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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

デパートでは、かいものの ほかに どんな ことが できるように なったの?

デパートでは何をする場所なのか ── 座って待つ店から、食べて遊んで見る場所へ

百貨店は買い物のほかに何をする場所になったか ── 座売りの廃止から、食堂・屋上・展覧会・催事まで

分野:歴史・文化

むかしの デパートの まえの お店では、お客さんが 畳たたみの 上に すわって いました。店の 人が 蔵くらから しなものを 出して きて、見せて くれたのです。

いまは、食べたり、あそんだり、絵を 見たり できます。いつから そう なったのでしょう。この ページでは、しょくどうや 屋上や てんらんかいが ふえて いった ようすが わかります。

明治のなかばまで、デパートの前身である呉服店では、客は畳に座り、店の人が蔵から出してきた商品を見て選んでいました。客が目にするのは、店の人が出してくれた商品でした。

それが、食堂で食べ、屋上で遊び、展覧会で絵を見る場所に変わっていきました。大正半ば頃に食券方式を始めた白木屋の食堂は、売上が4倍になったそうです。この記事を読むと、座売りをやめた明治末から昭和初期までに、デパートに何が加わっていったのかが分かります。

明治半ばまでの呉服店は、客が畳に座り、店員が蔵から出す商品を選ぶ「座売り」だった[1]。この売り方は、明治末に「陳列」へ替わった。

では、食堂・屋上・展覧会は、いつ、どの店が始めたのか。国立国会図書館の連載や社史などの資料から、百貨店に加わった場面を順に見ていくと、「初」とされる出来事の年に資料間のずれがあることも含めて分かる。

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1. むかしの お店は、すわって まって いた

1. 客が畳に座って待つ店だった

1. 座売りから陳列へ ── 明治末に売り方が替わった

むかし、きものを うる お店では、お客さんが 畳たたみの 上に すわって いました。店の 人が 蔵くらから しなものを 出して きます。この うりかたを「ざうり」と いいます[1]。

ところが 明治めいじの おわりごろ、三越みつこしや しろきや、高島屋などが ざうりを やめました。しなものを ならべて 見せる ように したのです。外国の お店に まなんだ、と 書かれて います[1]。

ならべて 見せる ことを「ちんれつ」と いいます。お客さんは、自分の 目で 見て えらべる ように なりました。

ここから、お店が 少しずつ かわって いきます。

蔵から出してもらう買い物

明治の半ばまでの呉服店では、客は畳に座り、店の人に蔵から商品を出してもらって選びました。これを座売りといいます。呉服は着物の布のことで、客は店の人が持ってきたものの中から選ぶ形でした[1]。

並べて見せる店へ

明治の末になると、三越・白木屋・高島屋などが座売りをやめ、欧米の方式に学んで、商品を並べて見せる「陳列」を取り入れました[1]。客は、店の人が出してくれるものだけでなく、並んだ商品を自分の目で見て選べるようになったのです。

この変化が、次の問いにつながります。見て選べる店になったら、店は「買う」ことのほかに、何をするようになったのでしょうか。

明治半ばまでの呉服店は、客が畳に座り、店員が蔵から商品を出して見せる座売りで商っていた。客が目にするのは店員が蔵から出したものに限られていた[1]。

明治末になると、三越・白木屋・高島屋などが座売りを廃止し、欧米の方式に学んで多くの商品を「陳列」するようになった[1]。陳列とは、商品を客の目に触れる形で並べることで、これによって客は店員の出す順序に頼らず、自分で見比べて選べる。

ただし、この変化の時期は「明治末」としか言えない。三越・白木屋・高島屋が同じ年にやめたかどうかは、使った資料からは分からない。そのため本稿は、座売りの廃止を一つの年に固定せず、「明治末に各店が替えた」ものとして扱う。では、売り方が替わった店は、何を名乗り、何を足していったのか。

2. 「デパートメントストア」と なのった あとで

2. 名乗ってから10年かけて、売り場がそろっていった

2. 「デパートメントストア宣言」と、1914年の新館 ── 売り場がそろうまで

1904年、三越みつこしは「デパートメントストア」に なる、と お客さんに しらせました。きものだけでなく、いろいろな ものを あつかう お店に なる、と いう ことです[5]。ただし、年は 1905年と する 本も あります。しらせを 出した 月と、新聞に のせた 月が ちがうからです。

でも、その ころの うりあげの ちゅうしんは、まだ きものでした[5]。

1914年に あたらしい たてものが できると、食べ物や 花・木の うり場が 入りました[5]。エスカレーターや エレベーターも ついて いました。「日本で はじめて」と いわれて います[7]。

1896年に 高島屋の 京都店が ショーウィンドウを つけたのが、ほかの お店に ひろがって いった はじまりです[3]。ショーウィンドウは、ガラスごしに しなものを 見せる まどです。

宣言の年は、1つに決まらない

三越は1904年12月に株式会社三越呉服店になり、同じ月に「デパートメントストア宣言」を示しました。新聞各紙に発表されたのは1905年1月2日です[5]。資料によって1904年とも1905年ともあるのは、宣言を示した月と新聞発表のどちらを数えるかのちがいです。

宣言したからといって、すぐに何でも売る店になったわけではありません。当時の売上の中心は、なお呉服でした[5]。

10年後の新しい建物

宣言から10年後の1914年、日本橋三越の新しい建物が完成し、食料品と園芸の売り場が加わりました[5]。この建物には、資料で「日本初」とされるエスカレーターやエレベーター、暖房設備も備わっていました[7]。また、1896年に高島屋の京都店が拡張工事でショーウィンドウを設けたことが、のちに多くの百貨店へ広がったとされます[3]。

売り場は広がりました。では、買う以外に、人が長くいられる理由は何だったのでしょうか。

三越は1904年12月に株式会社三越呉服店を設立し、その月のうちに「デパートメントストア宣言」を示した。新聞各紙への発表は翌1905年1月2日だった[5]。宣言の年を1904年とする資料と1905年とする資料があるのは、宣言を示した月と新聞発表のどちらを基準にするかの差である。

ただし宣言は、売り場の実態が先に変わったことを意味しない。宣言当時の売上の中心はなお呉服で、食料品・園芸の売り場が入ったのは1914年9月の新館竣工に合わせてである[5]。つまり呉服店が名前を変えるのと、売り場がそろうのとの間に約10年の差があった。

設備の面でも同じことが言える。1914年の日本橋三越本館は鉄筋コンクリート造5階建てで、資料で「日本初」とされるエスカレーターやエレベーター、暖房設備を備えた[7]。またショーウィンドウは、1896年に高島屋京都店の拡張工事で設けられ、以後多くの百貨店に広がった[3]。陳列の考え方は、店の中だけでなく通りに面した窓にも及んでいた。

3. おなかが すいたら、しょくどうで

3. 食堂の入口で券を売ると、何が変わったのか

3. 白木屋の食堂(1911年)と食券 ── 回転率と売上

1911年、しろきやが、デパートで はじめての ほんかくてきな しょくどうを ひらきました[2]。

それから しばらくして、入口の ガラスの はこに、食べ物の みほんを ならべました。お客さんは、入口で けんを 買って 席せきに 行きます。すると、人が つぎつぎに 入れかわれる ように なり、うりあげは 4ばいに なったと いわれます[2]。

お子さまランチの はじまりも、デパートと いわれて います。1930年、日本橋三越みつこしの しょくどうが「おこさま ようしょく」と いう 名前で、1まいの おさらに 子どもの すきな ものを のせて 出したのが はじまりと されて います[6]。これは 三越みつこしの せつめいです。

見本と券で、人の流れが速くなった

白木屋は、1911(明治44)年に、日本の百貨店で初めての本格的な食堂を開きました。1903年にも飲食の場を設けていますが、「本格的な食堂」としては1911年が最初とされます[2]。

大正半ば頃には、メニューの見本をガラスケースに並べ、入口で食券を売る方式を始めました。客は見本を見て食べたいものを決め、券を買って席に着きます。こうして回転率が上がり、売上は4倍になったそうです[2]。

お子様ランチの出どころ

お子様ランチは、1930(昭和5)年に日本橋三越の食堂が「御子様洋食」の名前で出したのが始まりとされます。ワンプレートに子どもの好きなメニューを盛った料理で、これは三越側の説明です[6]。旗の由来や考案者は、今回の資料では分かりません。

買い物のついでに食べる場所ができると、家族は店で過ごす時間を延ばせます。では、食べたあとの子どもは、どこで遊んだのでしょうか。

百貨店で初めて本格的な食堂を開いたのは、1911(明治44)年の白木屋である。白木屋は1903年にも飲食の場を設けているため、「初の飲食設備」ではなく「初の本格的な食堂」と書くのが正確だ[2]。

大正半ば頃には、メニューの見本をガラスケースに並べ、入口で食券を売る方式を始めた。客は席に着く前に食べるものを決める形になり、回転率が上がった。連載は、売上が4倍になったと伝える[2]。ただしこの4倍は、方式の変更だけの効果なのか、客数や時期の変化も含むのかは、資料からは分からない。

お子様ランチについては、1930(昭和5)年に日本橋三越の食堂が「御子様洋食」の名でワンプレートに子どもの好む料理を盛ったのが始まり、という三越側の説明がある[6]。企業の自己説明にとどまり、旗の由来・考案者・価格は資料にない。したがって「始まりとされる」以上には書けない。食堂は1911年、子ども向けの皿は1930年と、約20年の間に、子どもの好きな料理まで食堂の品書きに加わったことになる。

4. 屋上に 庭が あって、のりものが あった

4. 屋上は、庭であり、遊び場にもなった

4. 屋上庭園(1907年とされる)と遊戯施設 ── 滞在する場所への広がり

1907年、三越みつこしが 屋上を「空中庭園」と して ひらきました。日本の デパートでは はじめてと されて います[2]。

しろきやの 屋上庭園には、すずしい のみものを 出す ところや、ぼんさいを ならべる 場所も ありました[2]。

1931年に ひらいた 松まつ屋浅あさ草には、あそび場の「スポーツランド」が あり、家ぞくづれで にぎわいました[2]。デパートの あそび場では、小さな きしゃ(まめきしゃ)が、1回 10せんで えんの 中を 2しゅう して、子どもに いちばん 人気でした。10せんは、1円の 10ぶんの 1です。

空の上の庭

三越は、日本の百貨店で初めて屋上を「空中庭園」として開放したとされます。1907年のことです[2]。白木屋の屋上庭園には、清涼飲料水を飲める場所や、盆栽を並べた場所がありました[2]。

子どもに人気だった豆汽車

1931(昭和6)年に開店した松屋浅草には、遊戯施設を集めた「スポーツランド」があり、家族連れでにぎわいました。連載には、1回10銭で園内を2周する豆汽車が、子どもに最も人気のアトラクションだったという紹介もあります[2]。10銭は1円の10分の1です。

庭、飲み物、盆栽、豆汽車と並べると、売り場とは別に、ただ過ごすための場所が増えていったことが分かります。では、売り物ではないものを見せる動きは、いつ始まったのでしょうか。

屋上は、売り場にしなくても成り立つ空間である。百貨店は、そこを何に使ったのか。三越は日本の百貨店で初めて屋上を「空中庭園」として開放したとされ、年は1907年だが、この年は連載の記述が中心で、他資料との突き合わせは二次的な情報にとどまる[2]。そのため本稿は「1907年とされる」とする。

白木屋の屋上庭園には清涼飲料水の召し上がり所や盆栽陳列場があり、飲食と展示が屋上に持ち上げられていた[2]。庭と飲み物の場は、商品を売る場とは別の目的の空間である。

遊戯施設の例としては、1931(昭和6)年開店の松屋浅草の「スポーツランド」があり、家族連れでにぎわった。連載はまた、1回10銭で園内を2周する豆汽車を、子どもに最も人気のアトラクションとして紹介する[2]。豆汽車が松屋浅草のものかどうかは、出典に明記がないため、本稿は結びつけない。10銭は1円の10分の1にあたる。食堂(1911年)・屋上庭園(1907年とされる)・遊戯施設(1931年)と並べると、買い物以外の目的の場が、四半世紀ほどの間に次々と現れたことが分かる。

5. 絵や ふくを 見に 行く

5. 「売らないもの」を見せる展覧会とファッションショー

5. 百貨店の美術展覧会(1908年とされる)と日本初のファッションショー(1927年)

デパートでは、売り物では ない ものを 見せる ことも はじまりました。

1908年11月、大阪おおさか三越みつこしで 日本画の かけじくの 展覧会てんらんかいが ひらかれました。デパートの 美術びじゅつの 展覧会てんらんかいの はじめと されて います[2]。

1927年9月には、日本橋三越みつこしの ホールで、日本で はじめての ファッションショーが ひらかれました[2]。

うりものを ならべる だけでなく、見せる ことも、デパートの しごとに なって いきました。

絵を見に行く百貨店

百貨店業界で最初の美術展覧会とされるのは、1908(明治41)年11月に大阪三越で開かれた、日本画の掛け軸を扱う「半切画展覧会」です[2]。「初」と書くときは「とされる」を付けます。別の資料では、1904年に三越で開かれた光琳の遺品展覧会を最初期とするものもあるからです。

服を見せる催し

1927(昭和2)年9月には、日本橋三越の「三越ホール」で、日本初のファッションショーが開かれました[2]。服や着物は売り物でもありますが、ショーは商品を並べるだけでなく「見せる」催しです。

食べる、遊ぶ、見る。こうして店に人がいる理由が増えました。では、その流れは、いまの催しにも残っているのでしょうか。

百貨店は売り物を並べる場所だったのに、なぜ売り物ではないものを見せる場に変わったのか。美術展覧会の最初は、資料で食いちがう。国立国会図書館の連載は、1908(明治41)年11月に大阪三越で開かれた日本画の「半切画展覧会」を、百貨店業界初の美術展覧会とする[2]。一方、別の資料は、1904年の三越「光琳遺品展覧会」を最初期とする。したがって「初」は「とされる」を付けて書き、年を一つに決めつけない。

ファッションショーについては、1927(昭和2)年9月に日本橋三越の「三越ホール」で開かれたものを、日本初とする[2]。ここでも「初」は連載の記述に拠る。

この二つの共通点は、見せる対象が、必ずしも店頭の商品でないことである。掛け軸の展覧会は売り場の外の「鑑賞」を、ファッションショーは服を「並べる」のではなく「見せる」ことを、百貨店の仕事に加えた。分かっているのは、1900年代から1920年代にかけて、百貨店の催しが、売り場の外へ広がっていたことである。

6. いまの「北海道の 名物 まつり」も、そのなかま?

6. 物産展へ ── 買う場所が「出かける場所」だった

6. 北海道物産展(1951年とされる) ── 催事として定着した形

いまの デパートで 人気の「北海道の 名物 まつり」。1951年に 高島屋が 考えて ひらいたのが、日本で はじめてと いわれて います[8]。

国立国会図書館の れんさいは、デパートを「子どもから おとしよりまで、だれもが わくわくする、身近な ふつうとは ちがう 場所」と しょうかいして います[4]。

むかしの お店は、すわって まつ ところでした。いまは、食べて、あそんで、見て、買う ところです。

催事としての物産展

北海道物産展は、1951(昭和26)年に高島屋が企画したのが国内で初めてとされ、いまは各地の百貨店の目玉の催事になっています[8]。この年は、高島屋が企画したとする資料に基づきます。

「身近な非日常」という見方

国立国会図書館の連載は、百貨店を「お子様からお年を召した方まで誰もが心華やぐ、身近な非日常空間」と位置づけ、明治末期から昭和初期の百貨店を取りあげています[4]。座って待つ店から始まって、食堂・屋上・展覧会・催事が加わった流れを見ると、この「非日常」は、少しずつ積み重なったものと読めます。

北海道物産展は、1951年に高島屋が企画したのが国内初とされ、現在は各地の百貨店の目玉催事になっている[8]。本稿は、高島屋が企画したとする資料に基づき「1951年とされる」と書く。

これまでの流れを並べると、1896年にショーウィンドウ、1907年(とされる)に屋上庭園、1911年に食堂、1914年に新館、1927年にファッションショーと続き、1951年の物産展に至る。約55年で、百貨店は「売る」から「長くいる・出かける」場所を抱えるようになった。国立国会図書館の連載は、そうした百貨店を「身近な非日常空間」と位置づけている[4]。

ただし、これは資料に残った「初」を並べた年表であり、各店が同じ順序で同じことを始めたとは限らない。現在の店舗数や売上高などの数字は、本稿の資料にはなく、載せていない。

いつもの デパートで、「かう いがい」を 3つ さがそう

近くのデパートで、「買う以外」の場所を3つ数えてみる

この記事で使った資料と、現地で確かめられること

つぎに デパートへ 行ったら、入口の フロアガイド(かいごとの あんない)を 見て みましょう。

うり場の ほかに、しょくどう、屋上、てんらんかいや イベントの 場所が あるか、3つ さがして みます。見つけたら、「むかしは なかったかも」と 考えて みましょう。

はしらず、お店の 人の いう ことを きいて、あんぜんに 見て まわります。

次にデパートへ行ったら、入口のフロアガイドを見て、売り場以外に何があるかを数えてみてください。食堂、屋上、催事場、ホール、展示室のように、「買う」以外のためにある場所が見つかることが多いでしょう。

見つけたら、この記事に出てきた「食堂(1911年)」「屋上(1907年とされる)」「展覧会(1908年とされる)」のどれに近いかを考えます。店ごとに、今あるものは変わります。売り場の案内には、季節ごとの催事も載っています。

もっと調べたいときは、国立国会図書館「本の万華鏡」第27回「百貨店ある記」を読むと、この記事で使った出来事が、ほかの店の話も含めて詳しく書かれています。

この記事の主な根拠は、国立国会図書館「本の万華鏡」第27回「百貨店ある記」である[1][3][4]。座売りの廃止・食堂・屋上・遊戯施設・展覧会・ファッションショーの記述が、1つの連載にまとまっている。

ただし、その連載の「初」の記述(屋上庭園、展覧会など)は、他の資料と突き合わせて確かめると、年や順序が異なる場合がある。三越の宣言は社史[5]、日本橋三越本館は中央区の解説[7]、お子様ランチは企業の説明[6]、物産展は新聞記事[8]に拠っており、種類の異なる出典を使ったことで、年のずれが見えてきた。

現地で確かめるには、近くの百貨店のフロアガイドで、食堂・屋上・ホール・催事場が何階にあるかを数えるとよい。年表と照らして、どの機能が自分の街の店にあるかを確かめられる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

国立国会図書館の連載を中心に、社史・自治体の解説・企業の説明・新聞記事を使いました。「初」とされる出来事は、資料により年がずれます。

  1. 国立国会図書館「本の万華鏡 第27回 百貨店ある記」2・3 https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/27/2.html (座売りから陳列へ)
  2. 国立国会図書館「本の万華鏡 第27回 百貨店ある記」3 https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/27/3.html (食堂・屋上・遊戯施設・展覧会の記述)
  3. 国立国会図書館「本の万華鏡 第27回 百貨店ある記」1 https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/27/1.html (ショーウィンドウ)
  4. 国立国会図書館「本の万華鏡 第27回」はじめに https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/27/index.html (百貨店の位置づけ)
  5. The社史 三越「デパートメントストア宣言」 https://the-shashi.com/tse/8231/decisions/department-store-declaration-1904/ (宣言の時期、売り場の拡大)
  6. ぐるなび 日本橋三越本店 カフェ&レストラン ランドマーク https://r.gnavi.co.jp/1thmeenk0000/ (お子様ランチの由来の三越側の説明)
  7. 中央区 文化財解説(三越本店本館) https://www.city.chuo.lg.jp/a0052/bunkakankou/rekishi/kunibunkazai/030221.html (1914年の本館と設備)
  8. 北海道新聞(高島屋と札幌の記事) https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1117266/ (北海道物産展の始まり)

なおした ところ

更新履歴

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