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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

まめを まく まえは、だれが おにを おいはらって いたの?

豆をまいて鬼を追い払う前は、だれが鬼を追い払っていたのでしょう

鬼を追う役が、なぜ鬼として追われたのか:追儺から豆まきへ

分野:歴史・文化

むかし、おにを おいはらう やくの 人が いました。その やくが、のちに おにに みたてられて、おわれる がわに なりました。まめまきの おにとの つながりは、まっすぐには たどれません。

では、その まえは、だれが おにを おいはらって いたのでしょう。まめを まく ように なったのは いつごろで、どうして「おには そと」と いうのでしょう。この ページを よむと、まめまきの むかしの すがたが わかります。

むかし、鬼を追い払う役がいました。その役が、のちに鬼に見立てられて、追われる側になりました。豆まきの鬼とのつながりは、まっすぐにはたどれません。

では、豆をまく前は、だれがどうやって鬼を追い払っていたのでしょうか。豆はいつごろから加わり、「鬼は外、福は内」という掛け声の確かな記録はどこにあるのでしょうか。この記事を読むと、豆まきの前の姿と、掛け声が場所ごとに変わる理由の手がかりが分かります。

疫病を追い払う儀式で鬼を追う側にいた方相氏という役は、平安末期に逆に鬼に見立てられ、追い出されるようになった[1]。追う側が追われる側に回るという反転が、儀式の途中で起きたことになる。ただし、これを今の豆まきの鬼へまっすぐ結ぶことはできない。

では、そこへ豆はいつ加わったのか。「鬼は外、福は内」の確かな記録とされる1447年の日記には何が書かれているのか。そして、なぜ今も場所によって掛け声が違うのか。このメモを読むと、追儺から豆まきへの流れと、豆の由来に諸説あることが、出典つきで分かる。

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1. 580ねんほど まえの にっきに、まめまきが のって いるの?

1. 約580年前の僧の日記に、豆と「鬼外福内」が出てくる

1. 臥雲日件録の一条:1447年12月22日、立春の前日の夕方

1447年の ふゆの ゆうがたの ことです。おてらの 僧そうが かいた にっきに、こんな ぶんが のって います。

「あしたは 立春りっしゅん。ゆうがたに なって、ある 人が へやごとに いった まめを まき、『おには そと、ふくは うち』の 四じを となえた」[2]。

にっきを かいた そうは、これを「にほんの ついなの やりかただ」と むすんで います[2]。

そうは、まめまきを めずらしい ものと みて、わざわざ かきとめたのかも しれません。では、「ついな」とは なんでしょう。

「明日は立春」の夕方に

1447年(文安4年)12月22日、京都の相国寺の僧・瑞渓周鳳は、日記『臥雲日件録』にこう書きました。明日は立春なので夕方になり、景冨という人が各部屋に炒った豆をまいて、「鬼外福内」の四字を唱えた、と[2]。この日付は旧暦で、今の2月ではなく、年末にあたります。

節分は、もともと季節を分ける日のことです。立春の前日は、旧暦では新年に近い大切な日でした[3]。年の変わり目に、鬼を追い払い、福を呼ぶ。そういう日の夕方の出来事でした。

日記の書き手は、これをどう見ていたか

日記は、この豆まきを「これは日本の追儺のやり方だ」としめくくっています[2]。書き手には、豆まきは「追儺」という昔からの儀式の、日本風のやり方に見えたのです。

この日記が、「鬼は外、福は内」の掛け声の確かな記録の一つとして知られています。ただ、豆まきの最初の一回がいつなのかは、国立国会図書館の解説でも「定かではない」とされています[1]。

では、日記の書き手が思い浮かべた「追儺」とは、どんな儀式だったのでしょうか。

豆まきの掛け声の確かな記録としてよく引かれるのが、相国寺の僧・瑞渓周鳳の日記『臥雲日件録』の文安4(1447)年12月22日の条である。早稲田大学図書館の紹介によると、原文は次のとおりである[2]。

廿二日、明日立春、故及昏、景冨毎室散敖豆、因唱鬼外福内四字、盖此方驅儺之樣也

瑞渓周鳳『臥雲日件録』文安4年12月22日の条(早稲田大学図書館の紹介による)

意味は、明日が立春なので日暮れに及び、景冨が各部屋に炒った豆をまき、「鬼外福内」の四字を唱えた、という内容である。末尾の「盖此方驅儺之樣也」は、これは日本の追儺のやり方だ、という書き手の注釈にあたる。ここから、当時の人には豆まきが、中国由来の追儺の日本版と受けとめられていたことが読み取れる[2]。

日付の読み方にも注意が要る。これは旧暦の12月22日で、今の2月ではない。節分は本来、立春・立夏・立秋・立冬の前日、つまり季節を分ける日をさす。旧暦では立春のころが新年に近かったため、春の節分がもっとも重んじられた[3]。だから日記の場面は、年の暮れの夕方にあたる。

ただし、これを「豆まきの始まり」と言い切ることはできない。国立国会図書館の解説は、豆打ちがいつ始まったかは定かではないとし、日記は掛け声の確かな記録の一つという位置づけにとどまる[1]。では、書き手が注釈に使った「追儺」とは何か。

2. まめの まえは、だれが おにを おって いたの?

2. 豆の前に、鬼を追い払う役の「方相氏」がいた

2. 豆の前、疫病を追う儀式で鬼を追っていたのはだれか

「ついな」は、ちゅうごくの ぎしきを とりいれた、としの くれの ぎょうじです。疫病えきびょうを おいはらう ための ものでした[1]。

にほんでは、706年には もう おこなわれて いた ことが、「続日本紀しょくにほんぎ」と いう ふるい ほんから わかります[1]。

この ぎしきで、おにを おう やくが 方相氏ほうそうしです。いまでも 京都きょうとの ふるい ぎしきでは、きんいろの 目が 四つ ある めんを つけた 方相氏ほうそうしが、おにを おいかけます[4]。

この ぎしきに、まめは まだ でて きません。まめは、いつ はいって きたのでしょう。その まえに、おどろく ことが あります。

中国から来た、疫病払いの儀式

追儺は、中国の「大儺」という風習を取り入れた、年末の行事です。病気(疫病)を追い払うための儀式でした。日本では706年(文武天皇の慶雲3年)には行われていたことが、『続日本紀』から分かります[1]。日記の1447年より、およそ740年も前です。

鬼を追う側の主役

この儀式で、鬼を追い払う主役が方相氏です。京都府の紹介では、京都の吉田神社の追儺式で、今も黄金四つ目の仮面をつけた方相氏が童子を従えて鬼を追いつめ、殿上人が桃の弓と葦の矢で射かけて追い払います[4]。ここでは、鬼を追う主役は、あくまで方相氏のほうです。

この儀式に、豆は出てきません。豆は、いつ、どうやって加わったのでしょうか。その前に、方相氏には、思いがけない出来事が起きます。

追儺は、中国の「大儺」の風習を取り入れた、年末の疫病払いの行事である。日本では、文武天皇の慶雲3(706)年には行われていたことが『続日本紀』から分かる[1]。1447年の日記から数えて、およそ740年も前になる。

儀式の中で、鬼を追い払う役を担ったのが方相氏である。京都府の観光紹介によれば、京都の吉田神社の追儺式では、現在も黄金四つ目の仮面をかぶった方相氏が童子を従え、三色の鬼を追いつめて弱らせ、そのあとで殿上人が桃の弓に葦の矢を射かけて疫鬼を追い払う[4]。つまり、今に伝わる形でも、追い払う主役は方相氏である。

この儀式に、豆は登場しない。豆が加わる前の追儺は、方相氏が鬼を追い、矢で射かけるものだった。ところが平安末期になると、事態が反転する。

3. おいはらう 人が、どうして おにに なったの?

3. 追い払う役が、いつのまにか鬼に見立てられた

3. 役割の反転:平安末期、方相氏が追われる側に回る

へいあんじだいの おわりごろ、おどろく ことが おきました。

おにを おいはらう はずの 方相氏ほうそうしが、こんどは おにに みたてられ、おおぜいの おえらい 人たちに おいだされる ように なったのです[1]。

それまで おにを おう がわだった 人が、おわれる がわに なりました。なぜ そう なったのかは、この しりょうでは かいて ありません。

では、まめは どこから きたのでしょう。はじまりは、じつは はっきり しません。

追う側が、追われる側に

平安末期になると、それまで鬼を追い払う役だった方相氏が、逆に鬼に見立てられ、群臣たちに追い出されるようになりました[1]。鬼を追っていた役が、鬼の役に回ったのです。

なぜ逆転したのか、参考にした国立国会図書館の解説では、その理由までは述べられていません。ここでは、そういうことが平安末期に起きた、という事実だけを受けとめておきます。奈良時代からそうだったわけではありません。

豆の始まりは、はっきりしない

では、豆はいつからでしょうか。国立国会図書館の解説では、豆打ちがいつごろ始まったのかは定かではないとされています。ただ、南北朝時代にはすでに、追儺の風習に豆が入り、「鬼は外、福は内」と唱えながら豆を打っていたようです[1]。

1447年の日記は、それより少しあとの室町時代の記録です。方相氏が鬼にされ、豆が加わり、掛け声が整っていく。そのどこかで、今の豆まきの形に近づいたと考えられます。

では、なぜ豆なのでしょうか。

追儺の主役が反転する出来事は、平安末期に起きた。国立国会図書館の解説によれば、それまで鬼を追い払う役だった方相氏が、逆に鬼に見立てられ、群臣らに追い出されるようになる[1]。奈良時代からそうだったのではなく、変化の時期は平安末期である。なぜ反転したのかという理由は、参照した解説には述べられていない。

ここで、豆まきの鬼と方相氏を、一直線に結びつけることはできない。つまり導入で述べたとおり、鬼を追う役が鬼に見立てられた流れと豆まきの鬼とは、まっすぐにはたどれない。確かに言えるのは、追儺という儀式が、鬼を追う役の主役から、追われる鬼の役へと形を変えたこと、そして別の流れとして豆打ちが追儺に入ってきたことの2つである。後者について、同じ解説は、豆打ちの始まりは定かではないとしながら、南北朝時代には追儺の風習に豆が入り、「鬼は外、福は内」と唱えて豆を打っていたと述べている[1]。

つまり、豆まきの最初の一回をどこかの1年に決めることはできない。南北朝から室町にかけての記録が、少しずつ見つかっている段階である。1447年の日記は、その中で掛け声の確かな記録を残す一例にあたる。では、なぜ豆が選ばれ、なぜ炒るのか。

4. なぜ まめで、どうして いって つかうの?

4. 豆が選ばれた理由はひとつではなく、炒る理由にも言い伝えがある

4. 豆はなぜ選ばれ、なぜ炒って使われるのか

むかしの 人は、「まめ」を「魔滅まめつ」とも よんだ、と いわれます。まめには ふしぎな ちからが あると かんがえられ、びょうきや わざわいの おにを はらうと されたのです[3]。

でも、まめが えらばれた わけは、ひとつでは ありません。ちゅうごくの ふるい 本に「大豆だいずは どくを ころし、いたみを とめる」と かいて あったから、という はなしも あります[1]。

いって つかうのは、ひろい わすれた まめから 芽めが でると、おいだした おにが よみがえって しまうと かんがえられた から、と いわれます[5]。

ただし、この はなしは、だれかが ほんとうに そう いったのか、くわしい しりょうは さがして いません。

「魔滅」と本草書の言い伝え

農林水産省の解説は、昔の人が「まめ」を「魔滅(まめつ)」と呼んだと伝えています。力の源とされ、霊力もあると考えられた豆で、病や災い、つまり鬼を祓い、その豆を食べて力をいただく、という考え方です[3]。

国立国会図書館の解説では、大豆が主流になった背景に、中国の本草書に「大豆は鬼毒を殺し、痛みを止める」と書かれていたから、という説と、「魔滅」の語呂という説が並べて挙がっています。ほかにもいくつもの言い伝えがあり、理由は1つに決まりません[1]。

炒る理由は、芽が出ないように

使うのは、炒った豆です。拾い忘れた生の豆から芽が出ると、追い払ったはずの鬼がよみがえって縁起が悪い、と考えられたため、といわれます[5]。ただ、これは一般向けの解説に出てくる説明で、古い記録で確かめたものではありません。

豆は同じでも、鬼を追い払う声は、場所によって変わります。

なぜ数ある食べ物の中で豆なのか。農林水産省の解説は、昔の人が「まめ」を「魔滅(まめつ)」とよび、エネルギー源であり霊力をもつとされる豆で、病や災い(鬼)を祓い、その豆を食べて力をいただくと考えたと述べる[3]。語呂合わせが、豆の力を信じる気持ちを後押ししたことになる。

ただし、豆が選ばれた理由は1つではない。国立国会図書館の解説は、大豆が主流になった背景として、中国の本草書に「大豆は鬼毒を殺し痛みを止める」とあったから、「魔滅」の語呂からなど、様々な言い伝えがあると並べる[1]。つまり、1つの理由で説明しようとすると、ほかの言い伝えを落とすことになる。

炒る理由についても、拾い忘れた生の豆から芽が出ると、追い払った鬼が復活して縁起が悪いと考えられたため、という説明がある[5]。一般向けの解説では、このようにいわれる。

紹介した言い伝えには、豆で鬼や災いを追い払うという説明がある。その豆を使った掛け声は、土地ごとに少しずつ形を変えた。次に、その変化を見る。

5. 「おには そと」と いわない ばしょが あるの?

5. 「鬼は外」と言わない場所が、あちこちにある

5. 土地によって、豆まきの掛け声はどう変わるのか

「おには そと、ふくは うち」が いつもの こえです。でも、ちがう こえを だす ところが あります。

とうきょうの あさくさの おてらでは、かんのんさまの まえに おには いない ので、「おには そと」と いわず、「ふくは うち」だけを となえます[6]。

ひょうごけんの 神社じんじゃでは、さいごに「おには うち」と さけぶ ところが あります。この 神社の ちいきで うまれたと いわれる おには、おや に すてられても やさしい 心を もっていた と つたえられるからです[7]。

ならの おてらには、「ふくは うち、おにも うち」と となえる ところも あります[8]。

観音さまの前には、鬼はいない

東京の浅草寺の節分会では、観音さまの前に鬼はいないということにちなみ、「鬼は外」とは言いません。「福は内」だけを、「千秋万歳福は内」と唱えるのが習わしです[6]。

鬼を、うちに迎える場所

兵庫県尼崎市の富松神社では、「鬼は外、福は内」のあと、最後に「茨木童子の里、鬼は内!」で締めます。茨木童子は、親に捨てられたけれど心の優しい鬼と伝わり、この地域で生まれたとされているからです。同じ兵庫県の三田市でも、江戸時代の藩主・九鬼家に配慮して「鬼は内」を唱えます[7]。

奈良の金峯山寺の節分会は「福は内、鬼も内」です。国中で追い出された鬼を寺に迎える、という寺の言い伝えによります。群馬県の鬼石地区も「福は内、鬼は内」で、良い鬼を呼び込む考え方だといいます[8]。

鬼を追う役が鬼に見立てられた変化と、「鬼は内」の声を結ぶ資料は、今回は見つかっていません。別々の変化として見るのがよさそうです。豆まきは、同じ形のまま全国に広がったのではなく、土地の話を取り込みながら変わってきたようです。

あなたの住む町では、どんな声でしょうか。

豆まきの掛け声は、全国で同じではない。東京の浅草寺の節分会では、観音さまの前に鬼はいないことにちなんで「鬼は外」とは言わず、「千秋万歳福は内」と唱えるのが習わしである[6]。ここでは、鬼を追い出す声そのものが唱えられない。

逆に、鬼を迎える声もある。兵庫県尼崎市の富松神社では、「鬼は外、福は内」のあと、最後に「茨木童子の里、鬼は内!」で終える。茨木童子は、親に捨てられたが心やさしい鬼とされ、この地域で生まれたと伝わるためである。三田市でも、江戸期の藩主である九鬼家に配慮して「鬼は内」を唱える[7]。いずれも、その土地の人物や由来を、豆まきの声に取り込んだ例である。

国土交通省の多言語解説文データベースによれば、奈良の金峯山寺の節分会は「福は内、鬼も内」で、国中で追い出された鬼を寺に迎えるためと説明される。群馬県の鬼石地区も「福は内、鬼は内」で、良い鬼を呼び込む考え方だという[8]。

注目したいのは、平安末期に方相氏が鬼に見立てられて追い出される側に回った流れと、今の「鬼は内」の声が、同じ「鬼」を別の立場に置き直しているという点である。ただし、この2つを因果で結ばず、別々の変化として見るのがよい。豆まきは、全国で固定された1つの形ではなく、場所ごとに受けとめられ方が変わる行事である。

こうなると、自分の土地ではどんな声なのかが気になってくる。

6. わたしの まちの こえは、どう なって いるの?

6. 自分の町の声を、家の人に聞いてみる

6. 掛け声と豆の数を手がかりに、自分の土地の習わしを確かめる

おうちの 人に、きいて みましょう。「むかし、まめまきの とき、どんな こえを だして いた?」

「おには そと、ふくは うち」だけでは ない ことも あります。ちかくの 神社や おてらの はりがみや ちらしを、おうちの 人と いっしょに みても おもしろいです。

まめを たべる かずも、いえや ちいきで ちがいます。としの かずだけ たべる 人も、ひとつ おおく たべる 人も います[3]。ちいさい 子は、まめを たべる まえに、おとなの 人に きいて ください。のどに つまらせると あぶないからです。

家で聞いてみること

家族や近所の人に、昔の豆まきの掛け声と、そのとき使った豆の種類を聞いてみてください。「鬼は外」だけとは限りません。「鬼」を外に追い出すのか、迎え入れるのか、声がちがう土地もあると、この記事で見てきました。

豆を食べる数にも、地域や資料でちがいがあります。歳の数だけ食べるという説明のほか、歳より1つ多く食べるという説明もあり、どちらか一方と決めることはできません[3]。家ではどうしていたのでしょうか。なお、豆は小さい子ののどに詰まることがあるので、食べるときは、おとなの人に確かめてください。

もっと調べるなら

国立国会図書館の「節分と豆まき」の解説[1]と、早稲田大学図書館の『臥雲日件録』の紹介[2]は、どちらも日記や古い記録に近い資料です。日記の一文がどんな漢字で書かれているか、目で追ってみると、「鬼外福内」の四字が見つかります。

この記事で出てきた掛け声は、ほんの一部です。ほかの土地の声を見つけたら、あなたの町の声と比べてみてください。

この記事で見てきたように、豆まきには確かなことと、いわれにとどまることが混ざっている。確かなのは、追儺が706年には日本で行われていたこと[1]、平安末期に方相氏が鬼に見立てられて追い出されるようになったこと[1]、1447年の日記が「鬼外福内」と炒り豆の様子を書き残していること[2]である。一方、豆が選ばれた理由と炒る理由は、複数の言い伝えが並ぶ。

読者が確かめられる道すじは2つある。1つは、早稲田大学図書館の紹介にある『臥雲日件録』の一節を読み、日付が旧暦であることと、書き手が「日本の追儺のやり方」と見ていることを確かめること。もう1つは、家の人に昔の掛け声を聞き、近くの寺社の掲示や配布物を家の人と見て、掛け声を比べることである。

豆を食べる数にも地域差がある。歳の数だけ食べる説明と、歳より1つ多く食べる説明があり、資料でも割れているため、どちらか一方に決めることはできない[3]。家の習わしを聞き取れば、資料にはない地域の事例が1つ増える。

調べるときは、「いつから」という起点を1つに決めたくなる。しかし、この記事の資料が示すのは、始まりが定かでなく、追儺に豆が入り、掛け声が整い、土地ごとに形を変えてきたという重なりである。1つの日付で説明できないところに、調べる余地が残っている。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文で使った資料の一覧です。1447年の日記は、原本ではなく早稲田大学図書館の紹介にもとづいて紹介しています。

  1. 国立国会図書館 カレイドスコープ「節分と豆まき」 https://ndl.go.jp/kaleido/entry/21/1.html (追儺の由来、方相氏の役割の反転、豆打ちの始まり、大豆が選ばれた背景)
  2. 早稲田大学図書館 臥雲日件録(節分関連記事の紹介) https://www.waseda.jp/library/news/2017/02/03/3025/ (1447年12月22日の日記の原文と内容)
  3. 農林水産省 おいしい和食のはなし(節分) https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/oishiiwashoku/article/120/ (節分の意味、魔滅、歳の数の豆)
  4. 京都府 京都の節分行事の紹介 https://www.pref.kyoto.jp/co-kyoto/special/240717.html (吉田神社の追儺式で方相氏が鬼を追う様子)
  5. 読むのとまなぶ「豆まき」の解説 https://yomuno.jp/posts/133048 (炒った豆を使う理由の言い伝え。一般向け解説のため「いわれる」の範囲で使用)
  6. GO TOKYO 浅草寺節分会 https://www.gotokyo.org/jp/spot/ev133/index.html (浅草寺の「福は内」の掛け声)
  7. 神戸新聞 阪神間の多彩な「鬼事情」 https://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/202202/sp/0015034626.shtml?pg=amp (富松神社・三田市の「鬼は内」)
  8. 国土交通省 観光庁 多言語解説文データベース 節分会・鬼火の祭典 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R1-00589.html (金峯山寺・鬼石地区の「鬼も内」「鬼は内」)

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