1. たてなおす ときの てがかりは、なに?
1. 建て直しの手がかりは、跡・図面・写真・模型・似た建物
1. 復元の根拠資料の種類 ── 遺構・図面・写真・模型・現存建築
なくなった たてものを つくりなおす とき、まず 見るのは、地面の 下に のこった あとです。柱が たって いた ばしょや、土台の あとが わかると、たてものが どこに あって、どれくらいの 大きさだったか が わかります。
つぎに、むかしの ずめん、しゃしん、ちいさな もけい、記録を さがします。それでも わからない ところは、おなじ じだいに つくられて、いまも のこって いる たてものを まねします。
つまり、いくつもの てがかりを くみあわせて、「たぶん こう だった」を、できるだけ たしかに して いくのです。てがかりの たしかさが ちがうと、できあがる たてものの たしかさも ちがいます。
建て直しの手がかりは、おもに次の5種類です。
- 発掘で見つかる跡(柱の位置、土台、瓦など)。建物の位置と大きさが分かる
- 図面や実測図。燃える前に測った記録があれば、とても強い
- 古い写真
- 模型や、江戸時代の記録
- 同じ時代の別の建物。資料が足りないところを、これで補う
どれを、どれだけ使えたかは、建物によってちがいます。このあと見る朱雀門は「跡と似た建物」が中心で、名古屋城の本丸御殿は「実測図と写真」が中心でした。資料が違えば、建て直しの難しさも、残る議論も変わります。
2. 朱雀門。いちばん たいせつな しりょうが なかった
2. 平城宮の朱雀門 ── 二階建ての門だと直接示す資料がなかった
2. 平城宮朱雀門 ── 構造を直接示す資料がない中での復原
奈良の 平城宮は、1300ねんほど まえの 都の 宮殿です。その 正面の もんが 朱雀門です。1964ねんの 発掘の あと、10ぶんの 1の もけいが つくられました[1]。
ちょくせつ わかった ことは、土台の 下の つくりと、柱の ばしょと、屋根の かわらでした。もんの 形を しめす しりょうは ありません。そこで、平安宮の 朱雀門を まねて、にかいだての もんと しました[1]。
大きな ところは 法隆寺の 中門、見た めは 薬師寺の 東塔、木の 太さや 長さは 東大寺の 転害門を ならいました[1]。いまも のこる、ふるい おてらの たてものが、てほんに なったのです。1998ねんに できあがりました[2]。
平城宮は、奈良時代(8世紀)の都の宮殿です。朱雀門はその正面の門で、1964年度の発掘のあと、10分の1の模型が作られました。その後、材料と工法の研究を重ね、1986年度からは3年間、意匠と構造の研究も行われています[1]。
直接の資料は、基壇の基礎と地業(地盤を固めた部分)、柱の位置、出土した屋根瓦でした。構造を直接示す資料はなかったため、平安宮の朱雀門が二重門であることなどから、二重門と設定したと説明されています[1]。
足りない部分は、いまも残る古代の建築から借りています。基本の構造は法隆寺中門、様式は年代が近い薬師寺東塔、規模が大きいので部材の寸法や比例は東大寺転害門を参考にしました。細部の軒、風鐸、金具、鴟尾にも、それぞれ別の建物や出土品が使われました[1]。復原の完成は1998年です[2]。
安全のための工夫も、あとから足している
法律のうえでは現代の建築として扱われるため、小屋組に筋違を入れ、1階の壁の内側を木枠と金属で固めています[1]。昔の姿を目指しながら、いまの安全の決まりにも合わせているのです。
朱雀門の復原研究は、1964年度の発掘後に作られた1/10模型に始まり、材料・工法の研究、1986年度からの3年間の「意匠と構造に関する研究」へと続いた[1]。完成は1998年(平成10年)である[2]。
奈良文化財研究所の説明では、直接資料は基壇の基礎と地業、柱位置(平面規模)、出土屋根瓦に限られる。構造を直接示す資料がないため、平安宮朱雀門が二重門であることなどから二重門と設定し、基本構造は法隆寺中門、様式は年代の近い薬師寺東塔、規模が大きいため部材寸法と比例は東大寺転害門を参照した。細部は、海龍王寺五重小塔(軒)、四天王寺講堂出土品(風鐸)、薬師寺出土品(尾垂木の小口金物)、唐招提寺金堂や太平寺・難波宮出土品(鴟尾)などによる[1]。
ここでは、遺構が決めるのは平面と規模までで、立面は類例が決めている。類例の組み合わせという推定が入る点は、完成した建物を見るときの前提になる。また、建築基準法上は現代建築として扱われるため、小屋組に筋違を入れ、初重壁の内側を木枠と金属で補強した[1]。
3. 名古屋城の ごてん。しりょうが たくさん のこっていた
3. 名古屋城本丸御殿 ── 実測図と写真が残っていた
3. 名古屋城本丸御殿 ── 実測図309枚・古写真約700枚という恵まれた資料
名古屋城の 本丸御殿は、1945ねんの 空襲で もえて しまいました。でも、むかしの 図面が 309まいと、写真が 700まいほど のこって いました[4]。
ふすまなどに かかれた 絵も、もえる まえに はずして 大事に しまって あり、1049めんが のこりました[4]。こうした しりょうを もとに、2018ねんに ごてんが できあがりました[5]。
もえて しまった 絵は、むかしと おなじ いろで かきうつして、部屋を かざって います[5]。
4. 首里城。むかいあう りゅうの はしらは、どっち むき?
4. 首里城 ── 資料が失われ、龍の柱の向きで意見が分かれた
4. 首里城正殿 ── 戦前資料の再構成と大龍柱の向きをめぐる判断
沖縄の 首里城は、1992ねんに たてなおされた あと、2019ねん10がつ31にちに、正殿が もえて しまいました[6]。いまは、もういちど つくる しごとが つづいて います。
さいしょに たてなおした とき、戦争で しりょうが たくさん なくなって いました。博物館の 人は、「戦前の しりょうを あつめて、ひとつずつ つくりあげた」と はなして います[6]。
ごてんの まえには、龍の かざりの ある、石の 柱が あります。むかしの きろくの 絵では、ふたつが むかいあって います。でも、1877ねんの しゃしんでは、まえを むいて います。どっちが ただしいのか、研究する 人の あいだでも 意見が わかれて います[7]。
首里城の正殿は、1992年に復元されましたが、2019年10月31日の火災で焼けました[6]。1992年の復元のときは、沖縄戦で資料の多くが失われていたため、戦前の資料をかき集め、1つずつ造り上げたと、博物館の学芸員が話しています[6]。
龍の柱は、どちらを向いていたのか
正殿の正面には、大龍柱という石の柱が2本あります。1768年の修理記録「寸法記」と、1846年の「御普請絵図帳」(尚家文書)では、向かい合って(相対)描かれています。ところが、1877年にフランス海軍が撮った写真には、正面を向いた大龍柱が写っています[7]。
国の技術検討委員会は、2021年12月1日、焼失前と同じ「相対向き」で復元する暫定の結論を出しました。理由は、内部と外部の復元で根拠にしている中心の資料(寸法記と尚家文書)のつながりを重んじたからです。委員会は、1846年から1877年までの約30年のあいだに向きが変わったと推定しましたが、変わったことを示す明確な証拠は見つかっていません[7]。写真を根拠に正面向きだと考える識者や、残っている柱の破片のノミの跡から正面向きだと考える識者もいます[7][3]。
委員会側も、新しい資料が見つかれば結論が変わる可能性があると話し、委員長は「100%の答えは見つからない」と述べています[8]。2026年7月16日には、2本の大龍柱が相対向きで据え付けられ、向きをめぐる議論は続いていると報じられました[9]。正殿は、2026年11月の復元完成に向けて工事が進められています。これは2026年7月の報道にもとづきます[9]。完成の日付などは、首里城公園の公式発表で確かめてください。
首里城正殿は、1992年に復元され、2019年10月31日の火災で焼失した[6]。1992年の復元は、沖縄戦で資料の多くが失われた中で、鎌倉芳太郎が残した記録など戦前資料を寄せ集めて行われたと、県立博物館の学芸員が述べている[6]。
資料の評価が割れたのが大龍柱の向きである。1768年の「寸法記」(正殿の修理記録)と1846年の尚家文書「御普請絵図帳」は相対向きを描き、1877年のフランス海軍写真は正面向きを写す[7]。国の技術検討委員会は2021年12月1日に、相対向きとする暫定結論を出した。寸法記と尚家文書を内外の復元の根拠としており、それらの記述の整合性を重んじた、と説明している。1846〜1877年の約30年で向きが変わったと推定したが、変更を示す明確な証拠はない[7]。
批判する側は、絵図では前脚の位置が実際と逆に描かれていることや、残欠のノミ跡から正面向きだったとする研究を挙げて暫定結論の撤回を求めている[3]。識者の1人は、絵や文書より現存する実物を重んじるべきだと主張する[7]。委員側も、新しい資料が出れば結論が変わり得ること、100%の答えは見つからないことを認めている[8]。
2026年7月16日、大龍柱は平成の復元と同じ相対向きで据え付けられた。議論は続いている、と報じられた[9]。この節の現状の記述は、2026年7月17日の琉球新報の報道時点のものである。完成の時期などは変わりうるので、最新の情報は公式の発表で確認したい。
5. 大洲城。ちいさな もけいと ふるい しゃしんが たよりに なった
5. 大洲城天守 ── 木組みの模型と明治時代の写真
5. 大洲城天守 ── 雛形と古写真による木造復元
愛媛の 大洲城の 天守は、明治の はじめごろに こわされて しまいました。でも、むかしの 大工の いえに、木を くんで つくった 「ひながた」が のこって いました。しゃしんも、3つの むきから とって ありました[10]。
この ふたつを たよりに、2004ねんに 木で たてなおされました[10]。たくさんの 人の 寄付も ありました。
大洲城の天守は明治時代に老朽化で解体されました。1996年に建築史家の宮上茂隆さんが「木造による完全復元が可能」と報告し、復元の話が進みました[10]。
手がかりは、2つありました。1つは天守雛形で、大洲藩の作事方棟梁だった中野家に伝わる木組みの模型です。もう1つは明治時代の古写真で、北・東・西の3方向から撮られており、特に北面は、石垣の石の形や垂木の本数まで確認できるほど鮮明でした[10]。
工事は2002年2月に起工式があり、2004年7月に終わり、9月に竣工しました。募金の目標は5億円でした。戦後に木造で復元された四層四階の天守は日本初とされます[10]。模型と写真という、2種類の直接の手がかりがあったことになります。
大洲城天守は明治期に老朽化で解体された。1996年に建築史家の宮上茂隆が木造での完全復元が可能と報告し、検討が進んだ。根拠は、大洲藩作事方棟梁の中野家に伝わる木組み模型(天守雛形)と、北・東・西の3方向から撮影された明治期の古写真である。北面の写真は鮮明で、石垣の石の形や垂木の本数まで確認できる[10]。
2001年に愛媛県が建築基準法第3条の適用を認定し、2002年2月に起工式、2004年7月に工事が終わり、9月に竣工した。募金の目標は5億円だった。戦後に木造で復元された四層四階の天守としては日本初とされる[10]。立体を直接示す雛形と、外観を示す写真が互いに照合できたことが、復元の確かさを支えたと考えられる。ただし、上の記述は事業主体(大洲市)の説明に基づく。
6. 「たてなおす」の よびかたには、いろいろ ある
6. 復元・復原・再建 ── 言葉のちがいと、国の基準
6. 復元・復原・再建 ── 用語の揺れと、2020年の文化庁基準
「ふくげん」は、復元とも 復原とも 書きます。朱雀門の せつめいでは 復原[2]、名古屋城の せつめいでは 復元が つかわれて います[4]。
ことばの つかいかたは、ところに よって ちがう ことが あります。どんな しりょうで つくったかを、せつめいの ふだで たしかめて みましょう。
7. ちかくの たてものの せつめいを、よんで みよう
7. 近くの復元建物で、「何を根拠にしたか」を探してみよう
7. 復元建物の説明板を、根拠資料の目で読む
おでかけの とき、おしろや おてらの せつめいの ふだを 見て みましょう。「ずめん」「しゃしん」「もけい」「にた たてもの」という ことばが あったら、それが てがかりです。
もし、そういう ことばが ぜんぜん なかったら、「どうやって しらべたのかな」と、おうちの 人と はなして みましょう。
近くの城や寺で、復元された建物の説明板や公式サイトを見てみましょう。そこに「実測図」「古写真」「発掘」「類例」といった言葉があれば、それが根拠です。この記事の5つの手がかりのうち、何が使われているかを探すと、同じ「復元」でも、確かさがちがって見えてきます。
同じ城でも、首里城の大龍柱のように、資料の読み方で意見が分かれる部分があります。新聞やニュースで「検討委員会」「暫定」といった言葉を見かけたら、どの資料をどう読んだのかを追ってみましょう。きっと発見があります。
身近な復元建物の説明板や公式資料を、(1)遺構、(2)図面・実測図、(3)古写真、(4)模型・文書、(5)類例のどれに頼っているか、という目で読み分けてみるとよい。根拠が書かれていなければ、自治体や管理団体に問い合わせることもできる。
議論の続いている復元(首里城の大龍柱など)は、委員会の資料や議事を追うと、どの資料を優先したのかがよく分かる。文化庁の基準(別紙)と、実際の事例を見比べるのも、次の一歩になる。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
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出典について:発掘と復原の細かい経過は奈良文化財研究所の説明に頼っています。首里城の現状は新聞報道にもとづく日付つきの情報で、変わることがあります。本文では「復元」「復原」「再建」などの言葉の定義を決めつけず、出典での使われ方だけを紹介しています。
- 奈良文化財研究所 平城宮跡資料館「平城宮跡資料館 展示案内(復原研究)」。 https://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/guide.html (朱雀門の復原研究の経過、直接資料、類例の参照先、耐震対策。「朱雀門」の項に「今回の復原では平安宮朱雀門が二重門であることなどから二重門と設定し」とある)
- 国土交通省 近畿地方整備局 国営飛鳥歴史公園事務所「平城宮跡歴史公園保存の経緯」。 https://www.kkr.mlit.go.jp/asuka/initiatives-heijo/course.html (1998年に朱雀門・東院庭園の復原が完成。「復原」の表記)
- 琉球新報「大龍柱の暫定結論の撤回を求める要請」(2021年12月9日、2026年1月更新)。 https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1436775.html (絵図の前脚の位置、残欠のノミ跡についての3団体の主張)
- 名古屋城総合事務所「本丸御殿の復元」。 https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/save/honmarugoten/ (昭和実測図309枚、古写真約700枚、障壁画1049面、1930年の旧国宝指定、1945年の焼失)
- 名古屋城総合事務所「本丸御殿」(観覧ガイド)。 https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/guide/honmarugoten/ (1615年の完成、2018年の復元完成、障壁画の復元模写)
- 琉球新報「首里城火災」の報道(2019年10月31日)。 https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1017473.html (2019年10月31日の火災、1992年の復元で戦前資料を寄せ集めたという学芸員の話)
- 琉球新報「首里城の大龍柱『向かい合わせ』に疑問も…技術委『資料を重視』 識者『写真を根拠に』」(2021年12月2日)。 https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1432481.html (2021年12月1日の暫定結論、寸法記・御普請絵図帳・1877年の写真、識者の批判)
- 琉球新報「首里城の報告会」(2022年1月31日)。 https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1462813.html (新資料が見つかれば変わりうること、「100%の答えは見つからない」という委員長の発言)
- 琉球新報「首里城の大龍柱『向かい合わせ』で設置 来週にも仕上げ」(2026年7月17日)。 https://ryukyushimpo.jp/news/entry-5392368.html (2026年7月16日の据え付け、11月の正殿復元完成に向けた工事)
- 大洲城公式ウェブサイト「天守復元」。 https://ozucastle.jp/story/ (天守雛形、明治期の古写真、1996年の報告、2002〜2004年の工事、募金の目標)
- 文化庁「史跡等における歴史的建造物の復元等に関する基準」の決定について(2020年4月)。 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/92199502.html (決定日、復元的整備の範囲の見直し。基準本文は別紙。経緯は 報道発表ページ)
- 東日本旅客鉄道「東京駅丸の内駅舎の保存・復原工事の完成から10年」(2022年9月)。 https://www.jreast.co.jp/press/2022/tokyo/20220922_to01.pdf (2012年10月に工事が完成)
なおした ところ
更新履歴
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