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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

おすしは、ごはんを たべずに さかなだけ たべた むかしの すしから、どう かわって きたの?

寿司は昔、ごはんを捨てて魚だけ食べていた? 握りずしと回転寿司までの工夫

寿司はなぜ、発酵させた魚を食べる料理から、屋台で握る料理へ、さらに回転寿司とロボットへ変わったのか

分野:歴史・文化

むかしの おすしは、ごはんを たべませんでした。さかなを ごはんに つけて、ごはんは すてて いたのです。

いまの にぎりずしとは、ずいぶん ちがいます。どうして かわったのでしょう。この ページを よむと、おすしを はやく、らくに つくる くふうが つみかさなって きた ことが わかります。

日本でいちばん古いすしは、漬けた魚だけを食べ、いっしょに漬けたごはんは食べない料理でした。いまのように、ごはんと魚をいっしょに食べるすしになるまでには、長い時間がかかっています。

では、なぜ待たずに食べられる握りずしが生まれ、さらに回転寿司やロボットまで出てきたのでしょうか。この記事を読むと、すしを作る「待つ時間」と「握る手間」を減らす工夫が、時代ごとに重なってきた流れが分かります。

8世紀の文献に現れる初期のすしでは、飯は発酵を進めるためだけに使われ、食べるのは漬けた魚だけだった[1]。現在の酢飯と魚を合わせる形が広まったのは19世紀とされる。

では、数か月も待つ発酵食品が、屋台でその場で握る料理に変わったのはなぜか。さらに20世紀後半には、回転寿司とシャリ玉を握る機械まで現れた。このメモを読むと、待つ時間と握る手間を減らす工夫が、時代ごとにどう積み重なったかが分かる。

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1. ごはんを すてる おすし

1. 魚だけを食べた、いちばん古いすし

1. 8世紀のなれずし:飯は発酵のための道具だった

おすしの はなしは、ずっと むかしの 8せいきの ほんに のって います[1]。そのころの おすしは、さかなを ごはんに つけて、じっくり おいて おく たべものでした。

ごはんは、さかなを はっこうさせる ために つかわれました。だから、たべるのは さかなだけ。ごはんは すてて いたと されます。

そのあと、むろまちじだいに なると、すう日から 1かげつ ほどで できる おすしが でて きました。このとき はじめて、さかなと ごはんを いっしょに たべる ように なったと いわれます[1]。

それでも、まだ まつ ひつようが あります。はやく たべたい 人は、どうしたのでしょう。

ごはんは「発酵のための材料」だった

日本でいちばん古い寿司は、8世紀の文献に出てきます。初期の「なれずし」では、ごはんは魚を発酵させるためだけに使われ、食べるのは漬けた魚のほうだけだったと、国土交通省の解説は説明しています[1]。

いま私たちが「ごはんがおいしい」と感じるすしとは、ずいぶん別の食べものだったことになります。

室町時代に、ごはんも食べるようになった

室町時代(1336〜1573年)になると、数日から1か月ほどの短い発酵で食べる「半なれ」のすしが現れました。同じ資料によると、魚とごはんを組み合わせて寿司として食べたのは、これが歴史上はじめてでした[1]。

ただ、数日から1か月は、客にとってはまだ長い時間です。待たずに食べるには、どうすればよいのでしょうか。

日本で寿司が文献に現れるのは8世紀である。初期の「なれずし」では、飯は魚の発酵を進める役目だけを持ち、人が食べるのは漬けた魚のほうだけだった[1]。つまり、ここでの飯は、味わうものではなく、保存と発酵のための道具だった。

転機は室町時代(1336〜1573年)に訪れる。発酵の期間が数日から1か月ほどに短くなった「半なれ」の寿司が現れ、魚と飯を一緒に食べる形が、歴史上はじめて登場したとされる[1]。発酵を短くした結果、飯にまだ食べられる状態が残ったため、というのが自然な読み方だが、資料はその理由まで説明していない。

いずれにしても、半なれでも数日の待ち時間は要る。屋台のように、注文を受けてすぐ出す商売には向かなかった。では、その待ち時間を、何で置きかえたのか。

2. またずに たべる ために、すを つかった

2. 発酵を待てない人のために、酢が使われた

2. 江戸時代の粕酢:発酵の代わりに味をつける

まつ かわりに つかわれたのが、「す」です。すを ごはんに まぜれば、はっこうを またなくても、すっぱい あじが つけられます。

えどじだいの えどの おすしは、はこに つめて おす おすしが ほとんどで、にぎりずしは まだ ありませんでした[4]。そこへ、すが おすしに つかわれる ように なって いきました。

さけを しぼった あとの 「さけかす」から つくる すは、こめから つくる すより、ずっと やすかったと しょうかい されて います。やすい すが 町で うられる ように なって、えどの おすしが かわって いった と されます[4]。

酢が広まる前の江戸のすしは、押しずしが中心だった

江戸時代の江戸のすしは、押しずしや箱ずし、巻きずしが中心で、握りずしはまだありませんでした。そこへ、酢が使われるようになっていきます[4]。

安い酢が、町に出まわった

ここで効いたのが、酒粕から作る粕酢です。米から作る酢よりも格段に安く、気軽に使えたと、新刊の紹介記事は書いています。江戸でも売られるようになり、押しずし中心だった江戸のすしを変えていったとされます[4]。

酢で味をつければ、長く発酵させなくても、すっぱいごはんが用意できます。この「待たなくていいごはん」が、次の変化の土台になりました。では、そのごはんに生の魚をのせて握るアイデアは、誰がどこで始めたのでしょうか。

江戸時代の江戸の寿司は押しずし・箱ずし・巻きずしが中心で、握りずしはまだなかった[4]。この資料は、酢屋三代を描いた小説の新刊紹介であり、会話の場面は物語で、史実としては読めない。使えるのは、粕酢が米酢より格段に安かったという背景の部分である。酢が寿司に使われはじめた年は、この資料からは示せないので、年号は書かない。

粕酢は酒粕から作る。酒を搾ったあとの副産物を原料にするので、米そのものを原料にする米酢より安くできたと考えられる。この安い酢が江戸でも売られ、押しずし中心だった寿司を変えていったとされる[4]。

理由を整理すると、発酵を待つ代わりに酢で酸味を足せば、短い時間で飯に味をつけられる、ということになる。しかも粕酢なら安いので、屋台のように毎日たくさん飯を用意する商売でも、酢の費用をおさえやすい。ただし、握りずしがいつ、どの酢で始まったかを直接結びつけて書いた資料は、ここで使った範囲にはなく、酢の普及と握りずしの誕生を一直線の因果とは読まないほうがよい。

では、この酢飯に生の魚を合わせる、現在の形はいつ広まったのか。

3. やたいで、めの まえで にぎって うった

3. 屋台の握りずしが、江戸で大当たりした

3. 文政期の屋台:目の前で握ることが武器になった

さかなと すめしを にぎって、すぐに だす おすしは、19せいきに ひろまりました[1]。ぶんせい ねんかんの はじめごろ、えどの まちで やたいが でて きました。

はなや よへえと いう 人が、やたいで おきゃくさんの めの まえで にぎって うったら、おおあたりした と いわれます[2]。

「もりさだまんこう」と いう ほんには、よるでも 人どおりの おおい まちには、おすしと てんぷらの やたいが、1ちょうに 3けん、4けんずつ あったと 書かれて います[3]。

おすし 1かんの ねだんは 8もん。たまごやきは 16もんだった そうです[3]。

酢飯と生の魚が広まった19世紀

国土交通省の解説では、酢飯と生の魚でつくる現在のすしが広まったのは19世紀とされています[1]。ちょうど文政年間(1818〜1830年)のはじめごろ、江戸で握りずしの屋台が現れました。

目の前で握る、という売り方

江戸前寿司は、華屋与兵衛が文政年間に確立したとされます。煮たり締めたりして「仕事」をした魚を酢飯にのせ、屋台で客の目の前で握って売ったところ、大当たりしたと紹介されています[2]。ただし、握りずしの考案者には説があり、『守貞漫稿』は小泉与兵衛の名を挙げています。名前が分かれるため、この記事では同じ人とは決めつけません[3]。

『守貞漫稿』によると、寿司と天ぷらの屋台は、夜に人通りの多い町ごとに、3、4軒ずつあったそうです。握り1貫は8文、玉子焼きは16文でした[3]。

では、冷蔵庫のない時代に、屋台はどうやって魚を「生」のように出したのでしょうか。

酢飯と生の魚でつくる現在の寿司は、19世紀に広まった[1]。この国土交通省の解説は、具体的な年や人名までは挙げていない。人名や年は、別の資料で補う必要がある。

nippon.comの記事は、江戸前寿司を文政年間に華屋与兵衛が確立したとする。「煮る」「締める」などの仕事をしたネタを酢飯と合わせて握り、屋台で客の前で握って売ったところ、大当たりしたという[2]。これに対し『守貞漫稿』は、握りずしを文政初期(1819年ごろ)に小泉与兵衛が考案したと伝える[3]。姓の表記が資料で違うため、同一人物かどうかは決められない。そのため、起源には説があると理解しておく。

そのうえで『守貞漫稿』が描く江戸の様子はこうだ。屋台の寿司と天ぷらは、夜に人通りの多い町ごとに3、4軒ずつあった。寿司1貫は8文、玉子焼きは16文で、コハダやアナゴの甘煮などが並んだ[3]。屋台の強みは、客の目の前で握るため、できたてを渡せる点にあったと考えられる。待ち時間は、握る数秒にまで縮んでいる。

ところが、冷蔵庫のない時代に、生の魚をどうやって屋台に並べられたのか。

4. れいぞうこが ない まちで、さかなは どう もたせた?

4. 冷蔵庫のない町で、魚に「仕事」をした

4. 江戸前の「仕事」:塩・酢・煮る・漬けるという保存の工夫

むかしの えどには、れいぞうこが ありません。そこで おすしやさんは、さかなに ひと手間 くわえました。これを 「しごと」と いいます。

しおや すで しめたり、むしたり、にたり、たれに つけたり、こんぶを つかったり します[2]。こはだ、あなご、まぐろの づけが、その れいです。

この しごとは、とうきょうわんで とれた さかなを、ほぞんして おいしく たべる くふうとして、つかわれたと いわれます。くわしい はじまりは、はっきり していません[2]。

ところで、すで しめれば、さかなの なかの むしも しぬのでしょうか。じつは、しなないと されています。

締める、煮る、漬ける

江戸前寿司の「仕事」は、塩や酢で締める、蒸す・煮る、タレに漬け込む、昆布を使うなどの技法です。冷蔵庫のない時代に、東京湾でとれた魚を保存して、おいしく食べる工夫として使われたとされます[2]。コハダ、アナゴ、マグロの漬けがその代表です。

ただ、「冷蔵庫がなかったから」という説明は一般的な解説で、はじまりを決めつけられる話ではありません。

酢で締めても、寄生虫は死なない

いま、刺身や寿司で気をつけたいのがアニサキスという寄生虫です。愛知県の保健所は、マイナス20℃以下で24時間以上冷凍すると感染性を失い、60℃で1分以上、または70℃以上で死ぬと説明しています[5]。

そのうえで、一般的な料理で使う程度の酢締め、塩漬け、しょうゆ、わさびでは死なないとされています。昔の「仕事」は、味と保存のための工夫で、虫を取り除くための方法ではなかったのです。

江戸前寿司の「仕事」とは、塩や酢で締める、蒸す・煮る、タレに漬け込む、昆布を使うといった技法を指す。冷蔵庫のない時代に、東京湾の魚を保存しておいしく食べる工夫として使われたとされる。代表はコハダ、アナゴ、マグロの漬けである[2]。

この「冷蔵庫の代わり」という説明は一般の解説で広く見られるが、一次資料では確認できていない。そのため、起源の説明としては「とされる」にとどめておく。

注意したいのは、保存のための工夫と、安全を確かめる方法は別だという点だ。愛知県の保健所は、アニサキスについて、−20℃以下で24時間以上の冷凍で感染性を失い、60℃で1分以上または70℃以上の加熱で死ぬと説明する。一方、一般的な料理で使う程度の酢締め、塩漬け、しょうゆ、わさびでは死なない[5]。つまり、酢で締めた魚が安全とはいえない。昔の「仕事」は、味や持ちをよくする技であって、虫を殺す技ではない。

では、こうして築かれた屋台の寿司は、20世紀に入り、どのように「人手」の問題にぶつかったのか。

5. ビールこうじょうで ひらめいた まわる おすし

5. ビール工場のコンベアから、回転寿司が生まれた

5. 回転寿司:人手不足を、ベルトコンベアの発想で解いた

1958ねんの 4がつ、しらいし よしあきさんが、ひがしおおさかしに 「まわる げんろく ずし」の 1ごうてんを ひらきました[6]。

しらいしさんは、ビールこうじょうで ベルトコンベアを 見て、「これだ」と ひらめいたと いわれます。おみせは 人が たりなくて こまって いました。

ひらめきから かたちに なるまで、やく 10ねん かかったと されます。まちの こうじょうの 人たちと 力を あわせて、うろこの ような かたちの ベルトの いたを つくりました[6]。

1970ねんの おおさかばんぱくで、まいにち ぎょうれつが できて、ぜんこくへ ひろまる きっかけに なりました[6]。

人手不足を、ベルトコンベアで解く

回転寿司は、1958年4月、白石義明が東大阪市の近鉄布施駅の近くに開いた「廻る元禄寿司」の1号店に始まります。ビール工場でベルトコンベアを見て、店の人手不足の解決を思いついたとされます[6]。

10年の試行錯誤と、万博の行列

思いつきを実現するまでに、約10年の試行錯誤があったと紹介されています。地元の町工場と協力して、「うろこ」と呼ばれる独特な形のコンベア板を開発しました。1970年の大阪万博に出店すると、連日大行列になり、全国に広まるきっかけになりました[6]。

席とレーン、ICチップ

その後、くら寿司は1987年にボックス席とレーンを組み合わせました。スシローは2002年に、皿の裏のICチップで管理するシステムを導入し、低価格化を進めたとされます[7]。

店は握る人を減らし、客は待たずに食べられるようになりました。では、握る作業そのものは、機械にまかせられるのでしょうか。

回転寿司の起点は、1958年4月に白石義明が東大阪市(近鉄布施駅近く)に開いた「廻る元禄寿司」の1号店とされる。ビール工場でベルトコンベアを目にして、人手不足の解決策を思いついたという[6]。屋台は握る人の手で数が決まる。そこで、運ぶ作業を機械にまかせれば、少ない人数で多くの客に出せると考えたのだろう。

ただし、発想が形になるまでは簡単ではなかった。約10年の試行錯誤を経て、地元の町工場と協力し、「うろこ」と呼ぶ独特な形のコンベア板を開発したとされる。1970年の大阪万博に出店すると連日の大行列になり、全国に広まる契機になった[6]。なお、同じページには開業を1948年とする記述もあり、1958年と食い違う。ここでは、別の資料と合わせて1958年とする。

その後の進化は、客席と管理の方法に表れる。くら寿司は1987年にボックス席とレーンを組み合わせた。スシローは2002年に、皿の裏のICチップで、自動廃棄や流れる皿を管理する総合システムを導入し、低価格化を進めたとされる[7]。

運ぶ作業は機械になった。残る作業は、シャリを握ることである。

6. シャリを にぎる きかいが あらわれた

6. シャリ玉を握る機械は、最初「団子みたい」と言われた

6. 寿司ロボットの試作機は、職人に「団子みたいで、寿司じゃない」と言われた

つぎに あらわれたのは、ごはんを にぎる きかいです。1981ねん、すずも きこうと いう 会社の すずき きさくさんが、せかいで はじめての すしロボットを つくったと いわれます[8]。

ところが、さいしょの しさくきは、しょくにんさんから 「だんごみたいで、すしじゃない」と きびしく いわれたそうです。

ごはんを まるめれば できる、と いう わけでは なかったのです。きかいは、にぎる 人の ようすを まなびながら、すこしずつ すしらしく なって いきました。

1981年の世界初の寿司ロボット

鈴茂器工の鈴木喜作が1981年に、世界で初めて、シャリ玉を握る寿司ロボットを開発したとされています。ところが、最初の試作機は、職人から「団子みたいで、寿司じゃない」と厳しく言われたそうです[8]。

寿司ロボットの試作機は、職人に「団子みたい」と言われた

ごはんを丸めるだけなら、団子と同じです。それでも寿司ではないといわれたのは、握りずしには、ごはんの形や固さに、職人の経験が入っていたからなのかもしれません。資料はその理由までは説明していませんが、機械が「握る」動きに近づくまでには、工夫の積み重ねがあったことが読み取れます。

そう考えると、回転寿司も寿司ロボットも、「寿司を安く、早く、たくさん出す」ための工夫でした。江戸の屋台と同じ目的が、機械の形で受けつがれています。

鈴茂器工(SUZUMO)の鈴木喜作が、1981年に世界初の寿司ロボット、すなわちシャリ玉を握る機械を開発したとされる[8]。ただし、当初の試作機は、職人から「団子みたいで、寿司じゃない」と酷評された。

この酷評は、握りずしの要点が、ごはんを丸めるだけでは足りないことを示している。もっとも、職人の評価の中身までは資料が書いていないため、どこが団子に見えたのかは、ここでは断定しない。分かっているのは、機械が人の握りに近づくには試作の重ねが必要だった、という事実だけである。

こうして見ると、江戸の屋台、回転寿司、寿司ロボットは、同じ方向に並んでいる。発酵を待つ時間は酢で短くなり、運ぶ作業にはコンベアが使われ、シャリ玉を握る機械も登場した。これらを、待ち時間や手間を減らす工夫の積み重ねとして見ることもできる。寿司は、「待たずに、手間をかけずに、おいしく出したい」という工夫を、時代ごとに重ねてきた料理だと読める。

では、この流れを、私たちは身の回りでどう確かめられるのか。

7. おうちと おでかけで たしかめて みよう

7. 「団子」と「握り」のちがいを、自分のごはんで確かめる

7. 出口:ごはんの握り方と、回転寿司の仕組みを観察する

やってみよう:まず 手を よく あらいます。ごはんを 2つに わけて、1つは ぎゅっと かたく、もう 1つは ふんわり かるく にぎります。

たべて みて、くちの なかで どう ちがうでしょう。どちらが すしに ちかいか、かんがえて みましょう。

おでかけで まわる おすしやさんに いったら、おさらの うら、レーン、せきを 見て みましょう。むかしの 人の くふうが、どこに のこって いるでしょうか。

家でできること

手をよく洗ってから、ごはんを2つに分け、1つはぎゅっと固く、もう1つはふんわり軽く握ってみましょう。口に入れたとき、どちらが寿司に近いと感じるでしょうか。職人が試作機に「団子みたい」と言った理由を、自分の口で考えるきっかけになります。

出かけてできること

回転寿司に行くことがあれば、レーンや皿、席の並びを見てみましょう。1987年のボックス席やレーンの組み合わせ、2002年の皿の管理の仕組みが、いまの店にどう残っているか探せます。

もっと読みたいときの資料

国土交通省の多言語解説文データベースの寿司の項目と、愛知県の保健所のアニサキスの説明は、本文の土台になっています[1][5]。同じ話題でも、資料ごとに起源の人名が分かれる点を、読み比べてみてください。

確かめ方は2つある。1つは、家のごはんを固く丸めたものと、軽くまとめたものを作り、口に入れたときのほぐれ方を比べる方法だ。手をよく洗ってから行う。これは、試作機への「団子みたい」という評価を、自分の舌で考える入口になる。

もう1つは、回転寿司の店で、コンベアの形、席とレーンの組み合わせ、皿の管理の仕方を観察することだ。くら寿司の1987年のボックス席とレーン、スシローの2002年のICチップは、資料に残る具体例である[7]。

起源の人名や年が資料で分かれる点(華屋与兵衛と小泉与兵衛、1948年と1958年)は、読み比べの題材になる。国土交通省の多言語解説文データベースの解説[1]と、愛知県のアニサキスの説明[5]を、最初の足がかりにするとよい。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文で使った資料です。起源の人名・年は資料で分かれるため、「とされる」と書いています。

  1. 国土交通省 多言語解説文データベース「Sushi」 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R1-01241.html (なれずし、半なれ、19世紀の酢飯と生の魚)
  2. nippon.com 江戸前寿司の記事 https://www.nippon.com/ja/views/b01706/ (華屋与兵衛、屋台、仕事の技法)
  3. nippon.com『守貞漫稿』その3 https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00962/ (江戸の屋台の数、値段、小泉与兵衛)
  4. nippon.com 酢屋三代の物語(新刊紹介) https://www.nippon.com/ja/japan-topics/bg900244/ (粕酢と江戸のすし。小説の紹介のため背景のみ)
  5. 愛知県 江南保健所 アニサキス https://www.pref.aichi.jp/soshiki/konan-hc/anisakis.html (冷凍・加熱と、酢・しょうゆ・わさびでは死なないこと)
  6. J-Net21 万博と元禄寿司 https://j-net21.smrj.go.jp/special/expo1970/20231113.html (回転寿司の始まり、うろこ状の板、大阪万博)
  7. テレビ東京プラス ビジネス https://www.tv-tokyo.co.jp/plus/business/entry/2022/025698.html (くら寿司・スシローの仕組み)
  8. PRESIDENT Online https://president.jp/articles/-/115273 (1981年の寿司ロボット)

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