1. 森は、ただ のこされたの? つかわれたの?
1. 森の一部は「残された」が、手つかずの自然とは限らない
1. 感謝のために一部を残した森は、同時に使われる森でもあった
神社の 森の ことを、鎮守の 森と いいます。むかしの 人は、森を きりひらいて くらしの 場所を つくる とき、森の めぐみに かんしゃして、森の 一部を のこしたと いわれて います[1]。
のこした 場所で、人は いのりました。これが、鎮守の 森の はじまりの ひとつです。
でも、のこした 森に、人が 入らなかったわけでは ありません。京都の しもがも じんじゃでは、1678年から 79年に、竹を たくさん きって、うりに 出した きろくが あります[2]。森の 竹や 木は、神社の たいせつな しげんでも あったのです。
森は、いのりの 場所であり、人が 手を 入れて つかう 場所でも ありました。そう 考えると、「ずっと 手つかずの 自然」とは、少し ちがって 見えて きます。
鎮守の森は、神社を守ってきた森です。昔の人は、森を切り拓いて暮らしの場を作るとき、森の恵みへの感謝と祈りを忘れないよう、その一部を残したと説明されています[1]。森を残したのは、祈りの気持ちが出発点だったということです。
ところが、残された森に人が入らなかったわけではありません。京都の下鴨神社には、1678年から79年に本社と河合神社で竹を多く伐採し、入札にかけた記録があります[2]。竹や松などは、神社の財産として管理され、売られることもありました。
森は、祈りの場であると同時に、人が手を入れて使う場でもありました。少なくとも下鴨神社では、森は資源を利用しながら管理する場でもあったことが分かります。
では、そのように管理された森は、昔から同じ姿のままだったのでしょうか。
鎮守の森を残した動機として、まず挙げられるのは祈りである。森を切り拓いて暮らしの場を作る際にも、恵みを与える森への感謝と祈りを忘れないために、先人はその一部を残して鎮守の森とした、と鎮守の森の保全に関わる団体は説明している[1]。
ただし、残されたことと、使われなかったことは別である。下鴨神社の記録を調べた報告では、1678・79年に本社と河合神社で竹を多く伐採して入札した事実が確認される[2]。江戸時代の神社の森は、竹や松などを資源として管理し、売却もする体制のもとにあったと読める。
この一例から全国の神社に一般化はできない。それでも、少なくとも下鴨神社では、森は聖域であると同時に、計画的に手入れされ、収益も生む場だった。少なくとも下鴨神社では、森が資源として管理されていたことが分かる。
では、そのように人の手が入り続けた森は、昔から同じ姿だったのか。
2. 京都の 森の くすのきは、むかしから あったの?
2. 下鴨神社の森で目立つクスノキは、昔からあった木ではない
2. 糺の森の景観は、台風と水害のあとの植栽で変わった
京都の しもがも じんじゃの 「ただすの 森」は、広さが やく12ヘクタールです。ケヤキや エノキなど、秋に 葉を おとす 木が 中心で、むかしの 野原だった ころの 植物が のこる 森と いわれて います[3]。
いま、この 森では くすのきも よく 目に つきます。ところが、くすのきは、1934年の 台風と、1935年の 大きな すいがいの あとに うえられた 木です[2]。
いまから やく90年前に、人が 木を うえて、森の ようすを 少し かえたのです。森は、見た 目が 同じでも、人が 手を かけながら すがたを かえて きました。
下鴨神社の糺の森は、約12ヘクタールの森です。かつてこの一帯が山城原野だったころの植生が残る森といわれ、ケヤキやエノキなどの落葉広葉樹が中心です[3]。
ところが、いまこの森で目に入るクスノキは、昔からの木ではありません。1934年の室戸台風と、翌1935年の大水害のあとに植えられたものです[2]。約90年前の災害のあと、人が木を植えて、森の景観を大きく変えました。
つまり、「昔の植生が残る森」といわれる場所でも、見えている景色の一部は、近い時代に人が手を入れた結果です。残すことと、手を入れて整えることは、森の中で同時に進んでいました。
では、江戸から明治に時代が変わるとき、こうした管理の仕組みはどうなったのでしょうか。
京都府の「京都の自然200選」は、下鴨神社の糺の森を、約12ヘクタールで、かつて山城原野であった頃の植生が今に残る森と紹介している[3]。ケヤキやエノキなどの落葉広葉樹が中心とされる点が、その根拠である。
一方で、いまの糺の森にはクスノキが多く見られるが、これは1934年の室戸台風と1935年の大水害のあとに植栽されたものであるという[2]。昔の植生を残す森という説明と、近代の植栽で景観が変わった事実とは、矛盾せず両立する。森の全体が一様に残ったのではなく、場所によって古い植生と新しい植栽が重なっているとみるのが自然である。
ここから分かるのは、鎮守の森が「変わらない自然」ではなく、災害や管理を受けて形を変えてきた森だということである。次に問われるのは、その管理の枠組み自体が、明治になって大きく揺らいだことである。
3. 明治に、神社の 森が なくなりそうに なったのは なぜ?
3. 明治に、神社をまとめる政策が森の行方を心配させた
3. 明治の合祀政策と、南方熊楠の反対運動
明治の おわりごろから 大正にかけて、神社を ひとつに まとめる 「合祀」という きまりが すすみました。これに 反対した 人が、南方熊楠です[4]。
くまぐすは、神社の 森も ふくめた 日本の 自然の けしきを、とても たいせつな ものだと 考えました。そして、「日本らしい 自然の けしきは、日本の まんだらの ようだ」と のべたと いわれて います[4]。
こうした 反対の 動きが、のちに 神社の 森を ほごする 考えかたに つながりました[5]。
明治の終わりごろから大正にかけて、各地で神社を合わせてまとめる「合祀」という政策が急速に進みました。この政策に反対運動を起こしたのが、生物学者の南方熊楠です[4]。
熊楠は、神社の森を含む日本特有の自然の景色を、「曼陀羅」にたとえて、その価値を訴えました[4]。曼陀羅とは、世界のつながりを一枚に表した図のことです。森の中の生きものどうしのつながりを、そのように見たのでしょう。
この運動は、森を守る考え方に影響しました。国が自然の名所や天然記念物を守る法律の中で、神社のまわりの森を表す「社叢」という言葉が項目に入った背景には、合祀に反対する動きがあったと研究で指摘されています[5]。
また、明治維新のころには、森の管理の体制も変わったと考えられています[2]。
反対運動が実を結ぶ一方で、足りなくなった森を、人が新しく造ろうとする動きも生まれました。それが次の話です。
明治末期から大正期にかけて急速に進んだ神社合祀政策に対し、南方熊楠は生態系保護の観点から反対運動に取り組んだ[4]。国指定文化財等データベースによれば、熊楠は「わが国特有の天然風景はわが国の曼陀羅ならん」と述べ、特有の天然風景に潜む森羅万象を、真言密教の本質を示す曼陀羅になぞらえて価値を主張した[4]。
この主張は、のちの制度にも影響したとみられる。東京大学の学位論文は、「社叢」が史跡名勝天然記念物保存法の要目に採用された背景について、社叢を複合的な価値をもつ場として保存すべきだという意識と、当時の合祀令への反対とが相まった結果だと説明する[5]。森を残す理由に、生態や景観の価値も加わっていった。
これと並行して、森を維持する体制も変わった。下鴨神社の事例では、明治維新で神社の世襲制が廃止され、伐採禁止令が出されたことで、氏人が守ってきた森の管理体制が大きく変わったと思われるが、詳細を示す資料は見つかっていないとされる[2]。ただし、これは一つの神社の事例の推測であり、全国に当てはめることはできない。
こうして守る側の考え方が変わるなかで、足りなくなった森を人の手で新しく造る試みも現れた。
4. 明治神宮の 森は、どうやって つくられたの?
4. 明治神宮の森は、全国から集めた木で造られた
4. 明治神宮の杜は、百年先を見越した植栽計画で造営された
東京の 明治神宮の 森は、人が つくった 森です。木の ほとんどは、全国から おくられた もの。その 数は、やく10万本です。のべ11万人の わかものが、うえる しごとを 手つだいました[6]。
はじめに 考えた 人たちは、百年先の すがたを 見て、すぎでは なく、しいや かし、くすのきなどを 中心に うえる ことに しました。一年じゅう はが ある、「しょうようじゅ」と よばれる 木です[6]。
これらは、百年先に なっても そだつと 考えられた 木です。いまの 明治神宮は、百年前の 人たちの 計画が かたちに なった 森といえます。
明治神宮の森では、植える木のほとんどが全国からの献木で、約10万本が奉献されました。さらに、のべ11万人の青年が造営工事を手伝いました[6]。
面白いのは、何の木を植えるかの選び方です。計画を立てた人たちは、百年先の森の姿を考えて、照葉樹を中心に植える計画を立てました。そして、杉ではなく、椎・樫・楠などの照葉樹を主な木としました[6]。照葉樹は、一年じゅう緑の葉をつけている木のことです。
鎮守の森が「祈りで残された森」「使われた森」だけでなく、「計画して造られた森」でもあることが、ここで分かります。森は、昔の人が残してくれたものを引き継ぐだけでなく、新しく造って未来へ手渡すものにもなりました。
では、研究者は、こうした森の姿をどう見ているのでしょうか。
明治神宮の杜では、植栽する樹木のほとんどが献木で、全国から約10万本が奉献され、のべ11万人の青年が勤労奉仕として造営工事に参加した[6]。社殿のまわりの森を、国民の参加で一から造る事業だったといえる。
注目すべきは樹種の選び方である。神宮の公式資料は、百年先を見越して照葉樹を中心に植える計画を立てたと説明し、杉ではなく椎・樫・楠などの照葉樹を主木とした[6]。ここでいう照葉樹は、常緑で葉に光沢のある広葉樹である。
この選択は、将来の森の姿を見越した設計だったと考えられる。確かなのは、鎮守の森が、祈りによる保存や資源としての管理にとどまらず、将来の姿を計画して植える森という第三の顔をもったことである。
では、こうした森の姿は、研究者の目にどう映っているのか。
5. 森の 木は、むかしから ちがって いたの?
5. 研究では、鎮守の森は昔の自然のままとは見られていない
5. 「自然のまま」という見方は、近年の研究で修正されている
むかしの 神社の 森は、自然の まま だと 思われて いました。けれど、いまの 研究では、むかしは はりの ような 葉の 木が 中心の 森が 多かったと する 研究が あります[7]。
その あと、しいや かしの ような 木が ふえて、いまの すがたに なったと 考えられて います。ただし、地いきや じだいで ちがうので、すべての 神社に あてはまる わけでは ありません。
神社は、ななめの 土地に たって いる ことが 多いと いう 研究も あります。65%が、ななめの 土地に たって いたそうです[5]。
鎮守の森は、昔は自然の植生を保っていると主張されていました。しかし近年は、これに否定的な見解が多く、近世以前は針葉樹中心の植生だったとする研究があります[7]。その後に、いまのような照葉樹林へ変わったと説明されることもあります。
ただし、森の成り立ちは地域や時代で異なるため、すべての鎮守の森に当てはめることはできません。ここは研究の最中で、一つの答えに決まっていません。
場所の特徴を調べた研究もあります。東京大学の研究では、神社の65%が斜面地に立地していて、寺院や公園に比べて地形に変化がある場所が多い傾向が示されました[5]。ただし、この調べ方だけでは、斜面だから森が残ったとまでは言えません。
鎮守の森という言葉の意味も変わってきました。もとは地霊をまつる場所を指しましたが、1970年代以降は、生態学の研究対象としても注目されています[5]。
日本地理学会の発表要旨によれば、鎮守の森はかつて自然の植生を保っていると主張されたが、近年は否定的な見解が多く、近世以前は針葉樹中心の植生であったと論じられ、のちに照葉樹林へ変化したとされる[7]。糺の森の例で見たように、植栽や管理が景観を変えてきた事実とも整合する。ただし、これは日本地理学会の発表要旨に基づく見方であり、森の成立や植生は地域や時代で異なるため、一般化には限界がある。
地形との関係でも、研究がある。東京大学の学位論文は、都市の緑地としての社叢空間を評価する中で、神社は65%が斜面地部分に立地しており、寺院や公園に比べて地形に変化がある場所に立地する傾向が高いと示した[5]。ただし、これは立地の傾向の記述であり、斜面だったから森が残ったという因果までは、この論文の範囲では示されていない。
用語の面でも変化がある。同論文は、「鎮守」という語が、古来は地霊を祀る空間やその神に対して用いられてきたが、地域本来の潜在自然植生が生育する生態学的研究対象として着目されたことで、多彩な意味づけが可能な空間として発展したと整理している[5]。
残る問いは、近世以前の針葉樹中心の森がなぜ現在の照葉樹林へ変化したのか、その社会的背景の詳細である。これは現時点で一つに決まっていない。
6. 近所の 神社で、木を 見て みよう
6. 近所の神社で、森の木を見分けてみる
6. 手元で確かめる:近所の神社の木と、保全活動の資料
近所の 神社に 行く ときは、おうちの 人と いっしょに 行きましょう。木や えだを おったり、とったり しないで、目で 見て たしかめます。
- 森の 木を 1本 えらんで、葉を 見ます。冬でも 緑の ままなら、一年じゅう 葉が ある 木かも しれません。
- 下に おちて いる 葉を 1まい 見て、つるつる して いるか、ぎざぎざ して いるか、見ます。
- 木の まわりに ふだが あれば、木の 名前や 年を 読みます。
見つけた 木が、むかしから あったのか、人が うえたのか、考えて みると おもしろいです。
近所の神社で、次のことを試せます。家の人と一緒に、境内の決まりを守って行ってください。
- 森の木を一本選び、葉の形と色を見ます。冬でも緑のままなら、照葉樹の仲間かもしれません。
- 地面に落ちている葉を一枚見て、つやがあるか、縁がぎざぎざかを確かめます。木や枝は折らず、とらないようにします。
- 木の説明札や案内板があれば、木の名前や植えられた年を読みます。
見つけた木が、昔からあったのか、人が植えたのか、想像して書きとめると、森の見え方が変わります。
鎮守の森の保全に取り組んでいるのは、2002年に設立された社叢学会などの団体です。保全や育成のための基金もあり、活動は各団体の公式サイトで読めます[8]。
手元で確かめるなら、次の手順がある。家の人と一緒に、境内の決まりを守って行うこと。
- 森の木を一本選び、葉の形と色、冬でも緑が残るかを観察して、照葉樹か落葉樹かを推定する。
- 落ちている葉を一枚拾って、つやや縁の形を調べる。木や枝は折ったりとったりしない。
- 説明札や案内板があれば、樹種と植栽年を読み、本記事の下鴨神社・明治神宮の例と比べる。
資料としては、社叢学会が2002年に設立され、鎮守の森の保全と育成、地域コミュニティの再生を目的に活動している[8]。関連する活動団体の資料は、参考にした情報源から読める。近所の森が、残された部分なのか、植えられた部分なのかを分けて見るのが、最初の一歩になる。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文で使った資料です。国や自治体、学会、神社の公式資料を中心に、研究報告を使いました。
- ちんじゅの森とは https://www.chinju-no-mori.or.jp/about (鎮守の森を残した理由)
- 鎮守の森だより 第31号(社叢学会) https://www.shasou.org/news/chinju_31.pdf (下鴨神社の森の管理と植栽)
- 京都の自然200選 糺(ただす)の森(京都府) https://www.pref.kyoto.jp/select200/historical25.html (糺の森の広さと植生)
- 国指定文化財等データベース:南方曼陀羅の風景地 https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/00003883 (合祀政策への反対運動)
- 都市における緑地としての社叢空間の評価に関する研究(東京大学学位論文) https://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=121624 (社叢の立地と保存の背景)
- 杜(もり)・見どころ(明治神宮) https://www.meijijingu.or.jp/midokoro/ (杜の造営と樹種の選び方)
- 近代以降における鎮守の森の植生変化と評価・認識(日本地理学会発表要旨) https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajg/2025a/0/2025a_172/_article/-char/ja (植生の見方の変化)
- 鎮守の森保全基金 https://chinjyukyo.org/cf/index.html (保全活動の団体)
なおした ところ
更新履歴
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