1. きんは、どこで みつかったの?
1. 金が見つかったのは、製材所の水路だった
1. 1848年1月24日 ── コロマの製材所と、水路を掘った人たち
1848ねんの 1がつ24にち、コロマと いう ところに ある 製材所で、きんが みつかりました。製材所は、きを きって、いたに する ところです。
みつけたのは、だいくの ジェームズ・マーシャルさんです。製材所の みずの とおる みちを ほって いる ときの ことでした。ほって いた ひとの なかには、もともと そこに すんで いた 先住民の ニセナンの ひとたちも いました。ほって いた ひとたちが だした ものを、「これは きんだ」と みわけたのは、マーシャルさんだと いわれます。
2. まちの おとこの ひとは、どうして へったの?
2. 「金が出たぞ」の声で、町から男の人が消えた
2. 1848年3〜12月 ── 知らせの広まりと、空になった町
この しらせは、1848ねんの 3がつに サンフランシスコの まちへ とどきました。5がつには、ブラナンさんが きんの びんを もって、まちを あるきました。
すると、6がつの なかばには、まちの おとこの ひとの 4にんに 3にんぐらいが、きんを さがしに まちを でて いって いた、と いわれます。
12がつ5にちには、アメリカの 大統領が 議会への てがみで、この はなしを のべました。「しんじられない ほどだが、げんちを みた ひとの ほうこくで たしかめられた」と いう ないようです。これで くにじゅうに しられ、つぎの 1849ねんに、おおぜいが カリフォルニアへ むかいました。
金発見の知らせは、1848年3月にサンフランシスコに届きました[2]。5月には、冒頭のブラナンが通りを歩いて、知らせを広めました[1]。
すると、6月の半ばには、町の男の人の約4分の3が、金の出る鉱山に向かって町を出ていた、という記述があります[5]。4人に3人です。
12月5日には、アメリカの大統領ポークが、議会に送る教書の中でこの話にふれました。「信じがたいほどだが、現地を見た役人の報告で裏づけられている」という内容です[6]。大統領の言葉で、話は国中に知れ渡り、翌1849年に大勢の人がカリフォルニアへ向かいました。この人たちは「フォーティーナイナーズ」と呼ばれます。
では、そんなに人が集まったら、町の人口はどのくらい変わったのでしょうか。
3. ひとは、どれぐらい ふえたの?
3. 800人あまりの町が、25,000人に
3. 1848〜1852年 ── サンフランシスコと州の人口
サンフランシスコの ひとは、1848ねんの がっこうの しらべでは、812にんでした。それが 1849ねんの おわりには、25,000にんぐらいに なったと いわれます。2ねん たらずで、およそ 30ばいです。
30にんの クラスが、2ねん たらずで 900にんに なる ようなもの です。ただし ほんとうは、まちの ひとは ふえたり へったり しながら、かわって いきました。
カリフォルニアぜんたいでも、もともと すんで いた ひとたちを のぞいて 14,000にんぐらいだった ひとが、1849ねんの おわりには 10まんにん ちかくに なった、と かんがえられて います。
サンフランシスコの人口の記録を見てみましょう。1848年の学校の調べでは、男の人575人、女の人177人、子ども60人で、合計812人でした[7]。それが1849年12月には、約25,000人になったと見られています[8]。2年足らずで、およそ30倍です。
30人のクラスが、2年足らずで900人になる、と考えるとわかりやすいかもしれません。ただし本当は、町の人口は一直線に増えたわけではなく、増えたり減ったりしながら変わっていきました。1850年の国勢調査では21,000人と、少なく数えられています[8]。調査のころは、鉱夫が鉱山のある郡に出ていた時期だったとされます。
州全体では、もともと住んでいた先住民をのぞいた人口が、金発見のころは約14,000人でした。それが1849年末までに10万人近くになり、1852年までには約25万人になったという推定があります[3]。1852年に州が行った調査では、総人口は303,808人でした[9]。推定と調査は数え方がちがうので、ぴったりは合いません。
これだけ人が集まると、物の値段も動きます。何がいくらになったのでしょうか。
サンフランシスコの人口の推移は、1846年に約200人、1847年8月に459人、1848年4月に850人、1849年7月に5,000人、1849年12月に25,000人と見積もられている[8]。1848年の学校調べでは男575人・女177人・子ども60人の計812人[7]。1849年末の25,000人は、850人の約29倍、812人の約31倍にあたる。
1850年の国勢調査では21,000人と減って見える。この調査が行われた9〜10月は、鉱夫が鉱山のある郡へ出ていた時期にあたるとされる[8]。人口は一直線に増えたのではなく、鉱山への出入りで増減した面がある。
州全体では、先住民でない人口が金発見のころ約14,000人、1849年末までに10万人近く、1852年までに約25万人に増えたと推定されている[3]。一方、1850年の国勢調査は92,597人、1852年の州の調査は総人口303,808人を数えた[9]。推定と調査では、数える時期や方法が異なるため、ぴったり重ならない。
4. おかねもちに なったのは、だれ?
4. 金を掘らずに、大金持ちになった人
4. 1849〜1855年 ── 物価と商売:道具を売って大きく儲けた人もいた
きんを ほった ひとが、みんな おかねもちに なったのでしょうか。ほとんどの ひとが 1にちに みつけた きんは、10〜15ドルぶん ぐらいだった そうです。
その いっぽうで、ものの ねだんが とても あがりました。きんを あらう ための さらは、20セントだったのに、すぐに 8ドルで うられました。8ドルは 800セント なので、40ばいです。たまごも、1こ 1ドルから 3ドルに なりました。
たとえば、みんなが おなじ ひに おなじ けしゴムを ほしがったら、おみせの けしゴムは たりなく なって、ねだんを あげたく なるかも しれません。ただし ほんとうの ねだんは、いろいろな ことで きまります。
ブラナンさんは、おみせを ひらいて どうぐを うり、1にちに 2,000ドルいじょうを かせいだ と いわれます。きんを ほるより、ほる ひとに ものを うる ほうが もうかった ひとも いました。
金を掘った人は、みんな大金持ちになったのでしょうか。州立公園局の資料によると、ほとんどの鉱夫が1日に見つけた金は、10〜15ドル分ほどでした。金を掘る仕事は、見た目より大変だったのです[10]。
その一方で、物の値段は急に上がりました。金ざらい用の皿は、1849年より前は20セントでしたが、すぐに1枚8ドルで売られました。8ドルは800セントなので、40倍です。卵も、1個1ドル、2ドルと上がり、3ドルになりました[10]。1851年の金鉱地の物価表には、シャベル1本が36ドル、小麦粉1袋が13ドル、牛肉1ポンド(約450グラム)が10ドルとあります。
シャベル1本は、ふつうの鉱夫が1日に見つけた金の、2〜4日ぶんにあたります。ただし本当は、値段は品物が手に入りやすいかどうかなど、いろいろな理由で決まります。
売る側で大きく儲けた人もいます。ブラナンは、サッターの砦のそばに店を出して鉱夫に品物を売り、1日に2,000ドルを超えて稼いだ、と州立公園局の記事は伝えます。鉱夫が見つけた1日分の金の、100倍以上です。数か月で10万ドル超を稼ぎ、のちにカリフォルニア初の百万長者と呼ばれました[1]。
1853年には、リーバイ・ストラウスがサンフランシスコに移り、作業用のズボンを売り始めました[11]。ジーンズのもとになった話はジーンズの記事で書いています。
州立公園局の物価ワークシートによると、ほとんどの鉱夫が1日に見つけた金は10〜15ドル分ほどで、金を掘る仕事は見た目より大変だった。一方、商人は道具や食べ物を高く売って儲けた[10]。金ざらい用の皿は、1849年より前は20セントだったが、すぐに1枚8ドルで売られた。40倍である。卵は1個1ドル、2ドル、3ドルと値上がりした[10]。
| 品物 | 値段(1851年、金鉱地) |
|---|---|
| 卵 | 1個 3ドル |
| 小麦粉 | 1袋 13ドル |
| 牛肉 | 1ポンド 10ドル |
| シャベル | 1本 36ドル |
シャベル1本の36ドルは、1日10〜15ドル分の金を見つける鉱夫の、2〜4日ぶんにあたる。
対照的に、ブラナンは、サッターの砦のそばに店を出して鉱夫に品を売り、1日2,000ドル超を稼いだ。鉱夫が見つけた1日分の金の、100倍以上である。数か月で10万ドル超を稼ぎ、のちにカリフォルニア初の百万長者と呼ばれ、1849年末にはサクラメントの土地の4分の1を持っていた[1]。
1848〜1855年にカリフォルニアで採れた金は、推定75万ポンド(約340トン)にのぼる[2]。それほどの金が採れる陰で、道具や食べ物を売って大きく儲けた人もいた。一方で、金を掘る仕事には大変さがあり、物の値段も上がっていた。
1853年にはリーバイ・ストラウスがサンフランシスコに移り、作業用のズボンを売り始めた[11]。金鉱で店を出して商売にした例の1つで、ジーンズの話はジーンズの記事で詳しく書いている。
5. ふねが おみせに なったって、ほんとう?
5. 乗り捨てられた船が、倉庫や酒場になった
5. 1849〜1860年 ── 乗り捨てられた船と埋め立て
サンフランシスコの みなとには、たくさんの ふねが ありました。はたらく ひとたちが きんを さがしに いって しまい、のりすてられた ふねも おおかった そうです。
その ふねは、そうこや おみせ、おさけを だす ところ、ホテルに かわりました。1そうは、ろうやに なった そうです。
むかしの みなとの いりえは、あとで うめたてられ、その うえに いまの まちが たちました。だから、いまも まちの したには、ふねが たくさん うまって いる と いわれます。
サンフランシスコの港には、たくさんの船が止まっていました。ところが、船で働く人たちが金鉱へ逃げてしまい、乗り捨てられる船がたくさん出ました。その船は、倉庫、店、酒場、ホテルに作りかえられました。1隻は牢屋になったそうです[12]。
有名なのは、捕鯨船のナイアンティック号です。1849年にわざと浜に乗り上げさせられて、倉庫、酒場、ホテルとして使われ、1851年の大火で焼けました。
そのあと、船が浮かんでいた入り江は、1860年までに埋め立てられ、その上にサンフランシスコのダウンタウンが建てられました。1994年に地下鉄の工事をしていて、「ローマ」号という船が見つかっています。いまも、市街地の下には船がたくさん埋まっているそうです[13]。
人の増えた町が、船の上に作られたのです。では、その町は、国の中でどんな立場になったのでしょうか。
乗組員が金鉱へ逃げたため、港には大量の船が乗り捨てられた。船は倉庫・店・酒場・ホテルに作りかえられ、1隻は牢屋になった[12]。乗り捨てられた船の数は、資料によって幅があるので、ここでは「大量」とだけ書く。
捕鯨船ナイアンティック号は、1849年に意図的に浜に乗り上げさせられ、倉庫・酒場・ホテルとして使われたのち、1851年の大火で焼けた。入り江は1860年までに埋め立てられ、その上にダウンタウンが建てられた。1994年には地下鉄工事で船「ローマ」号が見つかり、市街地の下には今も多数の船が埋まっているという[13]。
人口が急に増えた街は、海の上だった場所を埋め、船の上に建った。街が広がるということは、その下に、当時の港が残るということでもある。
6. カリフォルニアは、アメリカの なかで どうなったの?
6. 準州を飛ばして、31番目の州へ
6. 1849〜1850年 ── 準州を飛ばした31番目の州
1850ねんの 9がつ9か、カリフォルニアは、アメリカの 31ばんめの 州に なりました。
ふつうは、州に なる まえに、準州と よばれる じゅんびの だんかいを とおる ことが おおいのですが、カリフォルニアは それを とびこして、いきなり 州に なりました。きんの はっけんが、それを はやめた と いわれます。
1850年9月9日、カリフォルニアはアメリカの31番目の州になりました。ふつうは、州になる前に準州という準備の段階を通るのですが、カリフォルニアはそれを飛ばして、いきなり州になっています[14]。
カリフォルニアは、奴隷制を認めない「自由州」として、アメリカに加わりました。金の発見が、州になるのを早めたとされます。
7. きんの さわぎで、ほかの ひとたちは どうなったの?
7. 金の騒ぎのかげで、先住民や中国から来た人たちに起きたこと
7. 先住民と中国系移民 ── 人口の減少と外国人鉱夫税
この さわぎで、もともと そこに すんで いた 先住民の ひとたちは、とても へって しまいました。1846ねんごろは 15まんにん ぐらいと みられる のが、1870ねんには 3まんにん ぐらいに なった そうです。びょうきや、すむ ところを おわれた こと、ひどい できごとが ありました。
ちゅうごくから きた ひとも たくさん いました。1850ねんに、カリフォルニアの ぎかいは、がいこくから きた、きんを ほる ひとに ぜいきんを かけました。1852ねんに ぜいきんの きまりが かわり、おもな あいては ちゅうごくから きた ひとに なりました。ぜいきんを さけて、てつどうや のうじょう、りょうりや せんたくの しごとに うつった ひとも おおかった そうです。
金の騒ぎは、そこに住んでいた人たちにも大きな影響を与えました。カリフォルニアの先住民の人口は、1846年ごろの推定15万人から、1870年には約3万人に減りました。原因は、病気や、住む場所からの強制的な移動、飢えのほか、誘拐、強制労働、殺害などもありました[15]。1章で見たように、金の発見の場にも、先住民の人たちがいました。
中国から来た人たちにも、変化がありました。1850年、カリフォルニアの議会は、外国人の鉱夫に月20ドルの税をかけました。1852年に月3ドルの税に改められ、主な対象は中国系の鉱夫でした。1852年には、2万人を超える中国からの移民がサンフランシスコに上陸しています[12]。
中国系の鉱夫が、1870年にこの法が無効になるまでに払った税は、500万ドルを超えます。これは当時の州の収入の4分の1にあたります。税を避けようとして、鉱山を離れ、鉄道工事や農場、料理、洗濯の仕事に移った人も多かったそうです[16]。
カリフォルニアの先住民の人口は、1846年ごろの推定約15万人から、1870年には約3万人に減った。原因は、病気、強制移動、飢えのほか、誘拐、強制労働、殺害や虐殺など[15]。起点の推定には、研究者によって幅がある。およそ24年のあいだの変化である。
1850年、カリフォルニアの議会は外国人鉱夫税(月20ドル)を定めた。1852年に月3ドルの税に改め、主な対象は中国系の鉱夫だった。同じ1852年には、2万人超の中国からの移民がサンフランシスコに上陸している[12]。
中国系の鉱夫が、1870年に法が無効になるまでに払った税は500万ドル超で、当時の州の歳入の4分の1にあたる。税を避けようと、鉱山を離れて鉄道工事や農場、料理、洗濯の仕事に移る人も多かった[16]。
8. かわや はたけは、どうなったの?
8. 山を水でくずした泥が、川と畑に積もった
8. 1853〜1884年 ── 水力採鉱と、川と農地に積もった泥
1853ねんから、つよい みずで やまを くずして きんを さがす、水力採鉱と いう やりかたが はじまりました。たくさんの きんが とれましたが、けしきが おおきく こわれました。
ホースからは、1ぷんに およそ 6まんリットルの みずが でました。おふろ 300ぱいぶんぐらいです。やまの つちが くずされて、どろが かわや はたけに ながれこみました。1884ねんに さいばんしょが、この やりかたを せいげんしました。
1853年に、水力採鉱という方法が始まりました。高い圧力の水で山を崩して、金を探す方法です。大きな利益を生みましたが、景色は大きく壊れました[5]。
ホースからは、1分間に約16,000ガロン(約6万リットル)の水が出たそうです。お風呂1杯を約200リットルとすると、300杯ぶんです。ノースブルームフィールドという会社だけで、1年に2,000万立方ヤード(約1,500万立方メートル)を超える泥を川へ流しました。サクラメント川の川床は16フィート(約5メートル)上がり、農地は最大3フィート(1メートル近く)の泥に埋まったと、スミソニアン誌の記事は書いています[17]。
1884年に、裁判所が、この方法を制限しました。
9. じぶんで しらべて みよう
9. 自分でも調べてみたくなったら
9. 自分でも調べてみたくなったら
おうちの ひとと、サンフランシスコの ちずを ひらいて みましょう。むかしの みなとの いりえは うめたてられて、いま その うえに まちが たって います。
20セントの ものが、とつぜん 800セントに なったら、どう おもいますか。じぶんの まちの おみせで、ねだんを みくらべて みるのも おもしろいです。
ナショナルジオグラフィックの、サンフランシスコの地下に埋まった船の地図を見て、いまの地図と見比べてみましょう。埋まった船の場所が、いまの町のどのあたりにあたるのか、探してみてください。
州立公園局の物価の表(PDF)も、おすすめです。品物の名前と値段を1つずつ見て、いまの自分の身の回りのどんな物と比べてみたくなるか、考えてみてください。
しらべた ところ
参考にした情報源
参考にした情報源
出典について:アメリカの国や州の機関(米国国勢調査局、カリフォルニア州立公園局、カリフォルニア州務長官)、大統領演説を集めた大学の資料館、学術誌、大学出版局、国立公園局、雑誌・報道サイト、Wikipedia、企業のサイトを使いました。数字や年号は、各資料が示したものです。
- California State Parks「Samuel Brannan」。 https://www.parks.ca.gov/?page_id=31889 (1848年5月にブラナンが金の入ったびんを手に知らせを広めたこと、道具の買い占めと販売、1日2,000ドル超の売り上げ、数か月で10万ドル超、カリフォルニア初の百万長者と呼ばれたこと)
- U.S. Census Bureau「January 2018: 1848 California Gold Rush」。 https://www.census.gov/about/history/stories/monthly/2018/january-2018.html (1848年1月24日の発見、1848年3月にサンフランシスコへ知らせが届いたこと、1848〜1855年の金の産出量の推定75万ポンド)
- California State Parks「Gold Rush Overview」。 https://www.parks.ca.gov/?page_id=1081 (発見が1848年1月24日の朝であること、先住民でない人口の推定:約14,000人、1849年末に10万人近く、1852年に約25万人)
- Western Historical Quarterly「Field Note: Indians and the Gold Discovery at Coloma in 1848」(53巻4号)。 https://academic.oup.com/whq/article-abstract/53/4/429/6649693 (ニセナンの土地の製材所、ニセナンの労働者を雇っていたこと、水路を掘った先住民が発見に関わり、金と見分けたのはマーシャルだったこと。要旨のページ)
- HISTORY「Gold Rush」。 https://www.history.com/articles/gold-rush-of-1849 (1848年6月半ばのサンフランシスコの男性住民の約4分の3が金鉱へ向かったこと、1853年の水力採鉱の開始と1884年の制限)
- Miller Center「December 5, 1848: Fourth Annual Message to Congress」(ポーク大統領)。 https://millercenter.org/the-presidency/presidential-speeches/december-5-1848-fourth-annual-message-congress (カリフォルニアの金の話が「信じがたいほど」だが、現地を見た公務員の報告で裏づけられていると述べたこと)
- The Museum of the City of San Francisco「Early San Francisco」。 http://sfmuseum.org/hist1/early.html (1848年の学校調べの人数:男575人・女177人・子ども60人、計812人)
- SFgenealogy「San Francisco Population」。 https://sfgenealogy.org/doku.php?id=san_francisco_history%3Apopulation (サンフランシスコの人口の年ごとのまとめ。1846年約200人、1848年4月850人、1849年12月25,000人、1850年21,000人と、その調査時期についての注記)
- California Secretary of State「Census of 1852: Enumerating California」。 https://exhibits.sos.ca.gov/s/census-of-1852-enumerating-california/page/historic-context (1850年の国勢調査で92,597人、1852年の州の調査で総人口303,808人)
- California State Parks「Gold Rush Prices」(ワークシート、PDF)。 https://www.parks.ca.gov/pages/22922/files/worksheet-goldrushprices.pdf (鉱夫の1日の金の量10〜15ドル分、金ざらい用の皿20セントが8ドルに、卵の値上がり、1851年の金鉱地の物価表)
- Levi Strauss & Co.(会社の公式サイト)。 https://www.levistrauss.com/ (リーバイ・ストラウスが1853年にサンフランシスコへ移ったこと。会社のトップページ)
- Wikipedia「California gold rush」。 https://en.wikipedia.org/wiki/California_gold_rush (乗り捨てられた船の使われ方、外国人鉱夫税の金額と対象、1852年の中国からの移民の上陸)
- National Geographic「New Map Reveals Ships Buried Below San Francisco」。 https://www.nationalgeographic.com/history/article/map-ships-buried-san-francisco (ナイアンティック号の来歴、入り江の埋め立てとダウンタウン、1994年の「ローマ」号の発見)
- California State Parks「California Admission Day September 9, 1850」。 https://www.parks.ca.gov/?page_id=23856 (1850年9月9日の31番目の州への昇格、準州を経なかったこと、自由州としての加盟)
- Yale University Press「Confronting American Genocide on the California Coast」(ブログ)。 https://yalebooks.yale.edu/2017/05/23/confronting-american-genocide-on-the-california-coast/ (カリフォルニアの先住民人口の推定:1846年ごろ約15万人から1870年に約3万人、原因の内訳)
- National Park Service「California National Historic Trail: Chinese Immigration」。 https://www.nps.gov/articles/000/california-nht-chinese-immigration.htm (中国系の鉱夫が払った税500万ドル超と州の歳入の4分の1、鉱山を離れて別の仕事に移った人たち)
- Smithsonian Magazine「Turning Water to Gold」。 https://www.smithsonianmag.com/history/turning-water-to-gold-170493109/ (水力採鉱の水の量、ノースブルームフィールド社の泥の量、サクラメント川の川床と農地に積もった泥)
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