1. 町の そとには、すめなかったの?
1. 開港しても、外国人は自由に住めなかった
1. 開港後の外国人はどこまで自由だったか、区域を限る制度
1859ねんに、よこはまなどの みなとが ひらかれると、外国人が 日本で しょうばいを はじめました[1]。
でも、外国人は どこでも すんで よかったわけでは ありません。みなとの 近くに きめられた 場しょの 中だけで、しょうばいを したり、家を たてたり できました。この 場しょを「居留地」と いいます[1]。
よこはまには、山下と 山手という ふたつの 居留地が ありました。山下には 外国の しょうかんが おおく たち、山手も 外国人の 居留地に なりました[2]。
では、つづいて ひらかれた 神戸では、どんな 町が できたのでしょうか。
1859年、横浜などの港が開かれました。ところが、外国人は日本のどこへ行っても住めたわけではありません。開港の当初、外国人が商売をしたり屋敷を構えたりできたのは、港のそばに決められた一定の区域の中だけでした。この区域が居留地です[1]。
居留地は、1858年の日米修好通商条約など、欧米5か国との条約をもとにした制度でした。開港の1859年から、1899年に新しい条約が発効して廃止されるまで、約40年続きました[1]。
横浜の居留地は、山下(関内)と山手の2か所にありました。はじめは幕府が山下に居留地を設け、外国人が増えると、1867年に高台の山手にも居留地がつくられました。山下には外国商館が多く建ち、山手も外国人居留地となりました[2]。
では、同じ開港場のなかで、神戸の居留地は、開港の日にどんな様子だったのでしょうか。
居留地とは、開港場の一定区域に限って、外国人に商取引と邸宅の建設を認めた制度である。開港当初の外国人は、この区域の外では同じことができなかった[1]。根拠は1858(安政5)年の日米修好通商条約など欧米5か国との条約で、1859(安政6)年の開港から、1899(明治32)年に発効した日米通商航海条約で廃止されるまで、約40年続いた[1]。
横浜では、山下(関内)と山手の二つの居留地があった。当初は幕府が山下に居留地を設けたが、外国人が増えたため、1867(慶応3)年に高台の山手居留地が築かれた。山下には外国商館が多く建ち、山手も外国人居留地となったと、観光案内の資料は紹介する[2]。
では、同じ開港場でも、神戸の居留地は、開港の日にどんな状態だったのか。
2. こうべの 開港の日には、なにが あったの?
2. 開港の日の神戸には、倉庫が3棟しかなかった
2. 1868年の神戸港は、倉庫3棟・税関・波止場3か所だけだった
こうべの みなとが ひらいたのは、1868ねんです[4]。ところが その日の こうべの みなとには、そうこが 3つと、ぜいかんと、はしけが つく ばしょが 3つ あるだけでした[3]。
居留地の じゅんびが まにあって いなかったのです。ですから 外国人の中には、ちかくの のうかに へやを かりて くらす 人も いました[3]。
なにも ない ところから、外国人の 町を つくる。その しごとを まかされた 人が いました。
3. だれが、どんな 町を つくったの?
3. イギリス人技師が設計した、碁盤の目の町
3. J.W.ハートの設計監督と、格子状街路・公園・下水道・街灯の整備
この 町を つくったのは、イギリス人の ぎしの ハートさんです。ハートさんは せっけいと ぜんたいの かんとくを しました[4]。
みちは、ごばんの 目のように、たてと よこに まっすぐ ならびました。さんぽを する みちや こうえん、まちあかりの とうも つくられました。そして、地めんの 下には げすいどうも ありました[4]。
町を ひとつ、はじめから 計画して つくる。そんな やりかたで 町が できて いきました。
居留地の街づくりを任されたのは、イギリス人の土木技師J.W.ハートです。設計と工事の監督を担当しました[4]。
できあがった町は、敷地が整然と区切られ、道は格子状に走っていました。散歩のための遊歩道や公園、街灯、そして地下の下水道も整えられました[4]。道の両側に建物が並ぶだけでなく、歩く人の楽しみや、水のながれまで考えて計画された町だったことが分かります。
その計画の中で、いちばん目に見えないところにあった下水道が、150年あまりたった今も残っています。
神戸居留地の設計監督を務めたのは、イギリス人土木技師のJ.W.ハートである。三菱地所の街のコラムは、居留地の特徴を、整然とした敷地割りと、格子状街路・遊歩道・公園・下水道・街灯の整備にまとめる[4]。
この資料は、道路や公園に加え、下水道や街灯も区域の整備に含まれていたと説明している。
居留地の街が、のちの日本の街づくりにどう影響したかは、この資料からは分からない。気になる人が自分で追える問いだ。
確かなのは、神戸の居留地に下水道が実際に造られたことだ。その物証が、今も地下に残る。
4. 150ねん まえの げすいどうは、どうなったの?
4. レンガの下水道は、震災のあとも現役だった
4. 1872年ごろのレンガ造り下水道が、震災を経て雨水排水管になっている
1872ねんごろ、こうべの 居留地に、レンガで つくった げすいどうが できました。かたちは、まるい ものと、たまごの かたちを した ものが ありました[5]。
その いちぶは、おおきな じしんを のりこえて、いまも あめ水を ながす くだとして つかわれて います[5]。150ねんいじょう まえの しごとが、いまの 町を たすけて いるのです。
この げすいどうは、西洋しきの げすいどうとして、よこはまと ならんで、日本で いちばん ふるいと されて います[5]。
ところで、居留地には、もう ひとつ ふしぎな ものが ありました。日本人の 町との「さかいめ」です。
神戸市の資料によると、居留地には1872年ごろ、断面が円形と卵形のレンガ造りの下水道が完成しました。その一部は、阪神・淡路大震災を経た今も、浸水対策のための雨水排水管として使われています[5]。
西洋式の下水道としては、横浜と並んで日本で最も古いものだそうです[5]。「日本で最古」と言い切らず、「横浜と並んで」とされている点には注意が要ります。
1872年ごろから数えて、およそ150年です。外国人が暮らす町を整えるための工事が、今の神戸の浸水対策の一部になっていることになります。
神戸の居留地は、下水道を町に残しました。一方で、居留地の外国人には領事裁判権が認められ、日本の裁判権が及ばない面もありました。では、その区域の境目は、どう示されていたのでしょうか。
神戸市の資料は、居留地の下水道について次のように述べる。1872年ごろに円形と卵形のレンガ造りの下水道が完成し、その一部は、阪神・淡路大震災を経た現在も、浸水対策用の雨水排水管として使用されている。西洋式下水道としては、横浜と並び日本で最も古い[5]。
資料の言い方は「横浜と並び」であり、神戸だけが最古とは書いていない。ここは言い切らずに書く点だ。
1872年ごろから数えて、およそ154年が経つ。1868年の開港時の神戸港に倉庫が3棟しかなかったという談話と並べると、開港から4年ほどのちに、地下の排水設備が完成していた計算になる。
一方で、この下水道が今も働いているのは「一部」であり、すべてが残っているわけではない。地下設備の保存状況を知るには、神戸市の公式の説明にあたるのがよい。
こうして居留地は、物としての遺産を残した。では、居留地を「外国人専用」にしていた線は、どこに、どう引かれていたのか。
5. さかいめを しめす、いしの はしら
5. 居留地と日本人の町を分けた「石の柱」
5. 居留地界石と、1899年に不要になる境界
居留地と、日本人の 町の さかいには、石の はしらが たてられて いました。この はしらは「かいせき」と よばれます。
ながさきでは、この 石の はしらが、居留地の くかくと、日本人の 町との さかいを しめす ために つかわれました[6]。
この 石の はしらが いらなくなる 日が きます。それは どんな 日だったのでしょうか。
居留地は、外国人が住んでよい区域でした。その区域がどこまでかを、道を歩く人にも分かるようにする必要があります。そのために立てられたのが、境を示す石の柱です。
国土交通省の多言語解説によると、長崎では、この石の柱が居留地の区画を示し、居留地と日本人の町との境を示すために使われました[6]。
石の柱は、「ここから先は居留地」という線が、現実の町に引かれていた証拠です。その線が不要になるのは、1899年のことでした。
居留地には、日本人の町との境界を地面に示す必要があった。国土交通省の多言語解説データベースは、長崎外国人居留地の石の柱について、居留地の区画を示し、居留地と日本人の町との境界を示すのに使われたと説明する[6]。
石の柱は、居留地が「外国人が住める区域」として区切られていたことの物証だ。同時に、その区切りが制度の産物だったため、制度が変わればこの石も役目を失う。次は、その制度が変わった1899年を見る。
6. 1899ねんに、なにが かわったの?
6. 1899年、条約の改正で居留地は役目を終えた
6. 日英通商航海条約の発効と、居留地廃止・内地雑居
1899ねんに、あたらしい 条約が はじまりました。これで 居留地は なくなり、外国人は 日本の中で、すむ ところを えらべるように なりました[7]。
こうべの 居留地も、この年に 日本に かえされました[4]。ながさきでは、外国人が 居留地に すむ ひつようが なくなり、さかいを しめす 石の はしらも、いらなく なりました[6]。
はじまりから おわりまで、およそ 40ねん。外国人だけの 町は、日本人と 外国人が いっしょに くらす 町に、ひとつ ひとつ かわって いきました。
でも、居留地の 町が つくった 道や げすいどうは、いまも のこって います。
1894年、日英通商航海条約がロンドンで調印され、1899年に発効しました[7]。この条約で、外国人が日本の国内で自由に住み、営業できる「内地雑居」が始まり、居留地は廃止されました[7]。居留地の外国人には領事裁判権が認められていましたが、その仕組みも終わったのです[7]。
神戸の居留地も、1899年に日本へ返還されました[4]。長崎では、外国人が居留地に住む決まりがなくなり、境を示す石の柱も必要なくなりました[6]。
数字を並べると、横浜などの開港から居留地の廃止までが約40年、神戸の開港から返還までは約31年です。短い間に、外国人専用の区域は、つくられ、使われ、終わりました。
終わったのは制度で、町ではありません。石の柱が要らなくなったあとも、神戸の下水道は使われ続けました。
居留地を終わらせたのは条約改正である。外務省の展示は、日英通商航海条約が1894年にロンドンで調印され、1899年に発効したこと、領事裁判権の廃止とともに居留地が廃止され、外国人が内地で住み営業できる内地雑居が始まったことを紹介する[7]。居留地の外国人には領事裁判権が認められていたため、法の適用が変わることと居留地をなくすことは、一つのセットとして進められたと読める[7]。
神戸の居留地は1899年に日本へ返還された[4]。長崎では、1899年以降、外国人が居留地に住む義務がなくなり、境の石の柱も必要でなくなった[6]。横浜の資料は居留地を、1859年の開港から1899年に発効した日米通商航海条約で廃止されるまでの約40年の制度とする[1]。
ここで一つ注意がある。外務省の展示は日英条約を取り上げ、横浜の資料は日米の条約に触れており、どの国との条約を軸に説明するかが資料で異なる。また、発効や返還の日付は、資料によって一日違うことがあるため、ここでは年にとどめる。
算術で確かめると、1859年から1899年は40年、神戸の1868年から1899年は31年になる。制度の寿命は約40年でも、神戸の居留地は、その4分の3ほどの期間しかなかった。
居留地が終わっても、町の骨組みは残った。1872年ごろの下水道がその一例である。
7. 居留地の あとを、さがして みよう
7. 居留地のあとを、地図と足で探すには
7. 居留地の痕跡を調べるための、資料と手がかり
おうちの 人と いっしょに、ちずちょうを ひらいて みましょう。よこはま、こうべ、ながさきの みなと近くの ちずを、さがします。
みちが ごばんの 目のように ならんで いる ところは ないか、しらべて みてください。ただし、ちずで そう見えても、そこが 居留地だったとは かぎりません。
居留地があった町は、今も歩いて確かめられる部分があります。
まず、家で。地図帳か、日本語の地図で、横浜・神戸・長崎の港の近くを開き、道が格子のようにそろっている場所があるか探してみます。ただし、そう見えても、そこが居留地だったとは限りません。確かめるには、市や県の説明を読む必要があります。
調べを続けたくなったら、神戸市の「居留地の下水道」のページがあります。下水道が今どの部分で使われているかは、そのページで確かめられます。居留地で造られたものが、今どう使われているかを知る手がかりになります。
居留地については、まだ確かめられる問いが残っている。たとえば、神戸の下水道は現在どの区間で使われているか。居留地の街は、のちの街づくりにどう影響したか。長崎の石の柱は、どこに何本あったか。
調べるなら、神戸市の「居留地の下水道」のページ、国土交通省の多言語解説データベース、神奈川県埋蔵文化財の調査概要など、関連する資料にあたるのがよい。
家の地図帳から始めることもできる。港の近くで道が格子状に整っている区域を探し、市や県の説明と見比べる。地図の形だけで居留地だと決めず、文章の説明と照らし合わせることが、確かめ方の基本になる。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
出典について:自治体・省庁の資料を中心に、新聞記事、街の案内資料を使いました。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いています。
- 横浜市 山下居留地遺跡(神奈川県埋蔵文化財の調査概要)。https://www.kaf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/01/2009_16.pdf (居留地の制度、続いた期間、開港当初の制限について)
- 横浜居留地の紹介(案内資料)。https://www.gltjp.com/ja/directory/item/13148/ (山下・山手の役割、居留地界石について。案内資料のため二次資料)
- 神戸新聞 居留地の記事(神戸大学教授の談話)。https://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/202208/0015579211.shtml (開港時の神戸港の様子について。報道)
- 三菱地所 神戸三宮エリアのコラム。https://www.mec-h.com/town/mh-sannomiya/15 (神戸居留地の設計、街の特徴、返還について。企業のコラムのため二次資料)
- 神戸市 居留地の下水道。https://www.city.kobe.lg.jp/a78445/kanko/bunka/bunkazai/history/gesui/index.html (下水道の完成時期、形、現在の使われ方について)
- 国土交通省 多言語解説文データベース「外国人居留地の境界」。https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R1-00724.html (長崎の境の石の柱について)
- 外務省外交史料館 展示「日英通商航海条約 陸奥宗光と条約改正」。https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/pagew_000001_00731.html (条約の調印・発効の年、居留地廃止と内地雑居について)
なおした ところ
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