このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

灯台とうだいに すんで いた 人は、まいにち なにを して いたの?

灯台に住んでいた人たちは、島でどんな毎日を送っていたのか

灯台守は無人島でどう暮らしたのか ── 最後の有人灯台・女島灯台の記録から

分野:歴史・文化

むかしの にほんには、灯台とうだいに 人が すんで いる ところが、250か所も ありました。いま、すんで いる 人は ひとりも いません。さいごの 1か所が、2006年に 人の てを はなれたのです。

では、人が いた ころは、どんな まいにちだったのでしょう。そして、いまは だれも いないのに、なぜ 光は きえないのでしょう。この 記事で、その ようすが わかります。

かつて日本には、職員が住み込んで守る灯台が250か所もありました。ところが2006年、最後に残っていた長崎県の女島灯台も無人になり、いま常駐している灯台はありません。

水道のない島で、人は何を飲み、どう眠り、夜をどう過ごしていたのでしょうか。そして、人がいなくなったのに、光が消えないのはなぜでしょうか。海上保安庁の資料から、暮らしの様子と、光を守る今の方法が分かります。

かつて職員が常駐した灯台は250か所に及んだが、最後の有人灯台だった長崎県の女島灯台も、2006(平成18)年12月5日に無人になった[1]。この島には水道がなく、飲み水は雨水をため、ろ過と滅菌をして使っていた[2]。

では、人はそこでどんな一日を送り、なぜ人がいなくても光は消えないのか。海上保安庁の公開資料をもとに、暮らしの実際と無人化を可能にした条件を、理由とともに読む。この記事で、その二つの答えが分かる。

読み方を切り替えられます。画面の上にある「よみかた」のボタンで、小学校低学年むけ・小学校高学年むけ・中学生むけの3つの書き方に切り替わります。むずかしいと思ったら、いつでもやさしい方に戻ってください。選んだ読み方はブラウザが覚えているので、次に別の記事を開いたときも同じ読み方で始まります。

1. さいごに のこった 1か所は、どこ?

1. 250か所の灯台守は、どこで最後になったのか

1. 250か所から0へ ── 女島灯台が最後の有人灯台になるまで

さいごに 人が いた 灯台とうだいは、ながさきけんの 海に うかぶ、女島めしまと いう 島に あります。ここで、まもる 人たちは 2006年12月5日まで はたらいて いました[1]。

ところが いまも、女島の 光は つきます。かわりに、たいようの 光で 電気を つくる そうちが、よるの 光を ささえて います。たしかめに くる 人は、3か月に 1かい ほどです[1]。

むかしは 人が ずっと そばに いて、いまは 3か月に 1かい。この ちがいは、なぜ うまれたのでしょう。まずは、人が いた ころの くらしを のぞいて みましょう。

日本には、灯台に職員が常駐していた時代がありました。海上保安庁の資料では、その数は過去に250か所にのぼったとされます。最後に残った有人灯台が、長崎県の男女群島にある女島灯台で、2006(平成18)年12月5日に無人になりました[1]。

無人になった今も、女島灯台の光は消えていません。電力は太陽電池でまかない、点検に人が訪れるのは3か月に1回ほどです[1]。人が毎日いた時代と、数か月に1度の時代。その間に、どんな暮らしがあったのでしょうか。

まず、いちばん最後まで続いた女島の記録から、住み込みで灯台を守った人たちの一日をのぞいてみます。無人化の理由は、あとの章で順番に読みます。

海上保安庁長崎海上保安部の資料によれば、過去には250か所もの灯台で職員が常駐していた。その最後が男女群島の女島灯台で、2006(平成18)年12月5日をもって無人化された[1]。なお、同じ無人化を報じる記事の中には日付を異にするものもあるが、本稿は海上保安部の公表した12月5日に従う。

無人になった灯台は、現在も点灯している。電力は太陽電池で、点検は3か月に1回程度とされる[1]。人が常駐していた時代の維持体制と、数か月に1度の訪問で足りる現在とを比べると、何が変わったのかが問題になる。

そこで本稿は、まず最後まで人が暮らした女島の記録から、暮らしの実際を読み、そのうえで無人化を可能にした条件を考える。

2. 水道すいどうの ない 島で、水を どうして いたの?

2. 水道のない島で、飲み水をどうしたか

2. 水道のない無人島で、水・電気・食事をどう賄ったか

女島には 水どうが ありません。それでも 水が ないと、くらせません。そこで、ふった 雨を タンクに ためて 使って いました[2]。

でも、雨の 水を そのまま のむ ことは しません。きかいを とおして、きれいに してから 使いました[2]。

電気も、島の 中で つくって いました。ふねで はこんだ ねんりょうを つかって、島の おくの へやで 電気を つくります[2]。ごはんは 1日に 2かいで、しょくじ とうばんの 人が、じぶんたちで かった ざいりょうで つくりました[2]。

ひとりに ひとつの へやが あって、ねたり、本を よんだり しました[2]。せんたくものは、へやの 中に はった ロープに ほしたそうです。

水も 電気も ごはんも、じぶんたちで なんとか する。そんな くらしの 中で、よるの 光は どう まもられて いたのでしょう。

無人島の女島には水道がありません。そのため、雨水を清水タンクにためて使っていました。ただ、そのままでは使えず、ろ過装置と滅菌器を通してから使っていたと、長崎海上保安部の資料にあります[2]。

電気も島の中で自給していました。職員の居住区の電気は、敷地内のエンジン室で自家発電していて、燃料は船で前浜の燃料庫に送り、そこからパイプラインで第1燃料庫(10トンのタンク2基)へ送っていました。前浜の岸壁やヘリポートへの移動には、バイクが重宝されたといいます[2]。

食事は1日2食で、食事当番が、自分たちで買った材料で作りました。個室は1人に1部屋ずつあり、主に寝たり本を読んだりして過ごし、部屋干し用のロープも張ってありました[2]。

水も電気も食事も、島の中と船の便でやりくりする生活です。その中で、光を守る仕事は、どんなふうに回っていたのでしょうか。

女島には水道がない。生活用水は雨水を清水タンクにため、そのままでは使えないので、ろ過装置と滅菌器を通していた[2]。雨水に頼る暮らしは、ほかの灯台でも見られるといわれる。たとえば香川県の男木島灯台の旧宿舎でも、生活用水は雨水に頼ったと紹介されている。ただしこちらは観光案内にあたる二次的な資料の記述であり、女島ほど詳しい記録は引いていない。

電気は職員居住区の分も含めて、敷地内のエンジン室で自家発電した。燃料は船で前浜の燃料庫に運び、パイプラインで第1燃料庫(10トンのタンク2基)に送る仕組みで、前浜の岸壁やヘリポートまでの移動にはバイクが重宝されたという[2]。つまり、水と電気の両方が、島の外から船で運ぶ燃料と、空から降る雨に支えられていたことになる。

食事は1日2食で、食事当番が自分たちで買った材料で調理した。個室は1人1部屋で、主に睡眠と読書に使い、部屋干し用のロープもあった[2]。

では、このような条件の島で、灯台の仕事そのものはどう回していたのか。

3. よるも ひるも、どう こうたい して いたの?

3. 12時間交代の当直と、昼間の仕事

3. 12時間交代の当直と、昼間の作業 ── 光の番だけではない仕事

女島の 人たちは、12時間ごとに こうたいで、きまった へやに つめて いました[2]。よるも ひるも、だれかが いつも そこに います。

当ばんで ない 人は、ひるまに みちの くさかりを したり、いろいろな さぎょうを したり しました[2]。

この へやでは、天気の れんらくも うけました。気象庁きしょうちょうへ きまった 時間に 天気を しらせたり、まわりの 海の 天気を きかれたら こたえたり したのです[2]。

光を まもる だけでなく、海の ようすを つたえる 仕事も して いたのです。

ところで、女島は ずっと こんな 交代の くらしだったのでしょうか。

女島灯台では、主に運用室で業務を行い、12時間交代で当直を回していました。当直でない人は、日中に道路の草刈りなど、いろいろな作業をしていました[2]。

運用室には、もうひとつ仕事がありました。気象庁への定時の気象報告と、女島付近の天候についての問い合わせへの応対です[2]。灯台は、光で船に場所を知らせるだけでなく、海の天気を陸に伝える足場でもあったことが分かります。

12時間ごとの交代なので、1日に2回、当直の人が入れかわる計算です。夜の海を見張る人と、昼に島の道を整える人。同じ職員が役割を回し合うことで、島の暮らしが成り立っていました。

この交代の暮らしは、灯台守の暮らし方の中でも、わりあい新しい形です。それ以前は、どうだったのでしょうか。

女島灯台の業務は、主に運用室で行われ、12時間交代で当直を回した。当直に当たらない者は、日中に道路の草刈りなど雑多な作業を行った[2]。

運用室の仕事は、光の番にとどまらない。気象庁への定時気象報告と、女島付近の天候についての問い合わせへの応対も、ここで行っていた[2]。孤立した島の観測拠点として、灯台が気象情報の発信源の一つになっていたことが読み取れる。ただし、この資料は女島の旧施設の紹介であり、同じ業務が明治から昭和前期の灯台でも行われていたかどうかまでは語っていない。

12時間交代なので、1日に当直が2回入れかわる。人数の配分や1回の交代で何人が当直に就いたかは資料に記されておらず、ここでは12時間という間隔と、当直外の作業があったことだけを事実として扱う。

では、この交代制は、灯台守の暮らしの最初からの形だったのか。

4. かぞくで すんで いた ころは?

4. 家族と暮らした灯台から、交代で泊まる灯台へ

4. 家族の住み込みから「滞在交代」へ ── 暮らし方の変化

もっと むかしの 灯台とうだいでは、そこを まもる 人と その かぞくが、いっしょに すんで いました[3]。

みやぎけんの 海ぞいにも、石で つくった ふるい 灯台とうだいが あります。ここも、かぞくと いっしょに くらした 灯台とうだいだそうです[4]。外国から ふねで かえって くる 人が、いちばん はじめに 見る 灯台とうだいだと、いわれて います。「やっと 日本に ついた」と ほっと する 人が いるそうです[4]。

こうした くらしは、えいがにも なりました。1957年に つくられた えいがで、灯台とうだいで はたらく ふうふの ながい 年月を えがいて います[4]。

女島では、1953年から、かぞくで すむ かわりに、人が こうたいで 島に とまる やりかたに かわりました[5]。

明治から昭和の時代、灯台には「灯台守」と呼ばれた職員とその家族が住み込み、日夜、灯台を保守していました[3]。海上保安庁の紹介では、宮城県石巻市沖の金華山にある金華山灯台も、職員が家族と共に灯台を守って生活した灯台で、1876(明治9)年に石造灯台として点灯しました[4]。

北米航路の船が日本に帰るとき、最初に目にする灯台でもあり、「やっと日本に着いた」という安心感が得られるといわれます[4]。灯台は、船乗りが陸の入り口を知る目印でもあったのです。

こうした暮らしは、映画にもなりました。1957(昭和32)年の映画「喜びも悲しみも幾歳月」は、灯台守夫婦の長い暮らしを描いています[4]。

やがて女島では、住み込みから交代へと形が変わります。女島灯台は1927(昭和2)年12月1日に初点灯し、1953(昭和28)年5月1日に「滞在交代」に移行、翌1954年5月31日からは巡視船による滞在交代が始まりました[5]。

家族が住み込む灯台守の暮らしは、明治から昭和にかけて広く見られた。海上保安庁第二管区の紹介では、洋式灯台の始まりは1866(慶応2)年の江戸条約に基づく設置で、英国人技師のR.H.ブラントンらが調査・測量をし、1869(明治2)年に観音埼灯台が点灯したとされる。管理役は燈明番士・燈明番・守燈方と改称され、今は海上保安官が担う[4]。

この時代の暮らしの空気は、記録にも残る。金華山灯台は職員が家族と共に守った灯台で、北米航路の船が日本へ帰るとき最初に目にするため、「やっと日本に着いた」という安心感があるといわれる[4]。これは海上保安庁の紹介の伝聞表現であり、実際にその船乗りたちの声を集めた資料を引いたものではない。

映画「喜びも悲しみも幾歳月」(1957年)は灯台守夫婦の長い暮らしを描いた作品として、海上保安庁の紹介に出てくる[4]。

女島では、1927(昭和2)年12月1日の初点灯のあと、1953(昭和28)年5月1日に滞在交代へ移った。1954(昭和29)年5月31日には巡視船による交代が始まった[5]。家族で住み込む形から、職員が交代で島に滞在する形へ変わった理由は、これらの資料には明記されていない。

5. だれも いなくても、光は なぜ きえないの?

5. 人がいなくても光が消えない理由

5. 人がいなくても光が消えない条件 ── 省電力の灯器・太陽電池・遠隔の目

2006年に、女島は 人の いない 灯台とうだいに なりました[1]。のこった 光は、たいようの 光で 電気を つくる そうちが ささえて います[1]。

あたらしい あかりは、電気を 70ワットしか つかいません。それでも 39キロぐらい 先まで とどきます[1]。むかしの 大きな きかいを うごかして いた ころとは、ちがう しくみです。

人が いなくても、点検てんけんは つづきます。たしかめに くる 人は 3か月に 1かい ほどで、まわりの 海は 巡視船じゅんしせんや ひこうきが よく 見まわります[1]。海上保安部かいじょうほあんぶは、ふねの いち などを しらせる しくみ(AIS)を ととのえる ほうへ、はたらき方を うつす ながれの ひとつとして、無人むじんに したと せつめいして います[1]。

無人化後の女島灯台は、新しい灯器LB-M30型に替わりました。電力は太陽電池で、消費電力は70Wなのに、21海里(約39km)先まで光が届きます[1]。以前は2等レンズと水銀槽式の回転機械があり、職員居住区の電気はエンジン室の自家発電でした[1][2]。

ここで注意したいのは、この70Wは新しい灯器の消費電力で、旧施設の光が届いた距離とは別の数字だという点です。新旧の光の強さを単純には比べられません。

無人化は、AIS(船の位置などを知らせる仕組み)の活用など、航行を助けるシステムの整備に業務体制を移す流れの一環として進められました[1]。灯台の技術全般を説明する民間の解説記事では、光源が油灯や白熱灯から高光度LEDへ変わって保守の回数が減り、電源は太陽電池と蓄電池へ、通信も進んで、陸から24時間の遠隔監視ができるようになったことが挙げられています[6]。これは女島に限った説明ではありません。

ただし、女島の新しい灯器がLEDなのかは、海上保安庁のこのページには書かれていません。点検は3か月に1回程度で、周辺の警戒は巡視船や航空機が頻繁に行うとされます[1]。人の暮らしが、船と機械と点検の仕組みに置きかわったのです。

無人化後の女島灯台では、LB-M30型の灯器に替わった。電力は太陽電池で、消費電力は70Wながら、光は21海里(約39km)先まで届く。以前は2等レンズと水銀槽式の回転機械を備えていた[1]。この70Wは新灯器の消費電力であり、旧施設の紹介にある光達距離とは別の条件の数字なので、数値だけを並べて新旧の優劣を決めることはできない。

点検は3か月に1回程度で、周辺の警戒は巡視船や航空機が頻繁に行うとされる[1]。つまり人が常駐しないかわりに、点検の頻度と、船・航空機による見まわりが役割を引き継いでいる。

無人化は、AISの活用など航行援助システムの整備へ業務体制を移す一環として進められた[1]。技術面については、光源が油灯・白熱灯から高光度LEDへ進み、寿命が延びて省電力になり保守の頻度が下がったこと、電源が太陽電池と蓄電池になったこと、GMDSSなどの通信が整い陸上から24時間遠隔監視ができるようになったことが、挙げられている[6]。ただしこれは灯台全般を扱う民間の解説記事の記述であり、女島の無人化理由とは切り分けて読む必要がある。なお女島の新灯器の光源がLEDかどうかは、海上保安庁のページに記載がないため、女島に当てはめることはしない。

そのため、人が暮らして守るという前提は、女島の場合、水・電気・食事を島で賄うこと自体をやめる方向に動いた。では、この変化を、読者はどこから確かめられるのか。

6. 近くの 灯台とうだいを、しらべて みよう

6. 近くの灯台の光を、公式のページで調べる

6. 灯台の記録を、一次資料から読み直す

うみの ちかくに すんで いる 人は、近くの 灯台とうだいが どんな 光り方を するか、海上保安庁かいじょうほあんちょうの ページで しらべて みましょう。おうちの 人と いっしょに みると、あんしんです。

うみが ちかく なくても だいじょうぶです。ちずで 近くの 灯台とうだいを さがして みます。そこに、むかし だれが すんで いたのか、いまは だれが まもって いるのか、かんがえて みましょう。

夜の 海の そばは あぶないので、見に いく ときは、おうちの 人と いっしょに、あかるい うちに いきます。

近くの灯台を一つ選んで、海上保安庁の公式ページで調べてみます。いつ点灯したのか、今は人がいるのか、無人なのか。女島の記録と同じように、点灯の年や、無人化の年が載っている灯台もあります。

海が遠い人は、地図で灯台を探すだけでも手がかりになります。その場所に、かつて家族で住み込んだ人がいたのか、交代で泊まった人がいたのか、想像してみるのも楽しみ方の一つです。

灯台を見に行くときは、足元の悪い場所や暗い時間帯を避け、必ず大人と一緒に、明るい時間に行きます。

灯台の暮らしを自分で確かめるなら、海上保安庁の公開資料が出発点になる。長崎海上保安部の女島灯台のページには、旧施設の紹介・歴史・無人化の三つがあり、本稿の事実の多くはここから得た。同じ資料の読み比べとして、第二管区の「みちのく灯台物語」も、家族で暮らした灯台の側から読める。

読むときの視点を三つ挙げる。一つ目は、年号の確かな部分(点灯・滞在交代・無人化)と、理由が書かれていない部分(家族の住み込みから交代へ移った経緯)を区別すること。二つ目は、数値が新旧どちらの灯器の数字かを確かめること。三つ目は、民間の解説記事(技術の一般論)と、海上保安庁の記述(女島の個別の事実)を混ぜないことだ。

そのうえで、近くの灯台がいつ点灯し、人がいる時代がいつ終わったのかを調べると、同じ問いが自分の住む地域でも立てられる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

灯台守の暮らしと無人化は海上保安庁の資料による。技術の一般論は民間の解説記事を補助に使った。

  1. 長崎海上保安部「女島灯台無人化へ」 https://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/nagasaki/left/survice/mesima/mujinka.htm (最後の有人灯台、2006年の無人化、新灯器と点検)
  2. 長崎海上保安部「女島灯台での滞在勤務で使用されていた旧施設の紹介」 https://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/nagasaki/left/survice/mesima/shisetsu.htm (水・電気・食事・当直の暮らし)
  3. 海洋文化創造フォーラム(日本財団「海と灯台プロジェクト」)プレスリリース https://san-tatsu.jp/pressrelease/467959/ (灯台守とその家族が住み込んだこと)
  4. 第二管区海上保安本部「みちのく灯台物語」 https://www.kaiho.mlit.go.jp/02kanku/overview/story/ (金華山灯台・映画・洋式灯台の始まり)
  5. 長崎海上保安部「女島灯台の歴史」 https://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/nagasaki/left/survice/mesima/rekishi.htm (初点灯と滞在交代の年月日)
  6. innovatopia「灯台の無人化」解説記事 https://innovatopia.jp/iot/iot-news/71327/ (無人化を可能にした技術の一般的な説明)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

  •  初版を公開。

このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。