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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

カーペットは、どうやって おうちに ちかづいたの?

カーペットは、どうやって日本の家に近づいたのだろう

日本の家にカーペットが入るまで:氷の墓の絨毯、奈良の毛氈、鍋島緞通、1957年のタフトン

分野:歴史・文化

ならの おてらには、1200ねん いじょう まえの、ひつじの 毛の しきものが のこって います。でも、カーペットが ふつうの おうちに ちかづいた きっかけの ひとつは、1957ねんに うり出された 9900円の カーペットだと いわれます。

むかしの 人は、ゆかに なにを しいて いたのでしょう。この ページを よむと、カーペットが おうちに くるまでの みちのりが わかります。

奈良の正倉院には、羊毛で作った敷物が30枚以上も伝わっています。ところが、カーペットが一般の家に近づく転機の一つとされるのは、それから1200年以上あとの1957年に売り出された、1枚9,900円の既製品です。

羊毛の敷物は奈良時代にあったのに、なぜ家庭への広がりはずっとあとになったのでしょうか。この記事を読むと、畳の国ならではの事情と、値段を変えた1957年の出来事が分かります。

奈良の正倉院には、羊毛で作った敷物(毛氈)が30枚以上伝わる[5]。それなのに、カーペットが一般の家庭に近づく転機の一つとされるのは、そこから1200年以上のちの1957年、住江織物が売り出した4畳半1枚9,900円の既製品である[9]。

羊毛の敷物が奈良時代にあったのに、なぜ家庭への広がりは遅れたのか。このメモを読むと、畳が床を覆う役を担っていた事情、中国伝来の緞通、注文生産から既製品への転換が、その遅れとどうつながるかが分かる。

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1. こおりの 中から 出て きた じゅうたん

1. 氷の墓で、約2500年も色あせなかった絨毯

1. パジリク絨毯:125万個の結び目と、色が残った理由

シベリアの 山の こおりの 中の おはかから、絨毯じゅうたんが 見つかりました。2500ねんくらい まえの ものです[1]。

ひろさは 2メートル四ほうくらい。ひつじの 毛の いとを ひとつずつ むすんで あって、ぜんぶで 125万こ いじょうも むすびめが あります[2]。

こおりに まもられて、色も のこりました。ひつじの 毛を 発酵はっこうさせてから そめる わざが 使われた かもしれない、という けんきゅうも あります[3]。

じゅうたんは、ひつじを つれて あるく 人びとから うまれたと いわれます[1]。では、日本には いつ きたのでしょう。

1949年に掘り出された敷物

1949年、ロシア・アルタイ山脈のパジリク古墳群の5号墳から、1枚の絨毯が掘り出されました。大きさは約1.8m×2.0m、紀元前5〜4世紀ごろ(いまから約2400〜2500年前)のものとされ、現存する最古のパイル絨毯として知られます[1]。パイルとは、糸を結びつけて表面に毛足を立てた織り方のことです。

この絨毯の結び目は、全体で125万個以上あるといいます[2]。面積は約3.7m²(約370dm²)なので、1dm²あたりに直すと約3400個になります。資料にある「1dm²に約3600」という数字と、近い値です。

色が残った理由は、氷と染め方

墓が永久凍土の氷に守られたことが、織物の状態が保たれた大きな理由だと説明されています[2]。色については、X線顕微鏡を使った研究で、羊毛を発酵させてから染める技術が使われた可能性が示されました。色の鮮やかさが保たれた理由の一つと考えられています[3]。可能性を示した研究なので、決まった事実とまでは言えません。

辞典によると、絨毯は羊毛に恵まれた乾燥地帯の遊牧系の民族から生まれたとされています[1]。では、そんな敷物はいつ日本に届いたのでしょうか。

1949年、ルデンコの発掘でアルタイ山脈のパジリク古墳群5号墳から出土した絨毯(約183×200cm)は、紀元前5〜4世紀ごろとされ、現存する最古のパイル絨毯とされる[1]。パイルは、糸を結んで表面に毛足を立てる織り方をいう。

この絨毯は対称結び(トルコ結び)で、結び目は全体で125万個以上とされる[2]。面積は183×200=36,600cm²、つまり約366dm²なので、125万を割ると1dm²あたり約3400個になる。資料にある「1dm²に約3600」と近く、125万が1dm²あたりの数ではなく全体の数だと確かめられる。

では、なぜ約2500年も形と色が残ったのか。保存については、永久凍土が織物の状態を保ったためと説明される[2]。色については、X線顕微鏡による分析で、羊毛を発酵させてから染める技術が使われた可能性が示された。これは従来知られていたより約2000年早い使用になるといい、色の鮮やかさと堅牢さの理由と考えられている[3]。ただし、あくまで可能性を示した研究であり、制作地についても資料で見解が分かれるため、本稿では断定しない。

辞典によれば、絨毯は羊毛に恵まれた乾燥地帯の遊牧系の民族から生まれたとされる[1]。そうした羊毛の敷物は、いつ、どんな形で日本に届いたのか。

2. ならの じだいに、もう ひつじの しきものが あった

2. 奈良時代の日本には、もう羊毛の敷物があった

2. 747年・756年の記録:毛氈は奈良時代に使われていた

おどろく ことに、ならの じだいの 日本には、ひつじの 毛で できた しきものが ありました。毛氈もうせんと いいます。

747ねんの 法隆寺ほうりゅうじの きろくには 34まい、756ねんの 東大寺とうだいじの きろくには 60まいの 毛氈もうせんが 出て きます[4]。正倉院しょうそういんには、いまも 30まい いじょうが つたわって います[5]。

つくりかたは、おることとは ちがいます。いろの ちがう 毛を ならべて、ござに まいて、せっけん水に にた みずを かけながら、こすって からませます。フェルトは、毛を からませて かためた ぬのです[5]。

この 毛氈もうせんは、中央アジアで つくられ、中国を とおって 日本に きたと いわれます。それなのに、おうちの ゆかには、なかなか ひろがりませんでした。

法隆寺と東大寺の記録に出てくる毛氈

日本で使われた羊毛の敷物は、毛氈(フェルト)といいます。747年(天平19年)の法隆寺の記録には「合氈参拾肆床」とあり、756年の東大寺の献物帳には「花氈60床」と書かれています[4]。「床」は敷物を数える単位です。正倉院には、いまも30枚以上が伝わっています。数え方は資料によって差があるため、ここでは幅で書きました[5]。

織らずに、からませて固める

花氈の作り方は、絨毯とはまったくちがいます。色のちがう羊毛で図柄を並べ、その上を地色の毛で覆い、ござで巻きます。そこへ弱いアルカリ性の液(せっけん水に似た性質の液)を加えながら、こすって圧力をかけ、繊維をからませて固めます[5]。結ぶ絨毯に対して、毛氈は毛そのものを固めた布です。

羊毛は中央アジア産か中国産で、種子などから大陸で作られたと分かるそうです。中央アジアで作られ、中国を経て日本に来たと考えられています[5]。それだけ遠くから運ばれた敷物なので、ふつうの家の床にまで広がるものではなかったのでしょう。では、日本の床には何が敷かれていたのでしょうか。

日本で使われた羊毛の敷物は、毛氈(フェルト)である。747年(天平19年)の法隆寺の記録には「合氈参拾肆床」、756年の東大寺献物帳には「花氈60床」の記載がある[4]。「床」は敷物の数え方で、記録の上でも、奈良時代にはすでに寺院が複数の羊毛敷物を持っていたことになる。

正倉院に伝わる数は、資料によって食いちがう。辞典は単色の毛氈14床と文様のある31床を挙げ[4]、奈良国立博物館の用語解説は37枚としている[5]。どちらも30枚を超えるので、本稿は「30枚以上」と幅で書く。

では、絨毯とどこがちがうのか。花氈は、色のちがう羊毛で図柄状に並べ、地色の毛の層で覆い、ござに巻いて、弱いアルカリ性の液(せっけん水に似た性質の液)を加えながら摩擦と圧力で繊維をからませて作る[5]。絨毯が結ぶ敷物なら、毛氈は織らずに固める敷物である。羊毛は中央アジア産か中国産で、種子などから大陸製と分かり、中央アジアで作られて中国を経て日本に来たとされる[5]。

つまり、日本では羊毛の敷物そのものは、奈良時代からあった。それなのに、なぜ一般の家の床には広がらなかったのか。次に、畳の側から考える。

3. たたみが ある いえに、なぜ じゅうたんは すくなかった?

3. 畳の部屋に、なぜ絨毯は入りにくかったのだろう

3. 畳が床を覆うまで:敷物の「先客」と、靴を脱ぐ習慣

畳たたみは、「古事記」にも 出て くる、とても ふるい しきものです[6]。

へいあんの じだいには、ひろい へやの 人が すわる ところだけに、あつい 畳たたみを おいて いました。それが、1400ねんだいの おわりごろには、へや ぜんぶに しきつめられます。えどの じだいから あとは、ふつうの 人の いえにも ひろがりました[6]。

ゆかを ぜんぶ おおう やくめは、畳たたみが もって いたのです。だから、ほかの しきものが はいりこむ ところは、あまり なかったのかも しれません。

もう ひとつ、日本の いえでは 靴くつを ぬぎます。それで、にしの 国ほど カーペットは ふつうでは ない、と せつめいする じてんも あります[10]。

畳は、座る場所から部屋一面へ

畳は古事記にも出てくる古い敷物です。平安時代の寝殿造では、板の間のうち、人が座る場所にだけ厚い畳などを置いていました。それが室町中期の15世紀末には部屋一面に敷き詰められるようになり、江戸時代以後は庶民の住宅にも広がりました[6]。

ここで一つ、考えられることがあります。床を一面に覆う役目を、日本の家では畳がすでに担っていたのです。そのため、別の敷物が入りこむ余地は小さかったのかもしれません。これは資料の説明からの読み取りで、そう書いてある資料があるわけではありません。

靴を脱ぐ家という条件

辞典には、日本の家庭では靴を脱ぐ伝統があるため、カーペットは西洋ほど一般的でなく、オフィスやホテル、一部の居間で使われる、という説明があります[10]。靴を脱ぐ習慣は、広がりにくかった一因とされる程度に読むのが安全です。

そんな日本で、もう一つ別の敷物が育ちました。それが緞通です。

畳は古事記にも見える古い敷物だが、最初から部屋一面に敷かれたわけではない。平安時代の寝殿造では、板の間のうち人が座る所にだけ厚畳などを置き、室町中期の15世紀末に部屋一面への敷き詰めが定着した。江戸時代以後は、庶民の住宅にも広がった[6]。

ここから、次のように考えられる。毛氈が日本にあった奈良時代、床の大半は板で、敷物は座る場所に置くものだった。その後、畳が床の主役になるにつれ、床全体を覆う敷物の役は畳が担った。そのため、別の敷物が一般の家へ入りこむ余地が小さかった可能性がある。ただし、これは資料の記述を並べた筆者の読み取りであり、資料がそう断言しているわけではない。

もう一つの条件が、靴を脱ぐ習慣である。辞典は、日本の家庭では靴を脱ぐ伝統があるため、カーペットは西洋ほど一般的でなく、オフィス、ホテル、一部の居間で使われると説明する[10]。ただし、これは一因として挙げられているにとどまり、単独の原因と決めることはできない。

では、畳の国の気候や暮らしに合わせて、敷物は工夫されなかったのか。そこに登場するのが緞通である。

4. 鍋島なべしま緞通だんつうは、なぜ めんの いとを つかったの?

4. 鍋島緞通は、なぜ羊毛でなく綿糸を使ったのだろう

4. 緞通の伝来と鍋島緞通:なぜ羊毛でなく綿糸を使ったのか

緞通だんつうは、むろまちの じだいに、毛氈もうせんと いっしょに 中国から 日本に きた おりものです[7]。

えどの じだいに、ながさきで 中国の おりかたを まなんで はじまったのが、鍋島なべしま緞通だんつうです[7]。さがけんの おおき町の あたりで つくられました[8]。

ふしぎな ことに、ひつじの 毛では ありません。その 土地に たくさん あった めんの いとを 使いました[8]。あつくて しめった 日本の きこうに あう、と いわれます。

むかしは さがの おとのさまの ごようひんで、ふつうには うって いなかったと いわれます[8]。まだ、おうちの ものでは なかったのです。

長崎で学んだ織り方

緞通は、室町時代に毛氈とともに中国から輸入されたとされます。江戸時代に長崎で中国の製織技術を学んで始めたのが鍋島緞通で、この影響のもとに堺緞通や赤穂緞通が生まれました[7]。

羊毛を使わなかった理由

鍋島緞通は佐賀県の佐賀市周辺で作られ、約300年前に中国から伝わったとされる、日本最古級の手織り敷物です。使ったのは羊毛ではなく、その土地にたくさんあった綿糸でした。そのため、高温多湿の気候に合うといわれます[8]。

江戸時代は佐賀藩の御用品で、一般向けの販売は禁じられ、献上品だったと伝えられます[8]。つまり緞通もまだ、庶民の家の敷物ではありませんでした。

では、いつ、どうやって家庭に近づいたのでしょうか。

緞通は、室町時代に毛氈とともに中国から輸入された。江戸時代に長崎で中国の製織技術を学んで始めたのが鍋島緞通で、その影響下に堺緞通・赤穂緞通が生まれた。赤穂緞通は1849年(嘉永2年)に児島なかが創始したとされる[7]。

鍋島緞通は、佐賀県の佐賀市周辺で作られ、約300年前(元禄期、1688〜1704年ごろ)に中国から伝わった日本最古級の手織り敷物とされる[8]。注目したいのは素材だ。羊毛ではなく、地元に豊富にあった綿糸を使い、高温多湿の気候に合う敷物になった[8]。奈良の毛氈が羊毛を海外から運ぶ敷物だったのに対し、緞通は綿糸を使うことで、高温多湿の日本で使いやすい敷物になった。

ところが、江戸時代は佐賀藩の御用品で、一般の販売は禁じられ、献上品だったと伝えられる[8]。元禄期の細部は自治体や百貨店のページの記述にとどまるため、本稿は「伝わる」の範囲で書く。いずれにせよ、緞通は品質が高い分、注文を受けて手で織る高級品であり、庶民の手には届かなかった。では、それを変えたものは何か。

5. 1957ねん、9900円の カーペットが うり出された

5. 1957年、係長級がボーナスで買えるカーペットが登場した

5. タフトン(1957年):注文生産から既製品へ

1957ねん、住江すみえおりものと いう かいしゃが、アメリカから きかいを いれて、「タフトン」と いう カーペットを うり出しました[9]。

ねらいは、「ふつうの かいしゃいんが、ボーナスで かえる カーペット」です。4じょうはん 1まいで 9900円の ねだんでした[9]。

それまでは、ちゅうもんを うけてから つくる ものでした。このとき、できあいの ものを たくさん つくる ほうほうに かわります。たかい ものだった カーペットが、おうちに ちかづく きっかけに なった、と 会社の れきしには かいて あります[9]。

ただし、これは 日本で はじめての カーペットでは ありません。日本で はじめて この きかいを いれた あとに うり出した、と いう はなしです。

狙いは「係長級のボーナス」

1957年(昭和32年)、住江織物がアメリカから導入した機械で、タフテッドカーペット「タフトン」を発売しました。会社の沿革には、平均的な係長級のサラリーマンがボーナスで買えるカーペットを狙った、とあります。小売価格は4畳半1枚で9,900円でした[9]。

注文品から、売り場に並ぶ品へ

これは、注文生産から既製品の生産へ移る転換点でした。住江織物の沿革は、高級品だったカーペットが一般の家庭に近づく転機になったと説明しています[9]。

注意したいのは、「日本初のカーペット」ではないことです。奈良の毛氈も、江戸の緞通もありました。住江織物は日本初のタフティングカーペット機を導入した後、1957年にタフトンを発売した、という出来事です。

1957年(昭和32年)、住江織物は米国から導入した機械で、タフテッドカーペット「タフトン」を発売した。同社の沿革は、狙いを「平均的な係長級のサラリーマンがボーナスで買えるカーペット」とし、小売価格を4畳半1枚9,900円としている[9]。

この発売は、注文生産から既製品生産への転換点であり、同社の沿革は、高級品だったカーペットが一般家庭に普及した転機と説明している[9]。緞通が注文を受けて手で織る高級品だったことと比べると、ここで変わったのは敷物そのものというより、作り方と売り方、そして値段である。

ここで注意したいのは、タフトンが「日本初のカーペット」ではなく、日本初のタフティングカーペット機を導入した後に発売された製品だという点だ。カーペット自体は、毛氈の時代からあった。畳の上に敷く使い方が広がったという業界紙の説明もある。

こうして見ると、日本の家へのカーペットの道のりは、遠い国の敷物が、国内の素材(綿)と、国外の機械(米国のタフテッド機)によって、段階的に家に近づいていった道のりと読める。

6. うちの ゆかを しらべて みよう

6. 家や学校の敷物を、手と目で調べてみよう

6. 資料と、手元で確かめられること

うちや がっこうに、しきものや カーペットが あったら、さわって みましょう。ひとの いえの ものは、ゆるしを もらってからに します。

  • うらの タグを みる。なにで できて いるか、かいて あります。
  • おもての 毛を よく みる。わっかに なって いるか、きって あるか。
  • ぎゅっと かたまった ぬのの ような ものか、おって ある ものか。

おみせで ねだんを みるのも おもしろいです。9900円は、いまの ねだんと くらべて どうでしょう。

家や学校にある敷物やカーペットを、見て、さわってみましょう。人の家のものは、許可をもらってからにします。

  • 裏のタグで素材を確かめる(羊毛、綿、化学繊維など)。
  • 表の毛が、輪になっているか、切ってあるかを見る。
  • 織った布なのか、毛をからませて固めたフェルトなのかを、手ざわりで比べる。

お店では値札も見てみましょう。1957年の9,900円と、いまの同じくらいの広さのカーペットの値段を比べると、時代の差が見えてきます。

もっと詳しく知りたいときは、奈良国立博物館の正倉院展用語解説(花氈)や、住江織物の沿革ページが手がかりになります。

本稿の中心になった資料は、奈良国立博物館の正倉院展用語解説(花氈)[5]、住江織物の沿革[9]、辞典の絨毯・氈・畳・緞通の各項目である。パジリク絨毯の色については、X線顕微鏡の論文[3]が英語で読める。

手元でも確かめられる。家や学校の敷物の裏のタグで素材を見て、表の毛が輪か切りっぱなしかを観察する。織った布か、毛をからませて固めた布かも、手ざわりで比べられる。人の家のものは、許可をもらってから触る。

明治以降から昭和前半に、カーペットがどれくらい家庭に入っていたかは、本稿の資料では扱えなかった。家庭への普及率の統計を探すことが、次の課題になる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文の[数字]は下の資料に対応します。辞典・博物館・企業・論文の各ページを使いました。

  1. コトバンク「絨毯」(世界大百科事典) https://kotobank.jp/word/%E7%B5%A8%E6%AF%AF (最古のパイル絨毯・遊牧起源)
  2. Archaeology.org "Red Carpet Treatment" https://archaeology.org/?p=10405 (結び目125万・凍土での保存)
  3. X-ray microscopy reveals the use of fermentation by Siberian Iron Age textile dyers(論文) https://www.omicsdi.org/dataset/biostudies-literature/S-EPMC7970846 (発酵による染色の可能性)
  4. コトバンク「氈」 https://kotobank.jp/word/%E6%B0%88 (法隆寺・東大寺の記録、正倉院の毛氈)
  5. 奈良国立博物館 正倉院展用語解説「花氈」 https://shosointen-glossary.narahaku.go.jp/kasen/ (花氈の作り方・産地)
  6. コトバンク「畳」(世界大百科事典) https://kotobank.jp/word/%E7%95%B3 (畳が部屋一面に敷かれるまで)
  7. コトバンク「緞通」 https://kotobank.jp/word/%E7%B7%9E%E9%80%9A (緞通の伝来・鍋島・赤穂)
  8. ACROS福岡 Nabeshima-dantsu https://acros.or.jp/english/culture/craftwork_d02.html (鍋島緞通の素材・産地)
  9. 住江織物 沿革 https://www.suminoe.co.jp/company/history/ (1957年タフトンの発売)
  10. 東京外語系辞典「カーペット」 https://www.tkgje.jp/entries/24000/24239_kaapetto.html (日本の家庭での位置づけ)

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