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むかしの「とじほん」は、いつ 今の 本に かわったの?

和とじの本は、いつ今の本に変わったのか

和とじの本は、いつ今の本に変わったのか

分野:歴史・文化

はくぶつかんで、むかしの 本の てんじを 見た ことは あるだろうか。糸で とじられた、今とは ちがう 形の 本が ならんで いる。

この「わとじ」の 本は、いつから 今のような 本に かわったのだろう。せかいの 本も、くにに よって 形が ちがう。その わけを さぐって みよう。

博物館で、昔の本の展示を見たことはあるだろうか。糸でとじられた、今とはちがう形の本が並んでいる。

この「和とじ」の本は、いつから今のような本に変わったのだろう。世界の本も、国によって形がちがう。そのわけをさぐってみよう。

博物館で古い印刷物の展示を見ると、糸でとじられた「和とじ」の本が並んでいることに気づく。表紙や紙の質感も、今手にしている本とはずいぶん違う。

この違いはいつ、なぜ生まれたのか。答えの鍵は、それぞれの土地で手に入った「紙」そのものの性質にある。

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1. まきものは、見たい ところを さがすのが たいへんだった

1. 巻物は、見たい場所をさがすのが大変だった

1. 巻物から冊子へ ── ヨーロッパでは3〜4世紀に本の形が変わった

むかしの 本は、長い 紙を くるくると まいた 「まきもの」の 形を して いた。でも まきものは、見たい ところを さがすのに、はしから はしまで まかないと いけない。とても めんどうだった[1]

そこで、紙を 何まいも かさねて、はしを とじる 「さっし」と いう 形が 考えられた。今の 本と 同じ 形だ。さっしなら、見たい ページを すぐに ひらける。この かわりめは、ヨーロッパでは 今から 1600〜1700年ほど 前に おきたと されて いる[1]

昔の本は、長い紙をくるくると巻いた「巻物」の形をしていた。でも巻物は、見たい場所をさがすのに、はしからはしまで巻かないといけない。とても不便だった[1]

そこで、紙を何枚も重ねて、はしをとじる「冊子(さっし)」という形が考え出された。今の本と同じ形だ。冊子なら、見たいページをすぐに開ける。両面に文字を書けるので、同じ量の紙で倍の量を書けるという利点もあった。この変わり目は、ヨーロッパでは今から1600〜1700年ほど前、3〜4世紀ごろに起きたとされている[1]

古代の書物は、パピルスや羊皮紙(ようひし。動物の皮をなめして作る書写材料)を長くつなぎ、軸に巻きつけた「巻物」の形が主流だった。ところが巻物には弱点があった。読みたい箇所をさがすには端から端まで巻き広げる必要があり、複数の箇所を見比べることも難しい[1]

この不便を解消するために生まれたのが、紙や羊皮紙を何枚も重ねてとじる「冊子(さっし)」、いわゆるコデックスの形式である。とくにキリスト教の聖書は、特定の箇所を繰り返し参照する必要が多かったため、両面に文字を書けて目当ての場所をすぐに開ける冊子の形式がヨーロッパで早く普及したと考えられている。羊皮紙が主要な書写材料になった3世紀末から4世紀にかけて、この転換が進んだとされる[1]

2. せかいで いちばん 古い いんさつぶつは、日本に あった

2. 世界でいちばん古い印刷物は、日本にあった

2. 世界最古の印刷物「百万塔陀羅尼」は、奈良時代の日本で作られた

ヨーロッパで 本の 形が さっしに かわって いた ころ、日本では すでに 「いんさつ」と いう ぎじゅつが つかわれて いた。760年代から、日本の てんのうの めいれいで、小さな おきょうを 100万こ すって、木の とうに 入れる おおきな プロジェクトが すすめられて いた[2]

770年に かんせいした この「ひゃくまんとう だらに」は、せいさくされた 年が わかって いる もののなかで、いま せかいに のこる いちばん 古い いんさつぶつだと されて いる。木の 活字か、木の 板を つかって すられたと 考えられて いる[2]

ヨーロッパで本の形が冊子に変わっていたころ、日本ではすでに「印刷」という技術が使われていた。760年代、日本の天皇の命令で、小さなお経を100万個も印刷して木の塔に納める、大きなプロジェクトが進められていた[2]

770年に完成したこの「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)」は、作られた年が分かっているものの中で、今も世界に残るいちばん古い印刷物とされている。木版、または木の活字を使って刷られたと考えられている[2]

764年、恵美押勝(えみのおしかつ)の乱の戦没者を弔い国家の安泰を祈るため、称徳天皇(しょうとくてんのう)は「無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)」を100万巻印刷し、高さ約20cmの木製三重小塔に納めて法隆寺・東大寺など十大寺に分けて奉納することを発願した[2]

事業は770年に完成した。この「百万塔陀羅尼」は、現存する印刷物のうち製作年代が確実に分かっているものとしては世界最古とされている。木版か木の活字が使われたと推定されており、現在も法隆寺に4万5千基あまりの塔と約4000点の陀羅尼が伝わっている[2]

3. 空海が 中国から もちかえった 本が、今も のこって いる

3. 空海が中国から持ち帰った本が、今も残っている

3. 空海が唐から持ち帰った「三十帖冊子」は、日本最古の冊子装丁とされる

そのころ、こうぼうだいし くうかいと いう おぼうさんが、中国(とう)に わたって べんきょうして いた。くうかいは、おきょうを うつしとった 本を 日本に もちかえった[3]

この 本は 「さんじゅうじょうさっし」と よばれ、紙を 2つおりに して かさね、のりで はしを とじる 「でっちょうそう」と いう やり方で 作られて いる。今の 京都・にんなじに つたわる この 本は、日本で いちばん 古い、さっしの 形の 本だと されて いる[3]

そのころ、弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)という僧が、中国(唐)にわたって仏教を学んでいた。空海は、お経を書き写した本を日本に持ち帰った[3]

この本は「三十帖冊子(さんじゅうじょうさっし)」と呼ばれ、紙を2つ折りにして重ね、のりではしをとじる「粘葉装(でっちょうそう)」という方法で作られている。今の京都・仁和寺(にんなじ)に伝わるこの本は、日本でいちばん古い、冊子の形の本の例だとされている[3]

804年から806年にかけて唐(とう)に渡った空海は、長安で写経生らを集めて経典を書写させ、自らも筆をとって書写に加わった。当初38帖(じょう)あったとされるが、現存するのは30帖であることから「三十帖冊子(さんじゅうじょうさっし)」と呼ばれる[3]

書写には空海や橘逸勢(たちばなのはやなり)のほか、唐の写経生も参加したと推定されている。紙を二つ折りにして重ね、折り目の外側にのりを付けて重ねとじる「粘葉装(でっちょうそう)」という製本方法で作られており、日本に現存する冊子装丁の最古の例とされる。現在は京都・仁和寺に伝わり国宝に指定されている[3]

4. えどじだい、かしほんやが 本を くばって あるいた

4. 江戸時代、貸本屋が本を配って歩いた

4. 和とじの本は、江戸時代の商業出版とともに広まった

日本の 本は その後も 長い あいだ、紙を かさねて 糸で とじる 「わとじ」の 形で 作られつづけた。えどじだいに なると、木の 板に 字や 絵を ほって すりだす 「もくはんいんさつ」で、たくさんの 本が 作られる ように なった[4]

1808年には、えどの 町で、656人もの 人が かしほんやを して いたと いう きろくが のこって いる。かしほんやは、本を 買わなくても よめるように、町を まわって 本を くばって あるく しごとだった[4]

日本の本はその後も長い間、紙を重ねて糸でとじる「和とじ」の形で作られ続けた。江戸時代になると、木の板に文字や絵を彫って刷り出す「木版印刷」で、たくさんの本が作られるようになった[4]

1808年には、江戸の町で、656人もの人が貸本屋をしていたという記録が残っている。貸本屋は、本を買わなくても読めるように、町を歩いて本を貸して回る仕事だった[4]

日本の書物はその後も長らく、紙を重ねて糸でとじる「和とじ(和装本)」の形式で作られ続けた。糸の通し方には代表的な「四つ目とじ」のほか、五つ目とじ・亀甲とじなど複数の種類がある。江戸時代初頭に京都で商業出版が始まると本屋が誕生し、大坂にも広がって、木版印刷による浮世草子・俳書・浄瑠璃本などが大量に刊行されるようになった[4]

文化5年(1808年)の江戸には、656人もの貸本屋が12の組に分かれて営業していたという記録が残る。買うより安く本を読める貸本屋の存在が、和とじの本を庶民の生活に広く行き渡らせる役割を果たした[4]

5. ヨーロッパでは、金ぞくの 活字で 本を すった

5. ヨーロッパでは、金属の活字で本を刷った

5. グーテンベルクの活版印刷が、ヨーロッパの本を変えた

いっぽう ヨーロッパでは、それより 前の 1450年ごろ、大きな かわりめが あった。ドイツの ヨハネス・グーテンベルクと いう 人が、金ぞくで 作った 「活字」を つかう いんさつの ぎじゅつを かんせいさせた[5]

それまで ヨーロッパの 本は、1さつずつ 手で 書き写す ものだった。とても 時間が かかり、高くて、かぎられた 人しか 手に 入れられなかった。活字の おかげで、同じ 本を たくさん すれるように なり、本が 世の中に 広まって いった[5]

いっぽうヨーロッパでは、それより前の1450年ごろ、大きな変わり目があった。ドイツのヨハネス・グーテンベルクという人が、金属で作った「活字」を使う印刷技術を完成させた[5]

それまでヨーロッパの本は、1冊ずつ手で書き写す写本だった。とても時間がかかり、値段も高く、修道院や大学、貴族など限られた人しか手に入れられなかった。活字のおかげで、同じ本をたくさん刷れるようになり、本が世の中に広まっていった[5]

1445年ごろから試作を重ねていたドイツのヨハネス・グーテンベルクは、1450年ごろに実用的な活版印刷術を確立した。鉛・すず・アンチモンを混ぜた低融点の合金で活字を鋳造し、ヴェルム(羊皮紙)向けよりも濃く耐久性のある新しい印刷用インクを開発したことが技術の核心だったとされる[5]

それまでヨーロッパの書物は、修道院や大学で1冊ずつ書き写す写本が中心で、聖職者や貴族など限られた層しか手にできなかった。活版印刷による大量印刷は、この状況を大きく変え、出回った書物は人々の知識欲を満たす助けとなり、のちの宗教改革の広がりなどを後押しする一因になったといわれる[5]

6. めいじじだい、外国から せいようの せいほんを 教わった

6. 明治時代、外国から西洋の製本を教わった

6. 明治6年、パターソンが西洋式の製本を伝えた

日本の 本が、糸で とじる 「わとじ」から、今のような、のりで せなかを かためる 「せいようふうの 本」に かわって いったのは、めいじじだいに なってからだ[6]

1872年、カナダの 生まれの パターソンと いう 人が 日本に やって きた。1873年から、日本の いんさつきょくで、せいようふうの せいほんの わざを 教える しごとに ついた。今の 本の 形に つながる 大きな きっかけの 1つに なった[6]

日本の本が、糸でとじる「和とじ」から、今のような、のりで背を固める「西洋風の本」に変わっていったのは、明治時代になってからだ[6]

1872年、カナダ生まれのパターソンという人が日本にやって来た。1873年、日本の印書局(いんしょきょく。今の印刷局につながる役所)に雇われ、その後、約200種類もの製本の見本を作りながら、西洋風の製本の技術を教えたとされる。これが、今の本の形につながる大きなきっかけの1つになった[6]

日本の書物が、糸でとじる和とじから、のりで背を固める洋装本へと変わるきっかけを作ったのが、英領カナダ出身の製本技師W・F・パターソンである。1872年12月28日に横浜に到着し、1873年5月29日、29歳で印書局(のちの大蔵省印刷局)に雇用された[6]

パターソンは1875年に紙幣寮(しへいりょう。印書局の後身)へ移り、同年11月以降の契約では「仕上げ・マーブル・罫引(けいびき)・記録書の綴じ方」という4つの技術を定め、約200種類の製本ひな形を製作しながら日本人技術者に伝習したとされる。1876年7月28日に解雇され、同年8月21日に日本を離れた。これは、日本に西洋式製本が定着していく過程の、重要な一歩となったとされる[6]

7. 本の 形が ちがうのは、つかう「かみ」が ちがったから

7. 本の形が違うのは、使う「紙」が違ったから

7. 羊皮紙と紙、材料の違いが本の形の違いを生んだ

ヨーロッパと 日本で、本の 形が ちがって いた わけの 1つは、つかって いた 「かみ」の ちがいに ある。ヨーロッパの 羊皮紙(ようひし)は、どうぶつの かわで 作られていて、じょうぶで、りょうめんに 書ける。だから のりで しっかり とじる さっしの 形に 向いて いた[1]

いっぽう、中国や 日本の 紙は うすくて かるく、たくさん つくれる。まきものや、じゃばらに おる 「おりほん」、そして 糸で とじる 「わとじ」など、うすい 紙に あった、いろいろな 形が 生まれて いった[4]

めいじじだいに なって、日本にも のりで とじる 洋そうぼんが 広まり、せかいの 本の 形が すこしずつ ちかづいて いった。でも 元は、それぞれの ばしょに あった 「かみ」が、それぞれの 本の 形を つくって きたのだ。

ヨーロッパと日本で、本の形が違っていたわけの1つは、使っていた「紙」の違いにある。ヨーロッパの羊皮紙(ようひし)は、動物の皮で作られていて、丈夫で、両面に書ける。だからのりでしっかりとじる冊子の形に向いていた[1]

一方、中国や日本の紙は薄くて軽く、たくさん作れる。巻物や、じゃばらに折る「折本(おりほん)」、そして糸でとじる「和とじ」など、薄い紙に合った、いろいろな形が生まれていった[4]

明治時代になって、日本にものりでとじる洋装本が広まり、世界の本の形は少しずつ近づいていった。でももとをたどれば、それぞれの土地にあった「紙」が、それぞれの本の形を作ってきたのだ。

ヨーロッパと東アジアで本の形が分かれていった背景の一つに、使われていた書写材料の違いがある。羊皮紙は動物の皮をなめして作るため厚みがあって丈夫で、両面に書き込め、折りたたんでとじても破れにくい。この性質が、のりや糸でしっかりととじる冊子(コデックス)という形式に適していた[1]

一方、中国で発明され東アジアに広まった紙は、薄く軽量で大量生産に向いていた。この特性から、巻物やじゃばら状に折りたたむ「折本(おりほん)」、さらに紙を重ねて糸でとじる「和とじ」など、薄い紙を生かした多様な装丁が発展した。日本ではさらに、百万塔陀羅尼のような木版印刷の技術と、これらの装丁形式が組み合わさっていった[4]

明治に入り、パターソンのような外国人技師から洋式製本を学んだことや、紙の作り方が変わったことなどを背景に、日本の書物も次第に洋装本へと移行し、世界の本の形は徐々に収れんしていった。しかし元をたどれば、それぞれの土地で入手できた書写材料の性質が、それぞれの本の形を作ってきたのだ。

じぶんでも しらべて みる

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

紙を すうまい かさねて、はしに あなを あけ、糸を 通すだけで、かんたんな「わとじの ノート」が 作れる。としょかんや はくぶつかんに ある、むかしの 本が どんな 形で とじられて いるかも、見くらべて みよう。

家にある紙と糸で、簡単な「和とじのノート」を作ってみよう。四つ目とじなら、紙を数枚重ね、はしに穴を4つあけて糸を通すだけで作れる。図書館や博物館にある昔の本がどんな形でとじられているかも、見比べてみよう。

博物館の古文書・印刷史の展示で、実際の巻物や折本、和とじの本を見比べてみよう。図書館の貴重書コーナーや、印刷博物館(東京・水道橋)のような専門施設なら、百万塔陀羅尼の実物や複製に出会えることもある。紙を数枚重ねて四つ目とじにする和とじノートは、目打ちと糸・針があれば自分でも作ることができ、素材の性質が装丁の形を決めるという今回の話を、手を動かして実感できる。

しらべた ところ

参考にした情報源

参考にした情報源

  1. 日本聖書協会「翻訳史06 パピルスやヴェルムに」、羊皮紙工房「羊皮紙の歴史」。 https://www.bible.or.jp/know/know11.html http://www.youhishi.com/introduction_history.html (パピルスや羊皮紙の巻物から冊子(コデックス)への転換が3世紀末から4世紀にかけて進んだこと、聖書写本で特定箇所の参照が多かったため冊子形式が早く普及したこと、巻物は片面のみだが冊子は両面に書けたこと)
  2. 玉川大学教育博物館「『百萬塔』と世界最古の印刷物『陀羅尼』」、フリー百科事典『ウィキペディア』「百万塔陀羅尼」。 https://www.tamagawa.ac.jp/museum/archive/1994/043.html https://ja.wikipedia.org/wiki/百万塔陀羅尼 (764年に称徳天皇が恵美押勝の乱の戦没者供養と国家安泰を祈願して発願し、100万基の木製小塔に陀羅尼経を納める事業を進めたこと、770年に完成し製作年代が判明している現存印刷物としては世界最古とされること、法隆寺に塔身45,755基分が伝わり陀羅尼は国宝100点を含め約4000点が現存すること〔ウィキペディア「百万塔陀羅尼」による〕)
  3. 仁和寺公式サイト「仁和寺の書跡」、コトバンク「三十帖冊子」。 https://ninnaji.jp/about_culturalassets/calligraphy/ https://kotobank.jp/word/三十帖冊子-70792 (804〜806年に入唐した空海が長安で写経生らとともに書写し持ち帰った経典であること、当初38帖のうち現存30帖であること、仁和寺に伝わり国宝に指定されていることは仁和寺公式サイトによる。粘葉装という日本最古の冊子装丁の例とされることはコトバンクによる)
  4. 竹笹堂「日本の木版印刷・木版画の歴史 -発展期を迎えた江戸時代-」、ヒストリスト「貸本屋」。 https://www.takezasa.co.jp/mokuhan/mokuhan02_2.html https://www.historist.jp/word_j_ka/entry/030980/ (江戸時代初頭の京都での商業出版の広がり、木版印刷による浮世草子・俳書・浄瑠璃本の大量刊行、文化5年(1808年)に江戸で656人が12組に分かれて貸本屋を営業していた記録)
  5. 日本印刷産業連合会「ぷりんとぴあ 第4話 グーテンベルクが発明した活版印刷術」、フリー百科事典『ウィキペディア』「ヨハネス・グーテンベルク」。 https://www.jfpi.or.jp/printpia/topics_detail21/id=3561 https://ja.wikipedia.org/wiki/ヨハネス・グーテンベルク (1445年ごろから試作を重ね1450年ごろに活版印刷術を確立したこと、鉛・すず・アンチモンの合金で活字を鋳造したこと、新しい印刷用インクを開発したこと、活版印刷以前の写本中心の時代から大量印刷への転換が知識の普及を助け、宗教改革の広がりなどを後押しする一因になったとされること)
  6. 木戸雄一「書物の転形期22:パターソンの洋式製本伝習7:パターソンとは何者か1」(note)。基盤研究(C)「近代日本における洋式製本の移入と定着」の研究成果。 https://note.com/kidoyou/n/n25b2ebb9e7cb (英領カナダ出身のW・F・パターソンが1872年12月28日に横浜へ到着し、1873年5月29日に29歳で印書局に雇用されたこと、1875年に紙幣寮へ移り同年11月以降の契約で仕上げ・マーブル・罫引・記録書の綴じ方の4技術を約200種類の製本ひな形を作りながら伝習したこと、1876年7月28日に解雇され同年8月21日に日本を離れたこと)

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