このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

大きな 神殿しんでんを、のこぎりで きって はこんだ! アブ・シンベルの ひっこし

アブ・シンベル神殿は、どう切り分けて崖の上へ移されたのか ── ダムの湖から守った20世紀の大事業

アブ・シンベル神殿の移築(1964〜68年) ── アスワン・ハイ・ダムの湖から約1000個のブロックで救い出した国際事業

分野:歴史・文化

エジプトの さばくに、3000ねん いじょう まえに 岩の 山を ほって つくられた 神殿しんでんが あります。入口に ならぶ 王の ぞうは、たかさ 20メートルぐらい。大きな ビルの 6かいぶんです。

この ぞうは、1960ねんだいに、のこぎりで ばらばらに きられました。どうして そんな ことを したのでしょう。きった あとは、どうしたのでしょう。

エジプトの砂漠に、約3200年前に岩山を掘って造られた神殿があります。入口にならぶ王の像は、高さ約20m。この像が、1960年代に、のこぎりで切り分けられました。

壊すためではありません。ナイル川にできるダムの湖に沈むのを防ぐためです。切った神殿は、約1000個のブロックとして、崖の上へ運ばれました。どうやって切り、どうやって元の姿に戻したのでしょうか。

アブ・シンベルの大神殿の正面には、高さ約20mのラムセス2世の像が4体ならぶ。この岩窟神殿は1960年代に、のこぎりで約1000個のブロックに切り分けられ、元の場所より約60m高い崖の上に組み直された。ナイル川のアスワン・ハイ・ダムが作る人造湖に沈むのを避けるためだ。

約50か国が参加した[1]この事業は、なぜ「切って動かす」案に決まったのか。ほかの案は何がだめだったのか。どうやって継ぎ目を目立たなくし、太陽が奥の部屋を照らす日まで残したのか。ここでは、それを順にたどる。

読み方を切り替えられます。画面の上にある「よみかた」のボタンで、小学校低学年むけ・小学校高学年むけ・中学生むけの3つの書き方に切り替わります。むずかしいと思ったら、いつでもやさしい方に戻ってください。選んだ読み方はブラウザが覚えているので、次に別の記事を開いたときも同じ読み方で始まります。

1. しずむはずの 神殿しんでん

1. ダムの湖に沈むはずだった神殿

1. アスワン・ハイ・ダムと、アブ・シンベル神殿が置かれた状況

アブ・シンベルの 神殿しんでんは、エジプトの ナイルがわの ちかくに あります。ラムセス2せいと いう 王が、3000ねん いじょう まえに 岩の 山を ほって つくらせた と いわれて います[3]。

1960ねんごろ、ナイルがわに とても おおきな ダムを つくる ことに なりました。ダムが できると、うしろに おおきな 湖が できます。その みずが、神殿しんでんの ある ばしょに あがって くる はずでした。

神殿しんでんは 岩の 山に ほって あるので、どこかへ もって いく ことは できません。みずに しずむのを まつしか ないのでしょうか。

そこで ユネスコと いう、せかいの 国ぐにの あつまりが、「みんなで たすけよう」と よびかけました[1]。

アブ・シンベルの神殿は、エジプト南部、ナイル川ぞいの岩山を掘って造られています。ラムセス2世が約3200年前に造らせたとされ、大神殿の正面には、座った王の像が4体ならびます。高さは約20mあります[3]。

1960年代、ナイル川のアスワンで、巨大なダム(アスワン・ハイ・ダム)の工事が進んでいました。ダムの上流には大きな人造湖ができます。水位が上がれば、川ぞいの古代遺跡が沈んでしまいます。アブ・シンベルもその1つでした。

神殿は岩山と一体で、建物のように持ち上げることはできません。そこで1960年、ユネスコ(国連の教育・科学・文化の機関)が、遺跡を救う国際キャンペーンを始めました。最終的に約50か国が参加し、22の建造物群が水から守られました。アブ・シンベルやフィラエの神殿もそこに入ります[1]。

アブ・シンベルは、エジプト南部、ナイル川ぞいにある。ラムセス2世が紀元前13世紀に岩山を掘らせた大神殿と、王妃ネフェルタリのための小神殿からなる。大神殿の正面には高さ約20mの座像4体がならぶ[3]。日本の事典でも、造営は前13世紀とされる[6]。

1960年代、ナイル川のアスワン・ハイ・ダムの建設で、上流に巨大な人造湖ができることになった。水位が上がれば、ヌビア地方の遺跡の多くが沈む。ユネスコは1960年に救済キャンペーンを始め、約50か国が参加した。22の建造物群が水から守られ、アブ・シンベルとフィラエは、その代表になった[1]。

岩山を掘ってできた神殿を、どうすれば動かせるのか。神殿は、ブロックに切って高い場所で組み直された。

2. 答えは「きって、はこんで、くみたてる」

2. 答えは「切って、運んで、組み立て直す」

2. 解体・運搬・再構築 ── 約1000個のブロックに切る方法

答えは、「大きな 神殿しんでんを、ブロックに きって、たかい ところで くみたて なおす」でした。

  • ブロックの かずは、ぜんぶで 1000こ ぐらいです。
  • 1この おもさは、20トンを こえる ものも ありました。おおきな ものは 30トンぐらい(車 20だい ぶん ぐらい)です。
  • はこんだ さきは、もとの ところより 60メートル ぐらい たかい 崖がけの うえ。

王の ぞうも、ブロックに きりました。四角い パズルを ほどいて、もう 1かい くむ ようなものです。ただし ほんとうは、1こが とても おもい パズルです。クレーンなどで、ゆっくり もちあげました[2]。

採用されたのは、神殿を大きなブロックに切って、高い場所で組み立て直す方法でした。ブロックの数は、資料によって1035個、1036個とわずかにちがいますが、ユネスコは「1000個を超える」と説明しています[7]。1個の重さは、内部が20トン以下、正面が30トン以下に決められました[4]。

運んだ先は、元の場所より約60m高い崖の上です。入口の大きな像も、切り分けられました。ジャッキ、クレーン、ウインチでブロックを持ち上げ、ほぼ同じ形に積み直しました[2]。

働いたのは、約800人の作業員と約100人の技術者でした[2]。切る作業は1963年11月に始まり、新しい場所での完成の式典は1968年9月22日に開かれました[7]。

採用された方法は、神殿を大きなブロックに切って持ち上げ、高い場所で組み直すものだった。1962年にスウェーデンの建設コンサルタント会社VBBが提案し、エジプトは1963年6月に採用した[4]。ブロックの数は資料によって1035個〜1036個とわずかにちがい(ユネスコは「1000個を超える」としている[7])、大神殿が807個、小神殿が235個という内訳が示されている。1個の重さは、内部が20トン以下、正面が30トン以下に決められた[4][2]。

移動した距離は資料で幅がある。ユネスコの解説は約64m高く約180m内陸[7]、Wikipediaは大神殿を約65m高く約208m内陸[4]、約63m高く、約120m西寄りとする日本の事典[6]などだ。この記事では「約60m高い崖の上」とだけ書く。

作業は約800人の作業員と約100人の技術者だった[2]。切る作業は1963年11月に始まり、新しい場所での完成の式典は1968年9月22日に開かれた[7]。しかし、切るだけなら簡単ではない。なぜほかの案ではだめで、この案が選ばれたのだろう。

3. ほかの やりかたは ダメだった?

3. 水を防ぐ案と、持ち上げる案 ── なぜ「切る」案が選ばれたか

3. VBB案は、なぜ採用されたのか ── 4つの案の比較

ほかにも、いろいろな やりかたが ありました。

  • まわりに ダムを つくって、みずが こない ように します。
  • ジャッキで、神殿しんでんごと うえに もちあげます。

でも、どちらにも むずかしい ところが ありました。それに くらべて、きって はこぶ やりかたは、おかねが はんぶん ぐらいと みつもられました。いまなら ふつうの ことに みえるかも しれません。でも あの ころは、ちゃんと うまく いくか、だれにも わかりません。岩が もろいので、ブロックの 3ぶんの 1が こわれるかも しれない と しんぱいした 人も いたそうです[4]。

ほかの主な案は、大きく2つありました。1つは、神殿のまわりをダムで囲んで水を防ぐ案。もう1つは、神殿を岩から切り離して、ジャッキで丸ごと持ち上げる案です。

ダムで囲む案では、神殿の砂岩に水がしみて、いつかくずれる心配がありました。ジャッキで持ち上げる案は、あれほど重いものを持ち上げた経験が、世界のどこにもありませんでした[4]。

「切って運ぶ」案は、見積もりがほかの案の約半分とされました。それでも安心な案ではありませんでした。砂岩は粒のつながりが弱いので、ブロックの3分の1ほどが壊れる可能性も心配されたといいます[4]。

1962年の時点で、主な案は4つあった。(1)英国の技術者らによる、神殿のまわりをダムで囲む案。砂岩は多孔質で、水がしみてくずれるおそれがあるとして退けられた。(2)フランスのコワイン・エ・ベリエ社の、曲線の大きなコンクリートダムで囲む案。排水の問題や運転費の高さなどで見送られた。(3)イタリアのイタルコンサルト社の、岩から切り離して油圧ジャッキで約61m持ち上げる案。当初、ユネスコが好んだが、それほど重い構造物を持ち上げた前例がなかった。(4)VBB案[4]。

VBB案は、期限内に実現できそうで、費用がほかの案の約半分だったので選ばれた。心配は砂岩そのもので、石英の粒のつながりが弱く、ブロックの3分の1ほどが壊れる可能性も心配されたという[4]。案の比較はWikipediaだけが出典だ。かかった費用も資料でばらつき、ユネスコ世界遺産センターは救済キャンペーン全体で約8000万ドルと説明する[7]。

壊れやすい砂岩を、どうやって傷つけずに切ったのか。

4. こわさずに きる ひみつ

4. 切り口を6ミリにする ── 継ぎ目を消す工夫

4. 切断・補強・継ぎ目の処理

いわを きる とき、まず ひびに 樹脂じゅしと いう ねばねばした ざいりょうを いれて、かためました。7かげつも かけたそうです[4]。

そのあと、のこぎりで きりました。きりくちの はばは、たった 6ミリぐらいです。ノートの ふち ぐらいの あつさです[4]。

くみ たてた あと、すきまは すなを ねりこんだ ものを つめて、いろを まわりと そろえました[4]。だから いまは、きった あとが ほとんど めだちません。

砂岩を切る前に、ひびや表面のへこみにエポキシ樹脂を流しこんで補強しました。この作業に約7か月かかっています。

切るときは、ダイヤモンドの刃のついたのこぎりなどが使われました。切り口の幅は約6.4mmです。組み立てたあとで、継ぎ目が目立たないようにするためでした。内側の継ぎ目には、元の岩と色を合わせた砂のペーストをつめ、外側の幅広い切り口にはセメント系のモルタルを使いました[4]。

入口の大きな像の頭は、重さの上限を超えたため、冠のところで切り離されました[4]。像は切ってしまっても、組み立て直せば、また1つの王の顔に戻ります。

切る前の準備が長かった。7か月かけて、ひびや表面のへこみにエポキシ樹脂を注入して補強した。切り口は幅約6.4mmで、ダイヤモンドの刃をつけた手のこ、らせん状の刃、深い切り込み用のチェーンソーなどが使われた。内部と外部の切り口は、鋼のピンを通した穴でそろえた。外側の切り口はもっと広く、動力のこで切った[4]。

継ぎ目は、内側が元の岩の色に合わせた砂のペースト、背面の幅広い部分がセメント系のモルタルで埋められた。大神殿の正面の像は、頭が上限(30トン)を超えるため、冠のところで切り離された[4]。

切って運んだブロックは、そのまま積めば完成なのか。実は、組み立て直すほうにも、大きな仕事があった。

5. つくった 山と、お日さまの ひかり

5. 人工の山をつくる ── 太陽が奥の部屋を照らす日

5. ドームと人工の丘 ── 日の光が差す日を保つ

もとの 神殿しんでんは、岩の 山の 中に ありました。ブロックだけを つむと、うしろが からっぽで、ぐらぐらします。そこで、おおきな コンクリートの ドームを つくって、そのうえに 山を つくりました。

もう 1つ、だいじな ことが ありました。神殿しんでんの いちばん おくの へやには、1ねんに 2かい、あさの お日さまの ひかりが とどきます。2がつと 10がつの おわりごろです。ひかりは、ぞうを てらします。でも、ひとつだけ いつも くらい ままの ぞうが あります。それは ふしぎな ことに、地下の かみさまの ぞうと いわれて います[3]。

神殿しんでんの むきを あわせて、ひかりが はいる むきも かんがえて くみなおしました[4]。ただし、にちは しりょうに よって 20にち、21にち、22にちと ちがいます。

元の神殿は、岩山の中にありました。ブロックを積むだけでは、内部に岩の重さを支える力がありません。そこで、神殿の奥に鉄筋コンクリートのドームを作り、内部にかかる重さをドームに受けさせました。大神殿のドームは、幅約55m、高さ約19mです。その上に、元の岩山の材料など約30万トンを盛って、人工の丘を作りました[4]。

神殿の奥の部屋には、年に2回、朝日がまっすぐ差しこみます。2月と10月の下旬ごろで、日付は資料により20日、21日、22日と異なります[3][5][4]。奥にならぶ像のうち、3体が照らされ、冥界の神プタハの像だけは暗いままです[3]。

移築では、日光が差しこむ向きも考えて組み直されました[4]。

元の神殿は岩山の内部にあり、ブロックを並べるだけでは、背面に支えがない。そこで、各神殿の背面側に鉄筋コンクリートのドーム(ヒュンネベック社製)を作り、内部に重さがかからないようにした。大神殿のドームは幅約55m、高さ約19mで、その上に元の岩山の材料など約30万トンを盛って、人工の丘にした[4]。

奥の聖室には、年に2回、朝日が差しこむ。NASAの教育ページは2月21日(王の誕生日)と10月22日(即位の日)とするが[5]、別の資料は2月20日と10月20日、2月22日と10月22日と書く[3][4]。王の誕生日・即位日という説明は、直接の証拠がないともされる[4]。照らされるのはラー・ハラクティ、アメン・ラー、王の像で、冥界の神プタハの像だけは暗いままだ[3]。

移築では、日光が奥まで届く向きも考えて神殿の軸を決めたとされる[4]。

6. この ひっこしが のこした もの

6. 世界遺産という考え方につながった事業

6. ヌビア救済キャンペーンの影響 ── フィラエ移築と世界遺産条約

アブ・シンベルの ほかにも、フィラエという しまの 神殿しんでんが、1972ねんごろから ひっこしを しました。ぜんぶで 20ほどの たてものを、いしを 1つずつ はこんで、べつの しまに うつしたのです[2]。

この ひっこしで、「いせきは、その 国だけの ものじゃなく、せかいの みんなの たからものだ」と いう 考えが ひろまりました。いまの せかいいさんの もとに なった 考えです[1]。

アブ・シンベルのほかにも、ナイル川ぞいで22の建造物群が救われました。1972年からは、フィラエ島の約20の神殿や建物が、ほかの島(アギルキア島)へ移されました[2]。

冷戦の時代に、約50か国が違いをこえて、遺跡を守りました。この経験から、「遺産は国だけでなく、みんなの財産だ」という考え方が育ち、のちの世界遺産条約(1972年)につながりました[1]。

式典で、ユネスコの事務局長ルネ・マウは、これを「前例のない事業」と呼び、「これほどの規模の国際協力を、わたしたちは初めて見た」と語ったと伝えられています[2]。

アブ・シンベルに続き、1972年から、フィラエ島の約20の神殿や建物がアギルキア島へ移された。40の考古学調査団が加わった、約8年の作業だった[2]。

ユネスコは、この救済キャンペーンを、遺産は特定の国のものでなく人類共通の財産だという考え方が確立する出発点としている。冷戦のさなか、約50か国が参加した経験は、のちの1972年の世界遺産条約につながった[1]。ユネスコ事務局長ルネ・マウは完成の式典で、この事業を「前例のない事業」と呼んだと報じられている[2]。

7. じぶんでも しらべて みよう

7. 自分でも調べてみたくなったら

7. 自分でも調べてみたくなったら

アブ・シンベルの しゃしんを ほんや としょかんで みて、つなぎめを さがして みましょう。ブロックは、ほとんど わからない ように つなげて あります。

おうちの 人と、「おもい ものを うごかす ほうほう」を かんがえて みるのも いいでしょう。たとえば、おもい 家具を うごかす ときは、ばらして はこぶのと、ごろごろ ころがして はこぶのと、どちらが やりやすいでしょう。安全あんぜんの ため、おもい ものは ぜったい 1人で もたないでください。

もっと しりたい 人は、ユネスコの ホームページ[1]を、おうちの 人と みて みましょう。

アブ・シンベルの写真を本や図書館で探して、ブロックのつなぎ目を探してみましょう。切り口が6mmほどだったので、遠くからはほとんど分かりません。

ほかの方法がなかったのか、自分で考えてみるのもいいでしょう。ダムで囲む、ジャッキで持ち上げる、切って運ぶ。それぞれ、何が心配だったのでしょうか。

資料もあります。ユネスコ世界遺産センターのページ[1]は、英語で書かれています。ガルフ・ニュースの記事[2]は、作業の人数や式典の話が読みやすいです。

数字がそろわない部分は、資料を読み比べて確かめられる。ユネスコ世界遺産センターの「Working Together: Abu Simbel」のページ[7]は英語だが、移築後の高さや距離、ブロック数、完成の式典が短くまとまっている。それをこの記事の出典と見比べて、どこが食い違うかを探してみよう。

もう1つの確かめ方は、日の光が差す日を調べることだ。2月と10月の何日に差すのかは、資料で食い違う。観察記録や現地の案内をさがしてみるのもよい。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:ユネスコ世界遺産センターの2ページは公的機関の資料。ガルフ・ニュースの記事、ニュー・ワールド・エンサイクロペディア、Wikipedia、NASAの教育ページ、コトバンク(各辞典の記述の集約)は二次資料で、数字が資料によって食い違う。Wikipediaだけが出典の話(ほかの案、切り方、ドーム)は、その旨を書いた。

  1. UNESCO World Heritage Centre, “Podcast: Nubian campaign - when UNESCO moved mountains”. https://whc.unesco.org/en/news/2677 (1960年のキャンペーン開始、約50か国、22の建造物群、世界遺産条約につながったこと)
  2. Gulf News, “The ancient Egypt temples rescued 50 years ago”. https://gulfnews.com/amp/world/mena/the-ancient-egypt-temples-rescued-50-years-ago-1.2280620 (ブロック数、作業員の数、完成の式典、フィラエの移築)
  3. New World Encyclopedia, “Abu Simbel”. https://www.newworldencyclopedia.org/entry/Abu_Simbel (像の高さ、移築の距離、日光が差す日と照らされる像)
  4. Wikipedia, “Abu Simbel temples”. https://en.wikipedia.org/wiki/Abu_Simbel_temples (ほかの案、VBB案、切り方、ドームと人工の丘、費用の数字)
  5. NASA Sun-Earth Day 2005, “Abu Simbel”. https://science.gsfc.nasa.gov/attic/sunearthday.nasa.gov/2005/locations/abusimbel.htm (日光が奥の部屋に差す日についての説明)
  6. コトバンク「アブ・シンベル」(日本大百科全書・世界大百科事典ほか)。 https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB-3141427 (造営の時代、移築の距離と高さの日本の事典の数字)
  7. UNESCO World Heritage Centre, “Working Together: Abu Simbel”. https://whc.unesco.org/en/activities/1296 (1000個を超えるブロック、約64m高く約180m内陸、1963年11月の切断開始、1968年9月22日の式典、全体の費用)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

  •  初版を公開。

このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。