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はなみの はなは、むかしから さくらだったの?

花見の主役は、いつ梅から桜に代わったのか ── 貴族の宴から江戸の庶民まで

花見は梅から桜へ、貴族から庶民へどう移ったか ── 万葉集の歌数、宮中の花宴、農事暦としての桜、江戸の名所

分野:歴史・文化

日本でいちばん ふるい 歌の ほん『万葉集』には、うめの 歌が 120しゅ ほども あります。さくらの 歌は 40しゅ ほどで、うめの ほうが 3ばい くらい おおいのです[1][2]。

では、さくらを みる 「はなみ」は、いつから さくらの ものに なったのでしょう。どうして みんなが たのしむ ように なったのでしょう。この 記事で、そのながれが わかります。

日本最古の歌集『万葉集』には、梅の歌が約120首あります。桜の歌は40首前後で、数え方にもよりますが、梅のほうが3倍ほど多くなっています[1][2]。奈良時代の人たちが歌にしたかったのは、桜より梅だったようです。

それなら、花見の主役はいつ桜に代わったのでしょうか。しかも、なぜ貴族だけでなく庶民の楽しみにもなったのでしょうか。梅の宴、田植えの目印としての桜、江戸の名所づくりから、その流れが分かります。

『万葉集』に収められた梅の歌は約120首で、花木では萩に次いで多い。桜の歌は資料により41〜43首とされ、梅は桜の3倍前後になる(数え方で変わる)[1][2]。花見の原点は、桜ではなく梅だった可能性が高い。

では、いつ主役が桜に代わり、なぜ庶民まで広がったのか。宮中の花宴、桜を農事の目印とする暮らし、江戸の桜の名所づくりという3つの理由が重なっていた、と資料から読める。その筋道と、諸説に分かれる点が分かる。

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1. さいしょの はなみは、さくらでは なかったの?

1. 最初に楽しまれた花は、桜ではなく梅だった

1. 『万葉集』の歌数と梅花の宴 ── 奈良時代の主役は梅

いまから 1300ねん ほど まえの ならじだい、えらい 人たちが いちばん すきだった 花は うめでした[2]。うめは、もとは 中国から やって きた 花です。いい かおりが して、色も きれいなので、きぞくの あいだで 大にんきに なりました。

730ねんの 1月には、だざいふという ところで、おおとものたびとという 人の やしきに 人が あつまり、うめを みながら 歌を よむ 会が ひらかれました。『万葉集』の うめの 歌 120しゅ ほどの うち、32しゅは この 会で よまれた ものです[1]。

これが、いまの 花見の ごせんぞの ような ものです。ただし、「花見の はじまり」と いいきれる かどうかは、わかっていません。

奈良時代の貴族たちが愛でた花は、桜ではなく梅でした。梅は中国から伝わった花で、遣唐使がもたらした大陸の文化の一つとして、香りの高さと色の鮮やかさが貴族のあいだでもてはやされました[2]。

『万葉集』には梅の歌が約120首あり、花木としては萩に次いで2番目の多さです。そのうち32首は、天平2年(730年)1月13日に、大宰府の長官だった大伴旅人の邸宅で開かれた「梅花の宴」で詠まれました[1]。1つの宴から30首を超える歌が生まれるほど、梅は人を集める花だったことになります。

桜の歌は、資料によって41首、43首などと数え方が分かれますが、梅の3分の1ほどです[2]。では、桜はいつ梅を追いこしたのでしょうか。

『万葉集』の梅の歌は約120首で、花木では萩に次ぐ[1]。桜の歌は資料により41首・43首と割れるが(梅も110首とする資料がある)、どの数え方でも梅は桜の約3倍ほどと見てよい[1][2]。

理由は、梅が中国由来の外来の花で、遣唐使が持ち帰った大陸文化の一つとして貴族に受け入れられたためだ。香りと鮮やかな色が、当時の最先端の教養として好まれたと説明される[2]。天平2年(730年)1月13日、大宰府の長官だった大伴旅人の邸宅で開かれた「梅花の宴」では、一度に32首が詠まれており、歌集全体の梅の歌の4分の1ほどがこの1回の宴に集中している計算になる[1]。

桜が劣っていたわけではない。梅が「教養として楽しむ花」だったのに対し、桜は別の役割で暮らしの中にいたと考えられる(3章)。では、貴族の花見の主役は、どの時点で桜に移ったのか。

2. うめから さくらに かわったのは いつ?

2. 宮中の「花の宴」と、梅から桜への植えかえ

2. 花宴と左近の梅 ── 主役交代の目印と、割れる説

へいあんじだいに なると、おうちの 中で 花を みる 会が、ひらかれるように なりました[2]。812ねんに さがてんのうが しんせんえんという にわで 花を ほめ、文人たちに 詩を つくらせた のが はじまりと されて います[3]。

ところが、この とき 見た 花が さくらだったか どうかは、むかしの ほんには かいて ありません[3]。

もうひとつ、ふしぎな はなしが あります。おうちの 大きな たてものの まえには「さこんの うめ」が うえて ありました。それが、のちに さくらに うえかえられた と つたえられて います[2]。きぞくの すきな 花が、うめから さくらに うつった しるしと いわれます。

けれども、うえかえた じきや わけは、はなしが わかれます。火じで やけた あとに さくらを うえた、と せつめいする 本も あります[4]。

平安時代になると、宮中で花を楽しむ宴が行われるようになりました[2]。通説では、弘仁3年(812年)2月12日に嵯峨天皇が神泉苑で花を賞でて文人に詩を作らせたのが、「花宴の節」の始まりとされます[3]。ただ、史料には花の種類が書かれておらず、4月ごろに咲く桜とは限らない、という指摘もあります[3]。

象徴としてよく語られるのが、紫宸殿の前の「左近の梅」です。この梅がのちに桜へ替わったと伝わり、貴族の関心が梅から桜へ移った印とされます[2]。

ただし、この話には別の説があります。村上天皇の代に起きた火災で梅が焼けたあと、桜を植えたと説明する資料もあります。また、旧嵯峨御所の大覚寺では、いまも左近に梅が置かれ続けています[4]。「いつ、どうして」は1つに決まっておらず、はっきりしているのは、平安のあいだに桜が宮中の花の中心に近づいた、という流れです。

では、宮中の外では、桜はどんな花だったのでしょうか。

宮中で花の宴が行われるようになるのは平安時代で、通説の起点は弘仁3年(812年)2月12日、嵯峨天皇が神泉苑で花を賞で、文人に詩を作らせた催しである(花宴の節)[3]。ところが、史料にはその花の種類が書かれておらず、4月に咲く桜とは限らない。このため「桜の花見の最初」と言い切れない[3]。831年とする資料もあり、年も1つに定まらない[2]。

主役の交代を示す例として、紫宸殿の「左近の梅」が語られる。この梅がのちに桜へ替わったという伝承である[2]。しかし、別の説明では村上天皇の代の火災で梅が焼失し、その後に桜が植えられたとされ、時期も理由も食いちがう。旧嵯峨御所の大覚寺では左近に梅が残り続ける点も、「梅が桜に完全に代わった」とは言えない根拠になる[4]。

したがって、確かなのは「平安の宮中で桜が主役に近づいた」という大きな流れまでで、その転換点を1つの年・1人の天皇に決めるのは難しい。では、桜が貴族の花に選ばれた背景には何があったのか。庶民の側から見る。

3. さくらは、くらしの なかで なにを して いたの?

3. 田んぼの人にとっての桜は、季節を知らせる目印だった

3. 農事暦としての桜 ── 田植えの時期と、収穫を占う習わし

おうちの 人が 歌を よむ 一方、田んぼを つくる 人たちにとって、春の 花と いえば さくらでした[2]。さくらが さくと、「そろそろ 田うえの じきだ」と わかったからです[5]。

さくらが ちる ようすを みて、その 年の おこめが よく できるか どうかを うらなう ならわしも あったと いわれます[5]。

「さくら」と いう 名前に ついては、「さ」は 田の かみさま、「くら」は かみさまが すわる ところ、という せつが あります。かみさまが やどる 木だから「さくら」、という ことです。ただし、ほんとうの 名前の おこりかは、きまって いません[5]。

さくらは、きれいな だけでなく、1ねんの くらしを おしえて くれる 花でも あったのです。

平安の貴族が歌や詩を楽しんだころ、田んぼで働く人たちにとって、春の花といえばやはり桜でした[2]。古くから日本には、桜が咲くのを見て田植えの時期を知り、花の散り具合でその年の収穫を占う風習があったとされます[5]。桜は、花そのものが農作業のカレンダーの役目をしていたことになります。

名前にも、それを思わせる説があります。「さくら」の「さ」を田の神(山の神とする説もあります)、「くら」を神が座る場所と考え、神が宿る木だからサクラと呼ぶようになったという説明です[5]。

ここから、「花見は豊作祈願の儀式から始まった」と言いたくなりますが、これは民俗学の説明の一つで、定説とは言えません。ただ、桜の下に人が集まる理由が、「きれいだから」だけでなかった可能性は十分にあります。

こうした暮らしの花が、江戸時代になると、庶民の行楽の中心になっていきます。

貴族が梅や桜を詩歌の題とした一方で、庶民にとって春の花は桜であり、農耕の時季を知らせる欠かせない花だった[2]。古来、桜の開花で田植えの時期を知り、花の散り具合でその年の収穫を占う風習があったとされる[5]。ここでの桜は鑑賞の対象である前に、暦の代わりであり、収穫の見通しを映す存在だった。

語源説も、この見方と合う。「さ」を田の神(山の神とする説もある)、「くら」を神の座る所とみて、神の宿る木としてサクラと呼ばれたとする説明である[5]。ただし語源は諸説あり、確定していない。

注意したいのは、これらから「花見は豊作祈願の農耕儀礼が起源」と断定できない点だ。民俗学ではこの説明が紹介されるが、通説とまでは言えない。むしろ、「宮中の花宴」と「農事の花」という別々の桜が、江戸期に庶民の行楽として合流したと見るほうが、資料の範囲では無理がない。次に、その合流の場面を見る。

4. みんなが さくらを みに いける ように なったのは?

4. 江戸の名所づくりが、花見を庶民の楽しみにした

4. 醍醐の花見から飛鳥山へ ── 名所づくりと身分をこえる宴

1598ねんには、とよとみひでよしが だいごじで 大きな 花見を ひらきました。およそ 700ぽんの さくらを うえた と いわれます[6]。

のちの えどでは、しょうぐんの よしむねが、えどの あちこちに さくらの めいしょを つくった と いわれます。あすかやまにも 1000ぽん いじょうの さくらを うえはじめ、だれでも きがるに 花見が できる 場所に しました[7]。

花見の せきでは、みぶんに かかわらず 「ぶれいこう」が ゆるされた と いいます[2]。ぶれいこうは、えらい 人も そう でない 人も、おなじ ように たのしむ、と いう いみです。

はるの さくらは、こうして みんなの ものに なって いきました。

桜の花見を大きな催しにした人物の一人が、豊臣秀吉です。慶長3年(1598年)に醍醐寺で盛大な花見を開き、このとき新たに約700本の桜を植えたとされます[6]。いまも毎年4月の第2日曜には「豊太閤花見行列」が行われています。

江戸時代になると、花見は庶民のものになります。八代将軍の徳川吉宗は、享保のころに飛鳥山へ1000本以上の桜を植え始め、庶民が気軽に花見をできる場所として開放しました[7]。江戸の各地に桜の名所を作り、花見の宴では身分を問わず無礼講が許されたとされます[2]。

ここで言えるのは、吉宗が庶民の花見を「始めた」というより、すでにあった桜への親しみを後押しする名所をつくった、ということです。桜が庶民の花だった土台があったから、名所は人を集められたのでしょう。

貴族の花見を大規模な行事に押し上げたのが豊臣秀吉で、慶長3年(1598年)に醍醐寺で開いた花見では、新たに約700本の桜を植えたとされる(資料により「植えた」「集めた」と表現が異なる)[6]。現在も4月第2日曜に「豊太閤花見行列」が続く[6]。

これに対し、庶民の花見を広げたのは江戸の名所づくりである。吉宗は飛鳥山に1000本以上の桜を植え始めたとされ(植樹年は1716・1717・1721年と資料で異なるため、「享保のころ」とするのが安全)、庶民が気軽に花見をできる場所として開放した[7]。花見の宴では身分を問わず無礼講が許されたとされ[2]、貴族の教養だった花見が、誰でも参加できる行楽に変わったと読める。

ここで、桜が庶民にすでに身近な花だったことが効く。名所の開放は、農事の花として親しまれた桜を、「見に行ける場所」へ変えた手だと考えられる。ただし、吉宗が庶民の花見を始めたと言い切るのは、資料の範囲を超える。

5. いまの さくらは、むかしと おなじ さくらなの?

5. 吉宗の桜と、今のソメイヨシノは別の桜

5. ソメイヨシノの登場 ── 江戸末期の園芸種と、花見の景色の変化

いま わたしたちが よく みる さくらの 多くは、「ソメイヨシノ」です。これは、えどの おわりごろに、そめいという ところの 植木屋さんから 出た さくらと いわれます[8]。

ですから、よしむねが うえた あすかやまの さくらは、ソメイヨシノでは ありません[8]。むかしの 人が みた さくらと、いま みる さくらは、ちがう しゅるいなのです。

ソメイヨシノは、めいじの はじめごろから、日本じゅうに ひろまりました。はなみの ふうけいも、すこしずつ かわって きたのです。

いま、花見でよく見る桜の多くは、ソメイヨシノです。これは江戸の末期に、江戸の染井の植木屋から出た園芸種で、オオシマザクラとエドヒガンの雑種と考えられています。明治の初めから、各地に広まりました[8]。起源には別の説もあり、確定していません。

つまり、吉宗が飛鳥山に植えた桜は、ソメイヨシノではありません[8]。江戸の庶民が見た桜と、いま私たちが見ている桜は、同じ「桜」でも別の品種だったことになります。

現在の花見で主流のソメイヨシノは、江戸末期に江戸の染井の植木屋から出た園芸種で、オオシマザクラとエドヒガンの雑種と考えられ、明治初期から各地に広まった[8]。起源には他の説もあり確定していない。

この時期から逆算すれば、吉宗が植えた飛鳥山の桜はソメイヨシノではない。「桜の下で宴を開く」という習慣は連続していても、そこにある桜の品種は時代で入れ替わっている[8]。

6. どうやって もっと しらべて みる?

6. 梅の歌と近所の桜を、数えて調べる

6. 一次資料を当たる ── 歌の数え方と、地元の桜の来歴

「やってみよう」を ひとつ。おうちの 人と、「まちの 公園や 学校の さくらは、いつ だれが うえたの?」と、市の ホームページや 図書かんで しらべて みましょう。

ふるい 歌の ほんを みて、「うめ」と 「さくら」が 出て くる 歌を えらんで みるのも おもしろいです。

『万葉集』の梅と桜の歌は、資料によって数が少し違いました。同じ歌集でも、数え方が変わると数字が変わる例です。国立国会図書館の展示解説は、梅の歌と「梅花の宴」の歌を日本語で紹介しています[1]。

身近なところでは、近所の公園や学校の桜がいつ植えられたのかを、市区町村の案内や図書館の郷土資料で調べられます。ソメイヨシノの多くは、明治以降に植えられたものです。そこから、さらに古い桜の名所の話へも広がっていきます。

812年説と831年説、花の種類の問題は、『日本後紀』などの原典と校注にあたると、自分の目で読み比べられる。また『万葉集』の桜と梅の歌数は、数え方が資料で異なるため、国立国会図書館の解説と別の解説を比べて、自分で数えて確かめる課題としても使える[1][2]。

身近な調べ方としては、地元の桜の名所の植樹の記録を、自治体の資料や郷土史で当たる方法がある。植えられた時代によって、桜に込められた意味が違うことが見えてくる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文の参照番号に対応する資料です。

  1. 国立国会図書館 展示解説(梅) https://www.ndl.go.jp/gallery/exhibitions/202501 (『万葉集』の梅の歌の数、梅花の宴)
  2. 和楽web「花見の歴史」 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/2537/ (梅の伝来、左近の梅、庶民の花見、無礼講)
  3. Sake Museum 花見の解説(812年説) https://sake-museum.jp/en/?p=512 (嵯峨天皇の花宴。英語のページ)
  4. 京阪電鉄 京都ぶらり(梅) https://www.keihan.co.jp/navi/kyoto_tsu/tsu201602.html (左近の梅の別説)
  5. 国土交通省 関東地方整備局「富士山と花」 https://www.ktr.mlit.go.jp/honkyoku/kikaku/fuji100/highlight/flower.htm (桜の語源説、田植えと収穫の占い)
  6. nippon.com 桜の名所 https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/sakura00126037/ (醍醐の花見)
  7. nippon.com 名所江戸百景 飛鳥山 https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu004083/ (飛鳥山の桜の植樹)
  8. コトバンク「ソメイヨシノ」 https://kotobank.jp/word/%E3%82%BD%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%8E (ソメイヨシノの起源)

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