1. どうして まくらが なかったの?
1. 枕がない家で、福沢は何に気づいたのか
1. 枕が見つからなかった病後の福沢は、何に気づいたのか
福沢諭吉は、いまから 170ねんほどまえの 1855ねん、大阪の 緒方洪庵の 塾に はいりました。蘭学、つまり オランダ語で ひらかれた 学問を まなぶ ところです。
あるとき、ねつの でる びょうきに なりました。なおって 「ふつうの 枕を もって きて」と たのむと、けらいが さがしても みつかりません。そこで 気がつきました。1ねんほど、枕を して ねた ことが なかったのです。
ねむく なったら、つくえに うつぶせに なるか、ゆかの 間の ふちに あたまを のせて いたそうです。
これは 福沢だけでは ありませんでした。ほかの 人も たいてい そんなものだった、と 本人は 書いています。
1855年(安政2年)3月、福沢は大坂(今の大阪)で緒方洪庵の塾に入りました。長崎で蘭学の手ほどきは受けていたものの、本を順に、規則正しく教わったのは、この塾が初めてだったと自伝に書いています[1]。
病気から治った福沢が普通の枕を頼んだのは、1856年3月のことでした。探しても見つからず、本人はそこで、それまで1年ほど枕で寝たことがなかったと気づきます。眠くなれば机にうつぶすか、床の間の縁に頭をのせて眠っていたといいます[1]。
ここで面白いのは、福沢が「自分は特別に勉強した」と威張っていないことです。自分一人が勉強家なのではなく、同窓生は大抵そんなものだった、と書きます。枕のない暮らしは、一人の逸話ではなく、塾の空気の一部として語られているのです。では、その空気を作っていたのは何だったのでしょうか。
福沢諭吉が緒方洪庵の塾(適塾)に入ったのは安政2年(1855)3月である。長崎でも蘭学の手ほどきは受けていたが、自伝には、書物を規則正しく教わったのは緒方塾が初めてで、これが本当の蘭学修業の始まりだったとある[1]。
その翌年、1856年3月の病後に、枕の逸話が出てくる。回復した福沢が普通の枕を頼むと、家来が探しても見つからない。そこで、それまで1年ほど枕で寝たことがなかったと気づいた。眠くなれば机にうつぶすか、床の間の縁を枕代わりにしていたという。なお自伝の書きぶりでは、枕のない期間は「適塾に来て以来」ではなく、そこへ至る1年ほどであり、病の話はこの一場面にとどまる[1]。
注目したいのは、福沢がこれを自分だけの勉強ぶりとして語っていない点である。自分一人が特別な勉強生なのではなく、同窓生は大抵そんなものだった、と書き添える。つまり枕のない日々は、個人の我慢ではなく塾全体の暮らしぶりの一例として描かれている。ただし、これは後年の回想で、自分の若い頃を語る立場の言葉であることは頭に置いておく。では、塾生を眠らせなかった力は何だったのか。
2. じしょが 1さつだけだと、どうなる?
2. 辞書が塾に1部しかないと、前の晩はどうなるのか
2. 辞書1部を全員で使う塾では、会読の前夜に何が起きたか
この 塾には、「ヅーフ」と いう じしょが 1さつだけ ありました。かみを うつして つくった ほんで、まいすうは 3000まいほど。ひとりに 1さつ ずつは、とても くばれません。
とくに いそがしいのは、会読の まえの ばんです。会読は、みんなの まえで オランダ語の ほんを よむ かい。あしたが 会読だと、なまけものでも ほとんど ねません。じしょの ある へやに 5にんも 10にんも あつまり、だまって じしょを ひきました。
この へやは、あかりが きえる ひが なかったと、いまの 大阪の しょうかいに あります。
塾には「ヅーフ」と呼ばれる辞書が1部だけありました。写本で、日本の紙でおよそ3000枚という大部なものです。福沢は、3人も4人もその周りに集まって見ていた、と書いています[1]。
この辞書は、長崎の出島にいたオランダ商館長ドゥーフが、ハルマの辞書をもとに訳したものと福沢は説明します。ただ、一般の解説では、元は蘭仏辞書で、ドゥーフが通詞たちと1833年に完成させたものとされています。写本しかなく、塾でも専用の3畳ほどの部屋に置かれたといわれます[3]。
辞書が1部なので、予習は順番待ちになります。会読の前の晩は、どんな怠け者もほとんど寝ず、その部屋に5人も10人も集まり、黙って辞書を引き続けたと福沢は書きます[1]。今の大阪観光局の紹介でも、この部屋の明かりは消えることがなかったと伝えられ、建物は大阪大学の管理のもと、今も見学できます[2]。
では、そこまで必死になる会読とは、どんなものだったのでしょうか。
適塾には「ヅーフ」と呼ばれる写本の蘭和辞書が塾全体で1部しかなく、日本の紙でおよそ3000枚の大部だった。そのため、3人も4人もその周りに寄り合って引いたと福沢は書く[1]。福沢の説明では、出島のオランダ商館長ドゥーフが、独蘭辞書「ハルマ」を訳したものである。
一方、後の解説では、元は蘭仏辞書で、通詞たちとともに完成させたものとされ、複製は写本に頼ったという。適塾でも1部しかなく、3畳ほどの別室に置かれて「ヅーフ部屋」と呼ばれた。ただし、3畳という数字は二次資料に基づく[3]。成立の説明も福沢の記述と異なるため、辞書の来歴は一つの説明だけでは決められない。
辞書が1部なら、予習は順番待ちになる。だから会読の前夜、その部屋は人であふれた。どんな怠け者も大抵は寝ず、5人も10人も群れて黙って辞書を引き続けたと自伝にある[1]。大阪観光局は、この部屋の明かりが消えることがなかったと「だとか」の形で伝え[2]、これは福沢の記述と矛盾しない。ただし観光局の紹介は伝聞であり、事実の裏づけは福沢本人の語りに頼る面が大きい。
では、前夜にこれほど人を集めた会読とは、何を競う場だったのか。
3. 会読では、なにを きそうの?
3. 白玉・黒玉・白い三角:会読で何が決まったのか
3. 白玉・黒玉・三角で成績が決まる会読:年数でなく実力で進級する仕組み
会読は 1か月に 6かい ありました。10人から 15人ほどが、じゅんばんに オランダ語の ほんを やくします。まとめ役の かいとうが、できを みて しるしを つけました。
うまく できた 人には 白い 玉、できなかった 人には 黒い 玉です。すらすら よめた 人には、白い 三角が つきました。三角は、丸い 玉の 3ばいほどの よい しるしです。福沢は、1か月に 6かいの しけんの ようだと 書きました。
ひとつ ふしぎな きまりが あります。会読の ほんの わからない ところは、ほかの 人に きいては いけませんでした。
でも ふだんは、せんぱいが 兄弟のように しんせつに おしえました。会読の ときだけ、じぶんの ちからで やるのです。
会読は、1と6、3と8のつく日に開かれました。つまり月に6回です。10〜15人ほどの生徒が順番に原書を訳し、進行役の会頭が出来を見て印をつけます。うまく訳せた人には白玉、できなかった人には黒玉、つかえずに読めた人には白い三角がつき、三角は丸玉の約3倍の優等の印でした[1]。
塾の等級は7〜8級ほどあり、各級で最上席を3か月続けると上の級に進みました。年数ではなく実力で進級する、ということです[1]。この月6回の採点と3か月の最上席を条件とする点は、別の解説にも出てきます[4]。ただし解説は自伝をもとにしている可能性があり、独立した裏づけとまではいえません。
厳しいのは、会読で出てきた疑問を、一字一句でも他人に質問してはいけなかったことです。一方で、会読以外の本なら、先輩が後輩に講釈をして質問にも答え、兄弟のように親切だったと福沢は書きます[1]。助け合いと、自分の力だけで勝負する場面が、はっきり分かれていたのです。
こうした塾で福沢は、どんな気持ちで日々を過ごしたのでしょうか。
会読は1と6、3と8のつく日、つまり月6回行われた。10〜15人ほどの生徒が順に原書を訳し、会頭(進行役)が出来を見て、よくできた者に白玉、できなかった者に黒玉、とどこおりなく読めた者に白い三角をつける。三角は丸玉の約3倍の優等の印である[1]。福沢はこれを「月に6回の試験のようなもの」と書く。
この採点が進級に直結していた。塾の等級は福沢の概数で7〜8級。各級の首席を3か月占めれば上の級に進んだ。そのため、在塾年数ではなく会読での成績が、そのまま序列になる[1]。月6回の○●△の採点と、3か月以上最上席を占めた者が進級するという説明は、適塾の解説にも見える[4]。ただし、こちらも自伝を下敷きにしている可能性があり、独立の裏づけと言い切れない。
さらに特徴的なのが、質問の禁止である。会読本の不審は一字半句でも他人に質問してはならなかった。ところが、会読以外の書では事情が逆になる。先輩が後輩に講釈をして質問にも答え、至極親切で兄弟のようだったと福沢は書く[1]。つまり塾は、普段は助け合い、会読の場だけは自力に徹する、と使い分けていた。競争の厳しさは、仲の悪さではなく、このはっきりした線引きから生まれていたと読める。
この制度の中で、福沢自身の順位はどう動いたのか。
4. ながさきで かてなかった 人と、どうなったの?
4. 長崎で勝てなかった相手が、会読に来たとき
4. 長崎で福沢を上回った人物が、福沢の会読に出席した:本人の自負をどう読むか
福沢は 長崎で、じぶんに かって いた 人と であって いました。その 人が あとから この 塾に はいって きました。
そのとき、福沢は したの 級の 会読で かいとうを して いました。むかし まけた 人が、いまは 福沢の 会読に でて います。たちばが ぎゃくに なって、うれしかったと 書いて います。
福沢は、2〜3ねんのうちに、いっしょに まなぶ 80人から 90人の なかで、めだつように なったと 書きました。ただ、これは 本人の ことばです。ほかの 人が どう 見たかは、この メモでは わかりません。
福沢は、長崎で自分より蘭学ができた人物が、後から適塾に入ってきたときの話を書いています。そのとき福沢は、下の級の会読で会頭を務めていました。昔は負けた相手が、今は自分が進行する会読に出ている。立場が逆になったのが、うれしかったと自伝にあります[1]。
さらに福沢は、2〜3年のうちに、同窓生80〜90人の上に頭角を現した、と書きます。
ただし、これは自伝という本人の語りで、自己申告の面があります。「最優秀だった」と言い切れる資料はなく、ここでは「本人はこう書いている」という距離をとって読むのが安全です[1]。
福沢は自伝で、長崎で自分を上回っていた人物が、後から適塾に入ってきた場面を書く。そのとき福沢は下級生の会頭を務めており、かつて勝てなかった相手が今は自分が進行する会読に出席していた。立場が逆になったと、うれしさを隠さず述べる[1]。
大阪での自分についても、上達が速く、2〜3年のうちに同窓生80〜90人の上に頭角を現したと自負する。この数字は、白玉・黒玉・三角という見える成績の制度と整合的ではある。しかし、制度の存在と、福沢が実際に最優秀だったことは別の問題である[1]。
ここで扱うべき注意点は、出典の性質である。この箇所は後年の本人の回想であり、自己評価が混じる。他の塾生の成績を並べた記録が資料に見えない以上、「福沢は塾で頭角を現したと本人は書いた」までが、述べられる範囲である。自伝の面白さと資料としての限界は、この点で表裏をなしている。
では、勉強の道具である辞書は、暮らしの面でどんな役目を持っていたのか。
5. じしょを うつすと、おかねに なるの?
5. 辞書を写す仕事が、学費の助けになった
5. 勉強の道具が収入になる:ヅーフの写本の単価と、塾の費用
この じしょは、うつす しごとも ありました。ヅーフを 1まい うつすと、16もん もらえました。ほかに、ちゅうの ぶぶんを うつすと 8もんです。ふつうの うつし仕事より、わりが よかったそうです。
だいみょうからの ちゅうもんも ありました。べんきょうの どうぐが、そのまま おかねに なったのです。
福沢の 話では、塾の ひようは 1か月 1ぶ 2しゅ から 1ぶ 3しゅ ほどで たりました。1日にすると 100もんより すくない、と 本人は 書いて います。
辞書は、読むだけでなく写すこともできました。ヅーフを写す仕事では、1枚(横文字約30行)を写して16文、日本語の注の部分を写して8文が入りました。福沢は、ふつうの写本より割がよかったと書き、大名からの注文もあったといいます[1]。
福沢は、塾の費用は月に一分二朱から一分三朱ほど(約2貫400文、1日あたり100文に届かない)で足りた、とも書いています[1]。ここから、1日の費用を約80文と計算すると、16文なら5枚ほど写せば1日分に近づく見当になります(ざっくりした計算で、実際の割合ではありません)。
ただし自伝には、10枚で164文と書いた箇所があります。16文を10枚分で足すと160文で、少し合いません。そのため、この記事では細かい金額の計算はしません。
勉強に必要な辞書を写すことが、そのまま収入にもなる。会読で辞書を引き尽くす暮らしと、写本で稼ぐ暮らしは、同じ辞書でつながっていました。
辞書が1部しかない塾で、その辞書を写す作業は、ほかの写本より割のよい仕事になった。福沢によれば、ヅーフ1枚(横文字約30行)を写すと16文、日本文字の注を写すと8文で、大名からの注文もあった[1]。勉強に使う道具が、そのまま学費の足しになったわけである。
では、その収入は、塾の費用に対してどの程度の意味があったのか。福沢は、費用は月に一分二朱〜一分三朱(約2貫400文、1日あたり100文未満)で足りたと書く。この2貫400文を30日で割ると1日約80文で、16文なら5枚前後が1日分に近づく目安になる。ただし、これは自分で割った概算であり、福沢が示した数字ではなく、一分二朱・一分三朱という幅や、注の8文は考慮していない[1]。
ここで、自伝の記述に細かな食い違いがある。同じ箇所に「10枚で164文」と書かれているが、16文の10枚分は160文で、数字が合わない。回想録では数字の記憶違いも起こりうるため、金額から確実な結論を引き出すのは避け、「写しの仕事が学費を助ける仕組みになっていた」という点にとどめるのが適切だろう。
会読の前夜に辞書を引き尽くす生活と、辞書を写して稼ぐ生活は、1部しかない辞書を軸に重なっていた。辞書を囲んで学ぶ暮らしと、辞書を写して収入を得る仕事は、同じ辞書を軸にしていた。
6. そのあと、福沢は どうなったの?
6. 先輩が帰り、福沢が塾長になった
6. 塾長になった福沢と、適塾が残したもの
せんぱいたちが くにへ かえり、塾に 人が すくなくなりました。そこで、福沢が 塾の 人を まとめる やくに なりました。年は、入ってから 2ねんごろと いわれます。
でも まとめやくに ちからは ありません。いちばん むずかしい ほんの 会読で かいとうを する くらいです。じぶんも ほかの 人と おなじように 勉強して、らんぼうも して いたと 書いて います。
1858ねんには、福沢は 江戸に いって、蘭学の 塾を ひらきました。これが 慶應義塾の もとに なりました。
やがて先輩たちが国元へ帰り、塾から人がいなくなって、福沢は塾長になりました。自伝には就任の年が書かれておらず、慶應義塾関連の資料では1857年ごろとされますが、はっきりしません[1]。入門の2年後ごろ、と考えておくのがよいでしょう。
塾長といっても、権力はありませんでした。一番難しい原書の会読で会頭を務める程度で、自分も同じように勉強し、乱暴もしていた、と福沢は書いています[1]。
1858年(安政5年)、福沢は江戸に出て、築地鉄砲洲の中津藩の屋敷内の長屋で蘭学塾を開きました。これが慶應義塾のもとになります[6]。
適塾そのものは、1838年に緒方洪庵が開き、1862年までの24年間続きました。門人は600人あまりで、福沢のほか大村益次郎や長与専斎、佐野常民らが学んでいます[5]。
福沢は、先輩たちが国へ帰って塾中に人がいなくなり、塾長になった。ただし就任の年は自伝本文に示されておらず、慶應義塾関連の資料が安政4年(1857)ごろとするのみである。ここでは入門の2年後ごろにとどめる[1]。
塾長といっても、元来の塾風として権力は何もなかった。一番難しい原書の会読で会頭を務める程度で、自分も他の塾生と同じように勉強し、乱暴もしたと福沢は述べる[1]。塾長になっても、会読では他の塾生と同じように勉強したと福沢は書いている。
安政5年(1858)、福沢は江戸へ出て、築地鉄砲洲の中津藩の屋敷内の長屋で蘭学塾を開いた。これが慶應義塾のもとになる[6]。大阪の塾で身につけた学び方が、次の塾の出発点になったと見ることもできる。
適塾そのものは、天保9年(1838)に緒方洪庵が大坂瓦町で開き、1843年に過書町(今の大阪市中央区北浜3丁目)へ移って、1862年までの24年間続いた。門人は600人あまり(資料により612人、636人とも)で、全国から集まった。建物は現存し、1964年に国の重要文化財に指定された。門下には福沢のほか、大村益次郎、長与専斎、佐野常民らがいる[5]。
7. もっと しりたく なったら
7. 福沢の語りを、自分の目で読んでみる
7. 本人の語りと別の資料を、読み比べる
福沢の 話は、『ふくおうじでん』と いう 本で よめます。「青空文庫」という むりょうの ネットの 図書館に のって います。むずかしい ところは、おうちの 人に よんで もらいましょう。
やって みよう:すきな 本の 1ページを、ノートに うつして みましょう。なんぷん かかったか はかると、ヅーフを うつす しごとが どれくらい たいへんか、すこし わかります。
えんぴつは さきを とがりすぎないように して、けがに きを つけます。
『福翁自伝』は、青空文庫で無料で読めます。「大阪修業」「原本写本会読の法」「写本の生活」「塾長になる」の章に、ここで紹介した話が出てきます。枕の逸話や、白玉・黒玉の細かい説明は、福沢本人の言葉で読むと印象が変わります[1]。
やってみよう:好きな本の1ページを、ノートに写してみましょう。何分かかるかを測ると、ヅーフ1枚(横文字約30行)を写す仕事が、どれほど根気のいるものだったか、すこし想像できます。
読むときは、福沢が自分を中心に語っていること、数字に食い違いがあることにも目を向けてください。同じ塾を、洪庵の側から書いた資料と読み比べるのも、よい調べ方です。
『福翁自伝』は青空文庫で全文が読める。この記事で触れたのは「大阪修業」「原本写本会読の法」「写本の生活」「塾長になる」の各章にあたる箇所である[1]。本文の一節を抜き出すのではなく、章ごとに通して読むと、福沢の言い回しの勢いも含めて、塾の空気が伝わる。
読むときの観点を3つ挙げる。第一に、福沢の語りは晩年の回想であり、自負や記憶違いが混じりうる(頭角を現したという自己評価、10枚164文という数字の不一致)。第二に、辞書の成立のように、二次資料と食い違う箇所がある。第三に、観光局の紹介や百科事典は、福沢の語りを前提にしている可能性がある。そのため、複数の資料の言い回しを並べて、どこまでが共通で、どこからが福沢の語りだけかを分けて読むとよい[2][5]。
試しに、好きな本の1ページを写して時間を測ってみるとよい。30行を何分で写せるかが分かれば、ヅーフを写す仕事の手間が、数字として実感できる。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
福沢本人の語りと、適塾を紹介する資料を組み合わせて使いました。二次資料の数字は「といわれる」の強さで書いています。
- 福沢諭吉『福翁自伝』(青空文庫)。 https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/1864_61590.html (入門・枕・会読・写本・塾長の記述)
- 大阪観光局「適塾」。 https://osaka-info.jp/spot/tekijuku/ (ヅーフ部屋の紹介)
- Wikipedia「ドゥーフ・ハルマ」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ヅーフ・ハルマ (辞書の成立。二次資料)
- Wikipedia「適塾」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/適塾 (会読の採点と進級の説明。二次資料)
- コトバンク「適塾」。 https://kotobank.jp/word/%E9%81%A9%E5%A1%BE-100787 (適塾の概要と門下)
- 現代ビジネス(大久保健晴氏の記事)。 https://gendai.media/articles/-/107050 (江戸の塾の開設)
なおした ところ
更新履歴
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