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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

節分せつぶんに 豆を まくのは、どうして?

節分に豆をまくのはなぜか ── 鬼を追い払う役が、鬼にされた行事から

節分の豆まきは、鬼を追い払う宮中の行事とどうつながったのか

分野:歴史・文化

むかし、てんのうの すむ ところの ぎょうじで、鬼おにを おいはらう やくの 人が、あとから 鬼おにの ほうに みたてられて しまった と いわれます[1]。

では、どうして 豆を なげる ように なったのでしょう。豆まきが できるまでの 3つの ながれと、豆や「いる」ことに ついての いい つたえが わかります。

節分の夜、「鬼は外」と豆を投げるとき、追い払われるのは鬼です。ところが平安時代の宮中の行事では、もともと鬼を追い払う役だった方相氏が、のちに追い出される鬼のほうに見立てられていきました[1]。

鬼を追い払う行事と、節分と、豆。この三つは、いつ、どうつながったのでしょうか。豆まきの成り立ちと、豆や「炒る」ことにまつわる言い伝えが分かります。

節分の豆まきで追い払われるのは鬼だが、その流れの一つにあたる宮中の追儺では、鬼を追い払う役だった方相氏が、平安末期には逆に鬼に見立てられ、追い出される側になった[1]。

では、鬼を追う行事と節分と豆打ちは、どこで結びついたのか。1447年の日記に見える豆打ち、豆を使う理由と炒る理由の言い伝え、江戸時代の全国調査に見える地域差までを、文献と公的資料から読み、記録で言えることと言い伝えの境目が分かる。

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1. おにを おいはらう 人は、だれだった?

1. 大みそかの夜、鬼を追い払っていたのは、どんな役の人だったのか

1. 706年にはあった追儺 ── 追い払う側の方相氏が、追い出される側になるまで

おおみそかの よるに、むかしの てんのうの すむ ところで、おにを おいはらう ぎょうじが ありました。追儺ついな、または 鬼おにやらいと よばれます。1年の びょうきを おいはらう ための ぎょうじでした[1]。

おにを おいはらう やくだったのは、方相氏ほうそうしと いう 人です。かみさまの すがたに ふんして、目に 見えない わるい ものを おいはらいました[1]。

ところが 平安時代へいあんじだいの おわりごろに なると、おいはらう はずの 方相氏ほうそうしが、おいだされる 鬼おにの ほうに みたてられて いきました[1]。

おいはらう やくだった 方相氏ほうそうしは、平安時代へいあんじだいの おわりごろには、おいだされる 鬼おにの ほうに みたてられました。でも この ぎょうじには、まだ 豆が でて きません。

大みそかの夜、宮中では鬼を追い払う行事が行われていました。追儺、または鬼やらいといいます。中国の大儺という行事を取り入れたもので、日本では706年にはすでに行われていたことが、『続日本紀』から分かります。1年の病気や悪いものを追い払うための行事でした[1]。

鬼を追い払う役は、神の姿に扮した方相氏でした。目に見えない疫鬼を追い払うのが役目です。桃の弓と葦の矢で追い払ったり、大声を出したり、振鼓を鳴らしたりする風習もあったといいます[1]。当時の鬼は、目に見えない病気や災いのもとのことでした。

ところが平安時代の末ごろになると、追い払う側だった方相氏のほうが鬼に見立てられ、群臣らに追い出されるようになりました[1]。この行事は大みそかの夜のもので、まだ豆は出てきません。では、豆まきのもう一つの材料、節分とは何でしょうか。

追儺は、中国の大儺を取り入れた宮中行事で、日本では文武天皇の慶雲3年(706年)には行われていたことが『続日本紀』から分かる。目的は、大みそかの夜に、年中の病気や災いのもとを追い払うことだった[1]。

追い払う役は、神に扮した方相氏である。目に見えない疫鬼を相手に、桃の弓と葦の矢で追い払う、大声を上げる、振鼓を鳴らすといった風習もあった[1]。ここでいう鬼は、姿のある怪物というより、目に見えない病気や災いのもとだった。

平安末期になると、方相氏が逆に鬼に見立てられ、群臣らに追い出される側になった[1]。なぜ立場が入れかわったのか、今回の資料は理由まで書いていないので、ここでは断定しない。確かなのは、鬼を追う行事の主役が、時代によって入れかわったという点である。

ただし、この追儺は大みそかの夜の行事で、豆は出てこない。節分と豆は、別の流れで考える必要がある。

2. せつぶんは、もとから おにの 日だったの?

2. 「節分」は、もともと鬼を追い払う日ではなかったようだ

2. 節分と追儺は別の行事 ── 平安貴族の日記に見える読経と、旧暦の新年前日

節分せつぶんは、もともと 季節きせつが かわる 日の ことです。はる、なつ、あき、ふゆが はじまる 前の 日が、ぜんぶ 節分せつぶんです。だから 1年に 4回 あります[1]。

その なかでも、2月の 節分せつぶんが いちばん たいせつに されました。むかしの こよみでは、春が 1年の はじまりと かんがえられて いたからです[2]。

平安時代の 貴族きぞくの 日記にも、「節分せつぶん」は でて きます。でも その 日に おこなわれたのは、さいがいを ふせぎ、ながく いきられる ように ねがう、おきょうを よむ ことでした。鬼おにを おいはらう ぎょうじでは なかった ようです[1]。

鬼おにやらいと 節分せつぶんは、もとは べつの ぎょうじでした。ひとつに なったのは、江戸時代えどじだいの ころだと いわれます[1]。では 豆は、いつから まかれたのでしょう。

節分とは、本来は季節の変わり目のことです。暦の上で、立春・立夏・立秋・立冬の前日が、どれも節分にあたります[1]。年に4回あるのに、「節分」といえば2月の行事が思い浮かぶのは、旧暦で立春が新年の始まりと重んじられたからです。農林水産省も、日本では1年は春に始まると考えられたので、旧暦の新年の前日にあたる2月の節分が最も重要だった、と説明しています[2]。

では、節分は昔から鬼を追う日だったのでしょうか。『春記』『兵範記』という平安貴族の日記にも「節分」の語は見えますが、当時の節分の儀式は、災害除けと延命・長寿を願う読経で、邪鬼を退散させるためのものではなかったようです[1]。

つまり、大みそかの鬼やらいと、立春前日の節分は、本来は別の行事でした。この二つが完全に結びついたのは、江戸時代とされます[1]。それでは、豆はどちらの行事に属していたのでしょうか。

節分は本来、四季が移り変わる節目を指し、暦の上では立春・立夏・立秋・立冬の前日を意味する[1]。そのなかで立春前の節分が特別視されたのは、旧暦では立春が正月節にあたり、1年の始まりとして重んじられたためである。農林水産省も、1年は春に始まると考えられていたため、旧暦の新年前日である2月の節分が最も重要だったと説明しており、2つの資料が同じ理由を挙げている[1][2]。

では、その節分はもともと鬼と関係があったのか。『春記』『兵範記』といった平安貴族の日記に「節分」の語は見えるが、儀式の中身は災害除けと延命・長寿を願う読経であり、邪悪・邪鬼を退散させるものではなかったようだ[1]。資料の言い方が「ようだ」となっているのは、日記の記述から推し量った説明だからで、ここも言い切らないでおく。

整理すると、大みそかの追儺と、立春前日の節分は本来別の行事であり、両者は江戸時代には完全に結びついた[1]。ここから、豆まきが、鬼やらい・節分・豆打ちという複数の流れの合流点にあることが見えてくる。残る問いは、その豆打ちがいつ記録に現れるのかである。

3. 豆を まく ようすは、いつの 日記に ある?

3. 「鬼は外、福は内」と豆をまく様子は、約580年前の日記に出てくる

3. 1447年の日記と豆打ち ── 公家・武家だけでなく、民間の行事にもなっていた

豆まきが いつ はじまったのかは、はっきり しません[1]。でも 1447年に かかれた 日記に、豆を まく ようすが のって います[1]。

「あすは 立春りっしゅん」と いう 日の ゆうがた、家ごとに へやへ 豆を まき、「鬼おには 外、福は 内」と となえた、と かいて あります[1]。いまと ほとんど おなじ ことばです。

この ころには、くげや ぶけの 家だけで なく、ふつうの 人たちの ぎょうじにも なって いた ようです[1]。1447年から いままで、およそ 580年です。

では、まく ものは どうして 豆なのでしょう。

節分に豆を打つ記録として確かめられる一例が、『臥雲日件録』という日記の、文安4年(1447年)12月22日の項です。「明日は立春である。そこで日暮れになると、家々で部屋ごとに豆をまき、『鬼は外、福は内』の四字を唱えた」という内容が書かれています[1]。

この時代には、豆打ちは公家や武家だけでなく、民間の行事にもなっていました[1]。日付が12月になっているのは、旧暦では、年が明ける前に立春が来る年があるためです。この年がそうでした[1]。今の2026年から数えると、およそ580年前にあたります。

ただし、豆打ちがいつ始まったのかは、はっきりしていません。国立国会図書館の解説は、南北朝時代にはすでに唱えながら豆を打っていたと書いています[1]。1447年の日記は、その解説よりあとの時期にあたり、内容がはっきり読み取れる一例です。「最も古い記録」とは言えないので、ここでは「確かめられる一例」としておきます。

声に出して唱える言葉が、すでに「鬼は外、福は内」だったという点も、読んでいて面白いところです。次は、まく物がなぜ豆だったのか、という問いです。

豆打ちの記録として、国立国会図書館の解説が挙げるのは、『臥雲日件録』文安4年(1447年)12月22日の項である。「明日立春」と書き出され、日暮れに家ごとに部屋ごとに豆をまき、「鬼は外、福は内」の四字を唱えたことが分かる[1]。日付が12月なのは、旧暦では年内に立春が来る年があるためで、この年がその一例だった。

この日記からは、豆打ちが公家や武家だけでなく、民間の行事にもなっていたことが読み取れる[1]。ところが、豆打ちがいつ始まったのかは定かでない。国立国会図書館の解説は、南北朝時代にはすでに唱えながら豆を打っていたと書くが、手元の日記の日付は室町時代中期の1447年で、時期の言い方にずれがある[1]。そのため、1447年を「最古」と言うのは避け、「確かめられる一例」にとどめる。

1447年から2026年まで、およそ580年になる(2026−1447=579)。1447年の日記に、いまと同じ唱え言葉が書かれていることが分かる。では、なぜ豆なのか。豆をめぐる説明は、記録と言い伝えが入りまじっているので、章を改めて分けて読む。

4. どうして 豆なの? いろいろな いい つたえ

4. なぜ豆なのか ── 「魔を滅ぼす」という当て字と、力をもらう食べ物

4. 豆が選ばれた理由 ── 本草の記述と当て字は言い伝え

いまは 大豆を まく ことが おおいですが、むかしは ほかの ものも つかわれた ようです。中国の ぎょうじでは あずきや ごこくが、日本では 米や 麦、あわ、すみなどが つかわれた こともあると いいます[1]。

大豆が えらばれた わけには、いろいろな 言い つたえが あります[1]。ひとつめは、むかしの 中国の くすりの 本に、大豆は 鬼おにの どくを けして いたみを とめる と かいて あった から。ふたつめは、「まめ」に「魔滅まめつ」と いう 字を あてて、まを ほろぼす いみを こめた から、です。

農林水産省のうりんすいさんしょうは、豆は 力に なる 食べ物で、ふしぎな 力も あると かんがえられて きた と せつめいして います。豆で びょうきや わざわいを はらい、その 豆を 食べて 力を もらうと かんがえられました[2]。

大豆が えらばれた りゆうとして、いくつかの いい つたえが あります。豆を まくだけでは なく、食べる ことにも いみが あった ようです。では、その 豆は どうして「いった」ものなのでしょう。

いま、節分に使う豆は大豆が多いのですが、昔から決まっていたわけではありません。中国の大儺では小豆や五穀が、日本では米・麦・粟・炭などが使われたこともあるようです[1]。

大豆が主流になった背景について、国立国会図書館の解説は、いくつもの言い伝えを紹介しています。中国の本草(医書)に、大豆は鬼毒を殺し痛みを止めると書かれていたから。「まめ」に「魔滅」の字を当てて、魔を滅ぼす意味を込めたから、などです[1]。農林水産省も、昔の人は「まめ」を「魔滅(まめつ)」と呼び、エネルギー源であり霊力を持つとされる豆で、病や災い(鬼)を祓い、その豆を食べて力をいただくと考えていた、と説明します[2]。

どれも「そういわれる」という説明で、大豆が選ばれた理由が一つに決まっているわけではありません。

豆は、まいて追い払うだけの道具ではなく、食べて力をもらうものでもありました。その豆が、なぜ生ではなく炒ったものなのかは、次の問いです。

今は大豆が主流だが、中国の大儺では小豆や五穀が、日本では米・麦・粟・炭などが使われたこともあるようだ[1]。大豆が主流になった背景について、国立国会図書館の解説は、「大豆は鬼毒を殺し痛みを止める」と中国の本草(医書)に書かれていたこと、「まめ」に「魔滅」(魔を滅する)の意味が込められたこと、などを挙げる。いずれも「言い伝えがある」という書き方で、理由を一つには定めていない[1]。

農林水産省の説明は、方向が少し違う。昔の人は豆を「魔滅(まめつ)」と呼び、エネルギー源であり霊力を持つとされる豆で病や災い(鬼)を祓い、さらに食べて力をいただくと考えたという[2]。ここでは、豆は鬼を追う道具であると同時に、食べて力にする食べ物として説明されている。

書かれた時代の違う二つの資料を並べても、大豆が選ばれた理由が一つに定まるわけではない。農林水産省の説明では、豆は鬼を払い、食べて力をいただくものと考えられていた。次に、炒るという手間が加わる理由を見る。

5. どうして 豆を いって から まくの?

5. 豆を炒ってからまくのはなぜか ── 芽が出ないように、という言い伝え

5. 炒り豆と「年の数」── 家庭向けの説明と、一次資料の裏づけの範囲

まく 豆は、生の 豆では なく、いった 豆です。いった 大豆を「福豆」と いいます[2]。

どうして いるのでしょう。よく しょうかいされる 話は、生の 豆を ひろい わすれると、芽めが でて しまうから、です。鬼おにや わるい ものが 芽めぶく ようで、えんぎが わるいと いわれます[3]。「いる」には、ゆみで「いる」と いう いみも あるので、鬼おにの 目を いる という 話も あります[3]。

ただし これは、家の 人むけの せつめいで よく 見る 話です。むかしの きろくで たしかめられた 話では ありません。

食べる ときは、年の かずだけ 食べると、1年 げんきに すごせると いわれます[2]。いった 豆を、かみさまや おてらに おさめて、びょうきを しない ように ねがう ところも あります[1][2]。

では、おなじ 豆まきでも、ところに よって ちがうのでしょうか。

節分にまく福豆は、大豆を炒ったものです[2]。炒る理由としてよく紹介されるのは、生の豆をまいて拾い忘れると、そこから芽が出てしまい、鬼や邪気が芽吹くようで縁起が悪いから、という話です。また、「炒る」と「射る」が同じ音なので、鬼の目を射るという意味だという説もあります[3]。

ただし、これは家庭向けの解説でよく見る言い伝えで、昔の文献で裏づけられた説明とまでは言えません。どちらも「そういわれる」程度に受け取っておくのがよさそうです。

食べ方にも言い伝えがあります。年の数だけ豆を食べると、1年を健康に過ごせるといわれます。たとえば10歳なら10粒です[2]。炒り豆を神社や寺に納めて、無病息災を願う地域もあります[1][2]。

まく豆と、食べる豆。同じ豆が、追い払う役と、力をもらう役の両方を担っているのが、節分の豆の面白いところです。ところで、この豆まきは、全国で同じやり方なのでしょうか。

節分にまく福豆は、大豆を炒ったものである[2]。炒る理由として広く紹介されるのは、拾い忘れた生豆から芽が出ると縁起が悪く、鬼や邪気が芽吹くことになるから、という説明である。さらに、「炒る」と「射る」の語呂合わせで、鬼の目を射る意味だとする説もある[3]。

ただし、この2つは家庭向けの解説記事に見える民間の言い伝えで、昔の文献で裏づけられたとは言えない。本稿の範囲で言えるのは、「福豆は炒った大豆である」という事実と、「炒る理由には、芽が出ないようにという説明がよく挙がる」という説明の存在までである。「昔から芽が出ないように炒ると決まっていた」とは書けない。

食べ方にも言い伝えがある。歳の数だけ豆を食べると1年健康に過ごせるといわれ、地域によっては、炒り豆を神社や寺に納めて無病息災を願う[1][2]。前の章で見た「食べて力をいただく」という考え方と、この習慣はつながっている。

豆を炒ることも、食べることも、それぞれに由来の説明がある一方、どれも決定的な古い記録に裏づけられているわけではない。では、そのやり方は全国で同じだったのか。江戸時代の全国調査が、その手がかりになる。

6. おなじ 豆まきでも、ところに よって ちがうの?

6. 「福は内、鬼は内」と唱える家もあった ── 江戸時代の全国調査に見える地域差

6. 『風俗問状』の答書に見る地域差 ── 鬼を迎える家と、豆を炊きこむ朝ごはん

1813年ごろ、江戸時代えどじだいに、ある 人が ぜんこくに しつもんの 手がみを おくりました。豆まきの ことも たずねて います[1]。

かえって きた 答えの なかには、わかさの おばまでは「福は 内、鬼おには 内」と となえる 家も すこし ある、と かいて ありました。鬼おにも 家に いれて あげる のです[1]。あわじでは、つぎの あさの ごはんに、まえの 日の 豆を たきこんで 食べる、と ありました[1]。

北海道や 東北などでは、から つきの 落花生らっかせいを まく ところも あります[2]。いえの 入り口に、やいた いわしの あたまを ひいらぎの えだに さして かざる ところも あります。くさい いわしと、はが とげとげの ひいらぎを、鬼おには きらうと いわれたからです[2]。

鬼おにの ほうも、にくまれ やくだけでは ありません。むかしの わらいの おしばい「きょうげん」の『節分せつぶん』では、豆で おいだされる 鬼おには、人間みたいで かわいらしく かかれて います[1]。

文化10年(1813年)ごろ、屋代弘賢という人が、全国に「風俗問状」という質問状を送り、節分の豆まきの習慣についても尋ねました。返ってきた答書には、地域ごとのやり方の違いが見えます[1]。

答書には、若狭小浜で「福は内、鬼は内」と唱える家がまれにあると記されています。鬼も家に迎え入れる家があったことになりますが、記録は小浜の一例です。淡路の答書には、翌朝のご飯に前日の豆を入れて炊いて食べる、とあります[1]。

今も、北海道や東北などでは、殻つきの落花生をまく地域があります[2]。玄関に、焼いた鰯の頭を柊の枝に刺して飾る柊鰯という魔除けもあります。臭いの強い鰯と、葉にとげのある柊を鬼が嫌うとされたからです[2]。

追い出される鬼も、ただの憎まれ役ではありません。小泉八雲は『知られぬ日本の面影』で豆まきを紹介し、悪魔が白い豆を嫌う理由は見つけられないが、その嫌悪には自分も同感だと、ユーモラスに書いています[1]。狂言『節分』でも、豆で追い払われる鬼は、人間的でかわいらしく描かれています[1]。

江戸時代の文化10年(1813年)ごろ、屋代弘賢(やしろひろかた)は全国に「風俗問状」を送り、節分の豆まきの習俗も尋ねた。返ってきた答書には、地域差がはっきり出ている。若狭小浜(わかさおばま)の答書では、「福は内、鬼は内」と唱える家もまれにあるとされ、淡路の答書では、翌朝のご飯に前日の豆を入れて炊いて食べると書かれている[1]。

ここで面白いのは、「鬼は外」という唱え言葉自体が、全国で同じではなかった点である。ただし資料に出てくるのは「まれにある」という少数の例で、その地域全体の習慣だったとまでは言えない。一つの答書を、全国の姿にしないほうがよい。

現在にも地域差は残る。農林水産省は、北海道や東北などでは殻つきの落花生を使う地域があると述べる[2]。さらに、焼いた鰯の頭を柊の枝に刺して玄関に飾る柊鰯も、臭いの強い鰯と、葉にとげのある柊を鬼が嫌うとされたことから生まれた魔除けである[2]。

鬼の描かれ方も一様ではない。小泉八雲は『知られぬ日本の面影』で豆まきを紹介し、悪魔が白豆を嫌う理由は見つけられないが、その嫌悪の点では自分も同感だとユーモラスに書いた(翻訳全集の訳文による)。狂言『節分』でも、豆で追い払われる鬼は人間的でかわいらしく描かれる[1]。追い払う側から追い出される鬼になった方相氏の話を思い出すと、鬼は恐ろしいだけの存在ではなかったことが分かる。

7. おうちの 豆まきを、きいて みよう

7. 家や親戚の豆まきを聞いて、地域差を探してみる

7. 資料案内と、聞き取りで確かめられること

おうちの 人に、豆まきの ことを きいて みましょう。なんと いって まきますか。まくのは 大豆ですか、らっかせいですか。まいた あとの 豆は、食べますか、ごはんに たきこみますか。

じぶんの まちの やりかたと、この メモの 話を くらべて みると、ちがいが 見えて きます。

かたい 豆は、小さい 子には のどに つまりやすいので、食べる ときは おとなの 人と いっしょに して ください。

あなたの 家の 鬼おには、そとへ にげて いきますか。それとも、中へ いれて もらえますか。

家族や親戚に、豆まきの様子を聞いてみましょう。掛け声はどう唱えるか、まく豆は大豆か落花生か、まいたあとの豆は食べるのか、ご飯に炊きこむのか、柊鰯を飾るのか。江戸時代の全国調査に出てきたような違いが、いまの身近な家にも見つかるかもしれません。

聞いた話は、この記事に出てきたやり方と見比べてみると面白くなります。まいた豆の行方が「食べる」なら第4章の話に、「年の数」なら第5章の話に重なります。同じ町でも、家ごとに違う場合もありそうです。

もっと詳しく知りたい人には、国立国会図書館の「本の万華鏡」の「大豆」の章[1]が、豆と行事のかかわりを日本語で読める入り口です。農林水産省の「おいしい和食のはなし」の節分のページ[2]は、節分に食べる物の説明がまとまっています。

あなたの家の鬼は、外へ逃げていくのでしょうか。それとも、中へ迎え入れてもらえるのでしょうか。掛け声や豆の使い方を聞いて、江戸時代の答書と比べてみましょう。

家族や親戚に、掛け声・豆の種類(大豆か落花生か)・豆の行方(食べる、炊きこむ、納める)・柊鰯の有無を聞くと、江戸時代の答書に出てきた地域差が、現在も残っているかどうかを自分で確かめられる。聞き取りで分かるのは、あくまでその家や地域の習慣であり、全国の傾向ではない。

国立国会図書館「本の万華鏡」の「大豆」の章[1]は、追儺と節分が本来別だったこと、1447年の豆打ちの記録、風俗問状の答書まで、一つの章にまとめている。日本語で読めるので、まず開く資料として向く。

農林水産省の節分のページ[2]は、福豆・歳の数・落花生・柊鰯といった身近な話題を、公的機関の言葉で説明している。

炒る理由の説明[3]は、二次資料にとどまる。自分で調べるときは、「昔の文献にいつ現れるのか」を探してみると、言い伝えと記録の境目がはっきりする。

追い払われる鬼と、迎え入れられる鬼。同じ豆まきの中に、その両方がいるのはなぜなのか。問いはまだ残っている。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:国立国会図書館と農林水産省の資料を中心に使い、炒る理由は家庭向けの解説記事で補った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。

  1. 国立国会図書館 本の万華鏡 第21回「大豆」第1章。http://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/21/1.html (追儺、方相氏、節分との関係、1447年の記録、風俗問状、八雲と狂言について)
  2. 農林水産省 おいしい和食のはなし「節分」。https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/oishiiwashoku/article/120/ (節分の意味、豆の言い伝え、歳の数、落花生、柊鰯について)
  3. ヨムーノ「豆まきの由来」。https://yomuno.jp/posts/133048 (豆を炒る理由の言い伝えについて。家庭向けの解説記事)

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