1. 母の日の まえに、お母さんたちは 町を きれいに する 会を つくって いた
1. 母の日の前に、アメリカの母たちは町の衛生をよくする会をつくっていた
1. 「Mothers' Day Work Clubs」:母の日の前に母たちが取り組んだ衛生の改善
母の日の はじまりの まえに、アメリカに ひとりの お母さんが いました。アン・ジャービスさんです。ウェストバージニア州の いくつもの 町で、お母さんたちの 会を つくりました。
この 会の ねらいは、町の 衛生を よくする ことだったと、州の しりょうに 書かれて います[1]。衛生とは、まわりを きれいに して、病気を ふせぐ ことです。
おどろくのは、会の 名前です。「Mothers' Day Work Clubs」、つまり 「母の日」と いう ことばが 入って います。この 活動が、母の日の もとに なったと される ことが あります[1]。
アンさんには、むすめの アンナさんが いました。アンナさんは、どうして お母さんの ための 日を はじめたのでしょう。
母の日の出発点にいるのは、アンナ本人ではなく、その母アン・リーヴス・ジャービスです。アンはウェストバージニア州のグラフトンなど、いくつもの町で「Mothers' Day Work Clubs」という集まりをつくりました。州の資料によると、目的は町の衛生や健康の状態を良くすることでした[1]。
名前に「母の日」が入っているのは意外ですが、これは記念日の行事ではありません。母親たちが、暮らしの足もとを良くするために働く会でした。この活動は、のちの母の日の原型とされています[1]。
では、娘のアンナは、そこからどうやって一つの記念日を始めたのでしょうか。
母の日の出発点にいるのは、アンナ本人ではなく、母のアン・リーヴス・ジャービスである。ウェストバージニア州の公文書館の記述によると、アンはグラフトンなど同州の複数の町で「Mothers' Day Work Clubs」を組織し、衛生と健康の状態を改善しようとした[1]。
名前に「母の日」を含むが、これは記念日の行事ではなく、母親たちが地域の衛生を良くするための活動である。薬代の募金や、病気の母のいる家庭への手伝いなど、活動の細かな内容は二次的な資料に見られる記述で、州の資料から確かめられるのは、衛生・健康の改善という大きな目的までだ。この活動が母の日の原型とされる点も、州の資料の見方である。
では、母の組織した「母の日」と、娘が始めた記念日は、どのようにつながるのか。
2. 白い カーネーションは、だれの すきな 花だったの?
2. 白いカーネーションは、誰のために配られたのか
2. 追悼の礼拝から最初の公式の式へ:白いカーネーションが選ばれた経緯
アンナさんの お母さんは、1905年に なくなりました。アンナさんは、お母さんの ことを みんなで 思いだす 日を つくりたいと 考えました。
1907年5月12日、お母さんが 先生を して いた 教会で、おもいでの 集まりが ひらかれました。つぎの 1908年5月10日には、2つの 町で、はじめての 公式の 母の日の 式が ありました。ひとつは ウェストバージニア州の グラフトンの 教会、もうひとつは フィラデルフィアの デパートの ホールです[1]。
アンナさんは、この 式で、お母さんの すきだった 白い カーネーションを くばりました[2]。それから、カーネーションを 身に つける ならわしが ひろまったと いわれます[2]。
白い 花は、はやりの かざりでは なく、お母さんの すきな 花でした。さて、この 小さな 式は、どうやって 国全体の 日に なったのでしょう。
追悼の礼拝と、最初の式は別の日
アンナの母は1905年に亡くなりました。アンナは母をしのぶ日をつくろうと運動を始め、1907年5月12日、母が日曜学校の教師をしていたグラフトンの教会で追悼の礼拝を開きました。この日は、まだ個人的な追悼の集まりです[1]。
最初の公式な母の日の式は、翌1908年の5月10日です。場所は二つあり、グラフトンのアンドリュース教会と、フィラデルフィアのワナメーカー百貨店のホールでした[1]。日本語の記事にはフィラデルフィアの会場を教会と書くものもありますが、州の資料は百貨店のホールとしています。
白い花は、母の好きな花だった
この式でアンナは、母が好きだった白いカーネーションを参列者に配ったとされます[2]。参列者の数は、470人とも500人近くともいわれ、資料によってずれがあります。以後、カーネーションを身につける習慣が広まったといわれます[2]。
白い花は流行の飾りではなく、母の好みから選ばれたものでした。では、この小さな式は、どのようにして国の記念日になったのでしょうか。
転機は1905年の母アンの死である。娘のアンナは母をしのぶ日をつくろうと運動を始め、1907年5月12日、母が日曜学校の教師を務めていたグラフトンの教会で追悼の礼拝を開いた[1]。ここまでは私的な追悼にとどまる。
最初の公式な母の日の式は、翌1908年の5月10日で、場所は二か所に分かれる。ウェストバージニア州グラフトンのアンドリュース教会と、フィラデルフィアのワナメーカー百貨店のホールである[1]。日本語の記事にはフィラデルフィアの会場を教会と書くものもあるが、州の資料は百貨店のホールとしており、本稿はそれに従う。1907年の追悼礼拝と1908年の公式の式を混同しないことも、資料を読むときの注意点である。
この式でアンナは、母が好きだった白いカーネーションを参列者に配ったとされる。参列者の数は470人とも500人近くとも資料によってずれがあり、断定できない。以後、カーネーションを身につける習慣が広まったといわれる[2]。つまり、白い花は流行の飾りとして選ばれたのではなく、亡くなった母の好みに由来する。
個人の追悼から出発した二か所の式は、その後どのような速さで国の制度に近づいたのか。
3. アメリカの 大統領は、母の日に なにを して ほしいと 言ったの?
3. 大統領が国民に呼びかけたのは、何をする日だったのか
3. 議会決議とウィルソン大統領の布告1268号:求められたのは国旗の掲揚
母の日の 運動は、アメリカじゅうに ひろがって いきました。1914年5月8日、アメリカの 議会は、5月の 2ばんめの 日ようびを 母の日に する ことを みとめました。つぎの 日、ウィルソン大統領が その ことを みんなに しらせました[3]。
大統領が よびかけたのは、母の日に、家や みんなの 場所に 国の はたを かかげる ことでした。お母さんを 大すきに 思う 気もちと、うやまう 気もちを あらわす ためです[3]。
1908年の 式から 数えて 6年で、小さな 式が 国ぜんたいの 記念日に なりました。でも、花や カード、おかしは、いつから 母の日の ものに なったのでしょう。そして、はじめた アンナさんは、それを どう 見たのでしょう。
最初の式から6年後の1914年5月8日、アメリカ議会は5月の第2日曜日を母の日とする共同決議を承認しました。翌9日に、ウィルソン大統領が布告1268号を出しています[3]。
布告の呼びかけは、意外に素朴です。国民に、第2日曜日に、母への愛と敬意の表現として、家や適切な場所に国旗を掲げるよう求めています[3]。この呼びかけの中心は国旗の掲揚で、贈り物ではありません。
個人の追悼の日が、短い間に国全体の記念日になりました。ところが、花やカード、お菓子はいつの間にか母の日の定番になっていきます。始めたアンナは、それをどう見たのでしょうか。
二か所で始まった式は、わずか数年で国の動きになる。1914年5月8日にアメリカ議会が5月の第2日曜日を母の日とする共同決議を承認し、翌9日にウィルソン大統領が布告1268号を出した[3]。
注目したいのは、国民に求めた内容である。布告は、第2日曜日に、国の母たちに対する愛と敬意を公に表す方法として、家や適切な場所に国旗を掲げるよう呼びかけている[3]。この呼びかけの中心は国旗の掲揚であり、贈り物の購入ではない。
1908年の最初の式から布告まで、およそ6年である。個人の追悼の日が、短期間で国全体の記念日になったことになる。そのあと、花やカード、菓子が母の日と結びついていく。始めたアンナは、その広がりをどう受けとめたのか。
4. 母の日を はじめた アンナさんは、どうして はんたいしたの?
4. 始めたアンナは、なぜ母の日に反対するようになったのか
4. 創始者はなぜ母の日に反対したのか:商業化・ボイコット・訴訟
1920年ごろの アンナさんは、母の日が お店の 売りだしの 日に なって いく ことに、つよく はんたいして いたと されます[4]。花や カード、おかしを 買う ことを やめようと よびかけたと いいます[4]。
1922年には、母の日に 白い カーネーションの ねだんを 上げた 花屋さんを 買わないように よびかけたと つたえられます[2]。1923年には、ニューヨークの 大きな 母の日の 行事に はんたいして、やめさせたとも いわれます[2]。
アンナさんが 作りたかったのは、お母さんに ありがとうを つたえる、ひとりひとりの おもいでの 日でした。家ぞくと すごしたり、お母さんを たずねたり、教会に 行ったり する 日だと されます[4]。
はじめた 人の ねがいと、ひろまった 母の日は、すこし ちがって いきました。ところで、母の日は 日本へも 来て います。それは だれが つれて きたのでしょう。
買う日になっていく母の日
歴史解説サイトのHistory.comによると、1920年ごろのアンナは、母の日が花・カード・お菓子の商売になったことを強くいやがり、人々にそれらを買わないよう呼びかけました[4]。「母の日」の名前を使う団体に、数多くの訴訟を起こして私財の大半を使い、晩年には祝日をやめさせようとしたともされます[4]。これらは二次資料の記述なので、「とされる」の範囲で受け取るのが安全です。
具体的な行動も伝わっています。1922年には、母の日に白いカーネーションの値段を上げた花屋へのボイコットを呼びかけました。1923年には、ニューヨーク市の大きな母の日の行事の計画に反対し、中止させたといいます[2]。反発の向かった先が、自分が配った白いカーネーションの値上げだった点は印象的です。
アンナが願った母の日
アンナが目指したのは、母に感謝し、家族と過ごしたり、母を訪ねたり、教会に行ったりする、個人的な思い出の日だったとされます[4]。ここから見ると、反対の理由は「物を買うこと」そのものより、「思い出の日が売り出しの日になること」に近かったと読めます。ただしこれは、資料の要約からの読み取りです。
この母の日は、アンナの反発が強まる前に、すでに海を渡っていました。では、日本では誰が、どのように始めたのでしょうか。
広がった母の日を、アンナは歓迎しなかったと伝えられる。History.comの解説は、1920年ごろには花・カード・菓子による母の日の商業化に強く反発し、人々にそれらを買わないよう呼びかけたと述べる[4]。訴訟については、「母の日」の名を使う団体に多数起こして私財の大半を使い、晩年には祝日の廃止を働きかけたとされる。いずれも二次資料の記述で、「とされる」の範囲で読むべきである。
具体的な行動も伝わる。1922年には母の日に白いカーネーションを値上げした花屋へのボイコットを呼びかけ、1923年にはニューヨーク市の大規模な記念行事の計画に反対して中止させたという[2]。反発の矛先の一つが、本人が配った象徴の花の値上げだったことは、彼女が何を守ろうとしたかを考える手がかりになる。
アンナが目指した日は、母に感謝し、家族と過ごしたり、母を訪ねたり、教会に行ったりする個人的な思い出の日だったとされる[4]。ここから、反発の理由は「物を買うこと」そのものより、「思い出の日が売り出しの日に変わること」にあったと読めるが、本人の発言の原文ではなく資料の要約に基づく解釈であり、その範囲でしか言えない。
この母の日は、アンナが反発を強める前に、すでに海を渡っていた。日本では、誰がいつ始めたのか。
5. 日本の 母の日は、だれが はじめたの?
5. 日本の母の日は、いつ、誰が始めたのか
5. 日本の母の日の起点:青山学院の行事と、定着の時期のずれ
日本で はじめて 母の日の 行事を したのは、1913年(大正2年)、青山学院の アメリカ人の 宣教師、ドレーパーさんたちだと される ことが あります[5]。
ひろまる きっかけの ひとつは、1937年(昭和12年)に はじまった、おかしの 会社の 「母を たたえる」 活動だと いわれます。東京の 公園に 2日間で 20万人ほどの お母さんが あつまったとも つたえられますが、数は 目やすです[8]。
5月の 2ばんめの 日ようびに おちついたのは、そのあとの 1940年代の おわりごろだと いわれます。アメリカの 行事として、もう一度 日本に つたわりました[6][7]。
ところで、アンナさんが くばった 花は 白でした。日本の 母の日の 花は、なぜ 赤なのでしょう。
日本で最初の母の日の行事は、1913年(大正2年)に、青山学院で教えていたアメリカ人宣教師のマイラ・E・ドレーパーらが行ったとされます。同僚の宣教師からアメリカの母の日を教わったといいます[5]。アンナの最初の式のわずか5年後です。
日本独自の動きもありました。1931年(昭和6年)、文部省の後押しで結成された大日本連合婦人会が、香淳皇后の誕生日の3月6日を母の日にしようとしました。しかし、戦前は広まらなかったとされます[6]。
企業の取り組みも、広がりに関わったとされます。1937年(昭和12年)には森永製菓が「母をたたえる」活動を始めました[8]。東京の豊島園に、2日間で約20万人の母親が集まったという話もありますが、この数字は一つの資料の要約に基づくので、目安です。
5月の第2日曜日が定着した時期は、1947年とする資料と、1949年ごろとする資料があり、年は一つに決まりません[6][7]。共通するのは、戦後にアメリカ文化として再び伝えられたことです。ここでは「1940年代の後半」と幅を持たせて読みます。
こうして日本に根づいた母の日で、アンナの白いカーネーションは、どんな色になったのでしょうか。
日本の最初の母の日は、アンナの最初の式のわずか5年後に当たる。キリスト新聞社の記事は、青山学院で教えていたアメリカ人宣教師のマイラ・E・ドレーパーらが、1913年(大正2年)に日本で初めて母の日の行事を行ったと伝える。同僚の宣教師から米国の母の日を教わったという[5]。アメリカの布告(1914年)より1年早い計算になる。
日本独自の動きもあった。1931年(昭和6年)、文部省の後押しで結成された大日本連合婦人会が、香淳皇后の誕生日である3月6日を母の日にしようとした。しかし戦前には広まらなかったとされる[6]。この点は「皇太后の誕生日」と書く資料もあり、表記が割れている。
広がりには企業の取り組みも関わったと語られる。1937年(昭和12年)に森永製菓が「森永母をたたえる会」の活動を始めた[8]。東京の豊島園に2日間で約20万人の母親が集まったとも伝えられるが、この数字は一つの資料の要約に基づくため、目安にとどめる。
5月の第2日曜日が定着した時期は、All Aboutが1947年、家電Watchが1949年ごろと書き、資料でずれる[7][6]。両者に共通するのは、戦後に改めてアメリカ文化として伝えられた点であり、「1940年代の後半」と幅をもたせて読むのが妥当である。
では、アンナが配ったのは白い花だったのに、日本で母の日の花が赤になったのはなぜか。
6. 日本の 母の日の カーネーションは、どうして 赤が ていばんなの?
6. 日本の母の日のカーネーションは、どうして赤が定番になったのか
6. 白から赤へ:日本で赤が定番になった経緯と、「赤は存命・白は亡き母」の使い分けの位置づけ
アンナさんが くばったのは 白い カーネーションでした。日本では、赤が ていばんです。
もともとは 白い カーネーションを おそなえする ところから はじまったと いう せつめいが あります[7]。どうして 赤が ていばんに なったのかは、ひとつに きまりません。
「赤は 生きて いる お母さん、白は なくなった お母さん」と いう 分け方も、よく 語られて います。
1つの 花の 色にも、母の日が たどった 道が うつって いるのかも しれません。
アンナが配ったのは白でしたが、日本では赤が定番です。All Aboutの記事は、もともとは白いカーネーションをお供えするところから始まったと説明しています[7]。赤が定番になった理由は、ひとつには決まりません。
よく聞く「赤は存命の母、白は亡き母」という使い分けも、広く語られています。ただし、これは「といわれる」話です。
花の色の変化にも、母の日が日本で形を変えていった跡が表れているのかもしれません。では、始めた本人の願いに近い祝い方とは、どんな日なのでしょうか。
アンナが配ったのは白いカーネーションだった。一方、日本で母の日の花として定着したのは赤である。All Aboutの記事は、もともと白いカーネーションを供えるところから始まったと説明する[7]。赤が定番になった理由は、単一には特定できない。
よく語られる「赤は存命の母、白は亡き母」という使い分けも、一般的な説明として広まっているものであり、「といわれる」の範囲にとどまる。
花の色の変化には、母の日が日本で形を変えていった跡が表れているともいえる。ここで、アンナが願った個人的な思い出の日と、日本で広まった祝い方を並べてみると、何が見えるのか。
7. あなたなら、母の日を どんな 日に する?
7. アンナの願いに近い祝い方を、考えてみる
7. 原典で確かめる:アンナの願いと布告の呼びかけを読み比べる
アンナさんが ねがったのは、お店で 買う ものでは なく、お母さんを 思う 気もちを つたえる 日でした。
やってみよう:紙と えんぴつで、お母さんや、いつも 世話を して くれる 人に、手紙を 書いて みましょう。「この前の あれが うれしかった」と、ほんとうに あった ことを ひとつ 書くと、気もちが つたわります。わたす ときは、読みあげても、だまって 手わたしても いいですよ。
お母さんが いない 家でも、そだてて くれた 人や、おばあちゃん、先生など、「ありがとう」を つたえたい 人なら、だれでも だいじょうぶです。
アンナが願ったのは、買う物ではなく、母に感謝し、家族で過ごし、母を訪ねるような個人的な思い出の日だったとされます。大統領が呼びかけたのは国旗でした。花を贈る習慣は、この二つの願いとは別に広まり、日本の母の日にもつながっています。
やってみよう:紙とえんぴつで、いつも世話をしてくれる人に手紙を書いてみましょう。「あのとき、こうしてくれたのがうれしかった」と、実際にあったことを一つ書くと、気持ちが伝わります。母に限らず、育ててくれた人や、おばあさん、先生でもかまいません。
自分で調べるなら、アメリカ議会図書館や、ウェストバージニア州の公文書館の歴史のページに、アンナの生涯の紹介があります。どの資料が「とされる」で書いているかに気をつけると、事実と伝えられた話の見分けがつきます。
この記事の数字は、年表にして自分で確かめられる。アンナの最初の式(1908年)から、日本の最初の行事(1913年)まで5年、アメリカの布告(1914年)の前年にあたる。1908年から商業化に反発した1920年ごろまでは約12年である。個人の追悼の日が国境を越え、短い間に姿を変えたことが、数字からも見える。
資料の読み比べも勧めたい。ウェストバージニア州公文書館の「Ann Maria Reeves Jarvis」のページは、母アンの活動と1908年の式を述べる。アメリカ大統領府プロジェクトの「Proclamation 1268」は、国旗掲揚を求めた布告の原文である。どちらも英語だが、短いので辞書を引きながらでも読める。日本語では、青山学院の記事(キリスト新聞社)が最初の行事を扱う。
読んだら、「国旗を掲げる日」「花を贈る日」「手紙を書く日」のどれがアンナの願いに近いかを、自分の言葉で書いてみるとよい。資料によって答えがずれるところが、この記事の面白さの種である。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文の番号は、下の資料の番号に対応します。州・大統領府の資料を主な根拠にし、解説記事は補いとして使いました。
- West Virginia Archives and History「Ann Maria Reeves Jarvis」 https://archive.wvculture.org/History/archives/women/jarvis.html (母の日クラブ、1907年・1908年の式の確認)
- キリスト新聞社 Christian Today「アンナ・ジャービス」 https://www.christiantoday.co.jp/articles/25542/20180513/mothers-day-ann-anna-jarvis.htm (白いカーネーション、ボイコット、行事への反対)
- The American Presidency Project「Proclamation 1268—Mother's Day, 1914」 https://www.presidency.ucsb.edu/documents/proclamation-1268-mothers-day-1914 (1914年の布告の呼びかけ)
- History.com「Mother's Day」 https://www.history.com/topics/holidays/mothers-day (商業化への反発、アンナの願い)
- キリスト新聞社 Christian Today「青山学院発の母の日」 https://www.christiantoday.co.jp/articles/23752/20170513/mothers-day-aoyama-gakuin.htm (日本で最初の行事)
- 家電Watch「母の日の歴史」 https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/column/lifestyle/1161575.html (3月6日案、戦後の定着)
- All About「母の日」 https://allabout.co.jp/gm/gc/220752 (定着の時期、赤いカーネーション)
- PRESIDENT Online「母の日」 https://president.jp/articles/-/113692 (企業の取り組み)
なおした ところ
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