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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

1さつの じしょを、わかものたちが うばいあった?

夜も明かりが消えない部屋 ── 適塾で学んだ若者たちと、緒方洪庵のこと

適塾と緒方洪庵 ── ヅーフ辞書・会読・除痘館(1849年)・『扶氏医戒之略』

分野:歴史・文化

むかし、おおさかに、夜になっても あかりが きえない 部屋が ありました。そこには、じしょが 1さつ だけ。わかものたちは、その 1さつを うばうように つかって いた、と いわれます。

その がっこうの 名前は、適塾てきじゅくです。先生は、お医者さんの 洪庵こうあん。どんな ところだったのか、のぞいて みましょう。

江戸時代の大坂に、夜になっても明かりが消えない部屋がありました。置いてあったのは、辞書がたった1冊。若者たちは、その1冊を奪い合うように使ったといわれます。

その部屋があったのは、緒方洪庵が開いた蘭学塾・適塾です。塾生たちがどんなふうに学んだのか、洪庵という人がどんな姿勢だったのかを、大阪大学などの資料から見ていきます。

大坂・船場にあった蘭学塾・適塾は、蘭方医の緒方洪庵(1810〜1863)が1838年(天保9)に開き、1862年(文久2)まで25年間続いた[1]。塾には辞書が1冊しかなく、それを置いた部屋は明かりが消える間がなかったと伝えられる[2]。

このメモでは、塾生の学び方(辞書・会読・塾頭)と、洪庵の仕事(除痘館での種痘、コレラの手引き、訳した医師の心得)を、大学や自治体などの資料を突き合わせて追う。

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1. どうして、へやの あかりが きえなかったの?

1. 辞書は1冊だけ ── 「ヅーフ部屋」の夜

1. ヅーフ辞書と「ヅーフ部屋」── 1冊しかない辞書をめぐる塾生の学び

てきじゅくには、オランダごの ことばの いみが わかる じしょが、たった 1さつ しか ありませんでした。[2]

その じしょは、「ヅーフ」と よばれました。よみかたは「ずーふ」です。わかものたちは、じしょを おいた 部屋に あつまり、じゅんばんを まって しらべました。

そのため、この 部屋は 「ヅーフ部屋」と よばれ、あかりが きえる ひまが なかった、と いわれて います。

もしも、クラスの みんなで じしょを 1さつ しか つかえなかったら、だれから じゅんばんに つかうか、どうやって きめますか。

たった1冊の辞書

適塾の塾生たちが学んでいたのは、オランダ語の本でした。知らない言葉が出てくると、辞書で調べます。ところが、塾には「ヅーフ」と呼ばれた辞書が、1冊しかなかったとされます[2]。

明かりが消える間がなかった

塾生たちはこの辞書を奪い合うように使いました。辞書を置いた部屋は「ヅーフ部屋」と呼ばれ、明かりが消える間がなかったといわれます[2]。1冊を順番に使うので、自分の番が来ると、ここぞとばかり調べたのでしょう。

適塾には、「ヅーフ」(ヅーフ・ハルマ)と呼ばれた辞書が1冊しかなかったとされる[2]。塾生はこれを奪い合うように使い、辞書を置いた部屋は「ヅーフ部屋」と呼ばれ、明かりが消える間がなかったといわれる[2]。

「奪い合い」「消える間がない」は伝聞の形で紹介される話だ。ただ、辞書が限られ、学びたい者が多かったという構図は、次の章の入門者数とも矛盾しない。

2. てきじゅくって、どんな がっこう?

2. 千人をこえる若者が入門した塾

2. 適塾には何人が集まり、塾生はどこで暮らしたのか

てきじゅくは、1838ねんに、おおさかで はじまりました。ひらいたのは、お医者さんの 洪庵こうあんです。25ねん つづきました[1]。

はいった 人の 名前を かいた ノートには、636人の 名前が のって います。ほかの しりょうも あわせると、1000人を こえる わかものが まなんだ ようです[3]。

いまも のこる たてものが あります。1かいの おくは 洪庵こうあんの かぞくが くらし、2かいで、わかものたちが ねおきして いました[4]。

洪庵が開いた塾

適塾を開いたのは、蘭方医の緒方洪庵(1810〜1863)です。1838年(天保9)から1862年(文久2)までの25年間、大坂の船場で塾を開き、蘭学を教えました[1]。

どれくらいの若者が来たのか

1844年(弘化元)以降の入門者が署名した名簿「姓名録」には、636人が記されています。通いの塾生や1843年以前の門人も含めると、史料から分かる範囲でも1000人を超えます[3]。

塾の建物は今も残っている

1845年(弘化2)に洪庵は町屋を買い、瓦町にあった塾から移りました。この建物が今も残り、1階の奥は洪庵の家族の住まい、2階は塾生が寝起きする場所でした[3][4]。

適塾は1838年(天保9)に開かれ、1862年(文久2)まで25年間続いた[1]。1844年(弘化元)以降の入門者が署名した「姓名録」に記載されただけで636人、通いの塾生や1843年以前の門人を含めると、史料から判明する範囲でも1000名を超える[3]。

1845年(弘化2)、洪庵は過書町の町屋を購入して瓦町の旧適塾から移った[3]。この建物が現存し、1階の奥が洪庵の家族の住居、2階が塾生の起居の場だった[4]。Wikipedia によれば、1941年に史跡、1964年に重要文化財に指定され、1976〜1980年に修理があった[5]。

3. がっこうで、どんな べんきょうを したの?

3. 会読と塾頭 ── 実力で進む学び

3. 会読・採点・塾頭 ── 福沢諭吉の述懐と、門下の顔ぶれ

てきじゅくでは、月に 6かいほど、オランダごの 本を みんなで よみとく 時間が ありました。よみとく ことを 会読かいどくと いいます[5]。

できぐあいに よって、○や ●や △の しるしが つき、それが すすむ めやすに なった、と つたわって います[5]。

ここで まなんだ 人の なかには、福沢諭吉ふくざわゆきちが います。福沢ふくざわは、「これいじょう できないほど べんきょうした」と おもいだして います[2]。

月に6回の「会読」

塾では、月に6回ほど「会読」という時間がありました。オランダ語の本を、みんなの前で訳して読み合う勉強会です。出来に応じて「○」「●」「△」の採点がつき、それで進級が決まる仕組みがあったとされます[5]。

塾頭は持ち回り

塾生のまとめ役は「塾頭」と呼ばれ、歴代で13人いるとされます。大村益次郎は4代目、福沢諭吉は10代目といわれます[5]。

福沢諭吉のふり返り

その福沢諭吉は、適塾での勉強を「これ以上はできないほど勉強した」という趣旨で振り返っていると、大阪大学の解説にあります[2]。

塾では月に6回ほど「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、出来に応じた「○」「●」「△」の採点で進級する制度があったとされる[5]。

塾頭は歴代13人で、大村益次郎が4代、福沢諭吉が10代とされる[5]。

福沢は適塾での勉強ぶりを、「凡そ勉強ということについてはこのうえにしようもないほどに勉強した」と述懐している、と大阪大学の解説は引く[2]。主な塾生には福沢のほか、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲らがいる[1]。

4. 洪庵こうあんは、うでから うでへ、なにを つたえたの?

4. 種痘を広める ── 腕から腕へ、無償の除痘館

4. 除痘館と種痘(1849〜1858年)── 植え継ぎ・風評・官許

洪庵こうあんは、てんねんとうと いう こわい びょうきを ふせぐ 種痘しゅとうを、おおさかで ひろめた 人でも あります[6]。

1849ねん、除痘館じょとうかんと いう ばしょを ひらきました。そこでは、子どもの うでから うでへ、てんねんとうを ふせぐ くすりの なえ(うしの びょうきから つくった もの)を つないで いきました[7]。

「うけると うしに なる」と いう うわさも ありましたが、洪庵こうあんは、ただしい ことを ねばりづよく つたえ つづけた、と いわれます[7]。いまは、その うわさは まちがいだと わかって います。

1849年、除痘館を開く

洪庵は1849年(嘉永2)、大坂の道修町で医師たちと一緒に、種痘を行う「除痘館」を設けました[6]。西日本の各地に痘苗を分ける拠点も置き、天然痘が広がるのを防ごうとしました[6]。

腕から腕へ、そして風評

除痘館では、子どもの腕から腕へと牛痘の苗を植え継ぎました。当時は「種痘を受けると牛になる」といったうわさも流れましたが、洪庵は粘り強く正しい情報を伝え続けたとされます。このうわさは、現在では誤りと分かっています[7]。

民間の支えと官許

除痘館は、民間の資金や薬を扱う商人・大和屋喜兵衛らの支えで運営され、無償の社会奉仕として始められたとされます[8]。1858年(安政5)には、幕府が種痘を公認しました[7]。

洪庵は1849年(嘉永2)、大坂の道修町で医師らと種痘所(除痘館)を設立し、西日本各地に分苗所を置いて天然痘の蔓延を防いだ[6]。

除痘館では、子どもの腕から腕へ牛痘苗を植え継いだ。「種痘をすると牛になる」といった風評に対して、洪庵は粘り強く正しい情報を発信した[7]。運営は民間の資金と薬種商・大和屋喜兵衛らの支援によるとされ、無償の社会奉仕として始まったと紹介される[8]。

種痘は1858年(安政5)に幕府の官許を得た。活動開始から9年後にあたる[7]。

5. まちがいを みとめる ことは、はずかしい こと?

5. 5〜6日で手引きを書き、批判を受けて改訂する

5. 『虎狼痢治準』(1858年)── 手引きの執筆と、批判を受けた改訂

1858ねん、虎狼痢ころりと よばれた こわい びょうきが はやりました。洪庵こうあんは、5〜6日で、なおしかたの 本を かいて、お医者さんに ただで くばった、と いわれます[7]。

この 本に ついて、でしの ひとりが ひはんした ことが、きろくに のこっています。また、洪庵こうあんが じぶんの まちがいを みとめた ことと、その としの 12月に あらためた 本が でた ことも、つたえられています[9]。

先生でも、まちがえる ことが あります。まちがいに 気づいて なおす 先生を、わかものたちは どう おもったでしょう。

コレラの手引きを、5〜6日で

1858年にコレラが流行したとき、洪庵は複数の蘭医書を参考に、わずか5〜6日で手引き書『虎狼痢治準』を書き、医師たちに無料で配ったといわれます[7]。

弟子の批判を受け入れる

九州大学附属図書館の展示によると、弟子の一人が洪庵の本について批判したことが伝わります。あわせて、洪庵が自分の非を認めたこと、1858年12月に改訂版が出たことも紹介されています[9]。

1858年のコレラ流行に際し、洪庵は複数の蘭医書を参考に5〜6日で『虎狼痢治準』を著し、医師に無料で配布したという[7]。

九州大学附属図書館の展示によれば、弟子の竹屋椋亭が洪庵の書について批判したこと、洪庵が自らの非を認めたこと、1858年12月に改訂版が出たことが紹介されている[9]。師が誤りを認めて改める姿は、塾の学風を考える手がかりになる。

6. お医者さんの 心がまえって、なに?

6. 「人のために生きる」── 医師の心得12か条

6. 『扶氏医戒之略』── 洪庵が訳した12か条と、その後

洪庵こうあんは、ドイツの お医者さんが かいた 本の さいごに ある「お医者さんの 心がまえ」を、12の きまりに して、日本ごに しました[6]。

いちばん はじめの きまりは、むかしの ことばで、こう かいて あります。

人の為ために生活して己おのれのために生活せざるを医業の本体とす

むずかしい ことばですが、「お医者さんの しごとは、まず 人の ために ある」と いう いみに よめます。ただし、この よみとき方は、この メモの ものです。(もとの ことばは、おおさかだいがくの洪庵こうあんの しごとを しょうかいした ページに のって います[6]。)

ドイツの医師の本から

洪庵は、ドイツの医師フーフェランドの著作『扶氏経験遺訓』の巻末にある医師の心得を、12か条の訳文としてまとめました。これが『扶氏医戒之略』として知られています[6]。

第一条を読んでみる

第一条は次のとおりです。

人の為に生活して己のために生活せざるを医業の本体とす

「自分のためではなく、人のために生きることが、医者の仕事のもとにある」という意味に読めます。この条文は、大阪大学「洪庵の業績」の引用によります[6]。

そのあと

洪庵は1862年、幕府に召されて江戸に出て、奥医師と西洋医学所の頭取になり、翌1863年に亡くなりました[1]。適塾は、1931年にできた大阪大学の原点の一つとされています[1]。

洪庵は『扶氏経験遺訓』(原著者は独の医師フーフェランド)の巻末にある医師の心得を12か条に訳し、『扶氏医戒之略』として整理した[6]。第一条は次のとおり。

人の為に生活して己のために生活せざるを医業の本体とす

(大阪大学「洪庵の業績」の引用による[6]。)

洪庵は1862年(文久2)、幕府に召されて江戸で奥医師となり、西洋医学所の頭取を兼ねた。翌1863年に没した[1]。適塾は大阪大学の原点の一つに数えられる[1]。

自分でも しらべて みたく なったら

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

今日 できること

おうちに じしょが あれば、しらない ことばを 1つ ひいて みましょう。いみを うつさずに、じぶんの ことばで いいなおして みます。じしょが 2さつ あれば、おなじ ことばを ひいて、せつめいの ちがいを くらべても おもしろいです。

しりょうを 読むなら

おおさかだいがくの てきじゅくの ページや、てきじゅく記ねんセンターの ページに、写真と せつめいが あります。

今日できること

家に国語辞典があれば、知らない言葉を1つ引いて、意味を写さずに自分の言葉で言い直してみましょう。国語辞典が複数あれば、同じ言葉を引いて説明の違いを比べるのも面白いです。1冊の辞書を大切に使った塾生の気持ちに、少し近づけるかもしれません。

資料を読むなら

大阪大学の「適塾」のページには、沿革・教育・洪庵の業績がまとまっています。適塾記念センターのページには、入門者数などの説明があります。適塾の建物は、大阪市の資料でも紹介されています。

今日できること

洪庵の『扶氏医戒之略』第一条を、自分の言葉で言い換えてみる。家に複数の国語辞典があれば、同じ言葉を引いて説明の違いを比べてみるのもよい。

資料を読むなら

大阪大学「適塾」のページ(沿革・教育・洪庵の業績)と、適塾記念センターの概要が参考になる。福沢諭吉『福翁自伝』の適塾の章を読めば、塾生の側からの記述に触れられる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文で使った資料。Wikipedia や新聞記事による情報は、本文で「とされる」など強さを抑えて書いた。

  1. 大阪大学「適塾の沿革」 https://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/tekijuku/outline.html (開塾・閉塾の年、主な塾生、洪庵の晩年、阪大との関係)
  2. 大阪大学「適塾の教育」 https://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/tekijuku/education.html (ヅーフ部屋、福沢諭吉の述懐)
  3. 大阪大学 適塾記念センター「概要」 https://www.tekijuku.osaka-u.ac.jp/ja/tekijuku (入門者数、建物の移転)
  4. 大阪市「旧適塾」 https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009601.html (建物の使われ方)
  5. Wikipedia「適塾」 https://ja.wikipedia.org/wiki/適塾 (ヅーフ辞書、会読、塾頭、指定年。二次資料)
  6. 大阪大学「洪庵の業績」 https://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/about/tekijuku/achievements.html (除痘館、12か条)
  7. 日本経済新聞「洪庵、感染症と闘った不屈の医師」 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59042020T10C20A5AA1P00/ (植え継ぎ、風評、官許、コレラの手引き)
  8. 関西・大阪21世紀協会「なにわ大坂をつくった100人」 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/017.html (除痘館の運営と無償)
  9. 九州大学附属図書館「蘭書・訳書と洪庵・椋亭」 https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/exhibition/takeya/chapter2 (改訂版)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

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