『日本大百科全書』などの図書から紹介したもの)
  8. 国土交通省 中部地方整備局 浜松河川国道事務所「東海道」(国道1号)。 https://www.cbr.mlit.go.jp/hamamatsu/road/route1/toukaidou_detail_02.html (1604年の松並木、夏の木陰と冬の防雪、一里塚と榎、榎が選ばれた理由)
  9. 国土交通省「道路:道の歴史:近世の道」。 https://www.mlit.go.jp/road/michi-re/3-2.htm (1605年に徳川秀忠の命で一里塚を築き、並木を植えたこと)
  10. 栃木県 日光土木事務所「世界に誇る杉並木」。 https://www.pref.tochigi.lg.jp/h53/system/desaki/desaki/1182151825117.html (松平正綱が20年あまりかけて植え1648年に寄進したこと、1万6千本から約1万2千5百本への減少、並木の長さ)
  11. 「日光杉並木の歴史」(日光杉並木/特別天然記念物・特別史跡)。 https://suginamiki.net/history/ (1624年ごろの植えはじめの推定根拠、正綱の死去と正信の継承、寄進の理由と杉を選んだ理由が分かっていないこと)
  12. 文化庁「文化遺産オンライン 日光杉並木街道 附 並木寄進碑」。 https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/204883 (東照宮への参詣道として江戸時代初期に整備された街道で、松平正綱が杉を植え、幕府の手で保護されたこと)
  13. 「東京都における街路樹整備の取り組み」(日本森林学会大会発表データベース、J-STAGE)。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jfsc/134/0/134_243/_article/-char/ja/ (2016年末に東京都の街路樹が100万本に達したこと、2008年以降の「街路樹の充実」「大径木再生大作戦」)
  14. 東京都建設局「3.街路樹の役割」(東京の街路樹)。 https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jigyo/park/ryokuka/hyoushi/hyoushi3/index.html (日ざしをさえぎる、排気ガスや騒音をやわらげる、避難路、交通安全、景観、生きものといった役割の説明)
  15. 国土技術政策総合研究所「国総研資料 第1246号 わが国の街路樹Ⅸ」(2023年)。 https://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn1246.htm (2022年3月末の全国の高木の本数と樹種、1987年からの推移、道路緑化の目的、京都議定書と二酸化炭素の吸収量)
  16. 国土交通省「報道発表資料 街路樹の倒木に関する全国調査結果について」(2023年12月12日)。 https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_001729.html (2018〜2022年の年平均の倒木本数、点検による伐採本数、被害の件数)

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