1. せかいの 食たくも、はじめは「しまう もの」だった?
1. 西洋の食卓は、食べるときだけ組み立てる板だった
1. 架台の上の板 ── 西洋の食卓も「使うときだけ出す」ものだった
ヨーロッパの 中ごろの 時だいには、食たくは 板を 台の 上に のせた だけの ものが 多かったそうです[3]。台は 「かだい」と よばれる かんたんな 足です。ごはんの ときに くみたてて、おわれば かたづけました。
この 組み立てて しまう テーブルは、16せいきごろまで、ヨーロッパで いちばん ふつうの かたちだった と いわれます[4]。そのあとで、しっかりした わくの ある テーブルに かわって いきました。
もっと むかしの 目で見ると、四本足の つくえは、古代エジプトの ころから ある かたちです[3]。ローマの つくえは、ねころんで 食べる ための ものなので、ひくかった そうです[3]。
では、日本の 家は、どうだったのでしょう。
中世のヨーロッパの食卓は、架台(トレッスル)という簡単な足の上に、ゆるい板をのせただけのものが多かったとされます。食事のときに組み立て、終われば片づけます。組み立ても収納も手軽だったことが、この形の特徴でした[3]。
この架台式の食卓は、百科事典(Grove Encyclopedia of Decorative Arts)を引くウィキペディアの解説によると、16世紀ごろまで西洋でもっとも一般的な形でした。そのあと、しっかりした枠組みのある食卓(ゲートレッグ型やリフェクトリー型など)に置きかわっていきます[4]。
もっと昔の机にも、少しだけ触れておきます。四本脚の机は古代エジプト以来の形とされ、ギリシャ・ローマの机は祭壇のように側面が板になったものが多かったと、家具史の解説にあります。ローマの机は寝椅子で食べるため、低かったそうです[3]。ただし、これらが食事専用だったとは限りません。
世界でも「出して、しまう」食卓が長く続いたとすると、日本の家ではどうだったのでしょうか。
中世ヨーロッパの食卓は、架台(トレッスル)の上にゆるい板を置いただけのものが多く、食事のときに組み立て、終われば片づけられた。組み立てと収納が簡単だったことが、この形が広く使われた理由の一つと考えられる[3]。Grove Encyclopedia of Decorative Arts(Campbell, 第2巻p.411)を引くウィキペディアの解説では、この架台式が16世紀まで西洋でもっとも一般的な食卓の形だったとされ、その後に枠組みのしっかりした食卓(ゲートレッグ型・リフェクトリー型など)へ置きかわった[4]。
古い時代の机についても、家具史の解説は、四本脚の机が古代エジプト以来の形であること、ギリシャ・ローマの机が祭壇のように側面が板になったものが多いこと、ローマの机は寝椅子で食べるため低かったことを述べる[3]。これらは机の形の話で、食事専用だったとまでは言えない。
ここから言えるのは、食卓が「常に出ている家具」になったのは歴史の中では新しい部類で、むしろ「必要なときだけ出す」形が長く使われた、という点である。では、日本の狭い家では、食卓はどんな形をしていたか。
2. ひとりずつの はこぜんは、なぜ しまえたの?
2. 一人ずつの箱膳は、食器の箱がそのまま食卓だった
2. 箱膳 ── 食器の箱がそのまま食卓になる、場所を取らない工夫
むかしの 日本の 家で、よく つかわれた のが 「はこぜん」です。はこの 中に、じぶんの おちゃわんや おはしを しまって おきます[5]。
ごはんの ときは、はこの ふたを ひっくりかえして、その 上に おちゃわんを ならべます。ふたが そのまま おぜんに なるのです[5]。
はこぜんは 小さくて、ばしょを とりません。4じょうはん ほどの たたみの 部屋で くらす ながやの 家でも、べんりでした[5]。
食べおわったら、食きを また はこに しまいます。ところで、水で あらうのは、おおい ちいきでも 月に 数回、すくない ちいきでは 年に 数回だったそうです[5]。そのころの 水は、いどや さわから くんで くる、だいじな ものでした。
はこぜんは 「ひとり ひとつ」ですが、みんなで かこむ テーブルでは ありません。それが、次の かわりめに なります。
江戸時代に、下級武士から庶民へ広まったのが箱膳です。食器をしまう箱で、食事のときはふたを返して膳にします。一人に一つずつ持ちました[5]。
箱膳のよいところは、小さくおさまって場所を取らないことでした。4畳半ほどの畳の間で暮らす長屋でも、重宝されたといいます[5]。食べる場所とは別に、食卓用の広い場所を用意しなくてもすむ道具だった、と読めます。
もう一つ、驚く話があります。箱膳の食器は、地域によって、月に数回から年に数回しか水洗いしなかったそうです[5]。当時の水は、井戸や沢から汲んでくる貴重なものでした。箱膳はそうした暮らしの中で使われていた道具です。地域差があり、全国どこでも同じだったわけではありません。
箱膳は一人用なので、家族で囲む食卓とは少し違います。家族で一つの台を囲む形は、いつ広まったのでしょうか。
江戸時代、下級武士から庶民へ広まった箱膳は、食器をしまう箱のふたを返せば膳になるという、収納と食卓を兼ねた道具だった。小さくおさまりスペースを取らないため、4畳半ほどの畳の間で暮らす長屋でも重宝されたという[5]。西洋の架台式の板が「組み立てて、しまう」道具だったのに対し、箱膳は「しまってある箱が、そのまま食卓になる」道具で、同じ「場所を取らない」でも解き方が違う。
箱膳の食器は、水洗いが多い地域でも月に数回、少ない地域では年に数回だったとされる。当時の水は井戸や沢から汲む貴重なものだった[5]。これは全国一律ではなく、地域差のある話である。洗う頻度と水の貴重さの結びつきは資料の説明をもとにした読みで、一人ずつの膳が選ばれた理由とまでは言えない。
箱膳は銘々膳の一つで、食事の場に「家族で囲む一つの台」はまだ必要なかった。では、家族が一つの台を囲む形は、どこから広まったか。
3. 足を たためる ちゃぶだいは、いつ ふえたの?
3. 折りたためるちゃぶ台が、箱膳に代わっていった
3. ちゃぶ台への移行は、都市で大正期、農村で昭和9年ごろがピーク
つぎに ひろまった のが 「ちゃぶだい」です。足が おれる ので、ごはんが おわったら たたんで、かたづけられます。
1925ねんごろには、はこぜんなど ひとりずつの おぜんよりも、ちゃぶだいで 食べる 人が ふえた、という ちょうさも あるそうです[1]。ただし、ちょうさの 数や 方ほうは、わかりません。
町では 1923ねんの 大きな じしんの ころから、ちゃぶだいへの かわりめが すすんだ、と いわれます[1]。
いなかでは、おそくまで はこぜんが つかわれました。はこぜんから ちゃぶだいへ かわる うごきが いちばん さかんだったのは 1934ねんごろで、一部の むらでは、1955ねんから 1964ねんごろまで つかわれた そうです[5]。
ちゃぶだいの 家族は、ひとつの 台を みんなで かこみます。なのに、テーブルは まだ 出しっぱなしでは ありません。
ちゃぶ台は、折りたためる脚のついた食卓です。食べるときに出して家族で囲み、食べ終わればたたんで片づけます。箱膳のように一人ずつではなく、一つの台を囲むのが大きなちがいです。
三菱電機の解説によると、1923(大正12)年の関東大震災ごろから、都市でちゃぶ台への移行が進んだとされます。1925(大正14)年ごろには、箱膳などの銘々膳よりちゃぶ台で食べる人のほうが多くなったという調査もあるようです[1]。ただし、調査の対象や方法、割合の数字は、この資料にはありません。
一方、農村では箱膳が長く残りました。箱膳から移る動きのピークは1934(昭和9)年ごろで、一部の農村では昭和30年代ごろまで箱膳が使われていたそうです[5]。都市と農村で、食卓の変化には30年近い時間差があったことになります。
こうして家族で囲む台が広まりました。それでもちゃぶ台は、片づける台です。出しっぱなしの食卓は、どこから始まったのでしょうか。
折りたためる脚を備えたちゃぶ台は、箱膳(一人用)に代わる家族共用の食卓として広がった。三菱電機の解説によると、都市では関東大震災(1923年)ごろから移行が進み、1925(大正14)年ごろには、銘々膳よりちゃぶ台で食事をする人のほうが多くなったという調査もある[1]。ただし調査の対象・方法・割合は資料に記されていない。
農村は事情が異なる。箱膳からの移行のピークは1934(昭和9)年ごろで、一部の農村では昭和30年代ごろまで箱膳が使われた[5]。都市で大正期に進んだ変化が、農村では昭和30年代にまで尾を引いたことになる。生活の変化は日本中で一斉に起きたのではなく、地域によって時間差があった。
ここで確かめたいのは、ちゃぶ台は折りたためるため、食後は片づけられる食卓だという点だ。つまりこの段階でも、食卓は「出してはしまう」もので、西洋の架台式と性質は近い。出しっぱなしに変わるには、家の側の変化、つまり間取りの変化が必要だった。
4. 公だんの テーブルは、どこが あたらしかったの?
4. 1955年、公団の小さな台所に造り付けのテーブルが置かれた
4. 食寝分離論からダイニングキッチンへ ── 造り付けのテーブルが出しっぱなしを可能にした
ちゃぶ台の つぎに、家の かたちが かわります。1941ねんごろ、にしやまうぞうと いう けんちくの 先生が 「食べる 場所と ねる 場所は、わけよう」と かんがえました。せまい 家でも できるように、と 考えた のです[2]。
1951ねんには、台所を 広げて 食じの 場所と いっしょにした 間どりが、公えいの 住たくに とりいれられました[2]。
1955ねんに、日本住たく公だんが できました。「55-4N-2DK」と いう しゅるいの 家の ダイニングキッチンには、つくりつけの テーブルが ありました[2]。広さは 8へいほうメートルほどで、たたみ 5まいぶんに すこし たりないくらいです。
つくりつけだと、うごかせません。食べる ときも、食べない ときも、そこに あります。いすに すわって 食べる、あたらしい くらしでした[2]。
2DKの 家では、4じょうはんの 台所が 6じょうに 広がり、そこに テーブルが おかれました。ちゃぶだいの 茶の間と くらべて、「モダンな くらしの しるし」と みられた そうです[6]。
戦前の1941年ごろ(1942年とする資料もあります)、建築学者の西山夘三は「食寝分離論」を説きました。狭い家でも、食事をする場所と寝る場所を分けようという考えです[2]。ちゃぶ台を出して食べ、同じ部屋で寝る暮らしを変えよう、という問いかけでもありました。
戦後、1951(昭和26)年に採用された公営住宅の標準設計「51C型」は、台所を広げて食事室と兼ねる間取りを取り入れました[2]。そして1955年に日本住宅公団が発足します。「55-4N-2DK」型のダイニングキッチンは約8㎡(7.97㎡)の小さな空間で、造り付けのテーブルが置かれ、食事と台所の両方が椅子式になりました[2]。7.97㎡は、畳に直すと5枚弱の広さです。
造り付けのテーブルは、動かせないので、使うときだけ出す台ではありません。出しておくことが前提の食卓でした。ウィキペディアの解説では、公団の2DK55型で食事室兼台所が4畳半から6畳に広がってテーブルが置かれ、茶の間でちゃぶ台を囲む暮らしと比べて「モダンな生活の象徴」と受け止められた、とされています[6]。
三菱電機の解説は、戦後、ちゃぶ台やテーブルを常に出しておく生活様式になり、食べ物をしまう蠅帳(はいちょう)の形も変わったと述べます[1]。1971(昭和46)年には、ちゃぶ台よりテーブル派が多くなったという調査もあるようです[5]。
狭い家の食卓をめぐる考え方は、戦前から動いていた。建築学者の西山夘三の食寝分離論(1941年とする資料と1942年とする資料がある)は、狭い家でも食事の場と寝る場を分けるという考えである。戦後、公営住宅の標準設計51C型(1951年)に、台所を広げて食事室と兼用する間取りが取り入れられた[2]。
1955年に日本住宅公団が発足し、「55-4N-2DK」型のダイニングキッチンは約8㎡(7.97㎡)の空間に造り付けのテーブルを置き、食事と台所の両方を椅子式にした[2]。7.97㎡は、畳1枚を約1.6㎡とすれば5枚弱である。ウィキペディアの解説によると、2DK55型では食事室兼台所を4畳半から6畳に広げ、テーブルを置くDK型が生まれ、ちゃぶ台を囲む茶の間と比べて「モダンな生活の象徴」と受け止められた[6]。
ここで注目したいのは、造り付けのテーブルが「出しておく」ことを前提にした点である。動かせないテーブルは、片づけられる前提のちゃぶ台とは逆の発想で、小さな空間でも食事の場を常設にできた。三菱電機の解説は、戦後、ちゃぶ台やテーブルを常に出しておく生活様式に変わり、蠅帳の形も変わったと述べ[1]、1971(昭和46)年にはちゃぶ台よりテーブル派が多くなったという調査もあるとする[5]。
とはいえ、ダイニングキッチンは公団が一から作った、という単純な話なのだろうか。
5. ダイニングキッチンは、ほんとうに 公だんが うんだの?
5. 「公団がダイニングキッチンを生んだ」という話は、そのまま信じてよいか
5. ダイニングキッチンの源流は一つか ── ヴォーン・キュッヘと「通説」の見直し
「ダイニングキッチンは、公だんが はじめて つくった」と いう 話が よく 聞かれます。けれども、そうとは かぎらない、と する 本も あります[6]。
ドイツには 「ヴォーン・キュッヘ」と いう、くつろぐ へやと だいどころを あわせた 部屋の ことばが あります。1930ねんごろ、日本に しょうかい された そうです[2]。これが、もう ひとつの みなもと だと する 考えも あります。
だから、「だれが いつ はじめた」と ひとつに きめるより、いろいろな 考えが つながって、広まった と 考えるほうが よさそうです。
「公団がダイニングキッチン(DK)を生んだ」とは、よく聞く話です。しかし、この通説の起源は見直す書籍もある、と紹介されています[6]。
別の流れもあります。「ヴォーン・キュッヘ」はドイツ語で居間と台所を合わせた言葉で、1930年ごろに日本へ紹介されました。DKの別の源流とする説もあります[2]。西山夘三の食寝分離論や51C型を含めて、いくつもの考えが重なって、1955年のDKへつながったと見るほうが自然でしょう。
調べる側にも注意が要ります。西山夘三の提唱年は1941年か1942年かで資料が分かれますし、普及率を示す調査(1925年・1971年)も、数字や対象が資料に書かれていません。「いつから」を一つの年に決めるのは、控えたほうがよさそうです。
「公団がダイニングキッチン(DK)を生んだ」という通説は、そのまま受け取れない。起源を見直す書籍があること[6]、ヴォーン・キュッヘ(ドイツ語の居間兼台所)が1930年ごろ日本に紹介され、DKの別の源流とされること[2]、西山夘三の食寝分離論(1941年とも1942年ともされる)や51C型(1951年)が先行していること、が理由だ。
これらを重ねると、1955年の公団DKは「発明」よりも、複数の考えが小さな家で実際に建てられた、象徴的な節目と読むほうが資料に合う。「いつから」を問う側にとっては、年を一つに決めることより、どの条件がそろったかを見るほうが実りがある。条件とは、狭い家、食事と寝室を分ける考え、台所との兼用、そして動かさなくてよい造り付けのテーブルである。
普及の時期は、「おおむね戦後」と言うまでである。1925年と1971年の調査は、三菱電機の解説が紹介するものだ[1][5]。
6. おうちの テーブルの ものがたりを、きいて みよう
6. 家のテーブルの来歴を、身近な人に聞いてみる
6. 手元で確かめられること ── 聞き取りと一次資料
おうちの テーブルは、いつも 出しっぱなしでしょうか。それとも、ときどき かたづけますか。ようすを みて みましょう。
おじいさんや おばあさんが いたら、子どもの ころ、ごはんを どこで、なにに のせて 食べたか、聞いて みましょう。はこぜんや ちゃぶだいの はなしが 出て くるかも しれません。
もし テーブルの 広さを ものさしで はかれたら、公だんの 8へいほうメートルほどの 空間と くらべて みると、おもしろいです。ものさしは、あぶなくない つかいかたで、おうちの 人と いっしょに つかいましょう。
家の食卓がふだん出しっぱなしかどうかを、まず見てみましょう。家に折りたたみ式のテーブルがあれば、広げたときと閉じたときの大きさを、定規で測って比べられます。
祖父母や年上の親戚がいれば、子どものころ、どんな食卓で食べていたかを聞いてみるのもよい方法です。箱膳やちゃぶ台、いつテーブルになったのか、という話が聞けるかもしれません。調査でも、地域や家によって時期は違うとされます[5]。聞いた話は、自分のノートに年と場所をつけて書いておくと、あとで資料と比べられます。
もっと調べるなら、三菱電機の「日本人の食卓―100年の歩み」と、水の文化センターの『ダイニングキッチンの誕生』が、日本語で読めます。
手元で確かめられることを挙げる。第一に、自宅の食卓が常設か、折りたたみ・移動式か。第二に、家族や近所の高齢の人への聞き取りで、子どものころの食卓の形と、家のどの場所に置いたか、いつ変わったかを記録する。第三に、聞いた時期を、本文の目安(都市は1925年ごろ、農村は1934年ごろがピーク、DKは1955年以降)と比べ、地域差を確かめる[1][5][2]。
原典としては、三菱電機「日本人の食卓―100年の歩み」(第1・2回)と、水の文化センターの機関誌『水の文化』31号の「ダイニングキッチンの誕生」が、日本語の一次に近い読み物である。西洋の食卓については、家具史の解説(Fine Woodworking の記事など)が英語で読める。ただしいずれも解説記事であり、日本の古代〜中世の食事の机、ちゃぶ台の語源などは本稿で扱えていない。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
食卓の変化は、企業や研究団体の解説記事と、家具史の解説による。調査の数字は、それらが紹介するものを、そのままの強さで使った。
- 三菱電機「日本人の食卓―100年の歩み(第1回)」 https://www.mitsubishielectric.co.jp/club-me/knowledge/washoku04/01.html (ちゃぶ台への移行、戦後の出しておく食卓)
- 水の文化センター『水の文化』31号「ダイニングキッチンの誕生」 https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no31/03.html (食寝分離論、51C型、公団のDK、ヴォーン・キュッヘ)
- Fine Woodworking「A Short History of Tables」 https://www.finewoodworking.com/2005/09/13/a-short-history-of-tables (架台式の食卓、古代の机)
- Wikipedia「Trestle table」 https://en.wikipedia.org/wiki/Trestle_table (架台式が16世紀まで一般的だったこと)
- 三菱電機「日本人の食卓―100年の歩み(第2回)」 https://www.mitsubishielectric.co.jp/club-me/knowledge/washoku04/02.html (箱膳、洗う頻度、農村の移行、1971年の調査)
- Wikipedia「ダイニングキッチン」 https://ja.wikipedia.org/wiki/ダイニングキッチン (2DK55型の広さ、DKの起源の見直し)
なおした ところ
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