1. 「たまや〜」と「かぎや〜」は、なにを ほめて いたの?
1. 川の上と下で、観客は何をほめていたのか
1. 掛け声は、両国橋をはさんだ二軒の競演から広まったとされる
むかしの 江戸には、りょうごくばしと いう 大きな 橋が ありました。その 川の 上のほうで 花火を あげたのが「玉屋」、下のほうで あげたのが「鍵屋」です。
二つの おみせは、どちらが きれいな 花火を あげるか、きそい あいました。見て いた 人たちは、いい 花火が あがると、その おみせの 名前を よんで ほめました。それが「たまや〜」「かぎや〜」の はじまりと いわれて います。
玉屋は、鍵屋で はたらいた 人が、のれん分けと いう しくみで 外に 出て、ひらいた おみせです。江戸に 出て から 30年あまりで、花火の ほめ言葉に なるほど 人気に なりました。
江戸の隅田川にかかる両国橋では、川の上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持って、花火を打ち上げました[3]。観客は、いい花火が上がるたびに、その店の名を呼んで声をかけました。「たまや〜」「かぎや〜」の掛け声が、競演から広まったといわれる理由です。掛け声が定着した時期や、実際の声かけの記録は、はっきり分かっていません。
鍵屋は万治2年(1659年)に江戸で創業した老舗で、初代弥兵衛は大和(今の奈良県五條市)の出身と伝わります[4]。玉屋は、その鍵屋で番頭を務めた職人(清七とする資料が多い)が、のれん分けで独立して始めた店です。独立の年には1808年とする説をはじめ、いくつか説があり、場所は両国吉川町、名は玉屋市兵衛でした[4]。
老舗から独立した新しい店が、本家と並ぶほどの人気を得た。ここまでは、いわば順調な出世話です。では、その玉屋は、なぜ江戸にいられなくなったのでしょうか。
両国橋をはさみ、上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つ分担があり、観客がそれぞれの屋号を呼んで声をかけたことが、「たまや〜」「かぎや〜」の由来とされる[3]。ただし、この掛け声がいつ定着したかを示す一次史料は、今回扱った資料の範囲には出てこない。「競演から広まったといわれる」という程度が、言える範囲である。
二軒の関係は、本家と分家に近い。鍵屋は万治2年(1659年)創業の花火屋で、初代弥兵衛は大和国、今の奈良県五條市大塔町の出身と伝わる[4]。玉屋は、この鍵屋の番頭だった職人が、のれん分けで両国吉川町に開いた店である。番頭の名は清七とする資料が多いが、清吉とするものもある。独立年も、文化5年(1808年)とする資料と1810年とする資料があり、揺れる。そのため本稿では「1800年代のはじめ」とだけ扱う[4]。
鍵屋の技を知る番頭が独立し、同じ川で競った。だからこそ観客は二つの名を呼び分けたのだろう。では、この人気の店が、なぜ短い期間で江戸から姿を消したのか。次の章で、その経緯を見る。
2. なぜ たまやは、えどに いられなく なったの?
2. 小さな火事が、江戸からの追放になったのはなぜか
2. 町の半町ほどの類焼が、所払いという重い処分になった事情
1843年に、玉屋は 自分の いえから 火事を 出して しまいました。まわりの 町なみを、50メートルあまり もやした と いわれます。花火の おみせは 火薬を あつかうので、火には とくに きびしい 目が むけられました。
しかも その ころ、しょうぐんが 日光へ おまいりに 行って いる ところでした。そんな 大事な 時に 火事を 出した ので、玉屋は 江戸から おいだされる 重い ばつを 受けました。江戸では、花火の おみせを つづけられなく なったのです。
この 火事で、おみせの 人気が いくら 高くても、ばつは かわりませんでした。玉屋が 江戸で 花火を あげた 年月は、30年あまりと みじかい ものでした。
天保14年(1843年)、玉屋は両国吉川町の自宅から火を出し、町並みの半町ほど(50メートル余り)を燃やしてしまいました[1]。出火の日は、4月17日とする資料と5月17日とする資料があり、そろいません。
火薬を扱う店の失火は、もともと重く見られます。しかもこのときは、12代将軍・徳川家慶が日光東照宮へ参拝する日光社参の最中でした。そのため玉屋は所払い、つまり江戸からの追放を言い渡され、江戸での営業ができなくなったとされます[1]。財産を取り上げる闕所もあったとする資料がありますが、資料によって書き方が分かれます。
玉屋と鍵屋が競い合った期間は、独立の年の揺れもあって、およそ30年余りでした。All Aboutはこの競演を「わずか32年」と表現し、玉屋の名残は掛け声にだけ残った、と述べています[1]。
けれど、ここで「玉屋は終わった」と決めるのは早そうです。追放されたあとの玉屋について、資料の書き方は分かれているからです。
天保14年(1843年)、玉屋は両国吉川町の自宅から失火し、町並みの半町(50メートル余り)ほどを類焼させた[1]。出火日は4月17日説と5月17日説があり、資料間で食いちがう。焼けたのは町並み半町ほどである。それなのに処分が重かったのは、なぜか。
資料が挙げる理由は、時期である。当時は12代将軍・徳川家慶の日光社参の最中で、そこに火薬を扱う店が火を出したため、重く扱われたとされる。処分は所払い、すなわち江戸からの追放で、江戸での営業は続けられなくなった[1]。闕所(財産没収)を伴ったとする資料もあるが、書かない資料もある。共通して言えるのは、所払いまでである。
競演の期間は、開業年を1808年とするか1810年とするかで数え方が変わるが、30年あまりにあたる。All Aboutは「わずか32年」と書き、玉屋の名残は掛け声だけになったと述べる[1]。ただ、この「掛け声だけ」という言い方は、玉屋の営みが完全に途絶えたことまでを意味するのか。追放後の資料を読むと、そう単純ではない。
3. おいだされた あとも、玉屋は はなびを つくって いたの?
3. 追放のあと、玉屋は消えたのか、続いたのか
3. 追放後の玉屋は断絶したのか:営業再開説と断絶説の併存
おいだされた あと、玉屋が どう なったかは、はっきり しません。しらべた 本によって、書いて ある ことが ちがうのです。
ある 本には、玉屋は 江戸の ほかの 場所に うつって、花火づくりを つづけたが、むかしの ような 人気は もどらなかった、と あります。べつの 本には、そこで 玉屋は 切れて しまった、と あります。
おはかの きろくから、むすこの 代まで 花火を つくって いたかも しれない、と 考える 人も います。ただ、これは まだ たしかな ことでは ありません。
おいだされた あと、玉屋が どうなったかは、資料に よって かきかたが ちがいます。それでも、名前は 百年も たってから、思わぬ ところで よみがえります。
追放後の玉屋について、資料の書き方は割れています。ある資料は、玉屋は両国吉川町から、浅草の北にある誓願寺の前(深川海辺大工町とする説もあります)へ移り、営業を再開したものの、昔の隆盛は取り戻せなかったと述べます[5]。別の資料は、玉屋はそこで断絶したとします。
手がかりの一つが、墓です。江戸の玉屋の菩提寺は上野元浅草の光明寺とされ、墓には明治23年(1890年)に当主が亡くなったと刻まれているといいます。それが本当なら、追放のあとにも当主がいた可能性があります[5]。ただし、この話は個人が運営するサイトの紹介が出どころなので、「可能性がある」までにとどめておきます。
つまり、玉屋は「追放で完全に消えた」とも「ずっと続いた」とも、言い切れません。分かっているのは、江戸の花火の世界から、玉屋が目立つ存在ではなくなったことまでです。
ところが玉屋の名は、店の行方とは別のところで、思わぬ形で生き返りました。
追放後の玉屋の行方は、資料によって描かれ方が大きく異なる。一つの資料群は、玉屋が両国吉川町から浅草北側の誓願寺前(深川海辺大工町とする説もある)へ移り、営業を再開したが、昔日の隆盛は取り戻せなかったと述べる[5]。別の資料群は断絶とする。両者は、「営業の継続」と「江戸の花火界での地位」を、別々に評価しているのかもしれない。
傍証として挙がるのが、墓である。菩提寺は上野元浅草の光明寺とされ、墓標に明治23年(1890年)に当主が没したと刻まれているという。それが正しければ、追放後にも当主がいた可能性がある[5]。ただし、この資料は個人運営のサイトで、研究者の名は挙がるものの、他の資料でその論考を確かめられていない。したがって、事実として扱うには弱い。
結局、追放後の玉屋は、断絶とも継続とも断定できない。両説がある、というのが現時点で言える範囲である。ところが、人としての系譜が曖昧なまま、屋号だけは別の場所で再び登場する。次の章で、その経緯を見る。
4. 千葉の おみせは、どうして 玉屋の 名前を 名のって いるの?
4. 追放から約120年後、千葉県の花火店が屋号を引き継いだ
4. 1961年、千葉県の花火店が玉屋の暖簾を引き継いだ
いま、千葉県の 八千代市に「がんそ 玉屋」と いう 花火の おみせが あります。この おみせは 1915年に、べつの 名前で はじまりました。そして 1961年に、むかしの 江戸の 玉屋の「のれん」を うけついで、玉屋の 名を 名のるように なりました。
「のれん」は、おみせの 名前や しんようを あらわす ものです。つまり、むかしの 玉屋の 名前を、あたらしい おみせが つぐ ことに したのです。
おみせの 公式の せつめいには、江戸の 玉屋と 血が つながって いるとは 書かれて いません。名前を うけついだ、と だけ あります。
江戸で 玉屋が おいだされた 1843年から、1961年まで、118年あります。玉屋の 名前は、これだけの 時を こえて、また 花火の おみせの かんばんに のぼったのです。
千葉県八千代市に、「元祖玉屋」という花火店があります。公式サイトの沿革によると、この会社は1915年(大正4年)に中嶋煙火店として創業しました。そして1961年(昭和36年)に、両国吉川町で名乗られた「玉屋」の暖簾を引き継いで玉屋花火店を設立し、のちに元祖玉屋へ改称しました[2]。
注意したいのは、公式サイトが書いているのが「暖簾の引き継ぎ」までだということです。江戸の玉屋の血縁だとも、誰から、なぜ引き継いだとも、書かれていません。血縁の有無も書かれていないので、江戸の玉屋とのつながりは、公式の書き方からは分かりません。
年数を計算してみます。追放の1843年から1961年までは、1961−1843で118年です。玉屋が江戸で競った期間(30年あまり)の、およそ4倍近くにあたります。ただし、これは屋号が表に出なかった期間ではなく、単なる年の差です。
では、今の玉屋は、どんな仕事をしているのでしょうか。
現在、玉屋の名を掲げる花火店に、千葉県八千代市の元祖玉屋がある。公式サイトの沿革では、1915年(大正4年)に中嶋煙火店として創業した同社が、1961年(昭和36年)に両国吉川町の「玉屋」の暖簾を引き継いで玉屋花火店を設立し、のち元祖玉屋に改称した[2]。公式の記述は1808年を「文化4年」とし、一般的な文化5年と1年ずれる。この食いちがいの理由は、沿革には示されていない。
言えることと言えないことを分けると、こうなる。公式が書いているのは暖簾の引き継ぎである。誰から、なぜ引き継いだかは書かれていない。血縁の有無も書かれておらず、江戸の玉屋とのつながりは公式の書き方からは分からない。
年数も確かめておく。追放の1843年から屋号の引き継ぎの1961年までは118年で、競演の約30年の4倍近い。しかしこれは単純な引き算であり、玉屋の名を使う者が118年間いなかったという意味ではない。第3章の墓の話が正しければ、1890年ごろにも当主がいたことになるからである。
では、屋号を継いだ今の花火店は、江戸の玉屋が果たした役目を、どう受け継いでいるのか。
5. いまの 玉屋は、どんな 花火を つくって いるの?
5. 今の玉屋は、親子で花火玉を手づくりしている
5. 現在の元祖玉屋と鍵屋では、受け継いだものがちがう
がんそ 玉屋では、だいひょうの なかじま まさるさんと むすこさん 3人の 4人が、花火玉を 手で つくって います。花火玉は、中に 火薬を つめた まるい たまです。かみを はり重ねて、まるく ととのえます。
この おみせは、千葉県の おまつりや、いばらきけんの 花火の 大会にも 出て います。むかしの 玉屋の 名前を うけて、いまも 花火を 夜空に あげて いるのです。
いっぽう 鍵屋は、江戸の じだいから つづいて、いまは 15代目です。えどがわくの 花火大会などを 手がけて います。
東葛毎日の記事によると、元祖玉屋は、代表の中嶋勝さんと息子3人の親子4人で、花火玉の手づくりから打ち上げまでを行っています。八千代ふるさと親子祭や、土浦全国花火競技大会に参加してきました[6]。取材時点の情報なので、今の人数や参加大会は変わっているかもしれません。花火玉はクラフト紙を均一に貼り重ねないときれいな球にならない、という職人の話も紹介されています。
同じ記事は、現在「玉屋」の名を冠するのは、宗家花火鍵屋と元祖玉屋だけだと述べています[6]。一方の鍵屋は江戸以来の流れを今に伝え、現在は15代で、江戸川区花火大会などを手がけています[4]。
二軒の歩みは対照的です。鍵屋は家の流れを長く保ち、玉屋は家の流れは追えなくなっても、名が別の花火店に渡りました。花火大会で呼ばれる「たまや〜」の名は、江戸の玉屋から、今の花火店にも受け継がれています。
東葛毎日の取材記事によれば、元祖玉屋は代表の中嶋勝氏と息子3人の親子4人で、花火玉の手づくりと打ち上げを担い、八千代ふるさと親子祭や土浦全国花火競技大会に参加している[6]。取材時点の情報であり、人数や参加大会は変わりうる。花火玉はクラフト紙を均一に貼り重ねないときれいな球体にならない、という製法の話も紹介されている。
同記事は、現在「玉屋」の名を冠するのは宗家花火鍵屋と元祖玉屋だけだと述べる[6]。鍵屋は万治2年(1659年)創業の流れを保ち、現在は15代で、江戸川区花火大会などを取り仕切る[4]。
二軒を並べると、継がれたものがちがうと分かる。鍵屋は家の系譜を保ち、玉屋は、屋号が別の事業者に渡った。1961年の引き継ぎの背景は、資料からは分からない。
6. 花火の ことばを、じぶんで しらべて みよう
6. 近くの花火大会で、店の名前を探してみる
6. 屋号の継承を、自分の手で追うには
きょう できる こと
でんたくか、紙と えんぴつで、1843から 1961を ひき算して みましょう。118に なります。つぎに、自分の 年れいを たして、「いまから 何年前」かを 考えて みましょう。
おでかけで
おうちの 人と 花火大会に 行ったら、「たまや〜」「かぎや〜」と 声を かけて みましょう。かえってから、パンフレットや ホームページに、花火を あげる おみせの 名前が 書いて あるか、さがして みましょう。書いて ない ことも あります。
家で計算してみる
電卓か紙と鉛筆で、1843年から1961年を引いてください。118年になります。それを、玉屋が江戸で競った30年あまりと比べて、何倍になるかも計算してみましょう。屋号の「時間」が、実感として見えてきます。
花火大会に出かけたら
花火大会のプログラムやホームページには、打ち上げを担当する花火店の名前が載っていることがあります。載っているときは、その店の名が、いつ、どこで始まったのかを調べてみると、屋号の由来に出会えるかもしれません。
資料を読むなら
元祖玉屋の公式サイトの沿革[2]と、五條市の「花火文化と鍵屋弥兵衛」[4]は、日本語で読めます。二つを並べると、玉屋と鍵屋の「その後」の違いが分かります。
計算で確かめる
1843年から1961年を引いて118年。競演の約30年と比べて、何倍かを出してみる。118÷30は約4で、1843年から1961年までの年の差は、競演の約30年の約4倍だと分かる。ただし第4章で見たとおり、この数字は「屋号が使われなかった期間」ではなく、単なる年の差である。
資料を読むなら
元祖玉屋の公式サイトの沿革[2]は、屋号の引き継ぎについて書かれた一次の資料である。江戸の玉屋の創業と追放は五條市の解説[4]とAll About[1]、掛け声の由来は[3]、追放後の玉屋の諸説は[5]、現在の元祖玉屋の活動は[6]にある。創業年・出火日・闕所の有無は資料ごとに異なるので、原典を並べて、どの記述がどの資料にあるかを自分で確かめてほしい。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文で使った資料です。
- All About「江戸の二大花火師『玉屋』と『鍵屋』」. https://allabout.co.jp/gm/gc/71578/ (1843年の失火・所払い・競演の長さ)
- 元祖玉屋 公式サイト 沿革. http://www.ganso-tamaya.co.jp/ (1961年の暖簾の引き継ぎ)
- imidas 歴史行事「川開き」. https://imidas.jp/rekigyoji/detail/L-55-155-08-07-G222.html (両国橋の上流・下流の分担と掛け声)
- 五條市「花火文化と鍵屋弥兵衛」. https://www.city.gojo.lg.jp/kankou/rekishi/1/4467.html (鍵屋の創業・玉屋ののれん分け・現在の鍵屋)
- 神社・寺 御朱印めぐり.COM「初代玉屋誕生秘話と歴史」. https://jinja-tera-gosyuin-meguri.com/ (追放後の玉屋をめぐる諸説。個人運営のサイトで、参考にとどめた)
- 東葛毎日「『元祖玉屋』の花火師の伝統を守る」. https://tokatsu-mainichi.com/gansotamaya/ (今の元祖玉屋の活動)
なおした ところ
更新履歴
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