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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

のこぎりの はのような やねの まちは、どうして できたの? ── きりゅうの おりものの おはなし

屋根がギザギザの工場が200棟以上 ── 桐生が「織都」と呼ばれるまで

桐生の織物業とノコギリ屋根 ── 714年の記録から桐生新町、伝統工芸士まで

分野:歴史・文化

群馬県ぐんまけんの 桐生きりゅうという まちには、やねが のこぎりの はのように ギザギザした 工場が、200とう いじょう のこって います[5]。

ふつうの 工場は、やねが たいらか 三角です。どうして ここでは、ギザギザなのでしょうか。その わけを たどると、1300ねんいじょう つづく 絹きぬの 織物おりものの おはなしに つながって いきます。

群馬県の桐生には、屋根がのこぎりの歯のようにギザギザした織物工場が、200棟以上残っています[5]。棟数は今残っている数の目安で、いちばん多かった時期の数ではありません。

ふつうの工場は、平らか三角の屋根です。なぜ桐生では、ギザギザの屋根が町の顔になったのでしょうか。その理由を追っていくと、約1300年前の記録、京都から来た機織りの技、町づくり、そして今も織る人たちにたどり着きます。

桐生には、ノコギリ屋根の織物工場が200棟以上残るとされる[5]。これは現存数の目安であり、最盛期の数ではない。屋根の形には、北側の柔らかい光で織物の仕上がりを見るための工夫、という説明がある[6]。

ではなぜ、この町に織物工場が集まったのか。714年の記録、江戸時代の町づくり、明治の技術導入、日本遺産、伝統工芸士まで、市・県・文化庁などの資料を突き合わせて整理する。「織都」という呼び名自体の由来は、公的資料では確かめられなかった。

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1. どうして やねが ギザギザなの?

1. のこぎり屋根の窓は、なぜ北を向くのか

1. ノコギリ屋根の理由 ── 力織機の空間と北の光

ギザギザの やねは、ぜんぶ おなじ むきに ならんで います。ななめの ところに、窓まどが あります。その まどは、北を むいて いると いわれます[6]。

きたがわの やわらかい 光が、織物おりものの しあがりを 見るのに ちょうどよかった そうです[6]。

たとえば、げんかんの ドアの ガラスごしに 見る 光は、ときどき まぶしく なります。でも きた むきの まどの へやは、ずっと おちついた あかるさです。ただし、これは たとえです。

ひろい へやが いる、という わけも あったと いわれます。ひろい ところで、おおきな きかいを うごかしたのです[6]。

ノコギリ屋根は、屋根の片側が斜めの窓になっていて、その窓が北を向くことが多い形です。北側からの光はやわらかく、織物の仕上がりを見るにはその光が最適だったと説明されています[6]。

もう一つの理由として、動力で動く織機を置くために広い空間が必要だったことも挙げられています[6]。ただし、これは観光や工芸を紹介する記事の説明で、一次資料では確かめていません。「と言われる」の範囲で受け取るのがよさそうです。

こうした工場は、明治以降に多く建てられ、いまは町のシンボルになっています[5]。

桐生のノコギリ屋根工場は、明治以降に多く建てられ、200棟以上が残る。町のシンボルとなっている[5]。「200棟以上」は現存の目安で、全盛期の数ではない。

形の理由として、民間の紹介記事は二点を挙げる。力織機を動かすのに広い空間が要ったこと、そして北側の柔らかい光が織物の仕上がりを見るのに最適だったことである[6]。ただし、この説明は一次資料では確認できていないため、「とされる」と読むのが妥当だろう。

形の由来は、町の成り立ちとつながっている。次の章から、時代をさかのぼって見ていく。

2. いちばん むかしの きろくは、いつ?

2. 約1300年前の記録と、白滝姫の伝説

2. 714年の絁の記録 ── 桐生織の最古の記録

いまから 1300ねん いじょう まえ、朝廷ちょうていに 絹きぬの ぬのを おさめた、と いう ことが、続日本紀しょくにほんぎと いう ふるい ほんに のって います。714ねんの ことです[1]。

この ぬのは 絁あしぎぬと いい、いまの ぐんまけんの あたりから おさめられました。きりゅうの おりものの、いちばん ふるい きろくと されて います[1]。

もう ひとつ、伝説でんせつも あります。ずっと むかし、白滝姫しらたきひめという ひめが およめに きて、むらの ひとたちに、かいこを かうこと、いとを とること、はたを おることを おしえた、と いう おはなしです[2]。

これは 伝説でんせつなので、ほんとうに あった ことかは わかりません。

『続日本紀』には、和銅7年(714年)に、今の群馬県にあたる上野国の絁を朝廷に納めた、という記事があります。約1300年前のことで、桐生織の最古の記録とされます[1]。

絁は、絹の布の一種です。この記事では、市のページにある「714年の記事がある」というところまでを書きます。

桐生織の始まりには、伝説もあります。約1200年前の桓武天皇のころ、嫁いできた白滝姫が村人に養蚕・製糸・機織りを教えた、という話です[2]。白滝神社は、日本遺産の構成文化財になっています。史実ではなく伝説なので、地域が大切にしてきた物語として読みましょう。

桐生織の最古の記録は、『続日本紀』の和銅7年(714年)の記事で、上野国(現在の群馬県)の絁を朝廷に納めたと伝わる。約1300年前である[1]。断定は「714年の記事がある」までにとどめる。

起源伝承としては、桓武天皇の時代(約1200年前)に嫁いだ白滝姫が、村人に養蚕・製糸・機織りの技を教えたという話がある。白滝神社は日本遺産の構成文化財だが、あくまで伝説であり、史実としては扱わない[2]。

記録と伝説は性質が違う。前者は「いつ」を、後者は「地域が自分たちの織物をどう語ってきたか」を教えてくれる。

3. 「1日で 2410たん」って、どういうこと?

3. 徳川家康の旗絹を1日でそろえた話

3. 1600年の旗絹2410反 ── 質と量の評判

1600ねん、徳川家康とくがわいえやすが、きりゅうの ひとに たのみました。「はたに する きぬを 用意してほしい」と いう ことです。

そのとき きりゅうは、2410たんの 旗絹はたぎぬを、たった 1日で そろえた と つたえられて います[1]。

たくさんの ぬのを みじかい じかんで 用意した、という はなしが つたわって います。

1600年、桐生は徳川家康に頼まれて、旗にする絹を2410反、たった1日で用意したと伝えられます[1]。

民間の記事には「2300反」と書くものもあり、数字は資料で違います。ここでは桐生市のページの2410反を採り、「と伝わる」形で紹介します。

この話が大事なのは、数字そのものより、桐生には短い時間で大量の絹を織り上げられる人と体制があった、と当時の人が見ていたことがうかがえる点です。戦いの話は、ここでは背景にとどめます。

桐生市の資料は、1600年に徳川家康の依頼で桐生が旗絹2410反を1日で用意した、と説明する[1]。民間記事には2300反と書くものもあるため、市の数値を採り、「と伝わる」水準で扱う。1反は成人1人分の着物に足りる布の長さを指す。

数の正確さより、この逸話が示す点に注目したい。短期間に大量の絹を用意できたという伝えは、当時の桐生の織りの力が評判だったことを物語る。ただし、体制の中身までは今回の資料では分からない。

同じ市の資料は、もっと前の時代にも桐生の絹が旗に使われたと説明するが、本稿では扱わない。

4. きょうとから きた 「はたおりき」って なに?

4. 京都から来た機と「西の西陣、東の桐生」

4. 高機の移入とジャカード機 ── 「西の西陣、東の桐生」

18せいきの なかごろ、京都きょうとから 高機たかばたという はたおりきが つたわりました[3]。1738ねんごろと いわれます。

この きかいで、きりゅうの おりものは、ぐんと のびました。そして、「西の 西陣にしじん、東の きりゅう」と よばれるように なりました[3]。

明治めいじに なると、あたらしい きかいも、はやく とりいれました。もようを おる ための、あたらしい きかいです[2]。

ここで だいじなのは、あたらしい ものを まなぶ ひとたちが いた ことです。

18世紀の中ごろ、京都から高機が伝わり、桐生の織物は大きく発展しました[3]。年は1738年ごろとされますが、市のページの英語の要約を通した数字で、原文では確かめていません。

そのころから、京都の西陣に並ぶ産地として「西の西陣、東の桐生」と呼ばれるようになりました[3]。技を京都から学び、自分たちの産地の力に変えたことが、この呼び名につながったと考えられます。

明治になると、ジャカード機など当時の最先端の技術を早く取り入れました[2]。新しい技術に飛びつく姿勢は、桐生の特徴の一つといえそうです。

群馬県の資料によれば、18世紀中ごろに京から高機が移入されて、桐生の織物は飛躍的に発展した。年は1738年ごろとされるが、市ページの英訳要約経由の数字で、原文では未確認である[3]。この発展の後、「西の西陣、東の桐生」と称されるようになった。

明治期には、ジャカード機など当時の最先端の技術をいち早く導入し、近代的な生産体制を整えた[2]。

京から技を受け入れ、明治に新技術も受け入れた。この「取り入れる速さ」が、桐生が西陣に並ぶ産地として語られる背景にあると考えられる。ただし、両産地の関係を詳しく比べた資料までは確認できていない。

5. まちごと、おりものの ために つくったの?

5. 1591年に町立てされた桐生新町

5. 桐生新町の成立と重要伝統的建造物群保存地区

1591ねん、徳川家康とくがわいえやすの めいれいで、桐生新町きりゅうしんまちという まちが つくられました[4]。それから ずっと、おりものの まちとして さかえて きました。

いまも、やしきの わけかたに、そのころの かたちが のこって います[4]。

むかしの いえの ほかに、くらや、ギザギザの やねの 工場が、いっしょに のこって います[4]。まちの なかを あるくと、おりものの まちの じかんが 見えて きます。

この あたりは、くにから「たいせつに まもる まち」に えらばれて います。

桐生新町は、天正19年(1591年)に徳川家康の命で町立てされました。以来、絹織物業の中心として栄えてきたと説明されます[4]。1591年から続く敷地の割り方が、今も残っています。

この地区には、江戸時代後期から昭和初期までの主屋や土蔵、ノコギリ屋根の工場が、ひとまとまりで残っています。織物の町ならではの景色として、国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれています。全国で94番目です[4]。

第1章で見たギザギザ屋根は、この町の歴史の中で、後から加わった景色だと分かります。

桐生新町は天正19年(1591年)に徳川家康の命で代官の手代により町立てされ、以来、絹織物業の中心として桐生の経済を支えた。1591年からの敷地割りが今も残る[4]。

この地区は、江戸後期から昭和初期の主屋・土蔵・ノコギリ屋根の工場が一体として残り、製織町の特色ある歴史的環境を伝えるとして、国の重要伝統的建造物群保存地区(全国94番目)に選ばれている[4]。

ノコギリ屋根の工場は明治以降のものが多いため、町の骨組みは江戸初期、外観の一部は近代、と層になって読める。ただし、この点は資料の記述を組み合わせた本稿の整理であり、市の公式な説明ではない。

6. はたらいて いたのは、どんな ひと?

6. 「かかあ天下」と織り子たち

6. 日本遺産「かかあ天下」と織り子の女性

ぐんまでは、むかしから、女の ひとたちが かいこを かい、いとを とり、ぬのを おって、いえの くらしを ささえたと いわれます[7]。

その ひとたちを、おっとが「おれの かかあは てんかいちだ」と ほこりに おもった、と いう おはなしです[7]。

きりゅうでも、おおくの 女の ひとが 織り子おりことして はたらきました。2015ねんには、この おはなしが 日本遺産にほんいさんに えらばれました[8]。

日本遺産「かかあ天下 ―ぐんまの絹物語―」は、2015年4月24日に認定されました[8]。物語の中心は、上州の女性が養蚕・製糸・織物で家計を支え、夫が「俺のかかあは天下一」と誇りに思った、という暮らしです[7]。

桐生では、多くの女性が織り子として働きました[7]。桐生市には、白滝神社・桐生新町・桐生織物会館旧館・桐生織など、この物語の構成文化財がいくつもあります[8]。

織りの技を、町の人が支え続けた。日本遺産は、その誇りを物語として選んだといえます。

日本遺産「かかあ天下 ―ぐんまの絹物語―」は、2015年(平成27年)4月24日に認定された[8]。文化庁の説明では、物語の核は、上州の女性が養蚕・製糸・織物で家計を支え、夫が「俺のかかあは天下一」と呼んだ暮らしである[7]。

桐生では、多数の女性が織り子として働いた[7]。桐生市には、白滝神社、桐生新町、後藤織物、桐生織物会館旧館、桐生織、ひもかわなど、構成文化財が複数ある[8]。市全体の件数は市ページの英訳要約に出ていたが、原文で再確認できていないため、ここでは数字を書かない。

この物語は、女性の働きを「家を支えた誇り」として位置づけている点に特徴がある。

7. いまも、おりものは おられて いるの?

7. 受け継ぐ技と、昭和9年の織物会館

7. 伝統的工芸品・伝統工芸士・織物会館旧館 ── 「織都」の今

きりゅうおりは、1977ねんに、くにの 伝統的工芸品でんとうてきこうげいひんに えらばれました[9]。おりかたは 7つ あります[9]。

その わざを もつ 人は 伝統工芸士でんとうこうげいしと いい、いまは 15人 います(きりゅうしの ページの きろく)[9]。

1934ねんに できた 桐生織物会館旧館きりゅうおりものかいかんきゅうかんは、いまも のこって います。1かいは てんじと はんばい、2かいは おりものの れきしの てんじです[10]。

この まちは 「おりものの みやこ」と よばれる ことが あります。ただし、その よびかたが いつ うまれたかは、しらべて わかりませんでした。

桐生織は、1977年(昭和52年)10月に国の伝統的工芸品に指定されました。技法は、お召織・緯錦織・経錦織・風通織・浮経織・経絣紋織・綟り織の7つです[9]。

この技を担う伝統工芸士は、意匠・染色・製織・総合の部門で計15人(桐生市のページの記載時点)です[9]。人数は更新されるので、最新は公式のページで確かめてください。

昭和9年(1934年)に完成した桐生織物会館旧館は、織物関係の組合の事務所が置かれ、桐生の織物業界の象徴でした。今は1階が展示販売、2階が歴史資料の展示になっています[10]。

「織都」という呼び名の由来は、公的な資料では確認できませんでした。ただ、絹の技、町づくり、女性たち、そして受け継ぐ人がそろう町だから、そう呼びたくなる、という感覚は分かります。

桐生織は昭和52年(1977年)10月に伝統的工芸品に指定された。技法は、お召織・緯錦織・経錦織・風通織・浮経織・経絣紋織・綟り織の7つである[9]。2008年2月には地域団体商標に登録された[9]。

伝統工芸士は、意匠・染色・製織・総合の各部門で計15人(同ページの記載時点)[9]。人数は更新されるため、最新値は市の公式ページで確認されたい。

桐生織物会館旧館は昭和9年(1934年)完成の木造2階建てで、当時は織物関係の各組合の事務所が置かれ、業界の象徴だった。現在は1階が展示販売、2階が桐生織物の歴史資料の展示となっている[10]。

「織都」の呼び名がいつ・誰によって使われ始めたかは、公的資料では確認できなかった。「製糸・染織・刺繍などがそろう町の呼び名」とする民間の解説があるのみで、由来は断定しない。

自分でも しらべて みたく なったら

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

おうちで できる こと

  • おうちの まどが、どの むきに あるか さがして みましょう。きた むきの まどの へやと、ほかの へやの 光を くらべて みると、どうでしょうか。ただし、たいようを ちょくせつ 見ては いけません。
  • いえに ある ふくの タグを 見て、「絹きぬ」と かいて あるものが あるか さがして みましょう。

でかけて できる こと

  • きりゅうしの こうしきの ページで、おりものの まちあるきを しらべて みましょう。いくときは、あいている 日を かくにんして ください。

家でできること

  • 家の窓が何の向きを向いているか、部屋ごとに調べてみましょう。北向きの窓の部屋と、そうでない部屋で、光の入り方に違いを感じるでしょうか。太陽を直接見るのは危ないので、部屋の明るさだけを見てください。
  • 服のタグで「絹」の表示を探し、絹の服が家にあるか見てみましょう。

出かけてできること

  • 桐生市の公式サイトで、桐生新町の歴史的な町並みや桐生織物会館旧館の開館日を調べてみましょう。ノコギリ屋根を、実際に何棟見つけられるでしょうか。

公式の情報

  • 桐生市の「桐生織物の歴史」のページと、文化庁の日本遺産ポータルが読みやすい入口です。

資料を読むなら

  • 桐生市のキッズページ「桐生織物の歴史」は、714年の記録と2410反の逸話を、やさしい言葉で確かめられる[1]。
  • 桐生市の伝建地区の概要は、1591年の町立てと保存地区の特色を扱う[4]。
  • 文化庁の日本遺産ポータルは、「かかあ天下」の物語の全体像を読める[7]。

自分で確かめるなら

  • ノコギリ屋根の理由は、本稿では民間記事に頼った。建築の専門書や桐生市の資料で裏づけを探してみる価値がある[6]。
  • 「織都」の由来と、現在の事業者数・出荷額は、今回の資料では確かめられなかった。最新の統計や郷土史から探せる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文で使った事実を確かめた資料の一覧です。人数や件数は更新されることがあるため、最新の情報は各公式ページで確認してください。

  1. 桐生市「桐生織物の歴史」(キッズページ) https://www.city.kiryu.lg.jp/kids/1012151/1012594/index.html (714年の記録・旗絹2410反)
  2. 桐生織物記念館「桐生織」 https://kiryuorimonokinenkan.com/kiryutextile/ (白滝姫の伝説・ジャカード機の導入)
  3. 群馬県「桐生織」 https://www.pref.gunma.jp/site/kougei/131146.html (高機の移入と「西の西陣、東の桐生」)
  4. 桐生市「桐生新町伝建地区の概要」 https://www.city.kiryu.lg.jp/kankou/spot/denken/about/1003081.html (1591年の町立て・保存地区)
  5. 文化遺産の世界「織物のまち桐生」 https://www.isan-no-sekai.jp/feature/201802_63 (ノコギリ屋根工場の残る数の目安)
  6. 中川政七商店の読みもの「桐生の旅」 https://story.nakagawa-masashichi.jp/110376 (ノコギリ屋根の理由。民間記事のため「と言われる」として)
  7. 文化庁 日本遺産ポータル「かかあ天下」 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story002/ (物語の核・女性の仕事)
  8. 桐生市「日本遺産(桐生市エリア)」 https://www.city.kiryu.lg.jp/kankou/bunkazai/1018172/index.html (2015年の認定・構成文化財)
  9. 桐生市「桐生織の各種指定・認定」 https://www.city.kiryu.lg.jp/sangyou/1012348/1012405/1012415/index.html (1977年の指定・7つの技法・伝統工芸士の人数)
  10. 桐生市「桐生織物会館旧館」 https://www.city.kiryu.lg.jp/kankou/bunkazai/1010700/kunitouroku/1001995.html (1934年完成・今の展示)

なおした ところ

更新履歴

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