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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

じゅうたんは、いつごろから おうちの ゆかに しかれて いるの?

じゅうたんは、いつから人の暮らしに敷かれてきたのか。古い墓から、畳の国の緞通まで

日本の暮らしに、じゅうたんはどう広がったのか――パジリク古墳から堺緞通まで

分野:歴史・文化

じゅうたんの いちばん ふるい ほんものは、2500ねんほど まえの、ゆうぼくみんの おはかから でて きました。

ところが にほんの むかしの じゅうたんは、ひつじの けでは なく、わた(めん)の いとで おられた ものが ありました。しかも、たたみ 1まいぶんの おおきさが ふつう でした。どうして、そんな すがたに なったのでしょう。だんつうは むろまちじだいに 中国から はいり、えどじだいに にほんでも つくられはじめたと いわれます[2]。でも ふつうの おうちでは、1920ねんだいに なっても、じゅうたんに なじみの ない 人が ほとんどでした[7]。この ページでは、そのみちすじが わかります。

じゅうたんの現存する最古の実物は、約2500年前、山の中の遊牧民の墓から見つかっています。ところが日本の昔のじゅうたん(緞通)には、羊毛ではなく、綿の糸で織られたものがありました。堺の緞通は、綿で織られ、畳1枚ぶんの大きさが基本でした。

なぜ、日本ではそんな姿になったのでしょうか。緞通は室町時代に中国から輸入され、江戸時代に国内でも作られはじめたといわれます[2]。一方、ふつうの家では、1920年代になってもじゅうたんになじみのない人がほとんどだったとされます[7]。この記事を読むと、最古の実物から日本で緞通が根づくまでの道すじと、家の床に広がるのが意外に新しい時代だったことが分かります。

現存する最古のじゅうたんは、ロシア・アルタイ山脈のパジリク古墳から出た紀元前500〜400年ごろの実物とされる[1]。ところが日本に根づいた緞通は、羊毛ではなく綿糸で織る産地があり、堺では綿製で一畳サイズ(幅約90cm)が基本だった[3][5]。

なぜ日本では、遊牧民の敷物がこの形に変わったのか。緞通は室町時代に中国から輸入され、江戸時代に堺・赤穂・佐賀で国内生産が始まったといわれる[2]。しかし一般の家庭では、1920年代になってもほとんどの人がじゅうたんになじみがなかったとされる[7]。このメモを読むと、最古の実物から輸入、国産、堺の畳サイズまでの流れと、家庭に入ったのがいつなのかという、資料で言える範囲が分かる。

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1. いちばん ふるい じゅうたんは、どこで みつかったの?

1. いちばん古いじゅうたんは、山の中の墓から出てきた

1. パジリク古墳のじゅうたんは、誰が織ったのか

ロシアの アルタイさんみゃくという ところに、パジリクと よばれる ふるい おはかが あります。そこから、じゅうたんが でて きました[1]。

つくられたのは、いまから 2500ねん くらい まえと いわれます。いま のこって いる ものの なかで、いちばん ふるい じゅうたんです。

じゅうたんは、ひつじの けが たくさん とれる かわいた ところで くらす、ゆうぼくの 人たちが はじめた と かんがえられて います[1]。ゆうぼくとは、ひつじなどを つれて、とちを うつりながら くらす ことです。

では、この じゅうたんは、どうやって つくるのでしょう。

ロシアのアルタイ山脈に、パジリク古墳と呼ばれる古い墓があります。そこから見つかったじゅうたんが、いま残っている実物のなかでいちばん古いと説明されています。作られたのは紀元前500〜400年ごろ、つまり2500年ほど前です[1]。

ここでは、床に敷く毛足(パイル)のある敷物を、じゅうたんと呼びます。カーペットとも呼ばれます[1]。

はじまりについては、羊毛がたくさん手に入る乾燥地帯で暮らす遊牧の人びとが生み出したとされています[1]。ただし、これは「そう考えられている」という説明です。パジリクのじゅうたんを誰が織ったかについても、墓の持ち主の民族とは別に、近くのペルシャの人びとが織ったと考える人もいるそうです[8]。

では、毛足のある敷物は、どのように作られるのでしょうか。日本にある仲間の「緞通」を例に、見てみましょう。

絨毯は、床の敷物などに使う、パイル組織(毛足)をもつ厚い毛織物の総称で、カーペットともいう[1]。現存する最古の遺品は、ロシア・アルタイ山脈のパジリク古墳から出土した紀元前500〜400年ごろのものとされる[1]。今から2500年ほど前の織物が現物で残っていることが、まず驚きである。

起源は羊毛資源に恵まれた乾燥地帯の遊牧系民族と説明される[1]が、これは「とされる」という水準の記述で、発生地まで決められる証拠が示されているわけではない。パジリクの絨毯についても、出土した墓の人びとが織ったのか、隣接するアケメネス朝ペルシャの人びとが織ったのかには見方が分かれ、産地には議論があって、アルメニアやアケメネス朝ペルシャなど中央アジアの地域が候補に挙げられていると紹介されている[8]。この点は一般向けの紹介記事の要約で読んだものなので、学術的な結論として扱わず、「確定していない」という位置づけにとどめる。

最古の実物が、織り手や産地の議論ごと残っている。では、そもそも毛足のある敷物は、どうやって織られるのか。日本の緞通を例に、その作り方を確かめる。

2. けあしの ある しきものは、どうやって つくるの?

2. 緞通は、毛を一つずつ手で結んで作る

2. 緞通の作り方と名前:地糸に毛を結び、切りそろえる

にほんで むかしから しられて いる じゅうたんの なかまに、「だんつう」が あります。

だんつうは、わたや あさの いとを たてに はって、そこへ、けを 1つずつ てで むすんで いきます。むすび おわったら、はさみなどで けの さきを きりそろえます。すると、ふわっと けが たちます[2]。

ちいさい ものが おおくて、ほぼ しかくの かたちを して います[2]。

この だんつうは、にほんへ、どうやって やって きたのでしょう。

一つずつ結んで、切りそろえる

緞通は、綿や麻の糸(地糸)に、毛を1つずつ手で結びつけて植えていきます。結び終えたら、包丁やはさみで毛先を切りそろえて、毛足を立たせます[2]。

緞通は、じゅうたんの一種です。ふつうのじゅうたんより小ぶりで、ほぼ四角いものを指します[2]。

名前は中国語の当て字

「緞通」という名前は、中国語で敷物を意味する「毯子(タンツ)」に漢字を当てたものです[2]。名前に中国の言葉が残っているのは、緞通が中国から日本へ入ってきたことと関係がありそうです。

では、いつ、どのようにして日本に入ってきたのでしょうか。

緞通は、綿・麻・羊毛などの地糸に、毛を一目ずつ手で結んで植え、包丁または鋏で切って毛足を立てる敷物用の厚い織物である[2]。絨毯の一種だが、とくに小ぶりな方形のものをいう[2]。名称は、中国語の「毯子(タンツ)」への当て字である[2]。

ここで押さえたいのは、「毛を結んで毛足を立てる」ことが、機械ではなく人の手の作業であるという点だ。結ぶ数が多いほど、織り上げには時間がかかる。緞通には、毛を一つずつ結ぶ手作業がある。後の章では、堺や佐賀で作られた緞通を見ていく。

では、この中国由来の敷物は、いつ日本に入り、どこで作られるようになったのか。

3. にほんには、いつ はいって きたの?

3. 日本には、いつ入ってきたのか。奈良の「花氈」はじゅうたん?

3. 日本への到来:正倉院の花氈と、室町の緞通輸入、江戸の国産化

ならの しょうそういんという ところにも、けの しきものが のこって います。「かせん」といって、中国の「とう」と いう くにの じだいに つくられた ものです[6]。

ただ、かせんは、けを むすんだ ものでは ありません。ひつじの けを おして かためた、フェルトの ような ものです。だから、じゅうたんとは すこし ちがう なかまです。

だんつうの ほうは、むろまちじだいに 中国から はいって きたと いわれます[2]。そして えどじだいに、にほんでも つくられはじめました。

では、にほんで いちばん ゆうめいな だんつうは、どこの ものでしょう。

正倉院の「花氈」は、毛を結んだものではない

奈良の正倉院には、8世紀、唐の時代の中国で作られた「花氈(かせん)」が伝わっています[6]。羊毛を固めて作る、フェルトのような敷物です。毛を結んで毛足を立てるじゅうたんとは作り方が違うので、仲間としては毛氈(もうせん)に近いものです。奈良時代には、すでに毛でできた敷物が日本にあった、というところまでが言えます。

緞通は、室町に入り、江戸で国産に

緞通のほうは、室町時代に中国から輸入されたといわれます[2]。江戸時代になると国内でも作られはじめ、堺、赤穂、佐賀が産地として知られました[2]。

この中で、いちばん有名なのが、長崎で中国の織りの技術を習った佐賀の鍋島緞通です[2]。その鍋島緞通は、材料に特徴があります。

日本の敷物史は、「毛を結ぶ絨毯」と「毛を固める毛氈」を分けて読む必要がある。正倉院には、8世紀の唐時代の中国で作られた花氈が伝わる[6]。花氈は羊毛を固めたフェルト状の敷物で、パイルを結ぶ絨毯とは作りが異なる。したがって、「奈良時代にじゅうたんがあった」とは書けず、毛を材料にした敷物がすでに日本に伝わっていた、というところまでが言える範囲である。

緞通の輸入は、室町時代に中国から行われたといわれ、江戸時代に入ると国内生産が始まり、堺・赤穂・佐賀で作られたと説明される[2]。ただし室町時代の輸入は、事典の要約で読んだ記述で、他の資料で補う余地がある。そのため本稿は断定を避け、「いわれる」にとどめる。

産地のうち、最も有名なのは、長崎で中国の織りの技術を習った佐賀の鍋島緞通とされる[2]。では、その技術は誰が持ち込み、なぜ羊毛でなく綿を使ったのか。

4. さがの だんつうは、なぜ わたで おったの?

4. 佐賀の鍋島緞通は、羊毛でなく綿糸で織られた

4. 鍋島緞通:綿糸を使う産地と、伝来をめぐる二つの説明

さがの 「なべしまだんつう」は、にほんで いちばん ふるい だんつうと いわれます。いまから 300ねん くらい まえに、中国から、さがの おぎという まちの あたりへ つたわったと いいます[3]。

ふしぎな ことに、ざいりょうは、がいこくの ひつじの けでは ありません。じもとに たくさん ある わたの いとです。にほんの あつくて しめった きこうにも あって いると いいます[3]。

ひつじの けの しきものは、かわいた ところで うまれました。にほんでは、しめった きこうに あう わたの いとが つかわれた、と いうわけです。

では、おおさかの ほうの さかいでは、どんな だんつうが うまれたのでしょう。

佐賀の鍋島緞通の技術は、約300年前に中国から佐賀の小城町あたりに伝わり、日本で最古の緞通といわれます[3]。

材料は、輸入の羊毛ではなく綿

鍋島緞通の材料は、輸入の羊毛ではなく、地元に豊富な綿糸だとされています。綿糸なので、高温多湿な日本の気候にも合う、と紹介されています[3]。羊毛の敷物は、乾燥した土地で生まれたものです。同じ緞通でも、日本では湿気の多い気候に合わせた材料が選ばれたことがうかがえます。

技術を誰が持ち込んだかは、資料で違う

ただし、伝わり方については、別の資料では、江戸中期に扇町の古賀清右衛門という人が長崎貿易で技術を習ったと説明されることもあります。人物は1つの資料にしか出てこないので、ここでは「そういう説明もある」と紹介するにとどめます。

江戸時代の鍋島緞通は、佐賀藩の御用品で、一般の売り買いは禁じられ、献上品に使われたともいわれます。ただ、これも要約で読んだ話なので、断定はしません。

では、同じ緞通は、大阪の堺ではどんなふうに広まったのでしょうか。

鍋島緞通の技術は、約300年前に中国から佐賀の小城町あたりへ伝わり、日本最古の緞通といわれる[3]。材料は輸入の羊毛ではなく、地元に豊富な綿糸であり、日本の高温多湿の気候に合うと説明される[3]。

パジリクの絨毯が羊毛資源に恵まれた乾燥地帯の産物とされること[1]と比べると、日本の緞通は、材料の選び方が土地の条件に引きつけられて変わった例として読める。ただし資料が述べているのは「綿糸を使う」「気候に合う」ことまでで、「気候に合わせて羊毛をやめた」という因果の順序までは書かれていない。筆者の読み方であると断っておく。

伝来した経緯には、複数の説明がある。上の資料は「約300年前に中国から小城へ」とするが、別の資料は、江戸中期に扇町の古賀清右衛門が長崎貿易で技術を習得したとする。後者は人物が1つの資料にしか出ないため、本稿は「そういう説明もある」と並べるにとどめる。

また、江戸時代の鍋島緞通が佐賀藩の御用品で、一般の売買が禁じられ、献上品に使われたという紹介もある。これも検索で得た要約であり、断定せず、「といわれる」の位置づけである。

では、同じ緞通は、庶民の町でどう広まり、どんな寸法になったのか。堺の例を見る。

5. さかいの だんつうは、どうして たたみの おおきさ なの?

5. 堺の緞通は、畳1枚ぶんの大きさが基本だった

5. 堺緞通:1831年の創業、博覧会、一畳サイズと輸出

おおさかの さかいという まちでも、だんつうが つくられました。はじまりは、1831ねんと いわれます。いとを あきなう 人が、はたおりの 人に たのんで おらせて うりだしたのです[4]。

さかいの だんつうは、わたで つくった、たたみ 1まいぶんの おおきさ(はば 90センチ くらい)が ふつうです[5]。

のちに、ひろい はたおりきが できて、おおきな ものも つくれる ように なりました。ひろまに なんまいも ならべて しきました[5]。

さかい、さが、あこうの 手おりの だんつうは、「にほん さんだい だんつう」と よばれます[4]。

では、いえの ゆかに じゅうたんが ひろまったのは、いつなのでしょう。

1831年、糸物商が売り出した

堺の緞通は、天保2年(1831年)に、糸物商の藤本庄左衛門が泉利兵衛に織らせて、「堺緞通」として売り出したのが始まりとされます[4]。

転機は、1877年(明治10年)の内国勧業博覧会に出品されたことでした。明治の中ごろには、海外にも盛んに輸出されるようになりました[4]。

基本の寸法は、畳1枚ぶん

堺の緞通は、綿製で、1畳サイズ(幅約90cm)が基本です[5]。明治に幅の広い織機ができると大きなものも織れるようになり、広間に何枚も並べて敷かれました。昭和には、主にアメリカへ輸出されました[5]。

堺・鍋島・赤穂の手織緞通は日本三大緞通と呼ばれ、堺緞通の手織技術は、2006年に大阪府の無形民俗文化財に指定されています[4]。

ここまでは、売り物や、広間に敷かれる緞通の話でした。では、ふつうの家の床にじゅうたんが広がったのは、いつなのでしょうか。

堺では、天保2年(1831年)に糸物商の藤本庄左衛門が、泉利兵衛に織らせて堺緞通として売り出したのが始まりとされる[4]。1877年(明治10年)の内国勧業博覧会への出品が転機となり、明治中期には海外にも盛んに輸出された[4]。

寸法に注目したい。堺緞通は綿製の一畳サイズ(幅約90cm)が基本だった[5]。明治に広い織機ができると大きなものも作られ、広間に何枚も並べて敷かれた。昭和には主にアメリカへ輸出された[5]。つまり、一畳という畳と同じ単位が、緞通の基本の大きさでもあった。ただし、「畳に合わせて一畳サイズにした」と資料が書いているわけではなく、畳の国で一畳サイズが基本だったという事実までが確かである。

堺・鍋島・赤穂の手織緞通は日本三大緞通と称され、堺緞通の手織技術は2006年に大阪府の無形民俗文化財(民俗技術)に指定された[4]。

ここまでの緞通は、広間や輸出向けの品として語られている。では、ふつうの家庭の床に広がったのは、いつなのか。

6. ふつうの おうちに ひろまったのは、いつごろ?

6. ふつうの家に広がったのは、意外に新しい

6. 家庭への普及:1920年代の手引書と、資料で言える範囲

20せいきの はじめ、がいこくへ いった 一ぶの きぞくや がくしゃが、じゅうたんを くらしの かぐとして しりました[7]。

1920ねんだいには、じゅうたんを へやの かざりに つかう ほんも でました。それでも、ほとんどの 人は、じゅうたんに なじみが ありませんでした[7]。

だんつうが にほんに きてから、とても ながい じかんが たって います。それでも、ふつうの おうちの ゆかに ひろがるのは、そのずっと あとの ことでした。

日本の人びとが、じゅうたんを日用の家具として知ったのは、そう昔のことではありません。20世紀の初めに欧米を訪れた、ごく一部の貴族・学者・実業家が、じゅうたんを暮らしの道具として知ったと説明されています[7]。

1920年代には、じゅうたんを部屋の飾りとして使うための手引書が、何冊か出ました。それでも、ほとんどの日本人はじゅうたんになじみがなかった、とされています[7]。

緞通が日本に入ってから、とても長い時間がたっています。それでも、広間や輸出品としての歴史と、一般の家の床に敷かれる歴史は、別の道すじをたどったようです。そのあと家庭にどのくらい広まったのかは、この記事で使った資料には数字がないので、ここでは書きません。

20世紀初めに欧米を訪れた、ごく一部の日本の貴族・学者・実業家が、じゅうたんを日用の家具として知った。1920年代には、インテリア用にじゅうたんを使う手引書が日本でも出たが、ほとんどの日本人はじゅうたんになじみがなかったと、学会の論文要旨は述べる[7]。

江戸時代に国産が始まった緞通と、20世紀初めに「日用の家具」として紹介されたじゅうたんとの間には、約100年から300年の開きがある。この間のどこから家庭に広まったのかは、この記事の資料では数字にならない。そのため、「いつ一般に普及した」とは書けず、「1920年代になってもなじみがなかった」という範囲にとどめる。

では、この流れを知ったうえで、自分の周りの敷物を見ると、何が分かるのか。

7. うちの しきものを、しらべて みよう

7. 家の敷物の裏を見て、毛が結ばれているか確かめる

7. 身の回りの敷物から、緞通の作りと大きさを確かめる

おうちで できること

おうちの じゅうたんや ラグの うらを、おとなと いっしょに みて みましょう。けが 1つずつ むすんで あるか、ぬのに うえて あるか、ちがいが わかるかも しれません。

ひもを 90センチ(ものさしで 9ばい ぶん)に きって、たたみ 1まいぶんと くらべて みましょう。へやに なんまい ならべられるかも、かぞえられます。

おでかけで できること

おおさかの さかいし はくぶつかんでは、さかいの しきものの てんじを して いた ことが あります[5]。いまも やって いるかは、ホームページで たしかめて みましょう。

家でできること

家のじゅうたんやラグの裏側を、おとなと一緒に見てみましょう。毛が1つずつ結ばれているのか、布に縫いつけられているのかで、見え方が違うかもしれません。

90cmのひもを作って、畳1枚ぶんの幅と比べると、堺緞通の基本の大きさがつかめます。部屋の幅をそのひもで測ると、何枚並ぶかも数えられます。

出かけてできること

堺市博物館は、過去に堺の敷物の展示を開いています[5]。いまの展示は、市のホームページで調べられます。

もっと知りたくなったら

手織緞通の歴史や技術は、堺市のウェブサイトにまとまっています[4]。

身の回りの敷物は、緞通の作りを確かめる材料になる。裏側から見て、毛を1つずつ結んだものか、布に縫い付けたものか、機械で織ったものかを比べる。堺緞通の基本寸法は、綿製の一畳サイズ(幅約90cm)である[5]。90cmの紐で部屋の幅を測り、何枚分になるかを数えると、広間に何枚も並べて敷かれたという記述[5]の規模が実感できる。

資料を直接読みたい場合は、堺市の手織緞通のページ[4]と、堺市博物館の展覧会のページ[5]が入口になる。二つを読み比べると、産地としての堺の歩みと、展覧会が取り上げた敷物の姿の両方が見えてくる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文の参照番号は、下の資料の番号です。事典・博物館・自治体の紹介を使い、1つの資料だけで章を組み立てないようにしました。

  1. コトバンク「絨毯」 https://kotobank.jp/word/絨毯 (定義、最古の現物、起源の説明)
  2. コトバンク「緞通」 https://kotobank.jp/word/緞通 (作り方、名前の由来、日本への到来、産地)
  3. ACROS福岡「鍋島緞通」 https://acros.or.jp/english/culture/craftwork_d02.html (鍋島緞通の材料と伝来)
  4. 堺市「手織緞通」 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/shokai/bunya/minzoku/teoridantsu.html (堺緞通の始まり、博覧会、文化財指定)
  5. 堺市博物館「堺敷物ものがたり展」 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/exhibition/kikaku_tokubetsu/kako/73723620210618132442783.html (一畳サイズ、広間での使われ方、輸出)
  6. 奈良国立博物館 正倉院展 報告 https://www.museum.or.jp/report/1241 (正倉院の花氈)
  7. Textile Society of America 論文要旨 https://digitalcommons.unl.edu/tsaconf/1193 (20世紀初めの日本とじゅうたん。英語)
  8. Daily Art Magazine「The Timeless Persian Rug」 https://www.dailyartmagazine.com/the-timeless-persian-rug/ (パジリクの絨毯を織った民族をめぐる見方。英語・一般向け紹介)

なおした ところ

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